2 役人を目指す少年 ※
「…ちょっと、ラディ。あなたのせいよ!?」
「なんでオレなんだよ?」
「あなたがあんな起こし方するから、怒っちゃったんじゃない。あぁ~もう、あのお店だって入ってみたかったのにぃ~~」
「あんな起こし方ってなぁ…。あいつがなかなか起きなかったから、〝襲っちまうぞぉ~〟 って言っただけだろ? 実際、襲ったわけでもキスしたわけでもねーし…だいたい、オレの愛情表現に本気で怒ったことなんか一度もねーじゃねーか」
「分かってないわねぇ。女っていうのは我慢する生き物なのよ。我慢に我慢が重なって、突然 爆発しちゃうの。キッカケなんてほんと些細な事で、特別な事じゃないんだから!」
「な~にが、女は我慢する生き物、だ!? オレはお前が我慢したトコなんて一度も見ことねーぞ」
「なんですって~!?」
「そうだろうーがよ。時と場合なんか関係なく、思ったことは何でもすぐ口にするじゃねーか」
「それはあなただって同じじゃない! ──いいえ、私よりひどいわよ!!」
「どこがだ!?」
「全てよ、全て! あなたが口にする事はぜ~んぶっ!」
「──ンだぁ!?」
「何よぉ!」
あたしの機嫌が悪いのはそっちのせいだ、と責めていた二人の声は、最初こそ小声だったものの、今や人目も気にしないほど大声になっていた。
──どっちもどっちよ。
溜め息混じりに突っ込んだのは、もちろん心の中でのみ。だけど、別に機嫌が悪いわけではなかった。
あれからようやく眠りにつけたのは、イオータの寝息が聞こえてくる明け方近くになってからだった。
それから数時間経ち、日の光が顔に当たるのを感じていると、ふいに耳元で 〝襲っちまうぞぉ~〟 と聞こえた。それで目を覚ましたのだが、同時に瞼の違和感を感じて飛び起きると、彼らを避けるように顔を洗いに行ったのだ。
腫れた目を見られれば間違いなく泣いていた事がバレてしまう。特に、ミュエリはそういう事に敏感だから、色々と聞いてくるに違いない。そう思い、慌ててその場を離れた上に、なかなか戻って来なかったのが、どうやら 〝怒らせた〟 と思わせたようなのだ。
目を冷やしてから戻ってくると、既に結界はなくなっていた。
朝になったら自然と解けるのか、それとも解く方法があるのか…。
色々聞いてみたかったが、脳裏を横切るのは あの突き放すような言葉と態度で、結局、あたしはイオータの顔さえもまともに見れなくなっていた。
気分は最悪…。
それが更に、〝話し掛けれないほど怒っている〟 と思わせてしまったらしい。
向こうが話してこないから、あたしも話すことはなく…最低限の会話だけで山を下りると、目の前に広がっていたのは別世界とも思えるような賑やかな村だった。ううん、着ている服はもちろん、連なる建物も全て、一目見てきちんと統治されていると分かる、栄えた 〝街〟 だ。
そんな場所に来てウズウズするのはミュエリの心。買う・買わないは別として、色んな店に入りたいのに、あたしが無言で歩き続けるから 〝入りたい〟 とも言えなくて、その不満をラディにぶつけるしかなかったのだ。
『どうしたのですか、ルフェラ?』
ルーフィンの体が足に触れて、スッと言葉が流れ込んできた。
『あぁ…ルーフィン…』
『機嫌が悪いというよりは、落ち込んでいるように見えますが…?』
『う…ん、その通りよ…。あまりにも自分が情けなくて…』
『──というと?』
『言わなきゃよかったと思ってさ…。折角ルーフィンが忠告してくれたっていうのに、その事すっかり忘れてて……同じ力があるって分かったら、それまで不安だったことが一気に溢れてきちゃって……気が付いたら喋ってた…』
その説明ではすぐに理解できなかったようだが、ややあって静かに口を開いた。
『彼に…イオータに話したのですね…』
『うん…。でも、肝心な事は何も教えてもらえなかったわ。逆に疑問だけが増えて……ほんと、ルーフィンの言った通りアテにならなかった…』
『そうですか…。でも、あなたが落ち込んでいるのは、アテにならなかった事より、素っ気なく突き放されたことではないのですか?』
『…………!?』
どうしてそれを…?
