5 ディトールの訪問 ※
その日、あたしは一睡もできずに朝を迎えた。
ネオスたちが帰ってくる直前、母親の頭上に見えた黒い光。それが寝る時までずっと見えていたにも拘わらず、〝あれは何かの間違いだ〟、あるいは 〝見間違いかもしれない〟 と、否定する為の根拠をずっと探し続けていたのだ。けれど、朝起きて 〝おはよう〟 と言った母親の頭上には、前日に見たのと何ら変わらない黒い光が浮かんでいて、微かな願いが一瞬にして崩れると共に、変えられぬ現実を突きつけられたのだった。
『どうしたのですか、ルフェラ?』
ほとんど喉を通らなかった食事を済ませたあたしは、ルーフィンの散歩を口実にして、逃げるように外に出てきた。
家の向かいにある林。そこから十数メートルくらい入っただろうか、あたしはどうしていいか分からず、その場に座り込んでしまったのだ。それは、その直後に聞こえたルーフィンの声だった。
『昨日の夜も殆ど食べていなかったのでしょう?』
玄関先にいた為、実際に食べている所を見てはいなかったが、みんなの会話から分かっていたのだろう。心配する口調が、無力さを実感したあたしの胸を締め付けた。
「…食べられないよ…」
あたしは泣きたい気持ちになりながら、そう呟いた。
「あれを見て…何事もなかったようになんて食べられない…」
『あれを見て…?』
知らないはずはないのに、一瞬、聞き返すように繰り返したルーフィン。けれどワザとか否か、すぐに思い出したかのように続けた。
『もしかして、死の光…ですか?』
「いつから…?」
『え…?』
〝そうよ〟 と答える代わりに、あたしは次の質問をした。
「ルーフィンはいつから見えてたの、あの光…?」
『あ…私は……』
「初めて会った時には既に見えてたのよね…? だって、あたしに見えたのは昨日の夕方からだもの…」
『それは…』
「テイトやエステルの時の事を考えたら、あたしに見えるのは四日か五日前…。だとしたら、ルーフィンには最初から見えてたことになる…そうでしょ?」
『……教えれば…よかったと?』
「…ち…がう…そうじゃない…」
返ってくる答えが望んでいるものではない事よりも、どうしていいか分からないもどかしさに、大きく首を振った。
「悔しいのよ…。何もできない自分が…何もしちゃいけないって言い聞かせてる自分が、あまりにも無力で無情で許せなくて…悔しいの……」
『ルフェラ…』
「イオータの言葉が重いよ、ルーフィン…。本当は何とか助けてあげたいって思うのに、あいつの言ってる事が正しいんだって分かるから、どうしていいか分からなくて胸が押し潰されそうになる…。せめて…せめて亡くなる原因が病なら、まだ納得もできるのに……どうして黒い光なんかが……」
『黒い光…』
一瞬、驚いたようにも聞こえたが、あたしは気にしなかった。
「ルシーナを残して自らの命を絶つなんて考えられない…。そしたら残るのは誰かに殺されるってことでしょ…? 父親も役人に殺されて、母親までそんな亡くなり方だなんて…こんなのって酷すぎる…。ルシーナがあまりにも可哀想よ…」
あたしは膝を抱えると、そこに顔を埋めた。ルーフィンからの言葉は返ってこなかったが、それも当然だと思った。
どうしたいか…というのはもちろん、どうすべきか…というのも分かっているのに、それが正反対の事だから答えが出てこないのだ。
それでも、しばらく黙っていたルーフィンが見兼ねたように口を開いた。
『やっぱり、ネオスに話して支えてもらうべきです。じゃないと、あなたの心が潰れてしまいますよ』
それは、時間が欲しいと言っている場合ではないという意味だった。
「だけど…話をするならルーフィンでも──」
『えぇ、話だけなら私にもできます。でも、私にはそうやって震えているあなたの肩を抱きしめてあげる事はできないんです』
「…ルーフィン…」
『すみません…ラディのような発言で…』
「…う、ううん…そんなこと……」
言われて、きっとそういう 〝支え〟 が必要なんだ…と思った。
答えなんてものはいつも必ずあるものじゃなく、どうする事もできない時にこそ、言葉ではなく人の温もりが必要になるのだろう…と。
