表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

一晩だけの王様(歌で払う夜)

作者: ひろボ

 王都ミレアの祭りの朝は、街がほんの少し背伸びをする。

 銅板屋根は磨かれ、噴水は虹を抱き、露店の簾には色紐が揺れる。パン屋は夜明け前から釜を焚き、粉を捏ねる音が石壁を伝って通りに漏れる。旅芸人は棒を一本立てて空を測り、針金の輪で風向きを読む。


 鐘楼が低く一度鳴ると、鳩が立ち上がった湯気みたいに飛び立った。


 トオルは、荷車小屋の戸を押し開けた。湿った木の匂い。革の手袋を干しておいたので、もう冷たくはない。手袋の内側を指先で撫でると、縫い目がひっかかる。親指の付け根のところ、糸が少し浮いている。直そう直そうと思いながら、日が進むたびに忘れてきた。


 彼は荷台の板を叩いて歪みを確かめ、車輪の芯に油をさした。鳥が喧しく鳴く。塀の向こうから、隣家の犬が欠伸混じりに吠えた。


「今年は、当たらねえよな」


 ひとりごちて笑う。


 毎年ひとりだけ選ばれる《一晩だけの王様》。くじで決まる。去年は女学校の教師で、一昨年は石工の長。トオルのような荷車引きに番が回ることはまずない。そう思っていた。


 荷車小屋の隅に置きっぱなしの縄をほどき、肩にかける。肩の骨に縄の重みが落ち着く感触が、妙に好きだ。自分の重さと荷の重さが、ちょうど釣り合う点を体が覚えている。


 通りの角で、いつもの声が飛んだ。


「おいトオル、今日も押すのか? 祭りくらいは歌ってろ!」


 肉まん屋の親父が、せいろの蓋を片手に振っている。


 トオルは笑って手を振った。


「歌いに行くさ。まずは積み荷を運んでから」


 親父は顎をしゃくった。


「腹が空いたら顔出せ。まかない一個、歌一節でいい」


「安いな」


「音程外せば、さらに割引だ」


 くだらない冗談だ。けれど、空気は軽くなる。

 祭りは、こういうやり取りが街中で一斉に起きる日だ。知らない者の笑顔に、つい笑い返してしまう日。


 昼には、広場に人が溢れた。

 舞台の布幕に王都の紋章。金の糸が陽光を吸う。くじを入れた木箱は、古くから使われているものだ。角が丸くすり減り、ふちが身体の油で黒光りしている。


 宰相の声が張り上がる。痩せて鷹の目をした男。場数の多さが声の抑揚ににじむ。


「番号、二百四十一……該当者、前へ」


 世界がいったん、耳から抜け落ちた。

 数字が自分の腹の底に落ちるまで、呼吸が一回遅れる。視界の色が一段薄くなる。

 トオルは誰かに背中を押されたわけでもないのに、前へ進んでいた。革手袋の内側に汗がにじむ。手袋の縫い目が、やけに気になる。


 壇上の王冠は近くで見ると想像以上に大きい。宝石は水滴みたいで、触れれば冷たいだろうと思わせる。

 侍従が困った顔で冠の角度を直す。耳にかかる部分が重い。ずり落ちないよう、そっと顎を引く。


 宰相が形式どおり問うた。


「一夜の王よ。日没から夜明けまで、王都の政はあなたの決に従う。何を望む?」


 何を望む――考えたことのない問いだ。

 トオルは視線を落とす。革のしわ、縫い目。祭りの夜は揉める。金が絡むと、声は荒くなる。屋台の手伝いを何度もしてきたから知っている。列の最後尾ほど声が大きく、財布が出た瞬間に目が尖るのも見てきた。

