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祈りしか能のない修道女ですが、神様が働きすぎて王国が困っています

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/01/12

祈りは、何かを起こすためのものだと考えられがちです。


奇跡を願い、救いを求め、状況を変えるための力――

物語の中でも、祈りはしばしば「発動条件」として扱われます。


けれど現実では、祈ったからといって

目の前で光が降ることは、ほとんどありません。


それでも人は祈ります。

なぜなら祈りは、結果ではなく、続ける行為だからです。


この短編は、

「祈ることしかできない修道女」が主人公です。

魔法も奇跡も起こせません。

誰かを論破することも、制度を壊すこともありません。

彼女がしているのは、

ただ、祈ることを仕事として続けることだけです。


もし祈りが、

世界を動かすスイッチだったとしたら。

もしそのスイッチが、

押されすぎて壊れかけていたとしたら。

これは、

奇跡を起こさないことで世界を救っていた人と、

働きすぎていた神様と、

それに気づいてしまった制度の話です。

修道院は、王国の地図の端に、忘れ物のように置かれていた。


街道から外れ、丘を二つ越え、最後に低い森を抜ける。白い壁の礼拝堂が見えたところで、ようやく「人の住む場所」に辿り着く。王都の石畳のきらめきも、神殿の鐘の重さも、ここには届かない。あるのは、風の音と、乾いた土の匂いと、冬が近いことを告げる朝の冷えだけだ。


朝の鐘が鳴ると、修道女たちはそれぞれの仕事に散った。


台所では粥を煮る音がして、菜園では凍りかけた土を掘り返す音がする。薬草干し場では、束ねた茎を揺らす風が鳴る。来客は少ない。旅人が道に迷ったときと、村の誰かが「祈ってほしい」と思い出したときだけ。


祈ってほしい、と言われることは多くない。


この修道院で、祈りを主に担当している修道女がいる――という噂は周辺の村にもある。けれど、その噂は「頼りになる」という温度ではなく、「いると雰囲気が落ち着く」程度の温度で広がっていた。


慰め係。象徴要員。


その言葉は口に出されないが、空気の形として存在している。


エリシアは、祈祷室の窓を開けた。朝の空気が薄く入り込み、燭台の煤の匂いを押し流す。掃除をして、芯を整えて、跪く。


「今日も、おはようございます」


誰に向けた挨拶かは、自分でも決めていない。神に、祈祷室に染みた祈りの歴史に、あるいは“これから仕事を始める自分”に。どれでもいい。祈りは、始めることが大切で、理由は後から付いてくる。


神の名を唱え、王国の平穏を願う。畑に水が行き渡ることを願い、子どもが病で苦しまないことを願い、争いが大きくならないことを願う。


祈りは、魔法ではない。呪文でもない。


祈った瞬間に光が降るような奇跡が起きるわけではない。だから多くの人は、祈りを“気持ち”として扱う。つらいときに寄りかかる椅子。決意を固めるための合図。罪悪感を薄めるための儀式。


それでいい、とエリシアは思っていた。


祈りは、仕事なのだから。


仕事は、派手でなくていい。結果は、誰かが勝手に受け取ってくれればいい。


祈り終えると、彼女は祈祷室の記録帳を開き、淡々と書き付けた。


《朝。空気が乾いている。丘向こうの村が乾いている気がした。祈った。》


「気がした」という表現は曖昧だが、彼女にとっては十分だった。祈りの理由は、説明できないことが多い。説明できないから、仕事ができないわけではない。


台所に戻ると、年長の修道女が粥をよそいながら言った。


「また朝から祈ってたのね」


「はい」


「あなた、疲れない?」


「疲れます。でも、畑仕事も疲れますから」


年長の修道女は、少しだけ困ったように笑った。そこに悪意はない。ただ、理解の届かないものを扱うときの表情だ。


「祈りはね、心のためにあるのよ。仕事みたいに言うものじゃない」


「でも、私にできるのは祈ることだけです。できることをするのは、仕事だと思うんです」


年長の修道女は、反論を飲み込んだ。優しい人は、相手の言葉を否定しきれない。否定しない代わりに、別の形で棚に置く。


――この子は、そういう子。


それが、エリシアの置かれ方だった。


その日の午後、丘向こうの村に雨が降った。


雲ひとつない空に、わざわざ集まってきたような雲ができ、短い時間だけ降って消えた。干上がりかけていた井戸の底に、冷たい水が溜まった。


村の男が、翌日、修道院へ礼を言いに来た。


「助かったよ。もう少しで、家畜が参ってた。いや、ほんとに」


彼は帽子を胸に当てて頭を下げ、献金として小銭を置いた。額は大きくない。だが、生活の苦しさを知っている人の小銭は重い。


年長の修道女が受け取りながら言った。


「偶然よ。天気は神のみぞ知る。祈ったから降ったなんて思い上がりだわ」


「そりゃ、そうかもな」


男は笑った。笑いながら、ふと視線を祈祷室の方へ向けた。「でも、あんたらの祈りがあると、なぜか……な。うまく言えねぇけど」


「うまく言えないなら、言わなくていいですよ」


エリシアが言うと、男は肩の力を抜いた。「そうだな。言葉にすると、軽くなる気がする」


男が帰ったあと、修道院の中に妙な沈黙が落ちた。誰も「祈りのおかげ」とは言わない。それは思い上がりだ。でも、何かが“ずれている”という感覚だけは、皆の中に残った。


数日後、隣の村で腹の病が流行しかけた。


治療師が眉をしかめ、家々を回る足が速くなった。子どもの顔が青白くなり、母親が泣きそうな声で薬を求める。修道院の薬草は役に立つ。だが、本来なら、薬草の在庫が尽きるほど患者が出るはずだった。


