11 罪人の償い ※
はぁ…はぁ…はぁ……
感覚が……戻ってくる……それも、彼女の意識を保ったまま…。
どちらか一方の意識下でしか動けないと思っていたが、今は痺れた手や足に途切れていた血が流れるように、ジンジンとした感覚が戻りつつあった。
地面を蹴る感覚、剣を握っている感覚、走ることにより受ける風の感覚、それに流れ落ちる汗や息の上がる苦しさ…。更には、彼女の心が自分のもののように感じられてきた。それはまるで、このまま彼女と一体化していくんじゃないかとさえ思えてくるものだった。
だから分かった、間違いなくこの先に 〝彼ら〟 がいることを。ネオスとテトラと…そしてジェイスだ。なぜジェイスがそこにいるのかは分からないが、あたしはエステルを通してその事実を知った。
あたしたち──エステルとあたし──は、この暗い森の中を何の躊躇いもなく走り続けた。岩やぬかるみに足を取られて転ぶ不安などはない。まるで安全な足場を知っているかのように自信があるのだ。その自信があたし自身にあるのか、彼女の心を感じているからなのかは分からなかったが、とにかく何の怖さもなかった。
近いわ……!
追いかけていた人の気配を強く感じ、あたしたちは更にスピードを上げた。
心の中で感じる気配はジェイスたちのものだが、同時に体全体で感じるピリピリとしたものは半友好的なものだった。
あ…いつらだ…!
反射的に剣を握っていた手に力がこもった。
一歩…また一歩と踏み出すたび、二つの感覚が強さを増していく。その強さの増し方が同じな為、彼らが同じ場所にいるという事が分かってきた。
そうして夢中で走り続け、木々の間にボウッとした灯りが見えれば、そこに浮かんだ見覚えのある顔に、あたしたちは同時に叫んでいた。
ネオス──!!
「兄さん──!!」
声になっていたのはエステルのほうだった。
感覚は戻っても全ての主導権はエステルにある、そう理解した瞬間でもあった。
彼女の声に──おそらくこちらを振り返ったのだろう──ジェイスたちの姿を遮る黒い人影が一斉に動いた。
「…エステル…!? エステルなのか…!?」
〝まさか…〟 という驚いた声がその向こう側から届けば、彼らが男たちに囲まれている事が分かり、あたしたちの足は躓くように止まった。
「えぇ…そうよ、兄さん…! 待ってて…すぐそっちに行くから!!」
「ダメだ! エステル、こっちに来ては──」
「いいえ、行くわ!」
そう叫んで止まっていた足を踏み出せば、目の前の人影が行く手を阻むように歩み出た。
「へ…ぇ、兄さんと妹ねぇ?」
「アニキを助けるために、一人でここまで来たってか? 美しい兄妹愛じゃねーか、なぁ?」
「あぁ。けど、相手が悪いんじゃねーか、オレたちだとよぉ?」
「よっく言うぜ。相手にとって…なんて考えてもねぇくせによ」
「はは、まぁな」
「──にしても、いい獲物がかかったもんだ」
「あぁ。あの女といい、上玉だしな」
〝あの女〟 という言葉に、数人の顔が後ろを向いた。その視線の先にいるのは、大きな木を背にして身を寄せているジェイスたちだった。その中に、あたしの姿をしたテトラが、ジェイスとネオスに守られるように短剣を構えて立っていた。
その短剣にハッとした。
あ…れはあたしの短剣…! あの子…あたしに全てを教えるだけじゃなく、最初から復讐しに行く為に短剣を持ち出してたのね…!? だけど…いくらジェイスに教わったからって、テトラ一人で復讐を果せるはずがないじゃない! ジェイスでさえこんな状況に陥ってるのに…!
──と考えてまたハッとした。剣術の腕が勝っているはずのジェイスがここまで押されている理由が分かったのはもちろん、隣にいるネオスの右腕が、赤黒いもので染まっている事に気付いたからだ…!
血──!?
ドクン…と心の臓が強く打った。咄嗟に駆け寄ろうとしたが、無論、エステルの意思ではないため動かない。
ネオス──!!
気持ちはいても立ってもいられないのに、どうする事もできないのが悔しい…!
更には、剣も持ってないネオス──持っているのはジェイスに渡されたであろう松明のみ──に刃を向けた事実に腹が立ってきた。テトラを庇って斬られたのだとしても、傷付けた事が許せない…!
二人を庇っているからジェイスは思うように動けない。ならば早く…早く彼の元に行って、エステル…!!
あたしはどうすることもできない怒りと願いを、エステルの中で訴えた。すると、今度はその言葉が聞こえたのだろうか。それまで黙っていたエステルがどこまでも冷静な口調で言い放った。
「──どいて」
「あぁ?」
「そこをどいてって言ってるの」
「ここをどけだぁ? ハッ、いいぜ。その代わり、通行手形がいるけどなぁ」
通行手形…?