「ありがとう、ルーフィン…。あたし──」
〝考えてみるわ〟 と言おうとしたところで、何かに気付いたように顔を上げた。そして、
『彼がやってきますよ』
──と言うや否やスッと体から離れ、次いで入れ替わるように聞こえたのは、〝彼〟 の声だった。
「よぉ、元気がないんだって?」
「イ…オータ…!?」
振り返ると同時に、思わず声が大きくなってしまった。こんな時間に、しかも、今さっきまで彼の話をしていたからだ。
イオータは、驚くあたしを気にせず隣に座った。
「みんな心配してるぞ。眩暈があったうえに、昨日からは食欲がなくなったってよ?」
「あ…ちょ、ちょっと…疲れが出ただけよ…」
そんな話を聞いているなら、母親の頭上に死の光があることも知っているはずだろう。だけど、あたしはその事を口にはできなかった。
数日前の事なんて、まるでなかったかのようなイオータの態度だが、あたしにはその数日前の会話が、〝これ以上、オレに聞くな〟 と言われたような気がしたからだ。
「まぁ、それだけならいいんだけどな。──それよりよ、一人で出歩かない方がいいぜ?」
「え…?」
「残念ながら、残りの二割に的中だ」
「残りの二割…?」
いったい何の事を言ってるのかと繰り返してみたが、〝二割〟 という言葉には聞き覚えがある。何だったっけ…と記憶を辿ってみれば、その 〝数日前〟 の話だと分かった。と同時に、すっかり忘れていた 〝感覚〟 が肌に戻ってきた。まるで、その殺気を防御していた薄いベールが、フッと消えた感じだ。
「オレの方はパッタリと感じなくなったからな。確認の為にも来てみたが…強さはあまり変わってないようだ」
「それだけの為に、わざわざ…?」
「いいや、これはついでだ」
「ついで…?」
「あぁ。ディトールがルシーナと話がしたいって言うからよ──」
「ディトールが来てるの!?」
まだ言いかけだったイオータの言葉に被せると、あたしはガバッと家のほうを振り返った。当然のことながら、玄関は閉まっていて中の様子は分からない。
「何なんだ、突然?」
「…ぁあ…まさか…ルシーナを捕まえにきたんじゃ…」
「捕まえに…? どういうことだ?」
「…ルシーナは…役人からお金を盗んでるのよ」
「はぁ…!?」
「この街じゃ、薬草を取り扱うのは大罪なの。そのせいでルシーナの父親は殺された…」
「殺され…って…まさか、殺したのは役人か…!?」
「…そう。だからルシーナはずっと役人を憎んでて、復讐のひとつとして彼らからお金を盗んでたのよ。もしその事がバレて捕まえにきたのだとしたら──」
「おいおい、それはねーだろ? 役人を目指してるつったって、まだ役人にはなってねーんだからよ」
「そうだけど──」
「それより、イヌザンショウの実とやらも、大罪となる薬草のひとつなのか?」
「そうよ」
「…なるほどな。それで隠してる理由も、ルシーナのあの時の言葉にも納得がいく」
「え…?」
「安心しろよ。薬草を扱うのが大罪だっていう理由はよく分かんねーけど、その薬草を扱ってるのはディトールも同じだろ? お互い大罪となる薬草を扱ってることは知ってんだし、たとえ盗みの件だとしても、わざわざリスクを背負ってまで役人に突き出すなんてことするかよ」
「…それは……」
確かに、イオータの言う通りだ…と思った。
ルシーナを捕まえれば、突き出したディトールを道連れに薬草の事を言い出すかもしれない。役人を目指しているという事が分かれば、尚更 隠そうとはしないだろう。そんなリスクを背負うくらいなら、何もしないほうがいいに決まっているのだ。
「…だとしたら、いったい何を話しに…?」
「さぁ…。子供の頃の事で確かめたい事があるとか何とか言ってたけどな」
「子供の頃の事って…あの子たち知り合いだったの…?」
「オレが知るわけねーだろ? ──ってか、戻るぞ?」
「あ…う、うん…」
強さが変わってないとはいえ、いつまでも出歩くものじゃないという意味なのだろう。殺気の感じる方向をチラリと見やったイオータは、ルーフィンをも呼び戻し家へと向かったのだった。
家の中は、微妙な緊張感が漂っていた。言いたい事があるのに言い出せない、あるいはお互いが言い出すのを待っているような、そんな空気だ。