その日、エリシアは祈祷室で、いつもより長く祈った。


《夕方。治療師の声が硬い。流行の兆しを感じた。祈った。》


翌日、病は広がらなかった。


治療師は首を傾げた。「妙だね。あの匂いがしたのに」


「匂い?」


「流行病の匂いさ。ひとつの家から始まるやつは、どこかで繋がる。止まることは、あまりない」


エリシアは、ただ頷いた。止まった理由を説明できない。説明できないからといって、祈るのをやめる理由もない。


祈りは、私の仕事ですから。


静かな日々が続くほど、修道院は平穏になる。平穏になるほど、祈りは“象徴”に追いやられる。必要とされない仕事は、評価されにくい。これはどこでも同じだ。


そして、その「必要とされなさ」を、制度は見逃さない。


秋の終わり、霜が降りた朝。修道院の門に、紺色の外套を着た男が立っていた。


外套の襟元はきっちり整い、手袋は上等そうで、靴底には王都の石畳の硬さが染み付いている。辺境の泥が似合わない人間だった。


「王都神殿、実務局のルドルフ・ケルンです。修道院長にお目にかかりたい」


門番役の修道女が慌てて走り、ほどなくして院長が現れた。院長は老いていたが背筋が伸び、客を見る目は祈りと生活の両方で鍛えられている。


「ようこそ。こんな辺境まで。何の御用ですか」


「帳簿の確認です」


男――ルドルフは鞄から封蝋付きの書状を取り出し、丁寧に差し出した。「神殿の祈願記録と、地方の献金・祈祷依頼の推移に関して。こちらの修道院の記録も対象です」


院長が封を切り、文字を追う。目元の皺が深くなる。


「……ずいぶん大げさな」


「大げさにしないと、分からないことがあるんです」


ルドルフの声は硬いが、怒っているわけではない。硬さは職業の癖だ。壊れそうなものに触るとき、力加減を誤らないための硬さ。


「最近、王国内で“神事が不要になっている”という報告が相次いでいます。雨乞いの儀礼が不発でも雨が降る。疫病除けの祈祷を依頼する前に流行が止まる。国境紛争が、神殿の仲裁式を行う前に収束する」


院長は眉を上げた。「それは、良いことでは?」


「良いことです。しかし、問題でもある」


ルドルフは言葉を続けた。「神殿の祈祷は、ただの儀礼ではありません。王国の統治機構の一部です。祈祷依頼は税と同じく“流れ”として管理されている。流れが変われば、制度が歪む」


院長が、淡々と言った。「あなたは、神に仕える者ではなく、数字に仕える者みたいですね」


刺ではなかった。観察だった。


ルドルフは否定しない。「数字は、世界の形を示します。形が歪んでいるなら、原因があります。原因が分からないまま放置すれば、いずれ破綻する」


「破綻、ですか」


「はい。こちらの修道院の周辺だけ、祈祷依頼が少なすぎる。にもかかわらず、災厄の発生率が下がっている。帳簿が矛盾しているんです」


修道女たちが互いに目を見合わせた。災厄発生率、という言葉がこの修道院には似合わない。災厄は災厄で、帳簿に乗せるものではない。だが王都では、乗っているらしい。


「調査のため、数日滞在させていただきます。祈祷室の記録、祈りの当番表、周辺村との関わり、献金の出入り。できれば、祈りを担当している方にも」


院長は一拍置いてから言った。


「祈りを担当しているのは、エリシアです」


ルドルフの視線が、修道女たちの列の端にいたエリシアへ向いた。


派手さはない。特別な装飾もない。あまりに普通で、調査対象としては肩透かしのような存在だ。


「あなたが?」


「はい」


エリシアは一礼した。


ルドルフは値踏みではなく、事実を探す目で見た。「祈りは、どのくらい?」


「朝と夕方。必要があれば、夜も」


「必要、というのは?」


「村で何かが起きたと聞いたら。あるいは、起きそうだと感じたら」


「感じたら、ですか」


「はい。理由は分かりません。けれど、祈るのは私の仕事ですから」


その言葉に、ルドルフの眉が微かに動いた。笑ったのでも、呆れたのでもない。違和感に触れた人間の反応だった。


「仕事、という言い方をする修道女は珍しい」


「祈るのも、畑を耕すのも、同じです。修道院を支える仕事です」


ルドルフは少し黙った。やがて言った。


「あなたの祈りの時間を、記録させてください」


「はい」


「加えて、あなたが祈った日と、周辺で起きた出来事を照合したい。日記は?」


「祈祷室のノートに書いています」


「それも」


院長が口を挟んだ。「祈りは私的なものです。神殿の監査といえど、踏み込みすぎでは?」


ルドルフは、そこで初めて声の角を落とした。「院長。踏み込みたいのではなく、止血したいんです。王都では神事の予定が崩れ始めている。現場が混乱し、責任の押し付け合いになりかけている。原因が分からないままでは、人が傷つきます」


