プロローグ
北西の遠くに連なる山岳と、東の方角に見える都市『アコード』の城壁以外には、視界を遮る物のない広大な更地の街道に、剣戟の音が高く響く。
一度、二度、三度。
そして四度目に空気を震わせたのは、剣戟ではなく破砕の音。
「ひいっ!!」
両手に握っていた二つの剣の刀身を砕かれた金髪の男は、地面に尻からへたり込み、自らの前に立つ異形の存在を見上げた。
時刻は草木も眠る深夜。空には月の明かりが爛々と輝いており、その異形──首のない、鎧の姿を夜の闇に照らし出している。
鎧の後方には漆黒の毛並みを持つ巨大な馬が控え、今しがた行われていた剣闘の決着を静かに見守っていた。
──デュラハン。
死期の近付いた人間の前に魔界の馬を駆って現れ、その命を刈り取っていく存在だと言い伝えられている。
「鎧も帯びず、華麗に操る二つの剣は、空を舞う鳥の如く……その技から"双燕"の異名を冠する名剣士だと聞き及んでいたが……」
鎧が声を発する。残響を帯びた女の声だ。
そして、人の身の丈ほどもある長大かつ肉厚の大剣を片手で軽々と振るってみせた。剣圧は強い風を生み、かちかちと歯を鳴らしている男の端正な顔をぐにゃりと歪ませる。
「我が剣の前には、児戯も同然か」
「た、たすっ、たすけてくれえっ!!」
恐れが限界を越えたか、顔を庇うようにして両手を交差させて男は懇願する。
「……剣士としての誇りを捨て、生き永らえることに執着するか」
失望したように鎧はため息をついた。
大剣の柄を握り締める手に凄まじい握力が込められる。ぎし、と指先までを覆う小手が軋んだ。
「憤っ!!!!」
男の優れた動体視力は、これまであらゆる刃を彼の体から遠ざけてきた。
しかしその彼の目をして、鎧が振り上げた大剣の一閃は、到底捉えられる速度ではなかった。
「あ……ああ……」
気付けば大剣の切っ先は男の真横へ振り下ろされ、地面の僅か数センチ上でぴたりと制止している。
いったいどれほどの剛力が込められていたのか……今さらになって斬られたことを世界が思い出したかのように、地面に深い裂け目が走った。
刃は、地面に触れもしていないのに。
「命だけは助けてやろう。……どこへでも失せるがいい、人間」
そう吐き捨てるように言いながら大剣を肩へ担ぎ直し、鎧は男に踵を返す。
「……ひ、ひぃいっ、ひいあああああああ!」
そこでようやく男は我に返り、ほうほうのていでその場を走り去っていった。
……やがて男の悲鳴が聞こえなくなったころ、途方に暮れたように鎧の姿勢が前傾する。
首がないのでわかりにくいが、項垂れているようだ。
「また外れを引いたねえ、ご主人」
不意に、鎧の背に少女の声がかかった。
鎧が声の主へと振り返る──戦闘に巻き込まれぬよう控えさせていた、自らが使役している魔馬へと。
そう、馬が喋っているのだ。
「ちょっとは期待できると思ったんだけどなあ。ま、やっぱり人間じゃあご主人には敵わないってことだよ」
判っていたことだと言わんばかりの態度を取る馬に、それまで鎧が纏っていた気配が一変し、ぼふん、と全身が煙に包まれる。
再び煙が晴れたそこに居たのは、首無し鎧ではない。月明かりに煌めく銀髪と、血のごとくに真っ赤な瞳を併せ持った長身の美女だ。凹凸に乏しい細身の肢体に黒い布服を纏った彼女は、唐突にじたんだを踏み始めた。
「もおおおおおお! なんだよおおおおお!! あああああんもおおおおお!!!」
喚く声は紛れもなく鎧のもの。しかし先程までの厳かな声音と雰囲気はいったいどこへやら。どったばったと革靴で地面を何度も踏みつけ、思いきり声を裏返らせる。
「強そうだったのに! さっきのひとすごい強そうだったのに!!」
くそったれえ!!、と、思いきり地面に投げつけられた大剣が、ぐわあんと大きな音を立てて跳ねた。永い年月を共にしてきた相棒とも呼べる一振りなのだが、そんなことはお構い無しだ。
そんな女の様子を見て、馬はやれやれとかぶりを振るう。
「枕元に立って決闘を申し込んだ時は『恐れを知らぬ妖魔め。我が双剣が、これまでどれほどの魔を斬り裂いてきたか知らぬようだな』とか言ってたのにねえ~、すごいキメ顔で」
「あのせりふには痺れたっ……心躍ったっ……」
「此処へやって来たときなんかも、『よくぞ逃げ出さずにいた。その馬は貴様の亡骸を乗せ、墓穴へ連れて行かせるために用意したものか?』とか言ってさ、なんか剣をくるくる回し初めて」