朝食が済んだ机の上は既に片付けられていて、ネオスを挟むようにしてルシーナ親子とディトールがそれぞれ向かい合うように座っていた。
「日が暮れちまうぞ?」
まだ何も話してないことは一目瞭然で、イオータは部屋に上がるなりそんなキッカケを与えた。そして、あたしがネオスの隣に座ると、イオータは壁際に──けれど、みんなの顔が見渡せる位置に──腰を下ろした。
人の動きが止まって、ようやく口を開いたのはルシーナのほうだった。
「話って…なに…?」
「…あ…君のお父さんの事でちょっと…」
「お父さんの事…?」
繰り返した言葉に、ディトールが 〝そう〟 と頷いた。
「な、なに…?」
「その…」
言い難そうに言葉を切ったが、ルシーナとその母親を交互に見やると、意を決したようにすぅっと息を吸った。
「単刀直入に聞くよ。君のお父さんは薬草を扱ってるよね?」
「────!!」
顔色が変わったのはルシーナ親子だけではない。──あたしもだった。
「な、なに言ってんの、そんなこと──」
「隠さなくたっていいんだ」
「別に隠してなんか……。そりゃ、昨日渡したのは確かに薬草だけど…あれはあたしが扱ってるだけで、お父さんとは何の関係もないんだから!」
「でも…」
「でも、なによ!? 役人に突き出したいなら突き出せばいいじゃん!」
「ルシーナ!!」
一番恐れている事がルシーナ自身の口から発せられ、思わず止めようと母親が叫んだものの、ルシーナは母親の手をも払いのけた。
「あたしは役人なんか怖くない! 役人に捕まって殺されるとしても、薬草を扱ったことは絶対に後悔しないもの!」
「ルシーナ! ダメよ、そんなこと言っちゃダメ…! ディトールさん、お願い…この事は黙っていて…。それが無理なら、私を突き出してちょうだい」
「お母さん!?」
「薬草を扱ってるのはこの子じゃない…私なのよ…。昨日は私が届けるように言っただけ。だから──」
「なに言ってんのよ、お母さん!? あ…違うんだからね…お母さんは何も知らないのよ。今…たった今 知ってあたしを庇おうとしてるだけ…本当に扱ってるのはあたしなんだから…!」
「ルシーナ…! 嘘を言っては──」
「あの…」
「お母さんこそ、嘘ばっかり──」
「止めてください、二人とも…」
「ディトールさん、お願いだから──」
「僕は──!!」
庇い合う二人の会話を止めるように、ディトールが一段と大きな声を出した。その声と、膝を拳で叩くような勢いに、ルシーナたちの会話が飲み込まれるようにピタリと止まった。
「僕は…あなた達を役人に突き出そうなんて思っていません。ただ、ルシーナのお父さんが僕の知ってる人と同じかどうか確認したかったのと、もしそうならここに弟子入りさせて欲しいと思っただけなんです…!」
「────!?」
想像すらできなかったディトールの告白に、ここにいる全員が自分の耳を疑い、思考が止まった。今なんて言ったのかを聞き返すこともできず、頭の中のような真っ白な沈黙がしばし続く。
実際、数秒だったのか数十秒だったのかは分からないが、誰よりも早くその沈黙を破ったのは、さすがと言うべきか、イオータだった。
「どういう事だ、いったい?」
その質問に、一瞬ディトールの視線がイオータに移ったが、伏せ目がちに緊張の息を吐き出すと、再びルシーナ親子──特に、母親の方──に視線を戻した。
「十年前…僕はルシーナのお父さんに助けられたんです」
「十年前…?」
「お…父さんと会ったの…?」
思い出すように首を傾げる母親の隣で、ルシーナが驚いて身を乗り出した。
ディトールがゆっくりと頷いた。
「山で遊んでいた僕は、斜面で足を滑らしてかなり下まで転げ落ちてしまったんだ。大怪我まではいかなかったけど、あちこち擦りむいたり打ったりして痛かったのと、足を挫いて動けなくなってしまってね…ずっと蹲って泣いていたのを、通りがかかった君のお父さんが助けてくれて…この家で手当てしてくれたんだよ。僕はその時、五歳だった…」
「…足を挫いた…五歳の男の子……」
記憶の手掛かりになるキーワードを繰り返した直後、母親がハッと顔を上げた。
