第二十九話 弦月
軽くジョギングをした遥は、朝から道場を訪れていた。弓を引く準備は万端である。
袴に着替え、髪を一つに結ぶと、兄と共に射詰を行なっていく。
満の心地よい弦音と弓返りの音に続いて、彼女の音が響く。次々と中るさまと、その所作は美しいと言えるだろう。
「ーーーー……みっちゃん、ありがとう……」
「あぁー、俺の練習にもなるからな」
二つの的には十二射ずつ中っている。射詰の本数だけでなく、中白に中っている本数も同じだ。
「次は、五つの的に四本ずつ引いていくか?」
「うん! みっちゃんは午後も道場?」
「いや、今日は蓮と出かけてくる。ハルも来るか?」
「ううん、今日は藤澤先生と一吹さんに、弓具店へ連れて行って貰えることになってるから……」
「弓を見にいくのか?」
「うん、高校から始めた子が買いたいって言ったら、先生達が案内してくれる事になったの」
「よかったな」
「うん!」
矢取りを終え、遥は大きく息を吐き出すと、的を見据え弓を構える。
彼女の放った矢は的確に中っていく。満の言った通り、五つの的には四射ずつ中っていた。
「みなさん、揃いましたね。では、行きましょうか?」
『はい!』
校門前に一年生が八人揃うと、藤澤と一吹が彼らを連れて、駅の方に歩いていく。
「先生、歩いて行くんですか?」
「えぇー、私も一吹くんもよく行く弓具店ですから」
「駅前にあるの見た事ないか?」
「見たことありますけど、入った事はないですね」
「陵達は? 中学もこの辺りだったんだろ?」
「初めて弓を買った店ですね」
「はい、丁寧なおじいさんに選んで貰いました」
「そうか……みんなも色々、店主からも聞くといいぞ? 弓道家でもあるからな」
『はい!』
弓具店へ向かう道中も、彼らは心を躍らせていた。試合で一時忘れていたとはいえ、楽しみにしていた事に変わりはない。
藤澤や一吹も常連という千賀弓具店に着くと、十三代目店主が出迎えた。そこは、遥もよく知る弓具店である。
「藤澤先生、一吹くん、ご無沙汰しています。清澄高等学校のみんなだね。今日は来てくれてありがとう。ゆっくり見ていってね」
『はい!』
元気な口調で応える彼らに、浩司は微笑む。
「……浩司さん、お久しぶりです。矢をお願いしてもいいですか?」
「ハルちゃん! 別に来るかと思ってたから、驚いたな。預かるね」
「はい」
矢を預けると、遥は他の生徒と同じように藤澤や一吹の話に耳を傾けていた。
浩司は、彼女がまだ高校生だったと改めて実感したようだ。
「浩司さん、見て貰ってもいいですか?」
「一吹くん、勿論だよ」
藤澤と一吹が吟味する中に浩司も加わっている間、ひと通りレクチャーを受けた経験者達は、店内を見て回っていた。
「遥も常連?」
「うん……小さい頃から、お世話になってる所だよ」
美樹と矢を見ていると、他に店員がいない事を確認した陵と翔が話に加わった。
「なぁー、遥。おじいさんは居ないのか?」
「おじいさん……勝敏さんの事かな? 先代もいるよ。浩司さんが今の店主だから、あまりお店には顔を出さないみたいだけど」
「そうだったのか……」 「そっかー……」
明らかに声を落とす二人に、遥は想い返しているようだ。
「……聞いてみる?」
「あぁー」 「頼む!」
遥は微笑み、ひと段落した浩司に話しかけた。
「じいさんに? 藤澤先生が来るって言ってあるから、もうすぐ帰ってくると思うよ?」
「ありがとうございます」
言い出した雅人だけでなく、高校から弓道を始めた四人は自分の弓が欲しいのだろう。藤澤達と共に真剣に選んでいる。
「藤澤先生、学校で使ってるのだと……グラスファイバーって事ですか?」
「そうですよ」
「グラスファイバーより軽くて、的中に優れているのがカーボン弓の特徴だよ。値段は四万くらいからあるから、グラスファイバーよりは高めになるけどね。弓力も基本的に落ちないから、この二つが合うと思うよ」
浩司の丁寧な説明に耳を傾けていると、勝敏が帰ってきた。
「先生に、一吹くん……清澄高等学校のみんなかな? いらっしゃい、ゆっくり選んでいってね?」
『はい!!』
