第二十話 想起
八位までに入賞した翔と陵は、あと一歩及ばず東海高校選抜大会の出場を逃す事となった。
個人の五位までに入賞した者の殆どが二年生であったが、清澄高等学校からは遥の女子個人のみ、東海高校選抜大会、全国選抜大会へ出場となった。
遥は二日後に控える東海高校選抜大会を前に、いつもの道場で引いている。
その射形は乱れる事がなく、的に中っていく。弓を引く度に、弦音と弓返りの音を響かせながら。
部活だけでは足りなかったのだろう。五つある的には、すべて四本ずつ中っていた。
「ーーーーーーーー岐阜県か……」
そう呟いたとおり、今回の大会は岐阜県で行われる。開催地はその年によって異なる為、インターハイのように遥の県で行う場合もあるが今年は違うようだ。
…………新幹線を使って、会場まで二時間くらいだよね。
久しぶりに……地方に行く…………
遥は矢取りをしながら、中学生の頃を想い出していた。
卒業してから、一年も経ってないのに……ずっと昔のことみたい…………昔は、遠征とか練習試合とか……学校が休みの日も、部活で弓に触れていたんだよね。
ーーーーーーーー蓮に……会いたい…………
首を横に振り、矢取りを行なう。その仕草は、彼への想いを打ち消しているようだった。
「遥、行くよーー?」
「うん!」
美樹の呼びかけに応え、放課後の練習に向かう。試合前の最後の調整時間だ。
一つの的に黙々と中ていく。その所作は美しいといえるだろう。
弓を引く射形は、いつもまっすぐに遠くを見つめ、放たれていく。
「……すごいな」
遥は八射とも中っていた。
深く呼吸を整えると、更に四射引いている。
「遥、調子いいな」
「陵……そうだな……」
的に視線を移すと、十二本の矢が中っていた。
彼女は的に向かって一瞬笑みを浮かべると、仲間と共に矢取りを行なっていく。
その姿はいつもと違っていたが、微かな違いに気づくチームメイトはいない。おそらく彼なら気づいたのかもしれない。彼女が僅かな緊張感を滲ませていた事に。
ーーーーちゃんと的に中ってたし……射形の乱れもないって、一吹さんも言ってくれたし……大丈夫。
迷わずに引けば……大丈夫だから…………
掃除中も遥は、今日の射を振り返っていた。静かに緊張感と戦っていたのだ。
「ハル、これ……みんなからな」
道場を出る直前で、隆部長から手渡された御守りは、赤色の必勝祈願だ。
「あ……ありがとうございます……」
「ハルちゃん、明日の試合頑張ってね!」
「はい!」
いつもの笑顔に戻る。
次々とエールをくれる仲間に応え、志を持って大会に挑むと誓っているようだった。
付き添いの一吹と会場へ着くと、深く息を吐き出した。
「遥、大丈夫か?」
「はい……久しぶりで……」
「楽しみにしてるよ」
「はい!」
彼女はいつもと変わらない射形で、的の前に立つ。次々と放たれていく矢は圧巻だ。
各県の上位五名が出場しているだけあり、県内の予選よりも高い的中率の者が多い。
個人戦は八射六中以上で予選通過となり、決勝は射詰め競射が行われるのだ。
「ーーーー流石だな……」
乱れる事なく弓を引く姿に、一吹はそう呟いていたが、その表情は硬い。祖父の事を想い浮かべていたようだ。
周囲の音で視線を遥から的へ移すと、八本の矢が全て中っていた。
インターハイ優勝者は此処でも注目の的だが、会場にいる誰よりも彼女の射に視線を向けていた。緊張感を滲ませながらも、堪えて挑む姿に気づいたのは、おそらく彼だけだろう。
「……遥ちゃん、すごいな」
蓮が振り返ると、同じく道着を来た佐野が眺めていた。
「佐野……呼びに来たのか?」
「副部長に見つかる前にな?」
「あぁー、戻るよ」
名残惜しそうに彼女の横顔を見つめながら、士気を高めているようだ。
蓮は二組目の出場である。
彼もいつもと変わらない射形で引けば、心地よい音が響く。
周囲の雑音は、彼には届いていないかのように静かな所作だ。
ライバルのいない大会は今までに何度も経験した事はあるが、その度に彼のいない事実を思い知っていたのだろう。
遥と同じく八射皆中を決め、決勝に進む事となった横顔は何処か寂しさが滲んでいるようだった。
個人戦は午前中ですべてが決まる為、男子予選が終わると、女子の決勝が始まる。
射詰の為、一射ずつ弓を引き、失中した者は除かれ、的中した者は次の一射を行う。的中させ続けた者が勝者となるが、早くも二射目で決まった。
彼女以外は、失中していたのだ。
遥は的に中った二本の矢を眺めた。
ーーーーーーーー終わった……久しぶりに緊張した…………久しぶりの景色。
一吹は優勝を果たした彼女の安堵したような表情に、彼女が今まで緊張していた事に、はじめて気づたようだった。
風颯からは、今回の団体メンバーの三人のうち二人、蓮と佐野が個人戦決勝に進んでいた。
チームメイトが見守る中、弓を引いていくが、決着はすぐについた。
彼の的にだけが三本中っている。
「ーーーーーーーーおめでとう……」
そう溢した遥の視線は、まっすぐに彼へ向けられていた。
蓮が優勝したのだ。
喜びながらも、物足りなさを感じているのだろう。複雑な表情のまま会場を後にした。