院長はしばらく彼を見つめ、やがて頷いた。「分かりました。ただし、エリシアの尊厳を傷つけるような扱いは許しません」


「当然です」


その夜、エリシアは祈祷室で、いつもより長く祈った。


調査されることが怖いわけではない。自分が見られるのではなく、自分の仕事が“制度の目”で測られる。そのことが、静かに胸を締めつける。


でも、祈るのは仕事だ。仕事を疑われても、やめる理由にはならない。


祈り終える頃、燭の火が小さく揺れた。窓は閉まっている。風はない。それでも火だけが、まるで息をするように揺れ、すっと伸びた。


祈祷室の空気が、ほんの少しだけ“詰まる”感覚がした。


誰かが、そこに座ったような。


エリシアは、自然に口を開いた。


「……お疲れさまです」


返事はない。だが燭の火が、もう一度だけ揺れた。


まるで、「今は返せない」と言うみたいに。



---


ルドルフは、修道院の空き部屋を一つ借り、そこを臨時の実務室にした。


机は古く、脚の一本が少し短い。紙を広げると端がわずかに浮く。王都の実務局なら真っ直ぐな天板と引き出しの鍵が当たり前だが、ここでは“使える”が基準だ。彼は文句を言わず、机の下に薄い板を噛ませて水平を作った。そういうところに、彼の職業が滲む。


鞄から帳簿を出し、修道院の記録と並べる。片方は神殿の様式で、紙が厚く、字の列が均一で、項目の区切りが細かい。もう片方は修道院の手書きで、生活の匂いがする。献金、薬草、村人の名前、来訪理由。日々の積み重ねが、そのまま文字になっている。


二つは、本来なら混じらないはずだった。


だが、数字は容赦なく繋がっていた。


ルドルフはペン先で線を引き、日付と出来事を照合していく。雨乞いの儀礼が行われた日。疫病除けの祈祷が依頼された日。国境仲裁式の予定日。神殿側の“予定”と、“実施”と、“結果”が並ぶ。そして修道院側の祈りの記録が、その横に来る。


最初は偶然に見えた。次は偏りに見えた。三つ目から、整合に見えた。


「……おかしい」


彼は小さく呟いた。声を張ると、部屋の薄い壁を通して祈祷室に響きそうだった。修道院では声は控えめにする。ここでは声が祈りと干渉するように感じられる。


周辺村の災厄発生率が下がっている。祈祷依頼が減る。そこまでは自然だ。


だが減り方が異常だった。まるで、依頼が発生する前に、依頼の理由そのものが消えている。


災厄が起きない、ではない。災厄が起きるための条件が、先に崩されている。


「偶然にしては、綺麗すぎる」


綺麗すぎる偶然は、偶然ではない。会計の世界では、偶然はもっと汚い。端数が出る。抜けが出る。帳簿は現実の雑さをそのまま写すはずだ。それが、ここでは写っていない。


写っていないのではない。誰かが、現実の雑さを先回りして拭き取っている。


彼は、修道院の修道女に案内されて周辺村へ足を運んだ。丘を越え、畑の間の道を歩き、村の長や治療師に話を聞く。彼は聞き上手ではないが、質問が正確だった。正確な質問は、相手に「誤魔化せない」と思わせる。


「雨が降ったのは、いつですか」


「腹の病が止まったのは、どの時点ですか」


「国境の話を最初に聞いたのは、いつですか」


村人たちは、曖昧な記憶を掘り起こしながら答えた。


「雨? 霜が降りる前の週だ。井戸が干上がりかけてた」


「病? 広がる前に止まった。子どもが数人、もう……と思ったところで」


「国境? 商人が言ってた。兵が動く前に話がついたって」


どの話にも共通しているものがあった。誰も「奇跡だ」とは言わない。言えば神殿の領分になる。言えば余計な責任が生まれる。辺境の人々は、そういう“面倒”を嗅ぎ分ける嗅覚がある。


だから、口にするのは別の言葉だ。


「助かった」


「たまたま」


「運がよかった」


その言葉の下に、説明できない違和感が沈んでいる。


修道院へ戻ると、ルドルフは祈祷室のノートを見せてもらった。エリシアの字は丁寧で、淡々としていた。感情の起伏が字に出ない。祈りを“熱”で書く人間ではない。


《朝。空気が乾いている。丘向こうの村が乾いている気がした。祈った。》


《夕方。治療師の声が硬い。流行の兆しを感じた。祈った。》


《夜。商人が国境の話をした。嫌な沈黙が残った。祈った。》


原因が書かれていない。兆しだけが書かれている。そして、祈りだけがある。


ルドルフはページをめくる指を止めた。


「あなたは、何を見ているんですか」


部屋の隅に座っていたエリシアが顔を上げる。王都の実務官に見つめられても、怯えない。自分の価値を誇示もしない。いつもの穏やかな目だ。


「見ている、というより……聞いているのかもしれません」


「何を」


「困っている音、みたいなものを」


ルドルフは眉を寄せた。「……曖昧ですね」


「はい。だから、私は祈るだけです。自分で何かをする力はありませんから」


彼は、その言葉の“割り切り”に引っかかった。力がないと言い切る人間は、たいてい諦めているか、誰かに寄りかかっている。だが彼女は違う。諦めていない。寄りかかっていない。仕事として淡々と続けている。


