1
「ん…………」
訪れた目覚めたに、宿のベッドの上で横になっていたウルシクロは瞼を持ち上げた。しかしその姿は馬のものではなく、黒い髪と褐色の肌を持ち合わせた、いとけない少女のそれだ。
心地よいまどろみの中で、もう朝か、と思考が巡る。
部屋の中はまだ薄暗い。カーテンの隙間から射してくる細い光を見るに、ずいぶんと早い時間に目が覚めてしまったようだった。
このまま起きるか、また、眠りの世界へ引き返すか。
目を再び閉じて迷うウルシクロだったが、さっきからなにやら、柔らかい感触が体の右半分にまとわり付いていることに気づく。
なんだろう、と顔を右へ傾ける。
すぐそこに銀髪の女の寝顔があった。
エリアスだ。
「…………」
首に回された腕。太股に絡み付いている脚。押し当たる、薄い胸。
ウルシクロが、自分の体が主の抱き枕として使われていることを察するのに、そう時間はかからなかった。
「ふ、ふふふ。やっと、みつけ、…………」
エリアスがだらしのない顔で笑う。幸せな夢でも見ているのだろうか。
それを見たウルシクロはため息をついて。
「…………こっちの気も知らないで」
エリアスの眉間に、デコピンをお見舞いした。
「起きて、ご主人。朝だよ」
◆
宿の一階を大衆食堂として開放している『歌うつぐみ亭』の朝は騒々しい。
本日も朝から客の入りは上々。広いフロアに整列した木製の円卓は既に満席で、多種多様な装いをしたひとらが思い思いに食事を楽しんでいる。
「クロよ」
「どうしたの、ご主人」
「その皿を取ってくれないか」
「このハムをスライスしたやつ?」
「うむ、すまんな」
「いいえ」
宿の外まで届くうるさいくらいの活気が満ち溢れる中、食事をしながらそんなやり取りを交わしているのは、デュラハンの女、エリアスと、夢馬の少女、ウルシクロ。
れっきとした魔族である彼女らだが、その姿かたちや振る舞いはどこからどう見ても人間のそれ。
魔族の中でもかなりの上位に位置し、高い知能を誇るふたりに取って、こうしてひとの姿に化けるのは実に容易いことである。
「ご主人」
「どうした、クロ」
「そこのお皿取って」
「む、この野菜の盛り合わせか」
「うん、ありがと」
「うむ」
それから食事を終えたふたりは、宿を後にする。
街へと出たすぐそこは都市『アコード』の中央広場。広場の中心に設置された巨大な噴水から迸るしぶきが、朝の陽射しを浴びてきらきらとした輝きを放っていた。
『アコード』の広大な土地を走る幅広の主要道路は、路面の真ん中を馬車用の通路としており、歩行者は路面の両端を使用する。エリアスとウルシクロのふたりもその交通規則に従い、往来を行き交うひとらの波に乗って歩いた。
「ところで、今日はどうするのさ、ご主人」
エリアスの斜め後ろを歩きながら、ウルシクロが問いかける。魔界からはるばる人間界へとやってきたのは、エリアスの伴侶に足る人間を探すためだ。
『アコード』を訪れてからはや19日。腕の立つ猛者の情報を街の人間からの聞き込みだけで収集してきたが、流石に得られる情報に限りが出てきたところだった。
「うむ、酒場へ行こうと思う」
「酒場……、なんでまた?」
「これは宿の主人から聞いた話なのだが、この街の酒場とは酒を提供するだけの場にあらず。
時に情報交換の場として、時に冒険の仲間を募る場として、時に賞金首の情報を開示する場として……。
とにかく、様々な用途で用いられるそうだ」
「ふうん? つまり、そこなら、今までよりもっと豊富な情報が転がっているかもしれない……ってこと?」
その通り、とエリアスは頷く。
「名の知られておらん、隠れた強者が見つかることだってあるかもしれん。……見ろ、酒場が見えてきたぞお」
エリアスの語尾が跳ね上がった。高まる期待に抑えがきかないのだろう。
エリアスの視線の先を追いかけると、道沿いに、遠目にも中々の大きさだと分かる建物が見えた。看板には酒瓶が×字状に交差している絵が描かれている。
「ふふふ。今日にも我が伴侶が見つかるのかもしれんと思うと、笑いが溢れてしまうな」
「そんな上手いこといくかなあ……」
ご機嫌なエリアスと、険しい表情のウルシクロのふたりはやがて酒場の前に到着する。
そして扉を手で押し開けようとして、やめた。