 喉が乾いた。唾を飲み込む音が自分の耳でも大きい。


「祝祭中――金貨の使用を禁じます」


 ざわ、という音が、布の裏から指で掻かれたみたいに広がった。

 笛が一度だけ甲高く鳴る。誰かが笑い、誰かが舌打ちする。


「代わりに、支払いは歌一曲。歌えない人は、『ありがとう』を十回、相手に向けて」


 宰相の目が細くなり、王はおもしろそうに顎に手を当てた。

 重臣たちの視線は、冷たい。子供じみている、と目が言う。

 トオルは背筋を伸ばした。冠が少しずれる。耳で支える。


「……他には?」


「以上です」


 こうして、歌で払う夜が決まった。


 ◇


 日が傾くと、王都はいつもより明るかった。

 提灯の赤が銅板の屋根に揺れて映り、石畳が湯気みたいに笑い声を返す。

 掲示板の布告を読んだ商人たちは最初こそ困惑し、すぐに冗談の速度で順応した。


「コーラス割?」「転調で値引き?」「合唱でおまけ!」


 甘酒屋は「音痴歓迎」を高らかに掲げ、薬草屋は「音程が外れるほど割引」という悪魔の規約を貼った。

 旅芸人は即席の小舞台を組み、伴奏つき精算所を名乗った。

 広場は、小さな合唱の島がぽこぽこと生まれて、互いの縁を嚙み合わせながら波紋を広げていく。


 肉まん屋の親父が先陣を切る。


「歌えないやつはありがとう十回! どっちでも腹は膨れる!」


 先頭の女の子が胸を張って歌い、周囲が拍手する。母親は恥ずかしそうに笑って頭を下げ、親父は「上手い!」とおまけで紅生姜を乗せた。


 裏手では、親父が小さな板切れに線を引いて歌レシートを刻んでいた。一節ごとに刻みを一本。サビは二本。合いの手は斜線。

 誰に教わったわけでもないのに、やってみると自然とそうなる。歌の長さが、値段の時間感覚を置き換えていく。


 トオルは宰相と見回りに出た。

 宰相は渋面を崩さないが、歩調は少し速い。

 すれ違う市民が軽口を飛ばす。「おう王様、今夜だけは安くしときますぜ」「歌ってから言え」。笑いが後ろから追いかけてきて、先回りして待っている。


「軽率だ」宰相は言った。「取引が滞れば、物資の流れが――」


「むしろ早いですよ。ほら、行列が途切れません」


「帳簿は?」


「歌の長さで仮レシートに。一節一銅、サビ二銅、合唱は人数換算、転調は係数――」


「やめろ、頭が痛い」


「痛い時はハミングです。半額になります」


 宰相の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 二人は歩き、歌の密度を確かめる。

 広場は賑やか、南門は陽気、西の市は喧噪。音が濃いほど、空気は柔らかい。押し合いはあるが、突き合いはない。手が塞がり、口が塞がる。刃物は、取り出しにくい。


 ――そこで、トオルは足を止めた。


「……静かだ」


 東の水門へ向かう小路だけが、やけに静かだった。


 ◇


 町家の壁が風を止め、川の湿り気が喉にまとわりつく。

 小路は狭く、提灯の光が届きにくい。

 奥に、荷車が三つ。押し棒に布を巻いて軋みを殺し、荷の表面に麻袋を被せている。鼻に刺さる匂い。金属の粉に似た、冷たい匂い。

 花火の火薬の匂いは鼻の奥がくすぐったくて楽しいが、これは違う。重く沈む。濡れた火薬の匂いだ。


「宰相さま、あれ」


 押す三人は歌わず、謝らず、ただ黙って通り抜けようとしている。

 祭りの夜は、歌がない方が目立つ。


 トオルは一歩踏み出した。冠がわずかに鳴った。


「お代、お願いします」


 先頭の男の目は、磨かれた石みたいに冷たい。


「王の冗談は屋台までにしておけ、坊や。ここは通行の邪魔だ」


「祝祭中は、王都内すべてが屋台みたいなものです。歌か、『ありがとう』を十回」


 宰相が袖を引く。衛兵は遠い。呼ぶには遅い。

 背中に汗が滲む。膝が震える。

 だから、歌った。


「♪暗い道でも、声があれば――」


 情けないほど音を外した。自分でも笑える。

