第二十八話 行射
明日の高等学校対抗戦を控え、午後の練習では最終調整が行われていた。
調整といっても本番のようにハ本ずつ引き、いつもより早めの解散となった。
「今日はここまで。緊張で寝不足にならないように、早めに就寝すること」
『はい!』
はっきりとした口調で応える仲間に、遥の頬も緩む。皆、明日が楽しみで仕方がない様子だ。
コーチとの良好な関係に、藤澤からも笑みが溢れていた。
「一吹くん、今日もお疲れさまでした」
生徒達を送り出した道場は静かさを保っている。遠くで他の部活動の声が微かに聞こえるだけだ。
「ーーーー藤澤先生……明日が楽しみです」
「そうですね……彼らの成長は、著しいですからね」
「はい……」
戸締りを終えた二人もまた、明日の大会を楽しみにしていた。それは、ある意味では生徒達以上だったのかもしれない。
遥がいつものように道場に寄ると、的を用意する兄の姿があった。
「お疲れ、八本引いてから帰るだろ?」
「うん!」
準備を整えると、満に続いて弓を引く。
ーーーーーーーーうん……大丈夫……
心地よい音が響き、深く息を吐き出していた。
「ふぅーーーー……」
「集中したな」
「うん……みっちゃん、付き合ってくれてありがとう」
「いいえー、日曜はまた射詰するか?」
「うん!」
…………大丈夫……いつも通りできる。
今も八射皆中している為、仲間の誰も気づかなかったが緊張していたのだ。満にはそれが痛いくらいに分かっていた。
遥の横顔には、期待と不安の混ざった複雑な心境が微かに出ている。
自分自身に言い聞かせ、乗り切る姿に、満も自分自身と重ねているようだった。
朝もいつものように引いた遥は、坂道を下っていた。これから大会本番を迎えるのだ。
「ーーーー遥、おはよう」
「おはよう……蓮……」
彼がいるとは思っていなかったのだろう。驚く様子に蓮は微笑んでいる。
「終わったら、道場で待ち合わせな」
「うん……」
頬に触れてくる手に、ほっと息を吐き出す。
彼の顔を見て安心したのだろう。手を重ね、まっすぐに見つめた。
「…………蓮……楽しみにしてるね」
「うん、頑張ろうな」
「うん!」
手袋を外し握手を交わすと、二人は別々の方向に歩いていった。
会場へ着くと、隆と由希子が藤澤や一吹と共に、一年生を待っていた。
十人全員が揃うと、男子から順に試合が始まった。
清澄高等学校は五番目だ。
女子部員は一吹や藤澤と共に、観覧席から五人を見守っている。
「次……ですね」
「はい……」
久しぶりの大会からか、仲間の緊張感まで移っているからか、昨日までとは違い部員は静かだ。無言のまま、視線だけは射に向けられていた。
陵の勢いのある射から流れるように放たれていく。一射目が五人とも中り、揃って声を出した。
『よーし!!』
東部地区では一人八射の予選を行い、上位四チームが決勝トーナメントに進出となる。
目の前で放たれる矢に、彼らが緊張しながらも弓を引く姿に、自分達も続きたいと感じていた。勇姿を見る度に勇気をもらっていたのは遥に限った事ではない。
四十射二十一中と、全体の二位で決勝トーナメントを通過となり、手を取り喜び合う姿があった。
隆がトーナメントの抽選を引き、チームメイトの元に戻ると、女子の予選が始まった。
彼女達が姿を現わすと、遥から近い観覧席に人が集まっているようだ。それは彼らの気のせいではなく、彼女の射を間近で見たい者がそれだけ多かったのだ。それは、まさに風颯学園が出場した時のようなギャラリーの多さである。
いつもと変わらない所作で弓を引く彼女の音に続くように、大前の由希子から繋がっていく。
ーーーー緊張しているのが伝わってくる。
大丈夫……この間よりも集中できてるのが分かるから……
「ーーーーすごいな……」
「あぁー」
陵の呟きに応えたのは翔だったが、彼らも納得していた。ほとんどが思わず頷いたまま、仲間の射を追っている。
今までで一番多く中っていたのだ。
男子に続き、女子も四十射二十中を決め、予選を一位通過となった。
