雨つぶのオープンウォーター
水泳部の樋口と和泉。
通り雨のプールサイドでの小景。
「雨のプールって、好きだなあ」
和泉がプールサイドのひさしの下に手を伸ばして、滴る雨粒を手のひらに集めた。
授業が始まったときの晴天はどこへやら。鈍色の空からは、大粒の雨。通り雨だろう。あまり遠くないところで雷が鳴っている。
体育担任のブンちゃんの少ない髪が、雨に濡れてぺちゃんこになってる。でも優しい俺たちは、みんな見てみないふり。
雨は和泉のてのひらからあふれて長い腕を伝い、肘から引き締まった脇のした、スイムウエアの胸まで濡らす。
ほかの女子がバスタオルで体をかくして、おしゃべりしているのに、和泉はグループから離れて立っている。
ふつうの女子より肩幅が広めで腹は信じられないくらいにぺたんこ、ウエストがぎゅっと細くて足は……筋肉がついてちょっとたくましい。学校指定のセパレートのスクール水着はダサいけど、競泳用のスイムウエアを見慣れている俺としては、別人みたいで自然と目が離せない。
固まっている他の男子どももチラチラ見ては顔を寄せ合っている。たぶん、下世話な内緒話だ。和泉のスタイルの良さに、驚いているんだろう。制服姿の和泉は少し太めの女子と思われがちだ。背丈の割に肩幅が広くて、首もやや太め。でも、ひとたび水着なれば手足は長く、メリハリのついた体形で、とんでもなくスタイルがいいことが分かるのだ。ほんとは和泉に、タオルで体を隠しておけよ、なんて忠告してやりたい。でも、ひとり軒下に立って空のご機嫌を伺っている和泉を俺も見ていたい。
「壁にタッチしてさ、顔あげても雨降りだと、まだ水のなかにいるみたいで好き。空までプールみたい」
はげしく降る雨でプールサイドのでこぼこにできた小さな水たまりに足を浸して、まるで海の波うちぎわで遊ぶように、ぴちゃびちゃと音を立てさせている。
「いつも室内だからさ。楽しいじゃん、外プール」
くるりと振り返ってにこって笑うと、白くてきれいに並んだ歯がのぞく。
「おう、そうだな。それに今日こそ俺らの実力を見せつけてやろうと思ったのにな」
目を合わせて、二人でフフンと鼻で笑う。
同じ水泳部員としての連帯感がたしかにある。俺は心の中で小さくガッツポーズをする。ふだんは球技や陸上でぱっとしない体育の授業で一目置かれるチャンスなのに、雷雨で授業は中断している。
「樋口のとこはさ、長距離の選手多いよね。千五百とか。三年の桑島さんってオープンウォーターに転向したんだっけ?」
オープンウオーターは海、湖や川といった自然のなかで泳ぐ競技だ。遠泳ともちょっと違う。管理されたプールにはない波や潮流、クラゲとの闘いがある過酷な競技だ。
「あー…国体目指すんだってさ。いま正式種目になったろ? もともと長距離の選手だし、コーチに勧められたみたいだ。こないだグァムの海で大会だったらしい」
和泉は、ひょえーなんて声をあげた。ショートの髪がゆれて雫が飛ぶ。
「うちトコは短距離とせいぜい中距離かな……樋口みたいにロングに強い選手は、いないなあ」
同じ水泳部、といってもふだんはそれぞれのスイミングクラブで練習している。高校の水泳部なんてそんな感じ。学校自前のプールで専属のコーチがいて、とかいうのは私立の強豪校くらいなものだ。俺たち公立組は小さい時からお世話になってるクラブで、ずっと同じコーチに指導を受けている。
お互い小学生になる前から水泳をずっと続けて、チビの頃から大会で何回も顔を合わせてきた。別々のクラブ、でも同じ市内だから、なんとなく顔見知りだった。それでも春先に高校の入学式で顔を合わせたときは、どきんってした。ジャージ以外の服装なんて初めて見たから。チェックのスカート、ブレザーに赤いリボン、なんだかすごく女子だった。おかげでその晩は、なかなか眠れなかった。
「あたしの『夏』は終わっちゃったけどさ、樋口はブロック大会頑張ってよね」
おう、といちおう返事をする。
こんなとき、水泳って競技が恨めしい。
野球部だったら、「俺が甲子園に連れていってやる」とか言えるだろ?