「あ…まさかあなた、あの時の男の子…!?」
「思い出していただけましたか…」
「ま…ぁ…こんなに立派になって…全然分からなくて、ごめんなさい…」
「いえ…十年も前の事ですし…あの時は本当にお世話になりました」
「いいのよ、そんな…」
「何度かもう一度会いたいと思ったんですけど、家が全然分からなくて…」
「仕方がないわ、まだ五歳だったんですもの。帰る時は主人の背中に背負われていたし、周りも暗かったものね」
「はい…。でもあの時から僕は、薬師になりたいと思い始めたんです」
「薬師に…?」
母親が繰り返した言葉を、同時にあたしも心の中で繰り返していた。おそらく、ネオスもイオータも繰り返しただろう、母親の何倍もの驚きを伴って。
役人を目指して勉強していたディトールが、まさか薬師になりたいだなんて…。薬草を扱う事が大罪だとされるこの街で、誰が思うだろうか。
にわかに信じられなかったものの、あたしはこのあとのディトールの話でそれが彼の本当の気持ちなんだと悟った。そして、〝父親の代わりに自分がその夢を叶えようと思ってるんだな?〟 と言ったラディの言葉に頷かなかったのは、謙遜でも照れでもなくて、正直な気持ちだったのだ、ということも。
「あの時ルシーナのお父さんは、痛みから気を紛らわせようと、張り薬に使う薬草の名前や作り方を話してくれました。半信半疑だったけど、次の日になると、魔法でもかかったみたいに痛みが引いていて…なんてすごい薬草なんだろうと感動したのはもちろん、こんな薬を扱えるようになりたいって思ったんです。でも、このことは絶対に誰にも言ってはいけない、調べたり扱っているのが統治関係者にバレたら大変な事になると言われたので、ずっと自分の中で秘めていたんです。それが昨日、ルシーナにイヌザンショウの実を渡されて、僕しか知らないはずの事を知っていたので、もしかしたら…と思って…」
「それで確かめたいって言ったのか…」
独り言のようなイオータの質問に、ディトールは無言で頷いた。
「実際ここにきて、家の中の様子やお母さんの顔を見たら、間違いなくここなんだと思いました」
「そう…だったの…」
「扱いの許されている薬草は幾つかあります。でもそれだけでは少なすぎます。研究すればもっといい薬草が沢山あるのに…と思うと何だか悔しくて…。だから、ここに弟子入りさせてもらって一緒に研究ができればと──」
「無理よ、そんなの…」
最後まで言い終わらないうちに、ルシーナが遮った。
「どうして無理だって…?」
「……………」
「ルシーナ…?」
「…無理なものは無理なの!」
それだけ言うと、ギュッと唇を閉じて顔を背けた。母親はそんなルシーナの頭を優しく撫でると、代わりに続けた。
「ごめんなさいね、ディトールさん。この子の父親は五年前に亡くなってしまったのよ」
「え…!?」
「薬草のことが原因でね…」
「ま…さかそんな…」
「殺されたのよ…罪を犯したからって、役人に殺されたの!! 分かるでしょ? 実の娘のあたしでさえ、弟子入りなんて無理なんだから!!」
「────!!」
目一杯に涙を浮かべて、それが零れる前にルシーナが叫んだ。あたしはその叫び声に思わず目を閉じた。見ていられない、聞いていられない悲痛な叫びだったからだ。
ディトールはどんな顔をしているだろう、どんな気持ちでいるのだろう…。
自分を助けてくれた人が……薬師になりたいと思うキッカケになった人が…そして、意を決して本当の気持ちを話し、弟子入りしようと決めたその人が、皮肉にも今まで目指していた役人によって殺されていたとは…。たとえ本気でなく偽りの心で目指していたものだとしても、これ以上ルシーナたちとは関われない…そう思うに違いない。そして同時に、役人になろうとも思わないだろう。
目指す所は同じなのに、なんて皮肉な運命なのか…。まるでうまく噛み合わない歯車と同じで、前にも後ろにも動かなければ、何かを使って無理に動かしたら壊れてしまうような、そんな関係になっていたのだ。
だけど…だけど、このまま放っておくなんてできやしない。彼らだけじゃなく、きっとこの街に必要な歯車になるはずだもの…!