心の中で繰り返せば、別の男たちが続いた。
「そうそう。あんたの 〝体〟 という通行手形がな」
「いいねぇ。そこにオレらの印を刻み込むってか?」
「あぁ。今日の獲物はオレらの好きにしていいって言われてるからな」
「へへへ…。久しぶりに食える新鮮な獲物か。兄貴たちには悪いが、今日のは今までで最高の代物だぜぇ?」
「それも一生にあるかないかの、な」
「──さぁ、どうだ? あの体に自分の印を刻みてぇやつは一歩前に出な!」
面白そうに号令をかけると、目の前にいた人影が一斉にズイッと近付いた。更にジェイスたちに刃を向けていた残り半分の男たちからも、〝オレもだ〟 と声だけの返事が届く。
「はっはぁ~、全員の手形が必要なようだぜ、ねぇちゃん?」
普通だったらこのいやらしい言葉に怯え、同時に腹も立つのだろうが、なぜかこの時はそのどちらの感情も湧いてこなかった。ただただ、バカバカしいほどの低レベルな会話にウンザリするだけだったのだ。
そのウンザリした気持ちが溜め息として漏れると、またもやバカな発言が飛びかった。
「ははは、腹をくくった溜め息か?」
「人生、諦めるっつーことも大事だからな」
「そうそう。その方が苦痛も少ねぇしよ、なぁ?」
「あぁ。でもまぁ、ちょっとは抵抗してくれた方が燃える時もあるけどなー」
「そりゃ言えてるか。どうせならこいつの兄貴の目の前でヤっちまうっていうのも、おもしれーかもな」
「おぉ~、いいねぇ」
男たちはどこまでもバカにして笑っていた。
通行手形、か…。
あまりのバカさ加減にウンザリを通り越して笑えてくる。それはエステルも同じなのか、フッと小さく笑うと、
「──それが必要なのはそっちでしょ?」
──と人影に向かって顎をしゃくった。
「あぁ?」
「この世で生きる許可証ではなく、地の獄へ行くための通行手形がね」
「──ンだとぉ!?」
「あんた達みたいなのは、通行手形がなきゃ地の獄にさえ受け入れてもらえない。それとも、この世で地の獄よりも苦しむ魂として彷徨ってみる?」
〝地の獄への通行手形〟
その言葉にカチンときたようだが、ことのつまり、エステルが何を言っているのかを理解すると、再び 〝ハッ!〟 と笑った。
「お前、オレらを殺せるとでも思ってんのか?」
その質問に、エステルは 〝まさか──〟 と答えた。
「はは、そうだよなぁ? オレたちの姿さえまともに見えねぇ上に、男二人がいてもこのザマだ。女一人に何ができるってんだ、なぁ、そうだろ?」
「そうそう! ハッタリは通用しなきゃ意味がねぇんだぜ、ねーちゃん?」
「どうせなら、もっとマシなウソつけよ。兄さんを助ける代わりにあたしを好きにしていいから…とかよっ」
「あははははは…そりゃぁいい! ──とはいえ、兄さんの代わりじゃなくても頂いちゃうけどなー」
「あははははは…そりゃ言えてるか!」
何を言っても、結局そっちの話になるわけね…。
エステルはもう一度溜め息をついた。
「ほんっと、男って最後まで話を聞かない生き物ね」
「──ンだぁ?」
「まさか…って言ったのは、殺せると思ってるっていう、可能性を否定したまでのこと。あたしは──確実にあんた達を殺すのよ」
怯えるどころかあまりにも冷静な態度と発言に、男たちの笑いがピタリと止まった。同時に、ほんの僅かに緩んでいたピリピリとした感覚が、強さを増して感じるようになった。
「ハッ! この状況でまだ言うとはな。ま、その度胸は褒めてやるが、見せる相手を間違えると自分が命取りになるって事を知ることだな」
「さぁ、それはどうかしら?」
「なにぃ!?」
「あたしは誰を相手にしてるのかちゃんと分かってるわ。分かってないのは、あんたたちが誰を相手にしてるかってことよ」
「ンだと、このアマァ──」
自分たちの強さや恐ろしさを否定された上に、女のあたしの方が強いという発言には、さすがに冷静ではいられなくなったらしい。
カッとなった男はエステルの胸倉を掴み上げると、首の根元に刃を押し当てた。そのまま刃をずらせば、太い血の道がザックリと斬られる、そんな場所だ。
「エステル…! エス──」
「おい!」
突然動き出した男たちの人影に、エステルの身を案じたジェイスが助けに行こうとしたのだろう。すぐに彼らを取り囲んでいた男が 〝動くな!〟 と制する声が聞こえた。
そんなジェイスに、エステルが声を掛けた。
「大丈夫よ、兄さん。──あたしは大丈夫」
こんな状況なのに、その言葉はウソじゃないと思えた。強がりや、単にジェイスを安心させる為の言葉じゃない。そこに落ち着きと自信さえ感じられたのは、彼女の心の臓が乱れもなくゆっくりと打ち刻んでいたからだろう。だから、心底 〝あたしは大丈夫だ〟 と言っているのが分かった。
「この状況でよくそんな事が言えるもんだなぁ? 本当は 〝兄さん、助けて~〟 って叫びたいんじゃねーのか?」
男が助けを求める女の口調を真似ると、周りからバカにした笑い声が漏れた。だけど、エステルの表情は変わらない。それどころか、気付かれないように剣を持ち替えると、更なる強気の言葉を発した。
「こんな間近にいてあたしが怯えてるように見えるなら、あんたの目はあたしより悪いってことになるわね」
「ンだと!?」
「言っとくけど、あたしはどんな事があったって兄さんに助けを求めたりはしないわ。なぜなら、あたしが兄さんを守る立場だからよ。万が一、兄さんの身に危険が及んでも、あたしは絶対に守ってみせる。たとえあたしの命と引き換えにしてでもね」
「ほぉ…いい覚悟してん──」
「だけど──」
エステルは男の言葉を遮った。そして、胸倉を掴むその手に右手を添えると、
「──今はその時じゃない」
──と言うや否や、その手をグイッと捻り、同時に上体を僅かにずらしながら剣で剣を弾き上げたのだ…!