「わたしあれ出来ないっ……不器用だからっ……」
地面に膝をつき、振り上げたこぶしを地面に叩きつける女。その目からはぼろぼろと涙が零れている。
へっ、と馬は虚仮にするようなため息をついて、さらに言葉を続けた。
「なのに、ご主人が小手調べにかるぅく何度か剣を振っただけで、もう決着。ギャグかと思ったよ」
「うう……うううう……ぜったい、ぜったい今回こそはいけるって思ったんだぁ……」
「もおー、泣かないの、ご主人。誇り高きデュラハンなんでしょ」
「うう、ふぐぅっ……クロぉ……ウルシクロぉ……」
「うわあ、本気の泣きだ……」
クロと呼ばれた馬が若干引きつつも女の肩に頭を擦り寄せる。夢馬たる己を使役するこの女──エリアス・イーサーは、たまにこうして精神年齢がマイナス500歳くらいは退行する。
何百年も剣ばかり振って生きてきたせいか、闘争の埒外のこととなるとメンタルが極端に軟化してしまうのだ。
「そもそも無理があるんだって。自らを打ち負かすことのできる、伴侶となるに相応しい雄を…………人間界で探すのはさ」
◆
時は少し遡る。
「クロ、人間界へ行くぞ」
エリアス邸の結界を掻い潜って忍び込んでいた悪戯妖精を庭で捕らえ、魔術でボールに変えて遊んでいるクロのところへやってきた鎧──エリアスは、開口一番にそう言った。
「いや、駄目だよ。あなた領主でしょ」
そうは問屋が卸さない、とばかりに即答するクロ。
エリアスはその剣の腕を魔王に買われ、魔界の一角の統治を担わされていた。余程の事情がない限り、領地を勝手に脱け出すような真似は許されない。
例え、執務はすべて有能な秘書と部下が処理してくれるお陰で屋敷内ニートと化し、仕事と言えば屋敷でふんぞり返るか他種族と揉めた際の武力行使ぐらいしか無いお飾り領主とはいえ、領主は領主なのだ。そこに居るだけでもイチモツを腹に抱えた他種族への牽制・抑止力にもなる。
「だいたい、なにをしにいくのさ」
「我が伴侶を探しにだ」
「…………」
「我が伴侶」
「聞こえなかったわけじゃないよ。なんなの、どうしたの急に」
「急にではない。クロも知っているだろう、わたしがかつてより『行き遅れ』と呼ばれていることを」
エリアスは魔界に産まれ落ちてからの生涯を、死者の魂の収穫と、剣を振るうことだけに費やしてきた。浮いた話など鎧を逆さに振っても出てくるはずがない。
そんな彼女のことを友人既婚者らは口を揃えて『行き遅れ』とからかっていたのだった。
「でも、全然堪えてなかったじゃん。『わたしには剣がある。それに、生涯独身を誓い合った同志もいる』って」
「その同志が裏切ったんだよ!」
「ぴいいいいいいいいいいっ!?」
くそったれえ!!、と足元にボール状態で転がる悪戯妖精を思いきり蹴りあげるエリアス。悲鳴をあげながら屋敷の外壁を越えて彼方の空へすっ飛んでいく悪戯妖精を他所に、彼女の憤りの吐露は続く。
「ハーベストのやつ、わたしに内緒で娼館に通い詰めっ……! 年端もいかぬインキュバスの身請け人となり……っ! そのままゴールインっ……!!」
「あー……あの死神、『エリアスがつがいを得るまではあたしも純潔を守るからね』とか言ってたのにね」
死神はデュラハンと同じく、死期の訪れた人間の前に現れて魂を刈り取っていく存在である。
中でもハーベストと呼ばれる個体は、幼い少女の見た目に反したパワー特化型。死神から逃れようとしたり、返り討ちにしようとする人間を、物理的な力で捩じ伏せる猛者だ。
加えてエリアスの剣にも引けを取らないほどの鎌の使い手で、「どちらがより優れた魂の収穫者か」という種族間抗争で互角の殺し合いをしたのを切っ掛けに、今では親友と呼べるほどの仲となっていた。その関係にも亀裂が入りそうではあるが。
「しかも、ゴールインしたことすらもずっと隠し続けていたのだ。さぞや愉快だったろうなあ~、そうとは知らず『独身だからなんだというのだ』と強がるわたしのことを、『独りじゃ自己を保てないんだよ、既婚者はさ』と表向きは同調しつつも内心でせせら笑うのは。両者の間で圧倒的な優劣の差がついているにも関わらず、あえてそれを露にしないことで得られる愉悦……わたしも味わってみたいもんだなあ~」
わなわなと怒りやらなんやらで震えるエリアス。全身からどす黒い負のオーラが噴き出ているのが見える。