あたしにはそんな気がしてならなかった。なのに、〝どうすればいいか〟 どころか、今の彼らに掛ける言葉さえ分からないから情けなくなる…。
〝お願い、ネオス…何か言って…〟
そう強く願うように、膝の上に置いた拳をギュッと握った時だった。
「それは何だ?」
イオータの声が聞こえふと目を開けると、聞かれたディトールが脇に置いてあった紙の束を手にしたところだった。
「見せるために持ってきたんだろ?」
「そう…ですけど…」
そう言ったまま、紙の束をジッと見つめて黙ってしまったディトール。その表情から、〝見せる状況ではなくなった…〟 という言葉を感じ取ったのか、イオータが 〝しょうがねぇなぁ…〟 という溜め息を付いたかと思うと、ズイズイと机に近付いてきた。
「んじゃ、見せてみろよ」
「あ…」
強引にディトールの手から紙の束を奪うと、それを机の上で無造作に広げた。紙には花や草の絵が描かれていて、色はもちろん、特徴となる部分が分かりやすく箇条書きにされていた。
「まぁ…」
小さな感嘆の言葉を漏らしたのは母親で、ルシーナもその絵に惹かれはしたが、敢えてなのか、すぐに視線を外した。
「なるほど。状況からすれば薬草の絵…ってところだな」
「……………」
「けど、名前が殆ど書いてねぇぞ?」
「それは……僕も分からないんです…」
「は…?」
「実際は、薬草かどうかも分からないんです。扱う事の許されている薬草は、何とか調べる資料があるのですが、それ以外は何も…。だから、親に内緒で山に入っては、目に付く草や花を描きとめるようにしたんです…」
「いつか自分を助けてくれた人を見つけ出し、一緒に研究させてもらう日の為に…か」
「……………」
言葉でこそ答えはしなかったが、スッと机の上に視線を戻し静かに片付けるディトールの横顔には、〝全ては無駄に終わりました…〟 という言葉が浮かんでいた。
彼にとって、きっとそれは希望だったに違いない。親の帰りが遅くて一人で食事を摂るような孤独に耐えていたのは、いつか薬師の研究ができる日が来ると信じていたからだ。そうじゃなければ、耐えられるはずがない。ううん、それだけじゃないわ。禁止されている以上、表立って調べる事はできないし、父親が役人補佐という職業ゆえ、気付かれるわけにもいかない。自分の夢を話すことはもちろん、応援すらしてもらえない状況で耐えてこられたのも、全てはこの希望があったからだ。自分にできる唯一の事が、草や花の絵を描きとめるだけだとしても、彼はその希望をずっと胸に抱いて頑張ってきた。その想いは、描きとめてきた紙の束を見ればどれほど強いか伝わってくる。なのに…なのに全てが無駄になり、自分を支えてきた希望がなくなったなんて…。
「ディ──」
「あした…」
え…?
何をどう言っていいか分からなかったが、とにかく声を掛けずにはいられなくて口を開けば、重なるようにルシーナの声が聞こえ、自然とみんなの視線が彼女に集まった。
「明日…?」
明日がどうしたのかと聞き返せば、
「それ、アシタバ」
〝明日〟 ではなく、〝アシタバ〟 とハッキリ返ってきた。
「それ…って…」
ルシーナの視線を追うと、ディトールの右手とぶつかった。いや、正確には右手に持っている一枚の紙だ。その絵を見てハッとしたのはあたしだけじゃないだろう。
「も、もしかして…アシタバっていうの、この草…?」
「…乾燥させたものを煎じて飲んでると、少しずつ食欲が出てくる…」
ルシーナは、頷く代わりにそう答えた。
それが使用方法と効果だと分かれば、ディトールは慌ててその紙にルシーナの言ったことを書き記した。
そして次に、違う絵の紙を取り上げると、
「アオキ……切り傷や腫れ物に効き目があって、葉っぱを火であぶってから傷口にあてるの…」