不意を突かれた反撃に男の体勢が崩れる。男はすぐに弾き上げられたその手をエステルめがけて振り下ろそうとしたが、それよりも早かったのはエステルの方だ。
男たちの後ろで燃える松明の炎が、剣の先を不気味に浮かび上がらせ、その僅かに光る筋の動きを捉えたのだろう。エステルの剣は男の右脇腹から左胸へと斬り上げられた。
肉に食い込み切り裂かれる重みが手に伝わってくる。
蘇る、嫌な感覚だ…。
男は右脇腹を叩かれるような衝撃を受けたぐらいにしか思わなかったのだろう。痛みさえ感じなかったように剣が振り下ろされた。けれど、エステルは斬りつけた流れで体を反転していたため、その剣は背後で空を切った。
一瞬の出来事に、周りの男たちも唖然としていた。──が、その直後に 〝く…っそ…〟 という呻き声と共に、地面に倒れ込む音が聞こえると、それが合図にでもなったのか、一斉にエステルめがけて斬りかかってきた。
「ンのやろぉ──」
声と共に右の方から剣を振り上げ近付く人影。エステルは瞬時に剣を両手で持ち、その刃を弾いた。男の腕が剣と共に跳ね上がるものの、今度は違う刃が左から襲ってくる…!
刃は下からの斬り上げ。エステルは最初の男に攻撃する間もなく、右から左下へと弾き返した…!
さすがに男の力。弾いたとはいえ刃を受けた時の衝撃は大きく、それはイオータの時より数段痺れが強い気がした。
エステルはこれを…さっきの男たちとの戦いでも受けていたというの?
感覚はあるものの勝手に自分の体が動いているからか、ある意味 冷静にそんな驚きを感じていた。だけど、その間にも、男たちの刃はエステルを襲っていた。
突き出された剣には、身を反らすと同時に自分の刃を添わせ、手首を回転させると共に、その勢いで手から弾き飛ばした。また、相手の剣が目の前で交差して力の押し合いになれば、力では敵わない事が分かっている為、膝を曲げ体勢を低くした。そして相手の懐に入ると同時に剣を後ろから前へ振り回し腹部を斬りつけたのだ。
当たり前だが、あたしはそんな戦いを彼女の目線で見てることしかできなかった。ただ、最初こそ視点が定まらずグルグルと目が回りそうだったが、男が視界に映った直後の動きを何度か見ているうち、この暗い視界の中でも、彼女がどう動くかというのが何となく分かってきた気がした。
戦うという事は、これほど広い視野が必要なのか…。
彼女の凄さに圧倒されつつ、そんな事を実感していた。
暫くすると、ジェイスたちが戦う音も聞こえてきた。時折、エステルの視線がジェイスに向く。彼一人ならエステルのように戦えるのだろうが、やはり、テトラやネオスを気遣う故、思い切って戦う事ができないようだ。
テトラはテトラで、ジェイスの力になろうとしているのか、制しようとするネオスの手を払いのけ参戦しようとするから、余計、ジェイスには戦い辛くなっている。
その状況を見て、あたしは今更ながら 〝あぁ、だからなんだ…〟 と納得した。イオータが 〝お前はミュエリだけを守ってろ〟 と指示した理由を。
せめて剣をネオスに渡し、テトラの身を守らせる事ができれば…と願ってみるが、見る限り、テトラはネオスに剣を渡す気はない。
もしかしたら、それだけ自分の手で復讐を…と思っているのかもしれないのだが。
──にしても、早く彼の所に行かないと…。
そう思い、視線が元に戻った時だった。
「おぃおぃおぃ! 何だこのザマはぁ!?」
「お前ら、それでも赤賊かぁ!?」
──── !
急に迫力のある声が響き、みんなの動きがハタッと止まった。と同時に、あたしはその聞き覚えのある声にハッとした。
「青賊と…黄賊のアニキ…」
「たった三人相手に、なに手間取ってやがる!? しかも、まともに戦えるのは一人じゃねーか」
あたしたちの姿はちょうど木の陰になって見えなかったのだろう。三人とはジェイスとネオスとテトラの事を指していた。
「いえ、アニキそれが──」
「一人じゃない!」
言いかけた言葉を遮って叫んだのはテトラだった。エステルが僅かに体をずらすと、松明の明かりで浮かび上がる男の姿が見えた。
「なんだと?」
〝アニキ〟と呼ばれた男二人が、ネオスの後ろから睨みつけるテトラをじっくりと見れば、その表情が僅かに強張ったのが見えた。
その一瞬の変化を見逃さなかったテトラが、ネオスたちを押しのけて飛び出した…!
「あっ…ルフェ──!!」
「お前らは…あたしが殺すんだ…!!」
〝絶対に許さない!〟 とその口調から伝わってくるテトラの気持ち。
突然飛び出したテトラを止めることはできず、彼女は剣を構えたまま一人の 〝アニキ〟 に突進していった。
思い切り力を込め、大きく剣を振り落とす…! ──が、男は軽々と二度ほど弾き返すと、三度目は体ごと飛ばす勢いで剣を振り払った。当然の事ながらテトラは横に飛ばされ、その手からは剣も弾き飛ばされてしまった…!