「卑屈になり過ぎだよ。少し落ち着いた方が」
「これが落ち着いていられるか! わたしは決めたのだ。伴侶と愛を交わしあう幸せな日々を送ってみせると。抵抗するなら、引き摺ってでも連れていくぞ!」
「ええ……」
主人の唐突さと横暴さにクロは頭が痛くなる。
行かせるわけにはいかない。かといって、屋敷の全員でかかっても、魔界全土に於いて"剣魔"と怖れられているエリアスはとてもじゃないが止められない。下手に制止しようものなら抵抗の余波で屋敷を壊されかねない。エリアスの確かな実力が、今この時は死ぬほど疎ましかった。
「……わかった、わかったよ」
断腸の思いで、首を縦に振る。
「おお、着いて来てくれるか!」
「ただし、力の何割かはここに置いていって貰うよ。昔の駆け出しデュラハンだったころとは違って、今のご主人の力は強大過ぎて、人間界と魔界の間に貼られた界龍の結界に阻まれてしまうからね。たぶん、8割は置いていくことになると思う」
「伴侶を得るためだ、構うものか。さあて、準備をせねばな。ふふっ……」
「…………ご主人の姿を模した影武者を屋敷に置いて…………余計な野心を生まない程度にご主人の力を注いで…………定期的に魔界との連絡を取るようにして…………ああ、結界監理局にも話をつけないと…………屋敷のみんなにはなんて説明しよう…………」
◆
再び現在。
「敗れた相手のつがいになるっていうのはまだいいよ。強きものに従え……決して揺るがないデュラハンの掟だ。でも魔界にいた時ですら、黒星なんて魔王様を筆頭に数えるくらいしかつけられてないじゃん」
「…………」
落ち着きを取り戻したというか、意気消沈したというか。
地面の上で三角座りをして無言を貫いているエリアスに、なおもクロは本人にとって耳に痛いであろう言葉を続ける。
渋々着いてきたものの、人間界への降臨に賛同したわけではない。むしろ、今すぐにでも連れて帰りたいのが本音だ。こうした説得で連れて帰れるならば、それに越したことはない。
「ご主人を打ち負かすのがいったいどれだけ困難なことか……。今は2割の力しか発揮できないとはいえ、人間がそれを為せるとはとても思えないよ」
「…………」
「どうしても人間じゃなきゃいけない理由でもあるの?」
「……だって」
「だって?」
「……人間の造形は美しいじゃないか」
魔族は一部の例外を除き、誇り高きを美徳している。
魔界の一角を統治し、相対すれば悪魔ですらも涙を流すと言われた"剣魔"エリアス・イーサーが、こうも人間に執着する理由がその造形に心奪われたからなどとあっては、ましてやその事実が魔界に知れ渡ったならば、各方面からの非難は免れないだろう。沽券に関わるどころの話ではない。
「……………………ん?」
さすがになにかの聞き違いだろうとクロはわざとらしく小首をかしげた。
エリアスは至って真面目な顔でこう続ける。
「特にさっきのひとのような色白細身美男子なんて神の奇跡にも等しい存在だ。神様万歳」
「うわー聞き違いじゃ無かったのか。あと魔界全土を敵に回すような発言やめてよほんと」
「おっとつい口が滑った。まあ、魔界にもそういった者はいるにはいるが……。魔界でわたしが敵わぬ相手といえば、その、あれだろう。みんな、ゴツいだろう」
「えーと、リヴァイアサン、ベヘモス、タイタン……ああ、そうだね。ゴツいというか、サイズ差あるよね。少なくとも20倍以上」
「わたしが伴侶に求める要素を持ち、なおかつ、わたしを倒せる者は魔界にはおらんのだ。なら、魔界の外に出るしかないだろう」
「それはそうかもしれないけど。…………!」
ここでクロは気付く。
この行き遅れは人間界で伴侶と巡り合わない限り、どうあっても魔界に戻るつもりはないと言う。しかしこの行き遅れの強さはほんとうに確かなものであり、これを単独で真っ向から打ち倒せる人間が現れるまでに、いったい、どれほどの時間がかかるのか?
そもそもほんとうにそんな人間が現れるのか?
仮に現れたとして、その人間の器量が優れたものでなければどうするのか? ノーカン?
下手をすると永遠に人間界をさ迷うことになるのではないか?
そこまで考えが至り、ぞっとした。
「…………おい、聞いているのか、クロ」
ぺしぺし、と鼻のところを叩いてくるエリアスを青ざめた顔で見下ろしながら、クロは心の中で強く祈った。
神様、助けてください。
プロローグ 了