でもそれじゃ駄目だ。和泉はマネージャーじゃない、競技者なんだ。
だから、にっこり笑っているけど、和泉だって上の大会へ行きたかったはずだ。
「千五百メートルとか二十分くらいかかるじゃん、何か考えながら泳ぐ?」
「ま、ペース配分とか……かな」
うんうん、と和泉が大粒の雨が当たって水面がけぶるプールを見つめたまま相づちを打つ。
なんどもなんどもプールを往復しながら、この先どうするんだろう、とか進路のことも考えるし、気になる事とか、その……和泉のこととか……。
あんまり間が開いたせいか、和泉が俺を見て小首をかしげた。
俺は……和泉は高校でも水泳を続けると思っていなかった。
「短距離は、あっという間だから。なんにも考える暇がないからさ。飛び込んで、わーっっと泳いでタッチしたら終わり」
和泉はただでさえ競争の激しい自由形で、さらにエントリーが集中する短距離を泳いでいる。大会へ行くと、和泉はいつも小さな子どもたちの面倒を見ている。一緒にサブプールでアップをとったり、体を冷やさないように頭を拭いてあげたり、オヤツを食べ過ぎないように見ていたり。自分のことは二の次で。いつも笑って人の輪の中にいる。
でも、ひとたび自分のレースとなると別だ。レース前の召集所で、眉間にシワを寄せて難しい顔をしている和泉を何度も見てきた。
「がんばったけど、届かなかったなあ。久しぶりで予選最終組に入れたから、決勝行けると思ったんだけど。クリアできてたら、まだ『夏』が続いてたのに」
レースは予定調和の世界だ。遅い順に予選が組まれて、最終組で泳いだ連中がほんど決勝へ進む。ほとんど番狂わせのない、数字の世界。今回は波乱があった。最終組、一つ前のグループに飛びぬけて早い選手がいたのだ。中学から高校、一気にタイムを縮める奴がいる。おまけに他県からの転校してきた子で、ほとんどノーマークだった。
入学してから大会までのあいだ、和泉が授業中、眠気をこらえてノートをとっているのを後ろの席から見ていた。まえよりもさらに髪が茶色くなったのは、それだけプールに浸かっている時間が長かった証拠だ。ほかの女子が髪をつやつやさせて、先生に注意されながらもピンクのリップを塗って放課後にお喋りしたり買い物をしている間も、和泉は塩素焼けした短い髪と、カサつく唇には薬用リップを塗ってクラブに通っていたのを俺は知っている。
「秋冬シーズンでタイム縮める。コタツのゆーわくに負けないようにしないとな」
和泉の高校最初の夏は終わってしまった。大会を勝ちあがれば、いつまでも『夏シーズン』は終わらない。県大会からブロック大会、全国大会……。それが秋口まで続くのだ。でも、予選を通過できなければ終了なんだ。
「……和泉、大学でも……」
「水泳続けるか、って?」
和泉は手を後ろで組んで、目だけ動かして俺を見た。
「そんな大したことない選手だからね」
そのまま、スイムキャップとゴーグルをなんども持ち替えてしばらく口をつぐんだ。
胸がズキンとした。
「樋口みたいに、学校のフェンスに横断幕が飾られるような結果がだせたらな」
嫌味にしか聞こえてない! ちがうんだ、と言い訳するまえに、すとんっと和泉はしゃがんだ。
「決勝はいつもギリギリだし。出られても真ん中のコースでなんて泳いだことない」
予選レースを勝ち抜いて、決勝へ進めるのは上位九人だけ。俺みたいな長距離なら、予選ナシのタイムレースだけど、短距離にはたいがい予選がある。真ん中のコースは予選タイムの速い選手しか割り当てられない特別な場所だ。
「年下でも速い子は速いし。同じ練習メニューしているんだけどな」
水泳は個人競技だから、勝っても負けても全部自分もち。百分の一まで出されるタイムは一目瞭然、全国にいるライバルと常に争っている。そんなことが、ときどき息苦しくなる。
あーあ、と和泉は派手にため息をついて、それからちらっと俺を見て笑った。
「樋口は、続けるんでしょ?」
うん、とうなずきかけて俺は和泉のとなりに座った。
「て、いうか辞め時がわかんね」
もう水泳が好きなのかもどうかも分からなくなっている。この先も俺はずっと泳ぎ続けるんだろうか? 水泳で大学にはいって、水泳で会社にはいって?
