第三十一話 初花
ーーーー去年の今頃は、まだ弓を続けるか……迷っていたなんて…………もっと……ずっと前のことのような気がするの。
心地よい音が響く。十二射皆中した的へ微かに笑みを浮かべた遥は、いつもとは違い艶やかな着物姿だ。
「ーーーー遥」
振り向くと彼が袴姿で立っていた。その手には弓具が握られている。
「……蓮、おはよう」
「おはよう」
「時間……平気なの?」
珍しく道場に来た蓮は、弓を引く順番を整えている。
「うん……八本くらいなら大丈夫」
「ありがとう……」
すでに的は二つ用意されていた。遥は一人で引く事が多いが、彼がいつ来ても良いように、常に用意していたのだ。その事を蓮も分かっているのだろう。遥だけでなく、蓮の頬も緩んでいる。
「勝負だな?」
「うん!」
交互に一本ずつ引く度に澄んだ音が響く。的をまっすぐに見据えながら、耳だけは彼へ向けていた。
ーーーー忙しいのに……来てくれたんだ。
満が道場へ来なかったように、部長の蓮は自由参加の日も部活に参加が必須だ。兄は引退してようやく時間が出来たのだから、朝の早い時間帯とはいえ、彼が時間を作って来てくれた事は明らかである。
二人きりの時間は直ぐに終わりを告げる。中白の数も同じだが、揃って八射皆中していた。
「蓮、あとはやっておくよ?」
「うん……」
先に道場を出る背中に微笑んだ。
「……来てくれて、ありがとう」
振り返った蓮は、その表情に思わず手を伸ばした。
「ーーーー蓮?」
「ーーーー矢渡し…………楽しみだな」
「うん……」
触れられた頬に手を重ね、まっすぐに見つめた。
「……頑張るね」
「……うん…………」
離れがたいのは遥だけではないのだろう。重ねていた手を離すと、腰が引き寄せられる。
肩に触れる頭に、遥の心音は忙しない。
「……遥、大丈夫だよ」
「ーーーーありがとう……」
さらさらの髪に触れると、頬に柔らかな感触がした。
「いってきます」
「…………いってらっしゃい……」
思わず頬を手で押さえながら、そう口にした遥は桜色に染まっていた。
静寂が戻った道場で、また弓を引く。頭の中には矢渡しの情景が浮かんでいるようだ。
「ふぅーーーー……」
思い切り息を吐いた。的には一本の矢が、ど真ん中に中っている。
晴れ渡る空の下、綺麗に咲き誇る桜に視線を移していた。
「ーーーー矢渡し……か……」
頭に浮かぶのはおじいちゃんの姿と、会添をした時の音。
おじいちゃんも、カズじいちゃんも……一際綺麗な所作で、澄んだ音だった。
あんな風に弓を引けたら……と、何度思ったか分からない。
私は、二人以上の使い手を知らないの…………
風が吹く度に花びらが舞っている。変わらない景色を横目に学校に向かった。
高校の桜も満開を迎えていた。日当たりのいい場所では、早くも葉桜に変わりつつある中、新学期早々に呼び込み合戦だ。新入生の確保に、どの部活動も声を上げている。
「陵、美樹、呼び込み頼んだぞ?」
「はーい、部長」
「いってきます」
ジャンケンで負けた為、二人が新入生の呼び込み係だ。
「弓道部で、これから模範演技しまーす!」
「見てってーー」
勧誘のチラシを配っていく中、二人は昨年の入学式を想い出した。それは、陵が彼女に惹かれた日でもある。
「あの人、かっこよくない?」
「本当だ……」
見た目だけで引き寄せる陵の隣にいる彼女も小柄で可愛らしい。図らずも二人のおかげで、チラシはあっという間に無くなっていく。
「あっちに集まってるといいね」
「だなーー」
美樹と陵が呼び込みをしている頃、道場では演武が行われていた。
藤澤と一吹の発案により、遥と隆、翔の三人が、着物姿で道場に現れる。矢渡しの演武だ。
着物の袖に襷をかけた遥が弓を引く。
簡単なようで難しい所作だが、素人目には分からない。それほどスムーズな動きで、澄んだ音が響く。
的に中ると、周囲から声が上がった。
「ーーーーすごい……かっこいい……」
「何? 今の……」
「……綺麗」 「やばっ……」
拍手が送られる中、矢渡しが終わったのだ。
「この後は男女別に弓を引くので、ぜひ見学して下さいねーー」
由希子の勧誘に場内に人が増えていく。役目を終えた遥は、ほっと息を吐き出していた。
ーーーーーーーー終わった……大会よりも緊張した……
「ハル、お疲れ」
「部長、お疲れさまです」
「お疲れ、着替えてくるだろ?」
「うん、翔もお疲れさま」
着物から袴に着替え終わる頃には、新入生が集まっていた。矢渡しの客寄せと呼び込みは、成功したようだ。
「ーーーー緊張するね……」
「遥でも緊張するの?」
「するよー……マユ。さっきのは、大会よりも緊張したよ……」
演武は緊張感のある中で行われていたが、彼女自身の射形は一定の為、チームメイトも誰一人として気づく者はいない。それほどスムーズで、美しい射だったのだ。
「お疲れさま」
「綺麗だったよーー」
分からなくとも優しい言葉をくれる仲間に、遥は微笑んでいた。
場内では男子が並んでいた。試合さながらのように五人から次々と放たれていく中、周囲から黄色い声援が送られている。
「陵は美樹のものだから大丈夫」
「もう、マユ! そう言うのじゃないから」
「顔が切なげだったよ?」
「ユキ先輩までー……やっぱりモテるんだなーって、ちょっと思っただけで……」