「く…っそ…お前らなんかに…二度も負けて……いっ──!!」
〝たまるもんか!〟 と立ち上がった瞬間、たった今やってきたであろう別の男がテトラの腕を捻り上げた。
テトラの顔が痛みと悔しさで歪み、それを覗き込んだ男の顔が、さっきの男と同じく僅かに強張った。
「こりゃ…あン時の女じゃねぇか?」
この男の声にも聴き覚えがあり、あたしの記憶が再び蘇ると同時に、テトラはキッとその男を睨みつけた。
男がいう 〝あン時〟 とは、森の中で会ったあたしのことだ。だけど、見た目はあたしでも、中身はテトラ。彼女にしても 〝あン時〟 と言われれば通じるものがあるのだ。
男はザッと周りを見渡すと、半ばホッとしたようにフンと鼻を鳴らした。
「今日は、ワケの分かんねぇボウズはいねぇようだな?」
「は…なして…! あたしは…お前らを殺しにきたんだ…! あたしに酷い事したお前らを殺しに──」
「おーおーおー、威勢がいいねぇ。オレらを殺しにわざわざこの巣に飛び込んできたってか? ははは…いいぜ、その度胸は褒めてやる」
言いながら、男はグイッと乱暴に顎を持ち上げた。
「…くっ……!」
その後の行動は記憶と経験から容易に想像がついた。
ジェイス…お願い、早く助けてあげて! その子はテトラなのよ!! 今度こそ あなたが助けてあげてよ!!
「──褒美に、たっぷり可愛がってやるぜ」
男の顔がゆっくりとテトラの顔に近付いていく──
ジェイス!! ──ううん、エステルでもいい! 早く助けてあげて!!
心の中の叫び声が虚しく体の中で響いていく。ジェイスは愚か、エステルにさえ届かないなんて…!
どうして…!?
焦りだけが募り、何とか自分の意思で体が動かせないかと力を入れてみた。だけど、ビクともしないどころか、頭に血が上ったように、また目の前がチカチカとしてきてしまったではないか!
な…んでこういう時に…!
悔しくて、見え辛くなる視界を睨めば、更に男の顔が近付いていた。
「……ぁぃ…や──」
お願いよ、早く──
「や──」
「やめろ!!」
寸での所でジェイスより一瞬だけ早く叫んだのはネオスだった。その声に男がフッと顔を上げた。
「やめろだと? ハッ! 口で言うより力で止めてみな」
血で赤く染まった腕を視線だけで指し示し、〝ま、無理だろうがな〟 とあざ笑い 付け足すくらいの口調で吐き出せば、ネオスは焦るふうでもなくスッと前に出ると、持っていた松明を男に突き出し静かに言い放った。
「──それ以上 ルフェラをけがしたら、僕は命に代えてでも お前を殺す」
この状況での脅し文句としては当然なのだろうが、その口調から伝わってくるものは、ただの脅しには聞こえず、何故かあたしのほうが恐怖を感じてしまった。
一方、男も少なからず同じものを感じたのだろう。眉間のしわが僅かに濃くなった。けれど、相手は剣を持ってない上に負傷者なのだ。その現実に恐れる理由などない。少しでもまともに捉えてしまった自分に呆れたのか、男はすぐに大声を上げて笑い始めた。
あたしは、そんなバカ笑いを遠くの方で聞いていた。さっき感じた恐怖が前にもあったような気がして、そっちに気がいっていたからだ。
怯える必要のない人…あたしの味方であるはずの言葉に対し感じた恐怖…。すごく昔のような気もするけど……いったい誰が…いつ、どこで──
「──人生最後に笑えて幸せね?」
思い出そうと自然と記憶を辿り始めた所で、それまで黙っていたエステルが嫌味たっぷりに投げかけた為、そこで思考がプツンと途切れてしまった。と同時に、我に返ったあたしは視界の変化に驚かされた。
見…える…?
松明で照らされた部分だけではない。薄暗いものの、どこに何人いて、どちらを向いているのかはもちろん、周りの景色まで見えてきたのだ。
目が…慣れた…から…?
──にしては今更すぎるだろう、と不思議に思っていると、
「…誰だ、そこにいるのは?」
エステルの問いかけに男が答えた。
あたしたちの存在に気付かなかった男は、突然発せられた声に一瞬 驚いたものの、聞こえたのが女の声だったからか、その口調には余裕があった。
エステルは返事をする代わりに、男から見えるように木の陰から出ると、躊躇うことなくジェイスの所まで歩いていった。
男の目尻には赤い目をしたクモが描かれていて、〝青賊・黄賊のアニキ〟 と呼ばれていた男たちは、つまり、青い目をしたクモと黄色の目をしたクモが目尻に描かれている、リーダーだった。そして、その一人が言った 〝赤賊〟 と呼んだ、周りを取り囲んでいる連中は赤賊のリーダーが率いる手下たち。チラリと見れば、腕に赤い目をしたクモが描かれていた。
「ほぉ…もう一人仲間がいたとはな。だが、女一人に何ができる?」
「そうね…。もう、かなりの限界だわ」
「はははは……だろーなぁ。さて、どーする? これで勝ち目は更になくなったぜ?」
「さぁ、それはどうかしら?」
「なにぃ?」
「もしあんたが賢ければ、誰を相手にしてるか分かった時点で、負けを認めるか、跪いて許しを請うかもね」
「おぃおぃおぃ…。それはこっちのセリフだ。オレらの正体が分かったら、そんなナメた口もきけなくなるぜ?」
余裕を通り越し、呆れたように剣の先をあたしたちに向けると、くるくると遊ぶように回した。その仕草にエステルが小さな溜め息を付いた。
「同じような事を言ったあんたの手下は、赤賊の中で真っ先に死んだわよ?」
「なんだと?」
ピタリと剣の動きが止まる。エステルは更に続けた。
「そのあとも、何人か死なせちゃったわ。でも、安心して。あたしはさっきも言ったとおり、かなりの限界なの。手が痺れて剣を持っているのもやっとよ」
エステルはそう言うと、わざとらしく剣を見せるように動かした。特に、青賊のリーダーに見えるように。