白髪の年配の男性は、若い子達の様子に微笑んでいる。
「……ハル、久しぶりだね」
「ご無沙汰しています。二人が、トシじいちゃんに弓を選んで貰ったんだって……」
「本当かい? 続けてくれてるなんて嬉しいねー」
「今も使えるものを選んでいただいたので……」
「こちらこそ、ありがとうございました」
勝敏は何処か懐かしむような笑みを浮かべていた。
「雅人くんはカーボンにするかい?」
「はい!」
「そしたら、弦も張ってみようか?」
「いいんですか?」
「勿論! 手の感覚とか、今まで使っていたものと違うと思うからね。試射するといい」
「ありがとうございます」
雅人が器用に弦を張り、店内奥の広いスペースで構える。そこには巻藁が置いてあった。
「雅人、さまになってるな」
「一吹さん! これにします!」
手にしっくりきたのだろう。振り返った雅人には高揚感が滲んでいた。
「合うのが見つかってよかったな。勝敏さん、浩司さん、ありがとうございます」
「それはよかった」
「何か不具合があったら、店に持っておいでね?」
『はい!』
雅人だけでなく、他の三人も選んだ弓を嬉しそうに抱えている。明日から弓を引く事が待ちきれない様子だ。
ーーーーさすが浩司さん……弓具の選び方が的確。
十三代目は伊達ではないのだ。彼も弓道家なだけあって専門的な事だけでなく、いかに使いやすく自分に合ったものを選ぶかを心得ている。
会計も終わり話をしていると、店内に客が入ってきた。
「浩司さーん、持ってきました……」
「みっちゃん!」
「ハル!」
兄が来るとは思っていなかった為、驚きの声を上げた。
話を聞くのに夢中で、随分と時間が経っていた事に気づいていなかったようだ。
素引きや試射をしながら弓を選んでいた事もあり、もう夕方である。
「遥……」
「蓮……出かけて来るんじゃなかったの?」
「うん。今、その帰りで……矢をお願いしに来たところ」
「ミツくんと蓮くんの矢も預かるね。一週間、時間貰うから」
「はい、お願いします」
思いがけず彼と会って頬が緩む。
先程、浩司が言っていたのはこの事だったのだ。彼らと一緒に顔を出すと思っていたのだろう。
「遥、寄っていけるか?」
「うん、後でね」
「あぁー」
「うん、後でな」
すぐに帰ろうとする二人を勝敏が引き止めた。
「ミツ、蓮、たまには付き合ってくれないか?」
「トシじいちゃん、俺ら負けないよ?」
「それは楽しみだな」
二人は顔を見合わせて微笑むと、勝敏と店内奥の畳の部屋に腰掛け、将棋を指していった。
「藤澤先生、一吹さん、今日はありがとうございました」
「自分に合ったものが買えてよかったですね」
「大事に使うんだぞ?」
「はい!」
学校方面に帰る四人と駅前で分かれると、遥はいつものチームメイトだけでなく、満と蓮も一緒に駅まで歩いていた。
「先生方に見て貰えてよかったな?」
「うん! 楽しかった……久々に浩司さんの説明も聞けたし」
「満さんと蓮さんは、弓道してたんですか?」
彼らと同じく二人の手にも弓具があった。
「あぁー、ちょっと知り合いの所で、参加させて貰ってたんだ」
「美樹ちゃん達は、道具を見て貰ったのかな?」
「はい! 浩司さんとおじいさんにも見て頂きました」
「よかったね。トシじいさんは引退されてるから、客のは滅多に見ないんだよ」
「そうなんですか?!」
「あぁー、藤澤先生の人望のおかげだね」
「そうなんですか……」
満の言った通り、藤澤の人望もあり勝敏は顔を出していた。仮に藤澤と関係なくとも、遥が参加していた為、どちらにせよ見てもらう事は出来ただろうが。
「じゃあ、また明日ね」
「また明日な」
「うん、またね」
三人と分かれると、蓮と満の間を並んで歩いていた。
「……満さんと蓮さんも仲良いんだな」
「そうだね」
彼女が嬉しそうに笑う横顔に視線を移す、彼の姿があった。
蓮が声をかけていなくても、三人は道場に揃っていたのかもしれない。彼らにとって弓道は、それ程かけがえのないモノだ。
「久々に三人で勝負だな?」
「そうだな」
「うん!」
「負けたら何にする?」