再びルシーナの説明があり、それまで希望の光を失っていた彼の目に、僅かな輝きと力が戻ったように見えた。アシタバと同じように書き記すと、また別の紙を取り上げる。
「それはただの草…」
「あ…ぁそうか…じゃぁ、これは──」
「センダングサ。風邪や熱を出した時に葉っぱや茎を煎じて飲むといい…」
そんなルシーナの説明は、ディトールが絵を手にするたび続けられた。
ただの同情か、それとも仲間意識か…。戸惑いながら説明するルシーナを見れば、おそらく本人もどうしてディトールに教えているのか分からないのだろう。けれど、いつの間にかルシーナの戸惑いは消え、生息時期や生息場所、そして使用する部位など、説明は次第に事細かになっていった。
あたしはそんな二人を見ていて、よかった…と思う一方で、ひとつの不安が頭から離れないでいた。
確かに、自分で調べたルシーナには、父親と同じかそれに近い知識がある。ディトールにとって父親の弟子は無理でも、ルシーナと一緒に研究する事は可能だ。目指す所が同じなら、そうあって欲しいと思うのに、やっぱりディトールの事がルシーナに知られたら…という不安がついて回る。彼の父親が役人補佐だと知ったら…見せかけとはいえ、彼が役人を目指していたと知ったら……間違いなくこの関係は一気に崩れ、最悪、元に戻らないかもしれないのだ。
隠せるものなら隠し通して欲しい。だけど、いつかは必ず知られてしまうことだ。その 〝いつか〟 がきたらどうすればいいのだろうか…。
あたしは、薬草について生き生きと話している二人を見つめながら、その時の事ばかり考えていた。そんな時、不安そうな顔をしているあたしに気付いたのか、ルシーナの隣で座っている母親と目が合った。あたしが何を考えているのかは分からないだろうが、母親はまるであたしを安心させるかのようにニッコリと微笑んだから、あたしも反射的に笑みを返した。が、とてもぎこちないものになったような気がする…。
「それにしても、よく知ってんだな?」
残り半分ほどになったところで、感心したイオータが口を挟んだ。
「自分で調べたのか?」
「それもあるけど、殆どはお父さんが調べたものなの。でも、全部は覚え切れなかったけどね…」
「覚え切れなかった…?」
「あたしも一緒に調べるって言ったけど、絶対に許してくれなかったからさ……だから、お父さんのいない時にこっそり部屋に入って、書いたものを少しずつ覚えたのよ。でも読めない字とかがあって全部は覚えきれなくて…そのうち、あいつらに見つかって…お父さんが殺されちゃった…。小さな紙切れから手帳から……書いたものは全部焼かれたから、あとは自分で調べたの」
「じゃぁ…調べた事はもちろん、覚えてる事も改めて書き起こしたの?」
どこかに隠しているという、紙なり手帳なりのことを聞いてみたのだが、ルシーナは少し不思議そうな顔をしてから、首を振った。
「そんなのないよ」
「え…?」
驚いたのは、母親も同じだった。
「だって、どうせ見つかったら焼かれちゃうんだし…証拠になるようなものは残せないでしょ?」
「なるほどな。記憶なら証拠なんか見つかんねーし、奪おうと思って奪えるものじゃねぇってことか」
「そっ! おにいさん、頭いいね?」
「幸か不幸か…それを悟って既に実践しているお前の方が、賢いぜ、きっと」
「そう? ありがとう」
〝幸か不幸か…〟
考えなくても、決して 〝幸〟 とは言えないのに、〝ありがとう〟 と笑って言えるルシーナに、あたしが掛ける言葉はなかった。
「──じゃぁ、次はどれ?」
再び机に視線を戻し問いかけると、ディトールが残り半分の中から一枚を取り出す。
「これは…?」
「これ…? んん~…それは知らないなぁ。今まで見たことないけど──」
あたし達からすれば知り尽くしてるはずのルシーナ。その彼女から 〝見たことない〟 と言われ、何気に覗き込んでみれば…。
あ…れは── !