案の定、松明の炎が剣を照らし、その姿がハッキリと見えれば、真っ先に反応したのは青賊のリーダーだった。
「その剣は…! まさかてめぇ──」
「そう。そのまさかよ」
「…………!」
その言葉にリーダーはもちろん、取り囲む連中も驚き、僅かに引いた。何を意味しているのか分かったからだ。
「──だから、もう限界なの」
「な…るほど…。一人でオレの手下をやるとは…ただの女じゃねぇってことか…」
「ようやく分かってくれた、クモ賊さん?」
「オレらの正体もこの女に聞いて分かってたってわけか…」
赤賊のリーダーが、捻り上げた手に力を込めた。苦痛に顔を歪ませたテトラは、それでも尚、男を睨み続ける。そんな彼女を見つめながら、エステルはキッパリと否定した。
「いいえ。彼女からは聞いていないわ」
「じゃぁ、誰に聞いた?」
「誰にも。知ったのは彼女の──ルフェラさんの記憶を見たからよ」
「なんだと?」
わけが分からず聞き返した男。けれど、分からないのは あたしはもちろん、ジェイスたちも同じだった。彼らが思わず漏らした 〝え…?〟 という声に、エステルはそっとジェイスの手を握った。
「エステル…?」
「兄さん、力を取り戻すの。──彼女は月の人よ」
更にわけの分からない事をジェイスにだけ聞こえるように囁くと、〝どういう事だ?〟 と急かす男に 〝記憶を見させてもらった〟 という説明を始めた。でもそれは、どちらかというとジェイスたちに向けてのものだった。
「ルフェラさんの魂はあたしの中にいる」
「────!?」
「今、彼女の体の中にいるのはテトラの魂よ。半年前、あんた達が乱暴し亡き人にした十四歳の少女。ルフェラさんの体を借りてあんた達に復讐しにきたのよ。さっきまで二人は同じ体の中にいたけど、今はあたしの体の中にルフェラさんがいる。だから彼女の記憶が見えたのよ。数日前、彼女を襲おうとしたあんた達のことも、彼女が見たテトラの記憶も全てね」
その説明にはあたし自身も驚いた。
あたしがエステルの記憶を見ていたのと同じように、彼女もまたあたしの記憶を見ていたとは…。しかも、彼女の中に入る直前に見たテトラの事まで、全て見ていたなんて…。
だけど、驚くと共に 〝そうだったんだ〟 と納得もできた。納得できないのは、ネオスやジェイスのほうだ。あたしの魂が自分の体を離れて、エステルの中に入ったことさえ信じられないんだもの、無理もないことだろう。だけど、その事を追求する状況でないことも彼らはよく分かっている。だから、何も聞いてはこなかった。それはクモ賊の連中も同じだったが、彼らの場合、追求する状況かどうかというのではなく、単にどうでもいいことなのだろう。
「まぁ…中身がなんであれ、体はホンモノには違いねぇんだからな。楽しめりゃ、それでいいのさ」
「楽しめれば、か…」
そう繰り返しながら、エステルは握っていた手にギュッと力を入れた。
それまで冷静だった彼女が、僅かながら怒りを露にしたのかと思ったが、心の平静さは変わっていない。ただ変わったのは、握っていた手の温もりだった。
じんわりと温かくなり、次第に温度が上がっていく。熱を出した時のような熱さが握っている所だけ感じるのだ。
なん…なの…?
不思議な感覚に驚きつつも、手がどうにかなっているのかと不安になる。無理だと分かっていたが、反射的な行動は押さえられず…思わず確かめようと、その手を見ようとしたのだが──
やはり無理だった。何度もそうであったように、あたしの意思では顔を動かすどころか指一本だって動かす事はできなかった。故に、空振りのようなやるせない気持ちだけが、握っている手に向かった。
一方、エステルは同じ熱さを感じているはずなのに、平然と男に話しかけていた。
「ひとつ聞きたいんだけど──」
「なんだ?」
「 〝女〟 が、自分たちが楽しむための道具なら、〝男〟 は何のために殺すわけ?」
その質問に、男はフッと笑った。
「何のため、か……そうだなぁ~…」
男は適切な言葉を探すかのように、数秒 首を捻っていた。
その間も、あたしたちの手の熱さは変わらなかった。体の中から何かが湧き上がり、それが二人の手に集まる感じ…でも、そこに溜まるだけじゃない。どこかに流れていく感じなのだ……。
どこに…?
気を集中すれば、それがジェイスの手の中に吸収されていくように感じるのが分かった。
ジェイスの手の中に…?
それもまた不思議な感覚だ…と思ったところで、再びあの 〝チカチカ〟 が視界を襲い始めた。
や…だもう……いったい何なのよ…?
この村に来てからというもの、あたしの体にはおかしな事ばかり起こる。その原因の殆どは魂を触れられたことによるものだと分かったけど、今は、あたしの魂がエステルの体に入っているのだ。この症状があたし自身によるものなのか、それとも彼女自身によるものなのかは分からない。だけど、正直 今はどうでもよかった。とりあえず、この大事な時に視界を遮られるのだけは勘弁して欲しい。
お願いだから、消えてちょうだい…。
少々焦りつつも心の中で願い、敢えて、その白くチカチカと光るもの無視するように男を凝視したのだが──
その 〝チカチカ〟 が見覚えのあるものだと分かったのは、走ってもいなければ頭に血が上ってもいない──ある意味、平静の状態だったからだろう。
それは、触れることさえ恐れている 〝月の光〟 だったのだ…!
それが分かった途端、身の回りが見えるようになった理由も理解した。
改めてチカチカしている光に焦点を合わせれば、上からゆっくりと降ってくる月の光だと確信する。
でも、どうしてこんな時に…!? あたしの体はテトラが使っていて、あたしの魂はエステルの体の中なのよ!? いったい、どこに 〝あたし〟 が現れるっていうのよ!?