その言葉を驚くあたしの表情から受け取ると、当然の言葉が返ってきた。
『鼻はもちろん、耳もいいですからね』
『あ……聞こえて…たのね…』
『はい』
『…そっか…そうよね…。うん…ルーフィンの言う通り、突き放されたのがショックだったのよ。言い出したのはそっちなのにって腹も立ったけど…結局、あたしは一人なんだって思ったらなんか悲しくてさ…』
『ルフェラ…』
『あ、ごめん…決してルーフィンをアテにしてないって事じゃ──』
『ネオスに話す約束はどうされますか?』
『え…? あ…ぁ、それは……ちょっと…』
『話せま…せんか?』
『…うん…』
『どうしてです?』
『だって…イオータのような態度をされたらって思うと、なんか怖くて……』
『無用な心配ですよ。ネオスに限ってそんな態度は──』
『分かってる…。何も分からなくても、そんな冷たい態度はしないっていうのは…。でも……頭では分かってても…そんな気になれないっていうか…とにかく、今すぐは無理なのよ…』
『……………』
『ごめん…。もう少し時間をちょうだい、ルーフィン…』
必ずいつかは話すから…そう思い 〝お願い…〟 と目で訴えると、ややあって、ルーフィンの小さな溜め息が聞こえた。
『私は、あなたの事が心配なだけなんです…』
『ルーフィン…』
『でも、無理強いはよくありませんからね。──分かりました、もう少し待つことにしましょう』
『ありがとう、ルーフィン…』
心配掛けてる分、自分の言い分はきっと我が侭なんだと思う。でも、やっぱりすぐには無理だ…。
その気持ちを汲んでくれたルーフィンの言葉にホッとする共に、あたしは 〝ごめんね〟 という思いも最後に付け加えた。
そんなルーフィンとの会話が終わったのを知っていたかのように、今度はネオスが話しかけてきた。
「…ルフェラ?」
「え? あ…うん、何…?」
「別に、怒ってるわけじゃないんだろう?」
後ろを気にしながらの質問は、二人に聞こえない程度の小さな声だった。
「あ…う…ん、まぁね…」
「やっぱり」
「勘違いしたのはあっちだし、そう思わしておいたほうが静かになっていいかなぁ~なんて思ったんだけど…」
「作戦は失敗だったってわけだ?」
「そっ、大失敗。でも、ミュエリがあっちこっち行かないだけマシなのなぁとも思ってさ」
そう言って小さく笑うと、ネオスがホッとしたような笑みを見せた。
「…よかった」
「え…?」
「実は僕も気になってたんだ。原因は別にしても、何かあったんじゃないかと思ってね」
「あ…」
「でも…何かあったとしても、笑顔が出るようなら そう大したことじゃない、かな?」
「う、うん…ごめんね、なんか心配掛けちゃって……」
「いや──」
そう言いかけたのと、少し離れた所から 〝おい、待て!〟 と聞こえたのは同時だった。その直後、ドン…と勢いよく何かが腕に当たり、バランスを崩したあたしは後ろに倒れそうになった。そんなあたしを、ネオスが即座に支え引っ張ってくれた為、転ばずに済んだのだが──
「きゃ…え──」
「おっ…うおっと……とと…ぐおぉぉっ!!」
聞き覚えのあるうめき声が聞こえたと思ったら、バシャーンッ…という誰かが水に落ちる音が聞こえた。反射的に振り向けば……
「ラディッ!?」
すぐ横を流れていた小川で、びしょ濡れになっているラディの姿がそこにあった。
「ちょっと…大丈夫…!?」
「お…ぉ……ルフェラ……いきなりあいつがぶつかってきたからよ…」
そう言われラディが見やる人ごみに目をやれば、こっちを振り返りつつも走って逃げる少年の姿が見えた。それもすぐに人ごみに消えてしまい、次いで、彼を追いかけていたであろう大人が数人、あたし達の横を通り過ぎて行った。
あれ…でも、川の近くにいたのはミュエリのはず…と彼女に視線を移すと、イオータに受け止められたような姿に、ピンときた。
ミュエリを庇ったってわけね…。
なかなかやるじゃない、と微笑めば、ラディの声が一段と大きくなった。それは怒っているような口調なのに、何故か顔が緩んでいた。
「何笑ってんだよ、ルフェラ!?」
「別に笑ってなんかないわよ」
「いいや、笑った」