顔を見合わせる。
「なにやら」
「うん、揉めてるみたいだね」
扉の向こうからくぐもった罵声が聞こえてくる。
もしも中でいさかいが起きているのだとしたら、このまま酒場に入るのは得策ではない。いらぬ面倒を背負いかねない。
ふたりは頷きあい、エリアスが酒場のドアを僅かに開ける。
顔を寄せ合って中を覗き込むと、ひとが殴り飛ばされていた。
「おお?」
扉一枚を隔てた先に広がる物騒な光景に、目を丸くするエリアス。
金髪の剣士風の男に顔面を殴られたその男は、ふたりの目の前でテーブルやイスを巻き込みながら、盛大に床へと倒れ込んだ。
「死んだんじゃねーのか」
「すげー音したぜ」
広い店内には、物騒なふたりを囲むようにして野次馬の輪が形成されており、暴力が行使される様を酒の肴にしていた。吹き抜けになった二階にも人影が見える。
奥に見えるカウンターに立つ若い男店主はといえば、我関せず、とばかりに、目もくれずグラスを拭いている。
あれ、とウルシクロは金髪の男に注目した。
(あれはたしか、この間の──)
「──いてて……。いきなり殴るなんて、ひどいなあ」
殴られた男は、倒れたイスを手で退けながらゆっくりと上体を起こすと、分厚い眼鏡を、手袋をした手で持ち上げた。
小柄な体型をすっぽりと覆う土色の外套姿。後ろで一纏めにした、プラチナブロンドの長い髪。そしてなによりも目立つのは、その尖った耳。
──人間界には亜人と呼ばれる種族がいる。ひとの姿をしていながら、人間にあらざる者達。
代表的なものに、ドワーフや……渦中の人物である耳の尖った男──エルフが挙げられる。
「それに料理もほら、台無しじゃないか」
テーブルを倒した拍子に料理の皿がひっくり返ったのか、エルフの外套や髪にべっとりとチーズが付着している。
腫らした頬を手で抑えるその顔に浮かぶのは、困ったような笑み。たったいま、殴られたばかりだと言うのに。
そしてその笑みこそが、金髪の男の憤りを増長させていることに、果たして気付いているのか。
「黙れ、この耳長め」
「ちょっと肩がぶつかっただけじゃないか。なにも殴らなくたって……」
「……いいか、私は貴様ら人間もどきが大嫌いだ。視界に入っただけでも虫酸が走る」
低く押し殺すような声でそう言った金髪の男は、腰に差した二振りの剣から、その片方を抜き放った。鋭い片刃が店内の明かりをぎらりと反射する。
「"双燕"のやつ、えれぇ機嫌わりィな」
「ほれ、この間、噂の首無し鎧に負けたからよ」
夢馬であるウルシクロの聴覚が、そんな野次馬の囁きを明確に捉えた。
そして「ああやっぱり」と呟きながら得心のいったような表情を浮かべる。
"双燕"と呼ばれている彼こそは、先日、エリアスとの決闘で惨敗を喫した双剣士に間違いなかった。
「ご主人、あのひと、あれだよ。この間のさ」
ウルシクロが小声でそう囁きかけると、エリアスははて、と小首を傾げる。
「なんだ、どこかで会ったか、あの色白細身美男子と」
「……ご主人と決闘した人間じゃないか。あとそのルビ振りやめてよ」
「ふむ……?」
顎に手を当てて思案顔をするエリアスだが、しかしそのまま黙り込んでしまう。その視線は明らかに金髪の男とは別のところへと向けられている。
「ちょ、興味無くすのはやすぎ。あんなに泣くほど執着してたくせに、喉元過ぎたらこれだよ。まあ……」
(たぶんぼくも、あと数日もしたら忘れるだろうけど)
先日の威厳すら感じられた振る舞いとは打って変わって、いまの彼からは小者の臭いしかしない。
弱者にまったくの興味のないエリアスほどではないが、ウルシクロもまた、彼を見ても、もはや虫ケラを目にした時と同じような感慨しか湧いてこなかった。
「ちょちょちょ、そ、そんな物騒なもの抜かないでよ! しまって、しまって!」
エルフは困ったような笑みを崩さぬまま、両手を突き出して金髪の男を鎮めようとする。が、この状況では火に油を注ぐも同然だ。
金髪の男の目に、妖しい光が宿る。
「"肩がぶつかっただけ"? この私に取っては、それすらも死罪に値するのだ」
金髪の男が剣を振り上げる。
エルフが「そんなあ」と笑みをひきつらせて後ずさる。
斬る。
その、直前。
「おい」「え、ちょ、ご主人っ」