 けれど、広場の方から別の声が重なった。


「――星は降りてくる、聞こえる方に」


「♪聞こえる方に!」


 肉まん屋の親父が腹から、さっきの女の子が胸から、旅芸人が笛で、甘酒屋の姉ちゃんが手拍子で。

 歌は輪になる。輪は道を塞ぐ。輪の内側の呼吸が小路を満たし、空気が温かくなる。


 男が火打石を擦る――が、火は出なかった。

 輪の内側から伸びた分厚い手が、火打石を平手で叩き落としたのだ。肉まん屋の親父だ。


「ごめんよ、こちとら歌で手が空いてたもんで」


 転がる火打石が石畳をはねる。

 衛兵が駆けつけ、男たちは押さえ込まれた。麻袋が裂け、湿った黒い粉が露出する。


 宰相の息が短く鋭い。


「水門だな。今夜、東を落とすつもりだったか」


 小路の奥から、もう一台、荷車が現れた。

 押しているのは若い男。顔色が悪い。手は震え、目は遠い。

 輪がそちらにも広がる。逃げ場がなくなる。彼は口を開いた。声は掠れて、しかし前に向いた。


「……ありがとう」


 誰かが数えた。


「一!」


 胸の奥で何かがほどける。


「ありがとう」


「二!」


 数える声が、拍のように背中を押す。

 十まで言ったとき、彼はしゃがみ込み、涙が石畳に落ちた。泣くつもりなどなかったのに、身体が勝手に軽くなる。


 肩に手が置かれる。柔らかい手だ。王冠が視界の端で光る。


「ありがとう。言ってくれて」


 トオルの声は震えていなかった。不思議と、そう思った。

 若い男は初めて、支払いというのが誰かと向き合う行為だと知った。

 その夜、供述書に彼は歌詞の一節を書いた。《暗い道でも、声があれば――》。

 調書を書いた書記官は、しばらくその行を見つめ、何も言わなかった。


 ◇


 広場は、さらに歌で濃くなった。

「歌で支払う」という約束が、街の骨に浸みていく。

 旅芸人は合唱を三つ束ねて、即興の輪唱にした。子どもの声が高く、大人の声が低い。声が合わないところが可笑しくて、可笑しいところでさらに合う。


 甘酒屋は「ハミング半額」を大書し、音痴たちの行列ができた。

 薬草屋は、音程を外した回数に応じて喉飴をおまけした。

 書記官たちは蔵前に臨時の机を並べ、歌レシートの集計に追われた。砂時計をひっくり返すたび、笑いが零れる。


「はい次! 『にくまんふたつでひとつ』、サビ二回、合いの手三人、転調一回! 銅二枚換算で――お釣りは“ありがとう三回”!」


「ありがと、ありが……あ、難しいな」


「もう一回どうぞ。練習無料!」


 宰相は、そんな光景を見ながら小さくメモを取った。

 《喧嘩沙汰、平年の三分の一。列の流れは速い。衛兵の疲労は軽い。歌は口を塞ぎ、手をふさぐ。術理としては粗いが、都市の夜には効く》

 インクの跳ねが、偶然音符に見えた。彼は苦笑し、そのままにした。


「宰相さま」


 トオルが呼ぶと、宰相は顔を上げた。


「わたしたち、うまく行ってますか」


「数字の上では、な」


「数字の上、ですか」


「数字は嘘をつかないが、意味を選ぶのは人間だ。今夜は、意味が人に寄っている」


「難しいですね」


「難しい。だが、いい難しさだ」


 宰相は杖の先で石畳を軽くつついた。音が小さく跳ねる。

 それもまた、歌の一節のように思えた。


 ◇


 夜が薄くなるころ、王は広場の端で旅芸人に声をかけた。


「歌は税か?」


 芸人は肩をすくめる。


「税より軽く、罰より遅く、合図より暖かい。たぶん“秤”です、陛下」


「秤、か」


「支払う人の機嫌と、受け取る人の気分を、同じ秤に乗せる道具。重みが合えば取引は終わる。合わなければ、もう一節」


 王は笑った。


「帳簿係が泣くな」


「はい。だから帳簿係にも歌ってもらいましょう」


 王城の蔵前では、臨時の記録班が動いていた。

 書記官は砂時計で一節の長さを共通化し、屋台主は自分の受け取った歌を申告する。

 合唱は人数換算、転調は係数、ハミングは半額。