「だとしても、変な意味じゃないわ」
「んじゃ、どんな意味だよ?」
「そんなことより、早く上がってきたら? 風邪引くわよ?」
「そんなことって………あぁ、まあいいや。ようやく口聞いてくれたし、お前の笑顔も見れたしな」
そう言って立ち上がろうとしたのだが──
「────ッ!」
どこかに激痛が走ったらしく、顔を歪ませて崩れてしまった。思わず、ラディのもとに走り寄る。
「ちょっと…ラディ!?」
「は…はは……何か…挫いちまったみたいだ……」
「挫いた…? どっちを?」
「左…。けど、丁度 足が冷えていいかもな…。──って、風邪引くって言った お前が川ン中入ってきてどーすんだよ?」
「そんなこと気にしてる場合じゃないでしょ? とにかく川から上がって、先生に診てもらわないと……ほら、掴まって」
ラディの左側に座り込むと、腕を肩に回すよう促した。
「お…おぅ…サンキュー…」
ラディは少々躊躇いがちにあたしの肩に腕を回し、立ち上がった。そして、ふらつきながらも何とか川から上がると、そのまま地面に座り込んだ。
「あたし、先生探してくるから──」
「大丈夫だって、こんなの。突いた指の措置と一緒でよ、挫いた方向と反対の方に思いっきり曲げれば──」
「ちょ──」
そう言いながら足首を曲げようとするラディの手を止めようとしたのだが、
「ぐぉおっ…!」
そのまま足首を押さえたまま、うめき声と共に固まってしまった。それでも、何のこれしき…と足を動かそうとしたところで、あたしの後ろから引きつった声が飛んできた。
「何やってるんですか、ダメですよ!!」
突然の声に、ようやくラディの手が止まった。──と同時に、その声の主であろう少年がラディ目の前にガバッと座り込むと、そっと足を持ち上げた。
「な、なんだ…?」
「いいですか。ちょっと動かすので痛いでしょうが、我慢してください」
そう言うや否や、ゆっくりと足首を動かした。
「ぬぉ…っ…ぉおっ……!?」
数回、ラディのうめき声が聞こえたのは、同じ回数、少年が彼の足首を動かした為で…、その痛みにイラついたラディが 〝何すんだ、てめぇ…〟 と言いかけた矢先、
「よかった…骨は大丈夫のようです」
──と返ってきたから、ラディのイラつきも瞬時に消えた。
「多分、二・三日は腫れと痛みが強くて、地に足を着ける事さえ出来ないと思います。安静が一番なので足を固定して……まともに歩けるまでに十日間は見ておいたほうが─」
「十日っ…!?」
「はい」
「マジ…かよ? ってか、お前は何なんだ? まさかその歳で病の──」
「い、いえ…違います。ただちょっと……」
〝病の先生なのか〟 という問いに、とんでもないとばかりに手まで振って否定したのだが、そのあとに何か続けようとしたものの、周りを気にするようにハッと口をつぐんでしまった。その様子が気になったのか、イオータがすかさず最後の言葉を拾った。
「 〝ちょっと…〟 何なんだ?」
「あ、いえ…別に…。──あ…ぁ、それよりひとつ聞いていいですか?」
「なんだ?」
「皆さん、この街の人じゃないですよね?」
「あぁ。ついさっき、ここに着いたばかりだが…」
「じゃぁ、僕の家に来ませんか?」
「お前の?」
「はい。家もすぐ近くだし、ちょっとした手当てくらいはできるので…」
〝この街の人じゃない〟 という事と、〝じゃぁ、僕の家に来ませんか〟 という、〝じゃぁ〟 という繋がりがよく分からなかったが、右も左も分からない状況では、手当てをしてもらえるというだけでもありがたい事なわけで…イオータの 〝どうする?〟 という無言の言葉に、あたしは 〝うん〟 と頷いたのだった。
「悪いな。んじゃ、お前の言葉に甘えさせてもらうぜ?」
「はい、どうぞ」
〝こっちです〟 という言葉に、ネオスとイオータが左右からラディを支えると、彼らの後ろからあたしとミュエリとルーフィンが続いたのだった。
少年の家に着く僅かな間にも、ラディの足が見る見るうちに腫れていくのが分かった。重力の関係で血の気がそこに集中し、ズキンズキンと響くような痛みが徐々に増していたのだろう。ラディの口数は次第に少なくなり、最後には全く喋らなくなっていた。