ウルシクロの制止にも取り合わず、エリアスがばあん、と酒場の扉を開け放った。そしてずかずかと足を踏み入れ、いさかいの中心人物である、金髪の男とエルフの側へと立つ。
酒場じゅうの視線が一気にエリアスとウルシクロへと集まる。直後にざわめきが起こった。
「女だ」
「べっぴんさんじゃねえか」
「胸ねえな」
「あっちの小せえのもなかなか……」
「胸でけえな」
そんな野次馬どもの声を無視し、エリアスはエルフの腫れた顔を見下ろした。エルフも、「……へ?」と呆けた声を出しながら、エリアスと視線を合わせる。
「これはこれは」
振り上げた剣を降ろし、金髪の男は取り繕うようにしてエリアスへと微笑む。
「なにかご用でも……ああ、いけないな、お嬢さん。そんな薄汚い人間もどきを視界に収めるなんて、その美しい瞳が汚れ」
「貴様、こいつより強いだろう。なぜやり返さん」
金髪の男の言葉など聞こえていないかのように、エルフへと手を差し出すエリアス。野次馬がどよめき、金髪の男の笑みがひきつった。ウルシクロも、驚いたようにエリアスの横顔を見ている。
「や、やだなあ、お姉さん。おれは見ての通り、争い事とは無縁な薄汚いエルフで……」
「嘘だな」エルフの言葉を切って捨てる。「貴様がその気になれば、こいつを捻り潰すことなど造作もないだろう」
「はは、またまた、面白い冗談を……」
「あくまでシラを切り通すか? 面白いな」
「私を無視して話を進めるんじゃない!」
ふたりの会話の途中で、金髪の男が、我慢の限界とばかりに手近のテーブルを剣で薙ぎ倒した。
鬼の形相でエリアスとエルフを睨み付け、剣を握るその手は怒りで小刻みに震えている。
エリアスは視線だけを金髪の男へとくれてやり、エルフはよりいっそう慌て始める。
「そ、その、その薄汚い人間もどきが、わた、わ、私、より、強いだと……?
この "双燕"もずいぶんと侮られたものだなあ!?」
真っ赤な顔をして思いきり剣を振りかぶる金髪の男は、エリアスの白く細い首筋に狙いを定めている。
女? 知ったことか。ここまでの侮辱は初めてだ。この耳長ともども、首を跳ねてやらねば気が済まない。
「……………………あ?」
しかし、どうしたことか。
振りかぶった剣が、否、腕が動かない。ゆび一本たりとも動かせない。まるで、肉体が脳の命令に逆らっているかのように。
怒りに震えていたはずだった。しかし今、エリアスの赤い瞳に睨まれている、この、今。
震えは、怒りとはまったく別のところから来ていた。
氷点下に晒されたように寒い。なのに、全身から止めどなく汗があふれでてくる。
「力の差もわからないのか」
「え、あ」
エリアスの冷たい声が。鋭い目が。そして今この瞬間にも発せられている、空間をねじ曲げそうなほどの強烈な剣気が、金髪の男から一切の自由を奪う。
彼が明確な死のイメージを脳裏に思い浮かべ、それとほぼ同時に。
「わあーどうもすいまっせえーん! お騒がせしちゃってえー!」
わざとらしい声をあげながら、ウルシクロがエリアスの腕を取る。体当たりでもするかのような勢いで。
「わたしたち田舎から出てきたばっかりで都会の作法とかなにも知らなくてえー」
「おいクロ、貴様なにを言って……いたい!?」
「よくわかんないけど多分興醒めさせちゃいましたよね? も、ほんとすいませんでした、すぐ消えますんでっ」
口を挟もうとするエリアスの脛を蹴り上げ、ウルシクロはさらに捲し立る。そしていまだ痛がっているエリアスの腕を引っ張り、ついでにエルフの首根っこも捕まえる。
「え? ちょ、まって……」
「いいから!」
「ぐえっ!?」
有無も言わさずエルフの体を腕一本で引き摺り、怒濤の勢いでそのまま酒場のドアを潜り抜けていった。
しん、と酒場が静寂に包まれる。あっという間の出来事に、だれもかれもが言葉を見つけられずにいた。
「はっ……はぁっ……」
顔面蒼白になって金髪の男が酒場の床に膝を着いた。息も絶え絶えで、手から取り落とされた剣がからぁん、と音を立てる。
かつてなく強い鼓動の弾みを感じながら、大きく俯いた彼は歯を噛み締める。
「いまの、剣気……そして、声……」
限界まで見開いた目。
そこには、凶暴な"悪意"が宿っていた。
「あいつだ」