由希子が午後から行われる決勝トーナメントの抽選を引いて戻ると、緊張感から解放された笑顔の仲間がいた。
はじめての決勝トーナメント……嬉しい……また、弓が引けるんだ……
昼食を十人揃って食べる中、遥は喜びをかみしめていたが、それは彼女だけではない。
決勝トーナメントに出れる事自体が初めての部員が殆どの為、部員全員が嬉しそうだ。
まるで先程までの緊張感が何処かへ行ったかのように、会話が弾んでいる。
「また男子からか……」
「そうだな。男子の二試合の後、女子が二試合で、また男子から決勝戦だな」
「部長、楽しみですね」
「あぁー、また引けるからな。陵は食べすぎるなよ?」
「大丈夫です。今日はおにぎりにしたんで!」
「本当だ。珍しいな?」
「遥を見習ってみた」
話を振られ、持っていたおにぎりを落としそうだ。
「……えっ? 私?」
「いつも、そんなに食ってないみたいだったから」
「そうかな? そんなこと……」
膝の上には、フルーツの入った小さなお弁当箱が乗っている。
「本当だね」
「うん。遥、いつもはお菓子とか食べるのに」
「お菓子は持ってるけど……お腹いっぱいにすると、動きづらくなるから……気にした事はなかったけど……」
陵に言われ、初めて自覚したようだ。
ーーーーそこまで、気にした事はなかったけど……私にとっては、大会だと……これが、当たり前だったから。
お弁当にしても、いつもより小さなお弁当箱にして、飴とかグミとか……すぐに食べれるものを持ち歩いて、糖分を取ったりしていたから、特別なことじゃない……
「へぇー、考えてるんだな」
「一吹さん、お疲れさまです」
「みんな、よく残ったな。午後もこの調子で、さっきの感じを忘れないようにな」
『はい!』
部活と変わらずに勢いよく応えていた。
「……見るのもやっぱり緊張するね」
奈美の呟きに皆、頷いている。休憩中とは違い、また緊張感が押し寄せていた。仲間が対戦校と共に、入場してきたからだ。
大前から順に弓を引いていく。陵は調子がいいのだろう。一射目から中る安定感があった。
ーーーーみんな……すごい……さっきよりも中ってる。
二十一対十九中で清澄高等学校が決勝進出となった。
「次は、私達の番だね」
『はい!』
由希子に揃って応えると、場内に向かった。押し寄せてくる緊張感を、遥は上手く吐き出しているようだ。
「……あの子が全国優勝した神山さんでしょ?」
「まだ一年だってさ」
「すごい子が出てきたよね」
噂話の小さな声は、彼女達には聞こえていないが、試合が始まると場内は静寂に包まれていた。
ユキ先輩に続く、奈美の射。
今日……みんなも、調子がいいみたい……
中の真由子に続いて、美樹が引くと、彼女が的に放つ。緊張からか一射目を外しがちな奈美も中り、五人とも的中だ。
ーーーーずっと……引いていたいな……
遥は予選から一度も的から外す事なく、試合を終えた。
彼女達の放った的には、先程と同じく二十一射。
対戦校の的には二十射中っていた為、一射の差で女子も決勝の舞台に進める事となった。
「やったね!」
「はい!」
「嬉しいです!」
「また引けるんですね」
次々と喜ぶ彼女達を前に、遥は目標していた決勝トーナメントに出れただけでなく、決勝進出を果たした事により言葉にならない状態だ。
「ーーーー嬉しいですね……」
ようやく口にした言葉に皆、笑顔で応える。
「やりましたね……一吹くん……」
「はい……ようやく練習の成果が、実を結んだ気がします」
「まだ早いですよ? 次の決勝で、どれだけ発揮できるか楽しみです」
「……そうですね」
藤澤の言葉に応えた彼は、決勝に残った時点で嬉しそうな表情を浮かべていたのだ。
二人の前に姿を現した彼らは、緊張というよりも高揚感の方が勝っているように感じていた。
「上手くなりましたね……」
「そうですね。特に大前の陵と落ちの翔は、自分との向き合い方を何か掴んだようですね。部長は安定してますけど、和馬と雅人もまだ始めて一年経ってないとは思えないほど……成長していると思います」
「一吹くんが……コーチを引き受けてくれたからこその結果です……」