その腫れていく足を、らしくないほど心配そうに見ていたのはミュエリで、
「大丈夫よ。骨は折れてないって言うし、十日もすれば治るって言ってんだから」
──と声をかけると、〝べ、別に気にしてないわよ〟 とそっぽを向いた。けれど、もともと思った事を口にしてしまう──ある意味、真正直とも言える──ミュエリだ。その口調と表情を見ていれば、自分のせいで…と思っているのは十分に分かることだった。
少年は一足先に家の中に入っていくと、しばらくして着替えを持って戻ってきた。
「これ…父のですけど、どうぞ。着替えてる間に、僕は色々と準備してきますので」
そう言うと再び部屋の奥へ行ってしまった。
あたしとミュエリは、ネオスに呼ばれるまで外で待つことにしたのだが、その間も、ミュエリは罪悪感の為かずっと黙ったままだった。
数分後、呼ばれて家の中に入ると、丁度、少年も奥から出てきたところで、〝こちらです〟 と、あたし達を部屋の中に案内してくれた。
通された部屋は彼の勉強部屋のようで、本棚には沢山の書物がギッシリと並べられていた。その量に圧倒されたのは、そんな状況でないラディ以外の全員で…それでも二人が勧められた椅子にラディを座らせると、彼の足元に少年が座り込んだ。
手元に用意してあったのは白い何かが入った器と布。
少年が器の中の 〝白い何か〟 をヘラですくい取ると、それはねっとりとした練り物のようだった。それを布に塗り始めたのを見て、訝しげに聞いたのはラディだ。
「おい…? なんだ、それは…?」
〝手当てする〟 と言われても、足を冷やすくらいだと思っていたのに、妙なものを目にしたから少々 不安になったのだろう。
少年は、ラディの質問が当然の事であるように答えた。
「貼り薬です。これを痛めた所に貼り付けておくと、痛みや腫れや炎症などを軽くしてくれるんですよ」
「へ…ぇ…そうなのか…?」
「すごいのね。でも、中には何が入ってるの?」
質問したのはミュエリだった。
「イヌザンショウという実です。それを乾燥させ潰した物を、小麦の粉と水で練り合わせるんです」
「ふ~ん…イヌザンショウの実にもそんな効果があるんだ…」
「はい。──じゃぁ、貼るので…少し冷たいですよ?」
「あ、あぁ」
その返事を聞いてから、腫れた足首を包むように貼ると、次いで固定も兼ねてか少々きつめに包帯を巻いた。
足を動かすたびに響く痛みは仕方がなく、その都度、堪えるように息を止めていたラディだったが、それは巻き終わってからも続いたようで、しばらくはジッと無言で堪えていた。
「それにしてもすごい本ね。ひょっとして、これ全部、病の先生になる為のものなの?」
「…え!?」
手当てが済んで気持ちも落ち着いたのか、部屋に入った時の驚きと好奇心を口にしたミュエリだったが、驚いたのは少年の方だった。
「え…って…だって、こんなに分厚い本が──」
──と、何気に本を取り出し開いたところで気が付いた。
「あら…違う…?」
「…はい。それはみんな役人になる為の本です。この街の歴史や、制度、法律など…十六になったらその試験を受ける事ができるんですよ」
「そうなんだ…。何か、難しそうね。でも、お父さんは病の先生なんでしょ? 跡を継いだりとかはしないの?」
その質問に、少年は困った顔をした。
「あ…私…何か悪い事 聞いたかしら…?」
「い、いえ…。ただ、どうしても僕と病の先生を結び付けて考えているようなので…」
「え…違うの?」
少年は申し訳なさそうに頷いた。
「やだ…ごめんね…。薬の知識もそうだけど手当ても慣れてるって感じだったから…てっきりそういう事に関わってるんだと…」
「僕の父は役人の補佐をしているんです」
「役人の補佐? それって、結構いい仕事じゃねーのか?」
ようやく話に加わったラディの言葉に、少年は小さく首を振った。