「力がない、と言い切る割に、あなたの周りでは“力が働いている”」


「偶然かもしれません」


彼女は否定しない。肯定もしない。偶然、という言葉を盾にするわけでもない。彼女の中で、偶然は“説明の保留”に過ぎなかった。


「偶然では、帳簿がここまで整わない」


口にしてから、ルドルフは自分の言い方に気づいた。整う、という言葉は不適切だ。災厄が整うなど、誰も望まない。だが制度の人間は、ついそう言ってしまう。結果が予測可能になることを“整う”と言ってしまう。


エリシアは怒らなかった。ただ、確かめるように言った。


「帳簿が整うのは、困るんですか」


責めではない。問いだ。彼女は怒らない。復讐しない。相手を理解させようともしない。ただ、相手の言葉の意味を確認する。


ルドルフは息を吐いた。「困ります。神殿は“祈願が発生する世界”を前提に運用されている。発生しないなら、祈祷官の配置も、儀礼の準備も、献金の分配も、全部組み替えが必要になる」


「それは、働き方の問題ですね」


エリシアが言うと、ルドルフは一瞬言葉を失った。


働き方。辺境の修道女の口から、王都の実務官にとって一番現実的な言葉が投げられた。神事の神聖さではなく、運用の現実に触れる言葉。


「……あなたは祈りを仕事だと言った。私も今、神事を仕事として話している。そうですね。これは働き方の問題だ」


彼は初めて、エリシアを“象徴”ではなく“同業”として見た気がした。職種は違う。だが世界を回すための仕事の一部を担っている。


そして同業者として、彼は気づいてしまった。


「神が……働きすぎている」


その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が少しだけ冷えた。


祈祷室ではないのに、燭台の火がないのに、何かが見ている感覚がした。視線ではなく、存在の圧。心臓の裏を指で押されるような感覚。


ルドルフは喉を鳴らした。「失礼。言い方が……」


「いいえ」


エリシアは静かに首を振る。「私も、そう思うことがあります。祈るたびに、何かが少しだけ……無理をしているような」


彼女が“無理をしている”と言ったとき、ルドルフの背中に汗が滲んだ。神を無理に働かせる、という発想自体が禁忌に近い。だが、帳簿の矛盾は禁忌を越えて現実を突きつける。


「王都に報告します」


ルドルフはノートを閉じた。「あなたの祈りが原因だと断定はしません。ただ、関与している可能性が高い。そして、もし関与しているなら……」


「なら?」


「管理が必要です」


エリシアは、その言葉を受け止めた。管理。祈りを管理する。神を管理する。


荒唐無稽なのに、帳簿は荒唐無稽を許さない。制度は、現実の歪みを運用として取り込もうとする。


その日の夕方、ルドルフは修道院の机で報告書を書いた。文は簡潔で、余計な比喩を削ぎ落とす。削ぎ落とした結果、残る言葉が逆に重くなる。


――辺境修道院に、祈り担当者あり。祈りのタイミングと災厄回避が高相関。神事スケジュール崩壊の一因の可能性。調整が必要。


封蝋を押し、使者に渡す。


使者が門を出るとき、エリシアは祈祷室にいた。彼女は祈っていた。報告書の内容を知らないわけではない。聞いている。だが止めない。祈るのが仕事だからだ。


祈り終える頃、燭の火が揺れた。いつもより大きく、乱れるように。


エリシアは、祈祷室の静けさの中で、自然に言った。


「……すみません。私のせいですか」


返事はない。


だが、火が一度だけ、強く揺れた。否定の揺れではない。肯定の揺れでもない。


まるで、疲れた人間が笑って誤魔化すときの、短い息みたいな揺れ方だった。


エリシアは、その揺れを見て、胸の奥が少し痛んだ。


「休めるように、したいです」


それは祈りではなかった。願いとも違う。仕事としての宣言でもない。


ただ、誰かを休ませたいと思っただけだった。


その夜、ルドルフは旅支度を整えた。明日には王都へ戻る。彼が持ち帰るのは帳簿の矛盾ではない。


“神が疲れている”という、制度にとって最悪の事実だ。


そして、その最悪を引き起こしているかもしれないのが、祈りしか能のない修道女であるという、さらに厄介な現実だった。



---


王都の神殿は、遠目に見ても「制度の建物」だった。


石は白く、柱は太く、階段は高い。門をくぐれば人の流れがあり、声の流れがあり、紙の流れがある。祈りの場であるはずなのに、空気の匂いは役所に近い。焚香の甘さの下に、乾いたインクの匂いが重なっている。


ルドルフが戻った日、神殿の実務局は落ち着いていなかった。


廊下を挟んで机が並び、帳簿が開かれ、伝令が走り、祈祷官の控室から不機嫌な声が漏れる。誰も怒鳴ってはいないのに、神殿全体が「正しく回っていない」ときの軋みを出していた。