「アイス食べたい!」
「この寒いのにアイスか?」
「遥は雪見だいふくが食べたいんだろ?」
「うっ……そうだけど、当てないでよ蓮……」
道場に着き、弓に触れる。
弦音と弓返りの心地よい音が次々と響いていき、あっという間に十二射を終えた。
「来週の午後は、浩司さんの所に三人で行かないか?」
「蓮、二人で行かなくていいのか?」
「いいでしょ? たまには……」
「うん、行きたい!」
「じゃあ、部活終わりの蓮と待ち合わせて、お昼食べに行かないか?」
「賛成!」
「終わったら連絡するな」
「うん、待ってるね」
矢取りをする中、来週の予定が決まると、また弓を構える三人の姿があった。
休みの日にも関わらず、遥は朝から道場で引いていた。
今日は約束した日曜日だ。幼馴染が三人揃って出かけるのは数年ぶりの事である。
「ハル、矢取りしたら着替えて迎えにいくか?」
「行くー! 面白そう」
二人は私服に着替えると、風颯学園の校門前まで来ていた。
「ーーーーいつ来ても、大きい学校だよね……」
「そうか? ハルも中等部通ってたじゃん」
「そうなんだけど……」
「神山先輩? どうしたんですか?」
満が遥と話をしていると、弓具を持った制服姿の男子が尋ねた。
「お疲れ、ちょっと部長を待ってるんだ」
「蓮部長なら、もうすぐ帰ると思いますよ?」
「さっきミーティング終わってたんで」
「二人ともありがとう」
みっちゃんも蓮も後輩に慕われてるよね……
後輩と兄の会話に、つい頬が緩む。
「ハル、二人は弓道部一年だから同い年だぞ?」
「そうなんだ……兄がお世話になりました」
「おい!」
神山兄妹の様子に、一年生が顔を見合わせていると、部長がやって来た。
「遥、満、お待たせ」
「蓮、お疲れさま」
「お疲れさま、駅前に行くんじゃないのか?」
「蓮は着替えてから行くだろ? だから、迎えに行こうかってな?」
「うん」
「そっか……遥、一年の足立と村松。そのうち清澄と……白河くん達と、会う事もあるだろうから」
「あっ、自己紹介してなかった……神山遥です。よろしくね」
柔らかな雰囲気に話も弾んでいくというより、全国クラスの彼女に興味津々な様子だ。前のめりで話しかけられていた。
「よろしく。合同練習の時から知ってたよ? サキからも聞いてたし」
「神山さんって、女子のインターハイ覇者でしょ?」
「う、うん……」
「この間の地区大、優勝したんだよな?」
「うん……でも、中部地区ほど激戦じゃないよ?」
それは遥の本心であり事実だった。東部、西部、中部地区と分かれているが、出場校数も選手の厚みも、中部地区が頭ひとつ分出ているのが現状である。
「それはそれ、別にいいんだよ」
「そうそう。残ることが大事なんだからな?」
「うん……ありがとう……また大会で会えるように頑張るね」
「うん」
そう応えた蓮は、彼女の頭を優しく撫でている。普段の部長が見せないような表情に、足立と村松の方が染まっている。
「二人ともお疲れさま。また明日な」
『はい!』
仲のいい関係性が伝わってくるような後姿を、二人は静かに見送っていた。
松風家の玄関で、満と遥は彼の着替えを待っていた。お昼を食べる場所は決まっているのだ。
「みっちゃんは、何にするの?」
「カルボナーラかな。ハルは?」
「私は、もし残ってたらラザニアかな。久しぶりに行くよね?」
「あぁー、小さい頃は弓具店の帰りに、じいちゃんに連れてって貰ってたからな」
「うん……」
共通の想い出のパスタ屋だ。
二人が注文するパスタを考えていると、蓮が降りてきた。
「お待たせ」
「蓮は何にする?」
「あーー、ミートソースかな」
「今の聞き方でよく分かったな?」
「なんとなく?」
「ちょっと! 二人とも!」
弓道がすきというだけでなく、三人とも気が合うのだろう。久しぶりの感じではなく、いつも一緒にいる仲間のような距離感だ。
弓具店のある最寄り駅に着くと、清澄高等学校とは反対側の北口にあるパスタ屋を訪れていた。パスタ屋といってもチェーン店ではない為、席数は少なく、生パスタが魅力的な店だ。
「予約していた神山です」