「役人の補佐と言っても、与えられる仕事は役人が面倒だと思うものばかりなんですよ。しかも時間のかかるものが多いので…僕が起きている時に帰ってこれたのは数えるほどです。将来の生活自体は保障されるけど、補佐は補佐のまま…昇格もないですしね。一方で、役人は全てにおいて将来が保障される上に、仕事も補佐役よりラクなものが多いので、みんな役人になりたがるんですよ。ただ…役人になるには既定の年齢…十六歳で試験に受からなければならなくて…その試験に落ちた者や、事情があって試験を受けれなかった者は、生涯、役人にはなれないんです」
「へぇ…なんか、すっげー厳しいんだな…?」
「…はい。だから、役人になれなかった人は、試験に年齢制限のない役人補佐という試験を受けるんですよ。父は、運悪く試験当日に熱を出してしまって、役人の試験を受ける事ができなかったんです」
「それで、役人補佐に…?」
「はい」
「──ってことは、父親の代わりに息子の自分が夢を叶えてやる…って思ってんだな?」
「いえ…そういうことでは──」
「あら、照れなくてもいいじゃない? そういうのって素敵なことだもの、胸張って、〝俺が父親の夢を叶えるんだ〟 って言えばいいのよ」
「…え、えぇ…まぁ…」
微妙な返事でも、〝そうですね〟 という意味には変わらないのか、ミュエリは満足げに頷いた。
「それにしても、静かな家だな? 他に誰かいないのか?」
開いている扉に寄りかかり、そこから見える他の部屋を伺うようにして質問したのはイオータだった。そのあとに、ラディが続く。
「そういや、誰の声も聞こえねーよな? 兄弟とか母親はいねーのか?」
「はい…僕は一人っ子なので…。あ、でも、母親はいますよ。ただ、働きに行っているので帰って来るのは夜遅くですけどね」
「んじゃぁ、昼も夜もお前一人なのか? メシはどうしてんだよ?」
「ご飯は…父親の二の舞をさせまいと栄養に気を配っているので、専門の人を雇ってご飯を作ってもらっているんです」
「マジかよ…? なんか、すげーな…お前んち…」
〝すげーな〟 と言いつつも、それはいつもの 〝すげーな〟 という表情ではなかった。感嘆というよりは同情に近いものだろうか。それが少年にも伝わったのか、彼も複雑な表情を浮かべた。
その後、僅かに訪れた沈黙。空気が微妙に重く感じたのは、みんな同じものを感じていたからだろう。そんな雰囲気を──意図的かどうかは分からないが──変えたのはミュエリだった。
「ねぇ、それよりこれからどうする? 私、この街を色々見てみたいんだけどぉ…」
「そんなもん、行きたきゃ一人で行けよ。オレはまともに歩けねーんだから」
「あら、そんなの当然でしょ? 私も歩けない人を連れまわすほど鬼じゃないわ」
「そうか、んじゃ──」
「出かけるのは私たちだけ。あなたは大人しくここで留守番してればいいのよ」
「なにぃ!?」
〝当然〟 と言い切ったのが 〝一人で行く事〟 ではなかった事に、ラディは素直に驚いた。
「お前…それが鬼じゃないヤツのすることかよ?」
「失礼ね。鬼どころか天使のようじゃない」
「どこが!?」
「あなた一人を置いて行くって言ったって、ルフェラが残るって言うに決まってるでしょ? ねぇ?」
つまり、そうなれば二人っきりになれるじゃない、という意味をラディに伝えたのだ。けれど、〝ねぇ、そうでしょ?〟 と同意を求めたのは、〝そう言うわよね?〟 というあたしに対してのものだった。
あたしは、浅い浅いミュエリの考えとは対照的に、深い深い溜め息を付いた。
「そんなことより、先にしなきゃならない事があるでしょ?」
「…何よ?」
「宿探しに決まってるでしょうが?」
「そんなの色んなところを見て回りながら探せばいいじゃない」
「あんたがいてそれができれば苦労しないわよ」
「だったら、二手に分かれましょ? 私たちは店を回りながら探して、あなたは宿を専門に探すの。どう、これなら文句ないでしょ」
〝二手〟 の分かれ方が、彼女の中で既に決まっている事に気付きながらも、それ以上は突っ込まない事にした。
「分かったわよ。じゃぁ、あたしは──」
一人で探すから…と言おうとしたところで、少年が口を開いた。
「あの…ここでよければ泊まっていきませんか?」
「え…?」
「…とは言っても全員は無理ですけど…。でも、二・三人なら布団もありますし、食事も多めに作ってもらえば済みますから。それに…宿を確保できても、彼のこの足では辛いと思います」