「また、キャンセルか」


実務官の一人が、申請書の束を持ってルドルフの机に置いた。紙の上には赤い印が連続して押されている。《取消》《取消》《延期》《取消》。


「地方からの祈祷依頼が減っているのは分かっていたが、ここまでとはな……」


別の実務官が、黒板に書かれた予定表を指で叩いた。雨乞いの儀礼が三件、疫病除けの祈祷が二件、国境仲裁式が一件。どれも「実施予定」だったのに、「不実施」になっている。


「儀礼をやらないなら、供物は余る。余ったら腐る。腐ったら責任はどこに行く」


「責任を押し付け合っている暇があったら、配分を組み替えろ」


「組み替える前に、前提が変わってるんだよ」


前提。制度が依って立つ土台。土台が揺れると、人はまず「誰のせいか」を探す。誰かのせいにできれば、土台が揺れた事実を見なくて済むからだ。


ルドルフは、自分の机に鞄を置き、報告書の写しを取り出した。辺境修道院で書いた文面は短い。それでも、これを読めば皆の空気が変わるのは分かっていた。


彼は、実務局長に呼ばれる前に、神事管理局へ向かった。


神事管理局は、神殿の中でも嫌われがちな部署だった。祈祷官からは「祈りに工程表を被せる連中」と思われ、実務官からは「現場に理想を押し付ける連中」と思われる。どちらからも好かれないかわりに、どちらにも必要とされる。


扉を叩くと、返事がすぐ返った。


「入って」


中は、書類の山だった。机の上も床の端も、紙の束が積まれている。だが、散らかっているわけではない。分類され、紐で括られ、札が付いている。混沌ではなく、過密だった。


神事管理官マレーネは、印章を片手に持ったまま顔を上げた。髪はきっちりまとめられ、目元には疲れがあるのに、背筋は崩れていない。疲れを見せる暇がない人間の姿勢だった。


「戻ったのね、ルドルフ。例の“不要”の件は?」


ルドルフは一礼し、報告書を差し出した。


「原因の可能性が濃い場所を見つけました。辺境の修道院です。祈り担当の修道女がいる」


マレーネは、紙を受け取った瞬間に印章を置き、読み始めた。彼女の目は速い。数字と文の両方を追える目だ。


読み終えたとき、眉間にしわが寄った。


「祈るだけで神が動く?」


「断定はできません。ただ、相関が高すぎる」


「高すぎる相関は、偶然じゃない」


マレーネは短く言い切った。そこには信仰の言葉はない。運用の言葉だけがある。


「彼女の祈りは、“段取り”を飛ばして直接神に触れている可能性がある。神殿が組んでいる工程管理を、彼女の祈りが横から抜いてしまう」


マレーネが、机の端に置かれた予定表を指で引き寄せた。そこには、祈祷官の稼働と儀礼の準備日程が細かく書かれている。祈りは神聖だが、現場は段取りで動く。段取りを否定したら、神殿は回らない。