あたしがハッと息を飲むのと、イオータがディトールから紙を取り上げたのは ほぼ同時だった。
「お…い、お前、これ見つけたのか!?」
「え…? あ…はい…。特に変わった花じゃなかったんですけど、一輪だけ咲いてたので…」
「そりゃそうだ……ってか、ほんとに存在しやがったのか…」
「知ってるの、おにいさん…?」
「あ? あぁ…まぁな。今まで見た事ないっていうのも当然だ。なにせ、見つける事すら奇跡に近いと言われる、〝希望の花〟 なんだからな」
「希望の花…?」
二人が聞き返した言葉を、あたしも心の中で繰り返したが、それは彼女たちと違い、驚きのものだった。なぜなら、あたしが知っている名前とは正反対とも言えるほど違ったからだ。
確かに、その絵はエステルの記憶の中で見たものと同じだった。ジェイスの為に祈ったあの花と同じなのに…全く意味が違う 〝希望の花〟 だなんて…。
ここでは、口が裂けても 〝死の花〟 なんて言えない。だから、イオータの言葉を使って、改めて問いかけてみた。
「希望の花…ってどういう事…?」
「その名の通り、望みを叶えてくれる 〝希望〟 の花さ。ただ、季節はもちろん、どんな場所に咲くのかも決まっていない」
「……………!」
「夏に見たやつもいれば、冬に見たやつもいる。人知れず咲いて、一日で枯れちまうんだ。しかも咲くときは一輪だけだぜ? 普通は種を残すから、周りに同じ花が咲くもんだろ?」
「つまり、種がない…ってこと?」
「多分な。枯れた花に種は残ってなかったっていうし、望みが叶ったあとは、まるで粉のように散って跡形もなく消えちまうらしい。まぁ…オレも実際には見たことねーし、古い花の絵を見せられて、言い伝えのように聞かされただけだから、正直、信じてなかったんだけどな。その花の咲き方が言い伝え通りなら、〝奇跡の花〟 と呼ばれてもおかしくねーってわけだ…」
「奇跡の花…」
納得するような最後の口調に、繰り返したのはネオスだった。
「村によって呼び名が違うみたいだぜ。オレの村では 〝希望の花〟 だったが、見つけるのが奇跡に近いからって、〝奇跡の花〟 って呼んでた村もあった」
──だとしたら、やっぱりこの花は 〝死の花〟 に違いない。
〝望みが叶ったら粉のように散って跡形もなく消えちまうらしい〟
花が咲く状況だけじゃない。その現象もエステルが願った後と同じだもの…。
「なんか、すごい花なのね。もっと早くにその事を知ってたら、ディトールも何か願えたのに…。よぉし、今度あたしが見つけたら、薬草を扱える街になりますように…って願ってみるわ」
「あぁ、見つけたらな」
「──ダメよ」
本気か否か…いや、その花を見つけたら間違いなくそう願うであろうルシーナの言葉。けれどあまりにも安易なその会話に、あたしは思わず強い口調で反対してしまった。
「絶対にダメ、何も願っちゃダメよ」
「どう…したの、おねえさん?」
「あ…ご、ごめん…。でも…いいことがあれば悪いことがあるように、何かを手に入れたら何かを失う事ってよくあるのよ。望みが叶ったら、その代償に自分の大切な何かを失ってしまうかもしれない…。だから…だから、そんな簡単に願っちゃダメなの」
エステルたちにとって死を予知する力は、失って幸せなものだったのかもしれない。でも、一番必要とした時に失ってしまったとしたら…そしてそれが原因で更なる歪が生じるなら、やっぱりそれは大切なものに違いないのだ。
二人の事を思い出してあまりにも真剣な顔をしていたからだろうか、
「…そうなの、おにいさん…?」
振り返ったルシーナが、そっとイオータに問いかけた。
〝希望の花〟 の言い伝えに、〝代償〟 があるかどうかはあたしには分からない。だけど 〝代償〟 という言葉で、あたしが何を考え、何を言おうとしているのかは分かったようだった。
「…まぁ、人生そう甘くはねぇからな。自分で叶えるならともかく、何かに頼って叶えてもらうなら、それなりの代償は必要だろ。──なぁ、ネオス?」
〝そう思うだろ?〟 と振ったのだが、ネオスには珍しく 〝心ここにあらず〟 の表情をしていた。
「おい、聞いてっか?」
「え…?」
改めて問われ、ようやくハッとする。
「あ、あぁ…もちろん、僕もそう思うよ。もしかしたら、自分だけじゃなく他の人の大切なものまで失ってしまうかもしれないしね…」
「ふぅ~ん…そっか。まぁ、いいんだけどね。神様なんて信じてないし、花が望みを叶えてくれるなんて、考えたら有り得ないもんね。うん、分かった。何も願わないよ、あたし」
「ルシーナ…」
ごめん…そういう意味で言ったんじゃないのに…。
何も信じるものがない…そんなルシーナの気持ちを更に強くさせた気がして、何だかすごく胸が痛んだ。
その後、全ての絵にルシーナの説明が書き加えられると、ディトールはまた明日も来ると言い残し帰って行った。
それでも、帰り際にディトールが約束してくれた。役人の試験もあるし、いつまでも隠し通してはいられない。時期を見て必ず父親と話し合ってみる…と。ならばその時まで、どうか知られないように…と心の中で祈りつつ見送ったのだが、それは意に反して、あまりにも早く知られてしまうのだった。