「あら、滋さんとこのミツくんに、ハルちゃん。二人とも大きくなってー」
「ご無沙汰しています」
「あら、一夫さんとこの蓮くん? まぁー、二人とも男前になったわねー」
「ありがとうございます……」
とても気さくな奥さんの為、三人とも笑顔で応える。
「グリーンサラダとカルボナーラと、ミートソースとラザニア。あと、食後にオレンジジュース三つ下さい」
「はーい、用意するから待っててね」
「はい」
「オレンジジュース、懐かしい……」
「遥、すきだったよな?」
「うん! ラザニアもあってよかったー」
「数量限定だから、おばさんに頼んでおいたんだよ」
「そうなの? みっちゃん、ありがとう」
「いいえ。この後、弓具店行くだろ? 他に行きたいところあるか?」
「この辺は浩司さんの所と、ここしか知らないから分からないな。遥、分かるか?」
「うーん、最近南口にカフェができて、ケーキが美味しいらしいよ?」
「ハルがいるから行けるな?」
「うん」
「ん? なんで私がいるから?」
「男二人だと入りづらいだろ?」
「そっか……」
蓮とみっちゃん、二人だけだと……ちょっと目立つかも……
「他にはあるか? 三人でやりたいこと」
「そういう満は?」
「俺? 俺はーー……弓道しか思いつかなかったんだよ」
その応えに二人とも顔を見合わせ笑っている。三人でする事といえば、弓道しか思いつかなかったのだ。
程なくすると料理が運ばれてきた為、想い出の味に懐かしさを滲ませながら、話に花を咲かせていた。
「こんにちはー」
「三人ともよく来たね。矢は出来てるよ」
「ありがとうございます」
千賀弓具店では、いつものように浩司が三人を出迎えていた。
「この間は言いそびれちゃったけど、二人とも全国選抜優勝おめでとう」
「ありがとうございます」
「……ありがとうございます」
「浩司さん、よく知ってますね」
「みんなは、お得意様だからね」
三人は顔を見合わせ、笑い合っていた。
遥達が祖父の代からお世話になっている弓具店。元は弓懸を作っていた事が、千賀弓具店の始まりだったようだ。
レジの近くにある写真立てには、先代の勝敏と共に滋や一夫が若い頃の写真や、孫達と一緒に微笑む写真が飾られている。
「……懐かしいかい?」
「はい……」
遥は祖父達の写真に想いを馳せているようだ。
「遥、小さいな」
「みんなもでしょ?」
祖父や父、彼女達も一緒に写る写真は、三人が小学生の頃のものだ。
ーーーー先に、弓を引けるようになった二人が……羨ましかった……
縮まらない年の差を、悔しく思った事もあった。
蓮も、みっちゃんも……私の一歩先を進んでいくから……
「可愛いよ?」
「蓮……」
「はい、イチャイチャしない」
『してない!』
同時に応える様子に、満だけでなく浩司からも笑みが溢れる。
先週とは違い想い出の写真を眺めながら、振り返っていた。
「どれも美味しそう!」
「迷うなー」
ショーケースに並ぶ色とりどりの美味しそうなケーキに、心躍らせていた。三人とも甘い物には目がない。
「三種類頼んでシェアするか?」
「する!」 「うん!」
テーブルには、ショートケーキにチョコレートケーキ、モンブランと、紅茶の入ったカップが三つ並んでいる。
「……美味しい」
「本当だ……美味しいな」
「遥がいてよかったな?」
「あぁー」
三人は美味しそうにデザートを口に運ぶ。
「道場に行く前にプリクラ撮りたいな」
「プリクラ?」
「ダメ?」
「そういえば、三人で撮ったことないか……」
「うん」
「じゃあ、食べたらゲーセンに寄ってから帰るか?」
「うん!」
幼馴染は共通の話題も多い。主に弓道の話ではあるが、弓道漬けの毎日を送る彼らにとっては、段位や大会がある事が日常である。
いつもの道場に着くと、袴に着替え、弓を構えた。
遥、蓮、満の順に弓を引くと、心地よい音が響く。
「同点だな……」
「あぁー」
「うん……」
三つの的には、それぞれ十二射ずつ中っている。
「ハルも蓮も……連覇、目指せよ?」
「うん……」
「うん……忘れてない……」
小さい頃の約束を胸に、それぞれの場所に立っていた。