ううん…そんなことはどうでもいいわ…。それよりも避けたいのは…あたしじゃない 〝あたし〟 が現れたら、ネオスにバレてしまうことだ…!
お願いだから… 〝あたし〟 は現れないで…!!
さっきとは違う意味で焦りつつ、あたしはまた強く願った。
そんな時、ようやく男が答えた。
「簡単に言えば…暇つぶしと切れ味の確認、ってところだな」
男は愛しいものを触るかのように、刃を撫でた。
「確かに切れ味はいいわね。これだけ斬ってもまだ使えるもの」
「だが、腕が使えねぇなら、意味ねーよなぁ?」
「そうね…でも、問題はないわ。あとは兄さんがやるべき事をやってくれるから」
「へぇ、やれる事があるのかねぇ?」
「もちろん。あんた達に地の獄より苦しい償いを受けさせるためにね。──そうでしょ、兄さん?」
そう言って手を放しジェイスを見れば、さっきまでの雰囲気とは全く違う事に、あたしはもちろん、男たちも驚いた。
ジェイスの体は月の光に包まれ、男たちを見つめる顔は、焦りも恐れも不安も…何一つない。自信に満ち溢れた、クールな表情だったのだ。その表情に一瞬ドキッとしたのは、似たような表情をどこかで見た気がしたからだが、当然の事ながら思い出す余裕はない。
エステルの視線が何かを確かめるようにジェイスの手に移ると、あたしはそこで見た光景に我が目を疑った。
剣を握るジェイスの右手が薄赤く染まっていたのだ。だけど、それは血ではない。赤い光の粒子が銀色の粒子と混じって手を覆っているのだ。しかもそれは手から溢れ出ているように見える。瞬く間に赤い光が増えていくと、それは剣の柄から矛先へと流れ上っていった。刃を包み込みユラユラと立ち揺れているサマは、まるで炎をまとっているかのようだった。
男たちにその光は見えないだろうが、ジェイスから受ける 〝気〟 のようなものが普通じゃない事だけは分かるのだろう。彼らの顔からは余裕の笑みが消え、額には恐ろしさのせいかじんわりと汗が浮かんでいた。そして、ピリピリとした感覚は、細い針を体中に刺すような刺激となって感じるようになってきた。
この時、あたしは何となく分かった気がした。
これが、好意的でない人の気配や殺気なんだろう…と。
剣を構え、ジリジリと間合いを確かめる男たち。そこから刺すように感じる殺気には、恐れを跳ね返そうとする気持ちも混じっているように思えた。だからなのか、その殺気がこれ以上になく強まった瞬間、赤賊のリーダーが 〝殺れ!〟 と目で合図を送れば、待ってましたとばかりに、取り囲んでいた連中が一斉に飛び掛ってきた…!
四方八方からの攻撃は、いくら周りが見えたからって避け切れるものではない…!
エステル…ジェイス──!!
体を動かせないあたしは、ただただ願うように彼らの名前を叫ぶしかなった…!
なのに──!?
迫る刃と共に見えたのは、エステルが剣を手放す瞬間だったのだ──
どういうこと…!?
そんな言葉を心の中で呟く時間などあっただろうか…。
いきなり横風が吹いたかと思うと、目の前を赤い光の粒子がスジのように横切り、ほぼ同時に後ろのほうで男たちの呻き声と鈍い音が聞こえたのだ。更には、その音がなんなのか確かめる間もなく、赤い光の粒子は大きく広がり、あたしたちの周りを取り囲むようにグルグルと回り始めた。そしてそれが、炎でできた竜巻のようになると、地面から空へと昇り消えていったのだ。
それは、ほんの一・二秒の出来事だった。
いったい何が起こったのかすぐには分からない…。
刃が当たるほど近くまで迫っていた男たちの姿は一瞬にして消え…だけどその瞬間に見えた男の顔は、どれも驚いていたような気がする。そう思い出したのは、さっきと同じ場所に立っている三人のリーダーの顔が、同じように驚いていたからだ。
不気味なほど周りは静かになり、ついさっきまであんなに感じていた殺気がないに等しくなっている。けれど、再び後ろの方で男たちが動く音がした。
エステルがゆっくりと振り返れば、まるで何かに飛ばされたように転んでいる男たちが、手から離れ落ちた剣を拾い、立ち上がる所だった。
「…くっそぉ……てめぇ…今何をしやがった…!?」
立ち上がった男の一人が、腹部を押さえ苦しそうに言った。その質問に答えたのはエステルだ。
「死ぬまでの時間を少しあげただけよ。──彼らよりね」
そう言って 〝彼ら〟 に視線を移せば、つられるように男の視線も追いかける。
「なっ──!?」
そこで見たものに、男たちはもちろん、あたしも声を失った。
消えたと思っていた男たちは、腹部から真っ二つに引き裂かれ地面に転がっていたのだ。しかも、どの顔も最後に見た表情で目は見開いたまま…。
なん…なのよ…いったい何が起こったっていうの…!?