そのあいだ、休むことなくずっと練習用の二十五メートルプールを気が遠くなるほど往復して。まるでハツカネズミの回す車みたいに、同じところだけぐるぐるまわる。海や湖がオープンウオーターなら、屋内プールは閉じた水、クローズウオーターか。その中で練習にあけくれて。コンマ二けたの数字まで気にして、気にして。終わりが見えない。
「ゼイタクだな」
俺の脛に軽くパンチをあてる。体育座りした膝のうえにアゴをのせた和泉が言う。
「あたし好きだな」
え!
ここで、いきなりの告白!? ばくんっと音を立てた胸を思わず押さえる。
お、俺も、と口走りそうになった。
「すーって、すいすいって水の抵抗なんかないみたいに泳ぐ」
……あ……俺の泳ぎのことね……。しゅん、と気持ちがへこんで背中から力が抜けて体が丸まっていく。
「選手じゃなくても泳げる。泳ぐの、好きだし。あたしは水泳、続けるよ」
毎日、毎日、クタクタになるまで練習していても、水泳が好きだといえる真っすぐな和泉が羨ましい。
まだ雨は降っているけど、雲が切れて細い日差しがプールを照らし始めた。
雨粒の丸い波紋がいくつも重なる。まだらにきらめく波のない水面。雷はもう聞こえない。
体がうずうずしてきた。和泉はキャップとゴーグルをかけると、ゴーグル越しにニヤリと笑った。
あ、こいつ!
陸上のスタートみたいに低い姿勢から走り出した和泉を追って、立ち上がりざまゴーグルをつける。ほんの数歩の助走。俺と和泉は並んでプールに飛び込んだ。
衝撃を逃がし、水の勢いを削がないよう腕をかき、ドルフィンキックを二回鋭く打つ。浮上するとそのまま一気に二十五だ。ここで終わりじゃないよな? 体を急回転させてクイックターン。わずかに遅れて和泉がターンするのが見える。
急げ、急げ! 短距離は和泉の得意種目だ。手加減なんかしない。和泉に失礼だ。顔を水につけるたび、視界の端にわずかに見える和泉の位置を確認する。短距離は何も考えない、なんて嘘だ。脳が超高速で体をコントロールする。腕の回転数をあげて、足は細かくビートを刻む。怠くなっていく筋肉に抗いながらゴールを目指す。体が、波のない水を切り開いていく感覚に脳が痺れる。
ざん、と壁にタッチして立ち上がりざまゴーグルを額にずらすと和泉がゴールした。
「負けた! くやしい!」
「四コースは譲ってやったんだぜ」
三コースで俺は余裕を見せた。まだ胸の鼓動はおさまらないけど。
ちぇっ、て上目遣いの和泉が鼻のうえまで水につかってブクブクと泡を立てた。
「こら―! カッパども! 勝手に飛び込むな!」
ブンちゃんが腕を振り上げてプールへ駆け寄ってくる。ひゃあ、なんて叫びながら俺たちは顔をあげたまま泳いでプールの真ん中に逃げる。
きゅうに空が晴れてきた。まるで天気雨みたいに雨粒の残りが降り注ぐプールに、みんなもてんでに入り始めてブンちゃん一人じゃ収集がつかない。みんな小学生に戻ったみたいに、水の中ではしゃいでいる。
ああ、俺、泳ぐの好きだ。
水をかけあって笑いあうクラスメイトをすり抜けて和泉が平泳ぎで、やってきた。
「あたしさ、コーチになりたい。ちっちゃい子に泳ぐの楽しいよって教えたい」
和泉が小さな声で話しかけてきた。目があうと照れくさそうに笑った。
「それに……速く泳げない子の気持ちもわかるしね」
俺はうなずいて応えた。いいコーチになれそうだよ、和泉なら。
クラスメートがみんな思い思いに泳ぐ音と、メガホンでやっきになって叫ぶブンちゃんの声が、校舎の壁に反響する。
「俺も続けてみる」
和泉が三コースに移ってきて、水に誘われるように泳ぎ出す。
仰向けになって浮かんだ俺の顔に、雨粒がぶつかる。
夏のプールと空がつながっている。
1500mの通称「せんご」
すらーっっとした選手が多いです。
樋口はさっさと進路きめたほうがいいよ。