「つまり……私たちの管理を無視して、神が勝手に働くスイッチが辺境に置いてある」


「そういう言い方になります」


ルドルフは言葉を濁さない。濁すと報告にならない。


マレーネは、指でこめかみを押さえた。「最悪ね」


「最悪です。ただ、本人に悪意はありません。祈りを仕事として淡々と続けている。自分の価値を主張しないし、誰かを論破もしない。だから周囲も“象徴”として置いていた」


マレーネは、紙を机に置いた。「静かな人ほど、制度を壊す。声が大きい敵より厄介よ。敵なら対策ができる。静かな善意は、対策しづらい」


ルドルフは頷いた。善意に罰を与える制度は、必ず破綻する。だが善意が制度を壊すなら、制度は善意を“壊さずに抱え込む”しかない。


「結論は?」


マレーネが訊いた。


ルドルフは、息を整えた。言葉にするだけで、神殿の空気が変わると分かっている。それでも言わなければならない。


「管理が必要です。祈りの時間制限。祈りの申請枠。……そして、神の休暇制度」


マレーネの手が止まった。机の上の紙も、空気も、瞬間だけ静止したように感じられた。


「神に休暇?」


「神が疲れている。現場感としてそうです。祈祷官の間でも、神託が短くなった、反応が鈍いという話が出ている」


「神は疲れない、という前提で王国は回っている」


「前提が崩れているなら、組み替えるしかありません」


マレーネは、目を閉じて、ほんの短い沈黙を置いた。祈っているようにも見えたが、たぶん違う。彼女は祈りではなく計算をしている。


「修道女を呼ぶ」


「王都へ?」


「ええ。正式に招待状を出す。神事管理局の会議に出席させる。内務側も呼ぶ。宗教の問題に見せかけて、運用の問題として処理する」


「反発が出ます」


「反発は私が受ける。帳簿の狂いより痛い反発はない」


マレーネの声は淡々としていた。淡々としているからこそ、覚悟が透けた。


その日のうちに、使者が辺境へ飛んだ。


王都神殿より、修道院の修道女エリシアを招待する。神事に関する相談のため、来訪を願う。旅費は神殿が負担する。身の安全は保証する。


丁寧な文面に、拒否の余地は薄い。制度は、いつも丁寧な顔をして人を動かす。



---


エリシアが王都に着いたのは、冬の入り口だった。


城壁の影が長く伸び、石畳が冷え切り、息が白くなる。修道院の土の道と違い、王都は足音がはっきり響く。自分が“ここにいる”という事実が、音になって返ってくる。


神殿の門をくぐると、案内役の僧が丁寧に頭を下げた。


「こちらへ。神事管理局がお待ちです」


エリシアは頷き、歩いた。視線が刺さる。修道女一人が王都の神殿を歩くのは珍しい。しかも“相談”という名目で呼ばれているとなれば、噂はすぐに巡る。


――辺境の修道女が、神殿の仕事を狂わせている。


言葉にされなくても、空気はそういう形を取る。


それでも、彼女は背を丸めなかった。胸を張るわけでもない。ただ、いつもの歩幅で歩いた。自分を卑下しない。誰かを論破しない。価値を主張しないが、曲げない。


会議室の扉が開くと、机が一本置かれていて、その周りに人が座っていた。


祈祷官が二名。実務局からルドルフ。神事管理官マレーネ。そして、内務官が一名。内務官は神殿の人間ではない。王国の側の人間だ。宗教と政治が同じ机に座る時点で、この話が“祈りだけ”では済まないことを示していた。


エリシアは、一礼した。


「お呼びいただき、ありがとうございます」


マレーネが先に口を開いた。「座って。あなたを裁く会議ではない。……少なくとも、私は裁くつもりはない」


内務官が微かに眉を動かしたが、何も言わなかった。黙ることで権限を示す人間だ。


エリシアが座ると、ルドルフが淡々と説明を始めた。辺境での調査、帳簿の矛盾、祈りの記録との相関、神事の予定崩壊。彼は盛らない。削らない。事実だけを並べる。


話が終わると、内務官が口を開いた。


「あなたの祈りが、王国運営に影響を与えている可能性がある。意図せず介入しているなら、国家として管理が必要だ」


管理。第2部で聞いた言葉が、ここでも繰り返された。


エリシアは、内務官を見た。怯えない。だが、言葉を選ぶ。


「管理する、というのは。私に祈るな、と言うことですか」


内務官は即答しなかった。「場合による」


曖昧な返事。曖昧なまま権限だけを握る人間の言い方。


マレーネが割って入った。「“祈るな”ではない。祈りを“制度の中に置く”。あなたの祈りが神を動かすなら、それは神事と同じく工程管理の対象になる」


祈祷官の一人が声を荒げた。


「祈りに工程管理など、冒涜だ。神と人の間に帳簿を挟むのか」


ルドルフが、静かに言った。


「挟んでいるのは、すでにあなた方です。祈祷依頼、献金、儀礼の手順、実施日程。全部、工程表です」


祈祷官は言葉を詰まらせた。怒りはあっても、否定しきれない現実がある。


マレーネは、机の上に一枚の紙を置いた。見慣れない表だった。


《神事稼働率 週次計画案》


内務官が目を細める。「……これは何だ」


「神の勤務表よ」


マレーネの声は疲れていないふりをしているのに、言葉の芯が疲れていた。「神が疲れているなら、休ませるしかない。最近、神託が短い。反応が鈍い。祈祷官が現場で感じているはず」