「ご馳走さま。あの顔に、人当たりのいい性格してるからねーー」
「そうだね。二人、仲良いもんね」
「遥も仲良いじゃない!」
自分の話題から逸らしたいようだが、頬は赤いままだ。そんな美樹の可愛らしい様子に、リラックスムードだ。
おかげで周囲の視線を気にせず、男子に続いて弓を引く事が出来ている。
「ーーーー綺麗な音……」
「うん……すごいね……」
浮き足立った声が止んだ。彼らに惹かれていた筈の新入生は、四射皆中する姿に視線を移した。
明らかに違う彼女の弦音に、惹かれる者もいるのだろう。昨年の新学期とは比べものにならない新入生が集まっている。
「ーーーーマジか……」
そう呟く新入生の姿があった。
美しい射形の矢は、的に吸い込まれていくように中っていく。数少ない経験者からは、羨望の眼差しが向けられていた。
みんなの音を聴きながら引く瞬間は、いつだって楽しくて、心が弾むの……
試合のような体制だったが、直前まで話をする余裕があるくらいには落ち着いていた。それは、的中率からも明らかだ。
「みんな、お疲れー」
『お疲れさまです』
部長の労いに、ほっと一息の様子だ。二年生になった遥たちにとって、初めての勧誘である。
「無事に終わってよかったーー」
「部員、集まるといいですね」
「そうだねー」
それぞれの役割を終え、ペットボトルの飲み物で乾杯だ。試合以上の視線を受けて弓を引いた為、多少なりとも緊張していたのだろう。ゴクゴクと、音を立てて飲み干す仲間が多い。
「みんなはクラス替えどうだった?」
「半分ずつに分かれた感じですね」
「俺と翔、美樹と遥が一組で、雅人と和馬、マユと奈美が四組ですね」
「隣のクラスだったら、体育が一緒だったのになー」
「そうだね。先輩は何組ですか?」
「俺が二組で、ユキが一組だな」
「うん」
制服に着替え、学年関係なく話をしていると、藤澤が道場を閉めるよう声をかけた。
今日は勧誘日の為、部活動自体は休みである。
「じゃあ、またなー」
「うん、またね」
電車で帰るいつもの四人がチームメイトと分かれると、始まったばかりの新学期が楽しみなのだろう。駅までの道のりも、話は尽きない。
「まさか、四人とも同じクラスになるとはなーー」
「修学旅行もあるから楽しみだね」
陵と美樹のカップルは、嬉しそうに並んで歩いている。
「そうだね」
「元同じクラスの奴、他にいないのか?」
「三組で仲よかった奴は分かれたなーー。二組になってた」
「そうなんだ」
「翔も遥も、仲いい奴と同じっぽかったよな?」
「うん、お弁当を一緒に食べてた小百合ちゃん……五條小百合ちゃんが、一緒だったよ」
「俺も昼よく一緒にいた竹山と同じだったな。二人ともバスケ部だよな?」
「うん」
「そうなんだぁーー。今日は話せなかったから、明日は話しかけよう」
「俺も。そういえば、委員会で一緒だった東は同じクラスだったなーー」
美樹も陵も人見知りはしない為、すぐに友人が増えそうだ。
ーーーーーーーーあれから、一年経ったんだ……
遥は一度家に帰り、昼食を食べ終えると、袴姿に着替えた。
部屋の姿見の前で道着と髪を整え、道場に向かう。外は心地よい春の陽気だ。
ーーーー緊張したけど……矢渡しは、楽しかった。
おじいちゃん達には、ほど遠いけど…………
彼女はかつて、祖父達が行なっていた矢渡しを想い浮かべていた。
美しい所作で弓を引くと、心地よい音が響く。
「ーーーー遥……」
背後から聞こえてきた声に、嬉しそうに振り返る。
「……蓮!」
矢取りを終え、彼に駆け寄っていた。
蓮は部活の帰りなのだろう。制服姿に弓具を持っている。
「お疲れさま。矢渡し、どうだった?」
「無事に終わったよ。入部してくれる人がいるかは、まだ分からないけど……」
「そっか……頑張ったな」
頭に触れる手に、頬が染まる。
「……ありがとう」
ーーーーーーーー蓮は……ほしい言葉をくれる。
いつだって……
「……蓮は、クラス替えどうだった?」
「あーー、佐野とはまた同じクラスだったな。遥は?」
「私も小百合ちゃんと同じクラスだったよ。あと、美樹と陵と翔も」
「よかったな」
「うん」
嬉しそうに微笑む彼女に、蓮も笑顔だ。
「また……大会が始まるな?」
「そうだね……早いね……」
「県武道館で、また会おうな?」
「うん!」
並んで話す手は、繋がったままだ。
「新入生は、これから入部してくるの?」
「うん、中等部で一緒だった後輩は、そのまま入部するらしいけどな」
「そうなんだ…………蓮、今日は朝からありがとう」
「いや……遥の顔が見れて、安心した……」
「うん……私も……」
頭が引き寄せられ、蓮の肩に触れる。早くなる心音とは違い、気持ちは穏やかだ。
「…………蓮……」
「ーーーー遥?」
それ以上続く言葉はなく、肩に乗せた頭を膝へ下ろす。膝の上には無防備な遥が眠っている。
「…………今朝、早かったからな……」
さらさらの髪に触れ、ポニーテールにキスを落とす。
「…………遥……お疲れさま」
柔らかな春の日差しと彼の温かな手に、夢を見ていた。微かに滲む目元は、そっと指でなぞられる。
「……頑張ったな…………」
押し寄せてくる寂しさを払拭するように引いている事が、彼にだけは分かっていた。