そう言われて、確かに…と思った。
あの足では歩けないのはもちろん、仮にイオータに背負ってもらったとしても、今は僅かな振動でも辛いに違いないものね…。安静が大事だけど、何より意識のある男性が誰かに背負ってもらうというのは嫌なものだろう。
そう考えると、あたしは彼の申し出に甘える事にした。
「じゃぁ、ラディをお願いできるかな? それからミュエリも──」
「ちょ、ちょっと! どうして私がラディと泊まらなきゃならないのよ!?」
「おまっ…それはこっちの台詞だっつーの! オレだって、断然ルフェラのほうがいいに決まってんじゃねーか!」
「それこそこっちの台詞よ! 私だってあなたよりネオスやイオータのほうが──」
「はいはいはい、そこまで!」
あたしはエスカレートしていく二人の会話にストップを掛けた。
「ラディはともかく、その方が気分的にラクなんでしょ、あんたの本音は。──違う?」
「そ、それは……」
一人で留守番してればいい…なんて口では言っているが、本音はラディのケガに責任を感じているミュエリだ。恋人みたいに世話を焼くなんてことはしないだろうが、何気に手助けできる状況の方が彼女にはいいのだ。
案の定、その言葉は否定しなかった。
「い、いいわよ。その代わり、どうなったって知らないからね」
「どうなっても…ってねぇ…何の脅しよ、何の?」
言いたい事は分かっていたが、敢えてそう突っ込んでみた。
「決まってるでしょ。ラディと二人っきりになったら──」
「──なら、オレが残ってやるよ。それならいいだろ?」
あとに続く言葉を省略するように、イオータが名乗りをあげた。
「好きなだけやれよ。頃合を見て止めてやるから。──そうだな、頭から水 ぶっ掛けんのもいいし、無言で剣を抜くってゆー手もあるしな」
ケンカの仲裁方法を面白そうに説明するものの、面倒臭くなったらそれもやりかねないと思うのは二人にも分かる事で……。
「あ…あぁ~…そうだな…でも、結構 大人しいかもよ、オレたち。なぁ、ミュエリ?」
「え、えぇ…。多少は声が大きくなるかもしれないけど、ねぇ?」
「そうそう。声がな…」
そう言って見せる笑顔は分かりすぎるくらい引きつっていて、見ているあたし達にはなかなか面白いものだった。
「──じゃぁ、そういう事で…ラディとミュエリとイオータの三人、お願いできるからな?」
「ええ、もちろんです。本当に大したことはできないですけど…でも、ラディさんの手当ては任せてください。──あ、それから僕はディトールと言います」
「ありがとう、ディトール。あたしはルフェラで、彼はネオスよ。かなり煩くなると思うけど…あまり酷かったら、手当てする時、乱暴に扱っていいから」
よろしくね、と握手をしながら、最後の言葉は本人に聞こえないようにそっと囁いた。それを聞いたディトールも、〝分かりました〟 と小さく笑って返事を返した。
「それじゃぁ、僕たちは宿を探しに行こうか、ルフェラ?」
「あ…うん、そうね」
宿に泊まる者が宿を探すのは当然で、最初に二手に分かれると言った時のメンバーとは違ったようだが、イオータの脅しが効いているからか、ミュエリは何も言わなかった。が、代わりにラディがビシッと指を差して言い放った。
「ぜってぇ、ルフェラに手ぇ出すんじゃねーぞ、ネオス!」
そんな有り得ない警告に、イオータが笑う。
「ははは。心配すんな。出したくても出せねぇ事ぐらい、あいつが一番よく知ってるさ」
「…どういう意味だよ?」
「あぁ? 何でもねぇ、こっちの事だ。なぁ、ネオス?」
あたし達が、またもや意味不明な…あるいは意味ありげな言葉に眉を寄せたのは当然のことで……けれど同意を求められたネオスだけは、どこか切なそうな笑みを返していた。
「──じゃぁ、二人を頼んだよ、イオータ」
「あぁ。そっちもな」
それは何でもない会話のはずなのに、どこか二人にしか分からないニュアンスがあるように感じられた。が、その事を考えるヒマはなく…あたしは、再度 ディトールに挨拶して出て行くネオスの後を追うしかなかったのだった。