祈祷官が口を開きかけ、閉じた。感じている。だからこそ認めたくない。


エリシアは、その紙を見つめた。神の勤務表。神の休暇。荒唐無稽なのに、紙の上では妙に現実的だった。現実的だから、怖い。怖いけれど――どこか優しい。


「神様は、休めるんですか」


思わず口に出た。


その瞬間、会議室の空気が少しだけ変わった。


祈祷室で燭の火が揺れるときの、あの感覚。ここには燭台があるのに、揺れたのは炎ではなく、人の背筋だった。誰もが一瞬、呼吸を止めた。


見られている。


聞かれている。


誰も口にしないまま、全員がそれを感じた。


マレーネが、ゆっくり息を吐いた。


「休めるかどうかは、私たちが決められない。だから、あなたに聞く。あなたは祈るたびに、何かを感じると言った。神の“疲れ”を感じるなら……神は休みたがっているのか」


エリシアは目を閉じた。祈祷室で培った沈黙を、会議室へ持ち込む。沈黙は逃げではない。確かめるための時間だ。


そして、言った。


「休みたがっていると思います。……でも、休ませ方が分からないんだと思います」


内務官が即座に反応した。「分からない? 神が?」


「神様は、求められると応えてしまうから」


それは誰も責めない言葉だった。人間も神も責めない。現象をそのまま口にしただけだ。だから、余計に刺さる。


マレーネが、紙の端を指で押さえた。「なら、休ませ方を制度にする。祈りの枠を作る。休む日を作る。緊急枠も作る。……あなたの祈りも、その枠に入れる」


祈祷官が呻くように言った。「神に休暇など……」


ルドルフが静かに続けた。「神に休暇がない前提で、今、神が疲れているなら。私たちは神に無理をさせている」


内務官が、現実の声で言った。


「もし、神が休んだ日に災厄が起きたら?」


その問いは正しい。正しいから、怖い。制度は“もし”を嫌う。嫌うから管理する。


エリシアは内務官を見た。


「そのために、前もって祈るのだと思います。困ってからでは遅いことがあります。だから私は、“起きそうだ”と感じたら祈ってきました」


「予防的祈り、ということか」


「はい。予防です」


マレーネが頷いた。「予防祈り枠。緊急祈り枠。定例祈り枠。休暇日」


紙の上で、言葉が制度になっていく。


神を休ませるための制度。


荒唐無稽なのに、会議室の誰も笑わなかった。帳簿が狂うとき、人は笑えない。そして今――帳簿よりもっと怖いものが、ここにいた。


“神が疲れている”という事実。


エリシアは、会議室の空気の中で、もう一度だけ感じた。祈祷室の燭の火が揺れるときの、あの“詰まり”。そこに誰かが座っている感覚。


彼女は、胸の奥でそっと言った。


休めるように、したいです。


その言葉は、祈りではなかった。願いでも、命令でもない。ただ、誰かを休ませたいという、静かな仕事の気持ちだった。



---


神事管理局は、前例のない制度案をまとめ上げた。


“神の休暇”という言葉は、最後まで正式文書には載らなかった。載せれば宗教的反発が大きい。王都の言葉は、いつもそうやって現実を包む。包むことで運用可能にする。


だから名称は、あくまでそれらしく整えられた。


《神事稼働最適化規程(試行)》

《祈願枠運用要領》

《神恩休養日設定に関する暫定指針》


紙面は丁寧で、論理は正しく、語尾は柔らかい。だが実態は、神の働き方改革だった。


週に一日、定例祈願を抑制する。

緊急祈願は例外として許可するが、申請制にする。

地方の修道院や聖職者が独自に行う祈りは記録し、偏りを検知する。

神殿は祈祷官の稼働率ではなく、王国全体の神事負荷を管理する。


そして最重要の条項が、最後に控えていた。


《祈りのスイッチとなる可能性が高い者(特定祈願者)については、当人の尊厳を保ち、職能として待遇し、過剰な稼働を禁ずる》


特定祈願者。

それが、エリシアの新しい肩書きだった。


肩書きを欲しがらない人間に肩書きを与えるのは、制度の得意技だ。守りたいなら、名札を付ける。名札が付けば扱いが決まり、扱いが決まれば周囲が勝手に踏み込みづらくなる。


エリシアは、肩書きに誇りもしなければ、拒否もしなかった。自分を卑下しないが、価値を主張もしない。だからこそ、制度が彼女を守るしかなくなったのだと理解していた。



---


規程の施行初日、神殿は妙に静かだった。


祈祷官たちが落ち着かない顔で廊下を歩き回り、実務官たちが紙束を抱えて走り、神事管理局の扉の前だけ人の足が止まる。誰も声を荒げない。荒げれば、今日が「祈りを抑える日」だと自分で否定することになるからだ。


マレーネは机の前で印を押していた。紙を押さえる指に迷いはない。迷いがあるなら、印は押せない。


ルドルフが訊いた。


「本当に、やるんですね」


「やるわ」


マレーネは顔を上げずに答えた。「帳簿は嘘をつかない。神が疲れているなら、休ませる。私たちが休む制度を作るように」


「神が休んだら、王国は?」


「大丈夫にするのが、仕事よ」


淡々とした言葉だった。だが、そこに含まれているのは強がりではなく、管理官の覚悟だった。制度は、人が覚悟を肩代わりすることで成り立つ。


一方、エリシアは神殿内の小さな祈祷室に案内されていた。豪奢な祈祷室ではない。質素で、修道院の祈祷室に近い。王都の石の冷たさがある以外は、静けさの形が似ている。


マレーネが付き添い、言った。


「今日は、祈らない日です」


「はい」


エリシアは頷いた。頷きながら、胸の奥が小さく疼いた。祈るのは仕事だ。仕事を止めることは怠けではない。頭では分かっている。だが身体は、長年の習慣に引きずられる。


「不安ですか」


マレーネが訊く。


エリシアは少し考えた。


「少しだけ。……でも、祈らないのも仕事だと思います」


マレーネの目元がほんの少し緩む。「そうね。祈らないことを選ぶのは、意外と難しい」


祈祷室の椅子に座り、手を膝の上に置く。祈りの姿勢を取らない。視線を落とすだけにする。


そのとき、燭の火が揺れた。


いつもより大きく揺れた。驚いたように、そして安堵したように。揺れ方だけで感情が伝わるなら、それは確かに“誰か”の反応だった。


エリシアは、誰にも聞こえない声で言った。


「今日は、祈りません」


燭の火が、すっと弱くなった。消えたのではない。静かに落ち着いた。


まるで、神が椅子に深く座り直し、肩の力を抜いたみたいに。



---


その日、王国は壊れなかった。


雨は降るべきところに降り、降らないところには降らなかった。腹の病は流行しなかった。国境では小さな揉め事が起きたが、兵が動くほどではなかった。世界は派手に救われるのではなく、淡々と続いた。