「一吹さん、団体戦も見ていっていいですか?」
「あぁー、構わないよ。風颯が出てるよな?」
「はい……一吹さんの母校ですよね?」
「そうだな……懐かしいな……」
昼食を終えた二人は、再び会場を訪れていた。
遥は場内に現れた三人に視線を向ける。風颯の団体が始まるからだ。
予選は一人八射。二十四射で競われ、上位八校が抽選をし、決勝トーナメントが明日に行われる。
風颯からは蓮、下村、佐野の三人が出場していた。
大前の蓮が弓を引くと、それに続くように皆中していく。
矢が一瞬で的に中る美しい軌道を静かに見守っていた。
「決まりだな……」
「ふぅー……あっ、そうですね……」
緊張していたのだろう。息を吐き出すと、一吹の声に応え、会場を後にした。
彼らの的には合計二十本の矢が中っていたのだ。
大会二日目は、団体の決勝トーナメントが行われている。決勝では一人四射。一、二回戦を勝ち残ったチームが決勝の舞台に立てる。
遥は、彼の射を見つめていた。
ーーーーまた……決まった……四射皆中。
彼は予選から一度も外していない。風颯は順当に勝ち残り、決勝戦を迎えようとしていた。
「ーーーー松風蓮くんか……すごいな……」
「そうですね…………一吹さんは、良知コーチのお知り合いなんですか?」
「あぁー、昔……お世話になったな。お兄さんから聞いたのか?」
「はい」
「満くんだっけ? 彼が来てから、風颯は公式戦負けなしだって、良知さんが喜んでたな」
「そう言われると、嬉しいですね。みっちゃ……満も……松風くんも、強いですからね」
「は…」
「あっ! 始まります!」
遥は会場に姿を現した彼を見つめる。
変わらずに弦音と弓返りの音が響き、観客を惹きつけていく。
美しい射形で的に中ると、かけ声と拍手が起こる。
風颯が十二射十一中を決め、優勝したのだ。
一吹は嬉しそうにする彼女の隣で、言いかけた言葉を飲み込んでいた。
『……遥も強いぞ?』
きっと告げたら微笑んでくれそうだが、彼女は納得はしないだろう。一吹自身もそういう感情を知っていたのだ。
閉会式を終え、いつもの道場に戻って来ていた。
「ーーーー負けなし……か……」
満と蓮の射形を想い浮かべる。
…………美しい射形……みっちゃんも……蓮も……心を乱す事なく、弓を引くから……誰にも真似できないような所作。
ーーーー私は……いつも迷ってばかりだけど……もっと……見ていたかったな……
満はあと四ヶ月足らずで、東京の大学へ行ってしまうのだ。
…………また見送る側だ。
それに、蓮の射も……今回の大会はーーーー…………
三人の中で一番年下の為、いつも先に卒業していく彼らを見送る側だ。
ゆっくりと呼吸を整えてから引くと、まっすぐに矢が飛んでいった。
的には四射中っている。
「遥!!」
珍しく勢いよく道場に入って来た彼の元へ駆け寄る。
「……蓮!」
二人は抱き合っていた。正確には、彼が遥を抱きしめている。
約一週間ぶりに見る彼女に、その変わらない射に、感極まったのだろう。蓮が今回の大会で彼女の射を見る機会は、最初で最後だった。
「ーーーーおめでとう……遥……」
「うん……おめでとう…………蓮……」
彼は満から引き継いだ連覇を更新したのだ。
自身のこの大会での優勝は初めてである。満が個人でも二連覇を果たした大会だったからだ。
一つしか歳は変わらないが、ライバルでもある彼の背中は、いつだって近いようで遠い。
チームをまとめる苦労を改めて知る度、蓮はそう感じていた。
「蓮……」
「ん? どうした?」
「……綺麗な射だったよ」
「うん、遥もな…………次に会えるのは、十二月か……」
「部長はどう?」
「満は完璧だからなー……俺らしく、やっていくよ」
「うん、蓮の射が見れるの楽しみにしてるね」
「うん……俺も……」
頬に触れる彼の手は、いつも優しい。
ーーーーあと何回……蓮の射を見る機会があるんだろう。
みっちゃんと同じように……
遥の頭には、彼が此処で弓を引く機会が一年もない事が過ぎっていた。
「…………東京か……」
「うん……久しぶりだね……」
道場入り口に並んで座ったまま、肩を寄せ合っている。
「……寒いね」
「もう十一月だからな……」
「蓮、来てくれてありがとう……」
「うん……元気だったか?」
「うん……」
「正月はさすがに休みだから、初詣行こうな?」
「うん!」
彼の提案に笑顔で応えると、手を伸ばしていた。
「……遥?」
ふわりと柔らかな感触に包まれた。遥が抱きしめていたのだ。
「ーーーーーーーー少しだけ……このままで……」
「うん……」
蓮はその腕を抱きしめ返す。
一週間ぶりに触れる彼に、遥は泣きそうだ。心細かったのだろう。
体温が分かるほどの近い距離感に、そっと胸をなでおろした。
「…………遥?」
「ん、充電完了!」
いつも通り明るく振舞って見せていたが、彼にはすぐに分かったようだ。久しぶりの大会に、中学生の頃を想い返していた事が。
「もうちょっとな?」
「うん……」
離れていく手が引き寄せられる。
「…………蓮……ありがとう……」
「うん……」
触れる手の優しさに、そっと瞳を閉じて彼の射を想い浮かべていた。