 机の上で算盤が踊り、書記官は半泣き、だが笑っている。

 彼らは自分たちの仕事が少し滑稽で、少し尊く、少し面白いことを知っていた。


 ◇


 鐘楼が二度、間を置いて鳴った。

 広間はひんやりしている。壁のタペストリーの馬は、昨夜より少し疲れて見える。


 王は玉座から降り、歩み寄ると穏やかに問うた。


「一晩の王よ。最後に望むものは?」


 トオルは少し考えて、笑った。


「この冠を返したら、肉まんを二つください。支払いは――ありがとうを十回」


 広間に笑いが走る。

 衛兵が耳まで赤くして数え始める。「一、二、三――」


 宰相が一歩進み、短く進言した。


「陛下。祭の記録に歌を加えます。歌の長さ・回数・合唱の密度を治安指標として記す試みは、次回の祭で再検証すべきかと。音楽家の増員も」


 王は目を細め、楽しげに頷いた。


「よかろう。祭の記録係に音楽家を足すがよい」


 一夜の冠は王へ返され、朝の光が床に細長い長方形を描いた。

 トオルは深く礼をし、冠が手を離れていく瞬間、自分の頭が軽くなるのをはっきり感じた。


 ◇


 布告は失効し、金貨はまた音を立てる。

 それでも、街は少しだけ変わっていた。

 パン屋の娘は「♪焼きたて」と鼻歌を添え、石工は「ありがとう」を十回、照れ笑いで言い、書記官は羽根ペンを整えながら小声で二小節。


 東の水門には掲示板が立ち、そこには太い字でこう書かれた。


「危険な荷車を見たら、まず歌え」


 誰かが下に音符を描き、別の誰かがハモリの記号を書いた。

 朝の水面は、何事もなかったように光っている。


 肉まん屋の親父は売上帳の端に落書きする。

 《合唱割/音痴割/転調ボーナス》

 計算に困るたび、ありがとうを三回口にすると、なぜか数字が合う。


「ありが――うん、合った。歌は算盤より速えや」


 宰相は記録帳を閉じ、最後の行に短く書いた。

『歌は治安をやわらげる。祭日に限り、次回も試験。帳簿係へ増員(音楽家)』

 堅い字の端でインクが跳ね、小さな音符になる。彼はそれを拭き取らず、そっと帳面を閉じた。


 イアルは町外れの小屋で眠れず、夜明けの川沿いに立った。

 十回の「ありがとう」は言い切った。けれど胸のどこかに、まだ言い足りない音が残っている。

 口からこぼれたのは「ありがとう」ではなく、一節の歌だった。

 彼はもう、輪の外に立たない。輪の内側で、へたくそでも声を出す方が、呼吸が深くなることを知った。


 王は執務机で報告書に目を通し、ふと窓の外を見た。

 通りを行く人の肩が、妙に軽く見える。

 旅芸人の棒は、朝の風向きを指して、細い影を地面に落としている。

 王は首を回し、小さく歌った。誰にも聞こえない声で。

 音程は、見事に外れていた。


 ◇


 トオルはいつもの荷車に手をかける。

 革の手袋の内側には、夜の汗の匂いが少し残っている。

 石畳に朝日が降り、影は短い。

 縄の重みが肩に収まる。あの感覚――自分の重さと荷の重さが、ちょうど釣り合う支点。

 彼は背筋を伸ばし、誰に聞かせるでもなく、口ずさんだ。


「♪暗い道でも、声があれば――

 星は降りてくる、聞こえる方に」


 歌は、きちんと届いた。

 支払いは、もう済んでいる。


(了)


最後まで読んでくださって、ありがとうございます。


『一晩だけの王様(歌で払う夜)』は、「お金の代わりに歌」という一発アイデアから出発し、街の空気が少しずつ変わっていく過程を追いかけた短編です。


読みどころとして、“歌わない一角”が異常値として浮かぶように配置しました。にぎわいの中で生まれる“静けさ”はそれ自体がサイン——そこから陰謀へ辿り着くロジックを意識しています。


なお作者は音痴です。m(_ _)m

だからこそ、歌は“上手さ”だけではないところも書いてみました。


また遊びに来て下さいね!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