実務局では、ルドルフが帳簿を開いていた。数字の変化を追う。異常な“過剰安定”が少しだけ緩む。災厄が増えるのではない。災厄が“自然な範囲”に戻る。


「……戻っている」


彼は呟いた。帳簿は落ち着きを取り戻し、制度は呼吸を取り戻す。神が全部を肩代わりしていた状態から、人の仕事が介在できる状態へ戻っていく。


マレーネは報告を受け、頷いた。


「神が休むと世界が壊れるわけじゃない。世界が“神に甘えすぎない”形に戻るのね」


内務官は渋い顔をした。


「神の助けが減るのは、国家として不利益では?」


「不利益に見えるのは短期だけ」


マレーネは淡々と言った。「長期で見れば、神の助けが枯渇しないのが利益。過剰な介入は依存を生む。依存は制度の脆弱性になる」


ルドルフが静かに付け足す。


「依存が強いほど、予測不能な揺れが来たときに崩れます。帳簿は、その前に歪みとして現れる」


祈祷官たちは複雑な顔をしていた。自分たちの祈りが“神の負荷”として数えられる。神に無理をさせていたかもしれない。誇りが揺れる。


だが、エリシアは誰も責めなかった。祈祷官を見下さない。内務官を論破しない。マレーネを称えもしない。ルドルフに感謝を押し付けもしない。


ただ、仕事として“祈らない”を続けた。



---


数週間後、王国の北方で小さな異常が起きた。


雪解けが早すぎ、川が溢れかけた。被害が出れば、村が一つ沈む。神殿は緊急祈願枠を発動しようとした。


祈祷官が慌てて申請書を持ってくる。内務官が責任の所在を確認する。実務官が物資の手配を始める。神殿が“通常の姿”に戻る。危機が来たとき、制度は忙しくなる。


だがマレーネは、すぐに印を押さなかった。


「北方の川……」


ルドルフが言う。「まだ溢れていない。予測では三日後」


「三日後なら、祈りは“今”が適切ね」


マレーネは、エリシアを呼んだ。


祈祷室で、エリシアは膝をついた。今日は祈る日だ。緊急枠。制度の中の祈り。


だが彼女の中では、制度より先に“困っている音”が鳴っていた。川の音。土の音。人の焦りの音。


「お願いします」


マレーネが言った。命令ではない。依頼だった。仕事同士の依頼。


「はい」


エリシアは祈った。川が落ち着くこと。雪解けが穏やかになること。村人が恐怖で互いを責めないこと。誰もが家を失わないこと。


祈りが終わると、燭の火が揺れた。


だが以前のような“詰まり”はない。無理をしている感じがない。急いで走る人の息切れではなく、落ち着いて働く人の呼吸のような揺れだった。


神が休めているから。


三日後、川は溢れなかった。水位は上がったが土手が持ちこたえた。村人が夜通し土を積み、役人が橋の補強を急いだ。人の仕事が、神の仕事を支えた。


祈りはスイッチだ。

だがスイッチを押す回数を減らしたことで、人の手が動く余地が戻った。


それが、王国の静かな逆転だった。



---


冬の終わり、エリシアは修道院へ帰ることになった。


王都は便利で、制度は整っている。だが彼女の仕事場は祈祷室であり、村の空気であり、辺境の静けさだった。


出立の朝、マレーネが門まで見送りに来た。忙しいはずの管理官が来るということは、エリシアが“制度の中の人”になった証でもある。


「あなたの待遇は今後も維持する。特定祈願者として、王都から定期的に報告を求める。祈りの枠は、あなたの体調と相談して調整する」


「はい」


マレーネは少し間を置いて言った。


「……あなたは怒らないのね」


「何に、ですか」


「勝手に管理されることに。祈りを制度に入れられることに」


エリシアは少し考えた。


「怒る理由がありません。祈りは仕事です。仕事なら、守る制度がある方が続けられます」


マレーネは苦笑した。「あなたみたいな人がいると、制度は救われる。制度を壊すのも、あなたみたいな人だけど」


「壊したつもりはありません」


「分かってる。だから困るのよ」


二人は短く笑った。そこに敵意はない。仕事をした人間同士の、疲れと安堵が混じった笑いだ。


馬車が動き出し、エリシアは窓から神殿の塔を見上げた。燭の火の揺れ方でしか会話できない神が、あの塔のどこかで今は肩の力を抜いているのだろうか。


修道院に戻った夜、エリシアはいつもの祈祷室に入った。窓を開け、空気を入れ替え、燭台の芯を整える。


膝をつく前に、彼女は小さく息を吸った。


「今日は、祈りません」


言ってみると、不思議と胸が軽かった。祈らないことが怠けではなく、誰かの休みを作る仕事だと分かっているから。


燭の火が、ふっと落ち着いた。


神は言う。――そなたが祈らぬ日は、我は休める。

エリシアは答える。――では、今日は祈りません。



祈らない祈りが、いちばん世界を救っていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この物語で描きたかったのは、

「正しさで殴らない逆転」です。

主人公は怒りません。

誰かを裁きません。


「分からせよう」ともしません。

ただ、自分の仕事をやめない。

そして必要なときには、やめる。

祈らないことを選ぶ――


それは信仰を捨てることではなく、

誰かを休ませるための選択でした。

制度は、

善意を前提に作られていません。

だからこそ、

静かな善意は制度を壊してしまうことがあります。

けれど同時に、

制度は善意を守るために作り直すこともできる。


この短編では、

誰も断罪されません。

誰も敗者になりません。

ただ「働きすぎていた」ことが明らかになり、

少しだけ、休む余地が生まれます。

祈りしか能のない修道女が救ったのは、

世界そのものではなく、

世界を支えていた“疲れ”だったのかもしれません。


読後に、

少しだけ肩の力が抜けるようなものが残っていれば、

とても嬉しく思います。

ありがとうございました。


月白ふゆ

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