「いえ……藤澤先生には感謝しています。自分の為にもなっていますので……」
藤澤は一吹に微笑んでみせる。
いつも自分の為になると、彼は言っているが、部員達にとっては、一吹のようなコーチがいるからこそ、ついてきた結果である。
「やりましたね……」
「はい!」
五人の姿に一吹も喜んでいた。彼らは二十二対二十で優勝を決めたのだ。
「やったな!」
「あぁー」
「勝ったんだな……」
「やりましたね、部長!」
「そうだな……」
隆にとって二年近く清澄高等学校として出場してきた中で、初めての経験だった。
五人で臨んだ初めての舞台に高揚感を滲ませながら、彼女達の射を見つめた。
大前の由希子に続けず二番が外すも、中が断ち切り、落ち前、落ちへと続いていく。
彼女のいつもと変わらない音に、二射目は全員、的中した。
遥はいつもと変わらずに弓を引く為、プレッシャーを感じていないように彼らの目には映っていた。
彼女は八射皆中を決めたのだ。
男子に続き、二十一対二十と僅差で優勝を果たした。
「やった! 優勝だな!」
「あぁー……」
彼らも初優勝に喜んでいる。近年、弱小だった清澄学園にとって快挙といえるだろう。
藤澤の言っていた通り、再生を果たしたのだ。
表彰式を終えると、彼女に抱きつく姿があった。
「遥……嬉しい……」
「うん……美樹……最後まで残れたね」
優勝を果たした彼女達は、美樹に続くように喜び合う。抱き合う中、遥はようやく優勝した事を実感していた。
「みなさん、頑張りましたね」
『はい!!』
藤澤の言葉に、部員全員が喜んでいた。
ーーーーみんなで……最後まで弓が引けた……
的中率よりも何よりも、遥にとっては最後まで弓を引けたことが嬉しかったのだ。
「みんな、よくやったな」
「一吹さん……藤澤先生、ありがとうございます!」
『ありがとうございます!!』
隆に続いて、部員一同が揃って一礼をしていた。
二人がいなければ、一吹がコーチを引き受けてくれなければ、今の自分達は此処にはいないと、感じていたからだ。
「ーーーー次は……的中率をもう少し上げる事を目標にな」
『はい!』
「明日は部活はありませんが、弓具を持って午後から弓具店へ行きますよ?」
『はい!』
「購入しなくても構いませんからね。色々な弓に触れる事も、良い経験になりますから」
「そうですね。自分の手に合う事が大事だからな」
弓具店の事は、すっかり忘れていたのだろう。二人の言葉に、また明日が楽しみになる彼らがいるのだった。
道場に着くと、まだ誰も来ていなかった。
遥はいつものように引くと矢取りを行い、彼が来るのを待っていた。
ーーーー蓮……早く会いたいな……
『東部地区で優勝できたんだよ』って言ったら、喜んでくれるかな…………
「ーーーー遥?」
蓮が道場に入ると、彼女は壁にもたれながら眠っていた。張りつめた緊張感から、ようやく開放されたのだろう。
袴姿にジャージを羽織った上から、コートやマフラーを肩から被せていた。
「ーーーー不用心だな……」
道場の鍵は開いていた為、不用心と言われても仕方がない。
彼が肩に触れ彼女を起こすと、遥はぼんやりとしながら目を開けた。
「遥……遥、はーる?」
「ーーーーん……蓮……?」
「起きたか? こんな所で寝てたら風邪ひくぞ?」
いくら床暖房やヒーターがあるとはいえ、二月はまだ寒い。道場は外と変わらないのだ。
「うん……蓮……優勝したよ……」
「頑張ったな……」
「うん……」
「おめでとう、俺も優勝したよ」
「おめでとう……」
彼女があまりに嬉しそうな笑みを浮かべている為、蓮は思わず抱きしめていた。
「ーーーーよかった……」
「うん……」
二人はそのままキスを交わした。軽く触れるだけのキスが徐々に深くなっていく。
「蓮……」
「遥……こっち……」
更衣室に連れられ、ガチャンと鍵のかかる音が響く。
「ん……蓮……」
「遥、身体冷たい……」
ぎゅっと抱きしめられ、お互いの存在を感じた。深い口づけに漏らす声も、彼によって飲み込まれていくのだった。