普通ではあり得ない出来事に、何が起こったのかという疑問しか浮かばない。だけど、そのすぐあとに男がした仕草から、おそらく男と同じであろう疑問が頭に浮かんだ。
「大丈夫、まだ斬れてないわ」
押さえていた手をのけ、恐る恐る自分の腹部を覗き見た男に、エステルはクスッと笑うように言った。
腹部から真っ二つに分かれて転がる男たちの遺体を見れば、彼らと同じ場所に痛みを受けている自分も斬られているのかも…と思うのが当然なのだ。それが、血はおろか、服さえ切れていないとなると、相手への感情より 〝なぜだ?〟 という疑問が湧く。
そんな男の疑問を表情で受け取ったエステルが、ゆっくりとジェイスの左手に視線を移した。その左手に、あたしはまた驚かされた。
何も持ってないはずの左手にはエステルが手放した剣があり、更に右手同様、今度は銀色の光が剣を包み込んでいたからだ。エステルが持っていた時点で降ってくる銀色の光をまとっていたのか、それともジェイスの手から溢れてきたものなのか…それは定かじゃない。ただ、赤守球を奪う時に短剣に吹きかけた月の光の量ではなかった。右手の赤い光のように、ユラユラと揺らめいているのだ。
エステルは再び視線を元に戻すと、答えとは思えない答えを言った。
「斬ったのが左手の剣だからよ」
──と。
そんな意味不明な返答に、当然の如く 眉を寄せたのは男たち。
光が見えないという事は、その存在さえ知らないことであり、たとえ見えたとしても、その光が何を意味するのか分からなければ、彼女の答えを理解することができないのだ。
一方あたしは、なんとなくだが 斬れていない理由が分かった気がした。
幾度か見てきた月の光は、あたしじゃない 〝あたし〟 を連れてくる。決して好ましいものではないが、それだけじゃないことも経験して分かっていた。
今こうして周りが見えるのも、テイトを天の国へと送ったのも、また イオータが黒風を追い払った時に使った剣の輝きも……全て月の光によるものだ。だとすれば、邪悪なものを弾く月の光に包まれた剣が、男たちの攻撃を弾いたという事になる。ただ、剣の長さからいって、一人の攻撃も受けないなんてことはないはずだった。しかも、ジェイスはおろか、立っていただけのネオスやあたしたちでさえ、かすり傷ひとつ負っていないのだ。
みんながみんな、正確な距離を保って攻撃を仕掛けてきたのなら、それこそ素早い回し斬りで弾き返せたかもしれない。だけど、取り囲んでいたとはいえ、男たちの距離はみんなバラバラだった。綺麗な円を作っているのでもなければ、一重の円でもない。男たちの後ろには、まだ剣を振り上げた者がいたわけで…その男たちも全て弾き飛ばされたように地面に転がっていたとなると、男たちが直接その剣を体に受けて弾かれたという可能性はなくなるだろう。つまり、弾き返すような波動というか空気の攻撃みたいなものが、男たちを弾き飛ばしたのではないかと考えられるのだ。
──とそこまで考えて、〝そういえば…〟 と、似たような事があったと思い出した。
数日前、このクモ賊に襲われそうになった時のことだ。
目の前の霧を裂くように飛んできた何かがあって、男たちは体ごと弾き飛ばされていた。あの時 現れた青年が、赤賊のリーダーに向けて真横に振り払った剣も、刃は男の体に触れていなかったはず。
あれは一体どういう事…? あの現象は…あの力はなんなの…? それにあの青年は──
斬れてない理由が、ほぼ月の光によって弾き飛ばされたものだと理解すると同時に、助けてくれた青年のことまで思い出され、少々、頭が混乱してきてしまった。しかも、いつの間にジェイスはエステルが手放した剣を拾ったのだろうか…とか、一瞬の出来事から考えると、ジェイスの動きが有り得ないぐらい素早いことだとか、更にはどうして半分の男たちは胴体を真っ二つに斬られ地面に転がっていたのかなど──考える余裕が出てきたからか──次々と疑問が浮かんできたのだ。エステルの話を聞く限り、胴体を真っ二つに斬ったのはジェイスが持っている右手の剣である事が分かったが、それもまた、刃が男たちの体に触れてない可能性が高く、赤い光がなんなのか疑問は膨らむばかりだ。ただし、そんな混乱も 〝正体〟 がなんなのかを抜きにすれば、何が起こったのかはこのあとの現象で明らかになるのだった。
「てめぇら、何を怯んでやがる!? さっさと殺らねぇか!!」
殺気が消えた手下を煽るように、赤賊のリーダーが活を入れた。──が、理解できないだけじゃなく、あり得ない出来事を目の当たりにした上に、一瞬にして自分の仲間が遺体になれば、そう簡単に動けないのは当然のことだ。案の定、手下の殺気は簡単に戻ってこなかった。
「け、けど…アニキ──」
「 〝けど〟 も 〝ヘチマ〟 もねぇ! こいつらの弱みはオレの手の中だ!」
〝故に、何を怯む必要がある!?〟
──と叫ぶと、今度はジェイスに視線を移した。
「いいか、よく聞け! 何をやったか知らねぇが、少しでも動けばこの女は殺す。いいな!」
優位に立つ言葉のはずなのに、その声には恐れがあるように感じた。
張り詰めた空気に混じって、男の殺気がピリピリと肌を刺激する。
それとは対照的に、殺気どころか余裕の笑みさえ浮かんでいるように見えたのは、ジェイスだった。彼は僅かに空を仰ぎ見ると、すぐに感情のない視線を返し、静かに口を開いた。
「私に、そんな脅しは通用しない」
「なン──」
反論の言葉さえ遮ったのは、上に吸い上げられるような風と うねりの音だった。
リーダー同様 極自然に空を見上げれば、昇り消えたと思っていた竜巻が、頭上に舞い戻ってきているのが見えたのだ…!
その次の瞬間、視線はジェイスに戻され、彼の動きを目で追うことになった。
ジェイスは右に回転しながら、赤い光に包まれた剣で怯んでいる手下たちを斬りつけた。その時に見えた赤い光のスジは、最初に見た光景と同じもの。刃は直接 男たちに触れていないものの、太刀筋のように飛んでいく赤い光のスジが、彼らの腹部を真っ二つに裂くのがハッキリと見えた。
そして一回転し元の向きに戻ると、頭上から降りてくる竜巻を剣にまとわせ、自在に操っていると分かる動きを見せた。──とその直後、剣は三人のリーダーに向け斜めに振り下ろされ、同時に左手の剣で竜巻を交差するように振り下ろされたのだ…!
月の光が竜巻にぶつかると、赤い光の竜巻は弾けるように広がった。その光の粒子が薄い膜のようにリーダー達を包めば、数メートルも後ろに勢いよく弾け飛ばされ、次いで体を思い切り木にぶつけたような呻き声が聞こえた。
その間、やはり二・三秒──
少しでも動けば殺す……そう言ったリーダーも、テトラに手をかける余裕はなかった。時間がないのはもちろん、目の前で起こった出来事──本人にとって色は見えないため、強い風と竜巻を目にしているだけだが──に顔色を変える事しかできなかったのだ…。
素早い動きを目の当たりにしたあたしは、エステルが手放した剣を、いつジェイスが拾ったのかという疑問が間違いだったということに気付いた。正しくは拾ったのではなく、手放した瞬間、体を回転させながら空中で剣を受け取ったのだ。だから、その体の動きに合わせ、右手の剣で目の前の男たちを斬り裂き、後ろは左手の剣で弾き飛ばしたのだ、と。その回転で作り上げられた炎に似た竜巻は、一時、空へと昇り、そして再び舞い降りてきた…。それが、最初に起こった現象だったのだ。
そして、気付いた事はもうひとつあった。それは、必要な情報を彼女がわざとあたしに見せてくれていたのではないか、という事だった。あたしの意思では指の一本さえ動かなかった体も、必要なものは彼女の視線がそれを捉えていた。だから最初に何が起こったのか、今になって理解できたのだ。それに、わざとじゃなければ、光の見えない男たちに左手の剣を見よと、視線を移す必要もなかっただろう。
テトラは、男が飛ばされた勢いで引っ張られるように後ろへと転んでいた。けれど、それほど激しく打ち付けていなかったのだろう。すぐさま起き上がると、落とした剣を拾い上げ、男たちが飛ばされた方へと駆け出して行ったのだ。
瞬時に何をしようとするのか分かり、咄嗟に追いかけたジェイスが彼女の手を掴んで止めたのは、木の根元に倒れている男まであと数歩の所だった。
「は…なして……! あたしはあいつの…あいつの──」
その手を振り解こうとする強さは、
〝最後の息の根はあたしが止めるんだ!〟
──と言っているようだった。そんな彼女を、ジェイスがグイッと抱き寄せた。
「…………!?」
「すまなかった、テトラ…」
さっきとは別人とも思えるような優しい声。
突然 抱き締められたのはもちろん、とっくに許している──ううん、謝ってもらう必要のない人からの──謝罪に、テトラは思わず反発する力を緩めた。
「……せん…せい…?」
「あの時、私は君を救ってやれなかった。最後には必ず私が助けると約束し…それを信じてくれていたというのに……肝心な時に守れなくて、本当にすまないと思っている…」
「…ぁ…あ……」
「どんなに辛かっただろう…どんなに悲しかっただろう……そして、どんなにか私を恨んだだろうね──」
「…ちがっ…先生──」
〝恨んでなんかない! あの時…あたしの声は聞こえなくて当然だったんだもの…!〟
真実を知っているあたしには、彼女がそう続けようとしたのが分かった。が、ジェイスにとってそれは、気付かなかった理由としては重要ではなかったのだろう。彼女の言葉を遮るように首を振ると、更に続けた。
「違わないよ、テトラ。どんな理由があろうと、助けられなかったのは事実なんだ…。本当にすまないと思っている。許して欲しいとは言えないけど…せめて、私が君の恨みの全てを貰い受けよう。そして、あの男たちには、犯した罪の償いをさせる。一生 罪の意識を背負って生きていくより、死んで地の獄で苦しむよりもずっと、辛い償いを課すつもりだ」
「先生…」
「亡き人になってまで君の手を汚す価値など、あの男にはない。──テトラ、君は今のまま…綺麗なまま天の国へ行くんだ、いいね?」
ジェイスのその言葉は、一人耐えてきたテトラの心を優しく包み込んだようで、今や拾い上げた短剣も、緩んだ手からストンと地面に落ちてしまっていた。
〝綺麗なまま…〟
特にその言葉が強く胸に響いた。それは、殺人という罪で手を汚さないというだけの意味じゃない。それ以前に、〝君は決して汚れてなどいない〟 ということが前提としてあるのだ。
酷い事をされたテトラにとって、それがどれほど嬉しく、また救いとなる言葉だったか…。彼女の体験を自分の事のように感じたあたしには、十分すぎるほど分かるのだった。
「…ぁ…あぁ…あ…先…生……!」
テトラは溢れてくる感情と涙を抑える事ができず、崩れるようにしてジェイスの胸の中で泣いた。
──涙は心を洗うという。
彼女の心は、今まさに洗われているのだろう。一粒、また一粒と涙がこぼれるたび、傍にいたあたしにも、彼女の中の悲しみや恨みといったものが消えていくのが分かる気がした。
暫くして、テトラの涙が止まりつつある頃、気を失っていた男たちの意識が戻り始めた。と同時に、ぶつけた痛みも徐々に感じてくるのだろう。低い呻き声が数秒続くと、意識もハッキリし、同時に体が動かない事に声を荒げた。
「…くっ…! んだぁ、これは!?」
痛みがあるという事は、感覚があるという事。なのに、体全体を縛られたように動けないとはどういうことなのか。赤い光の粒子が見えるあたしたちには分かっても、何も見えない男たちには理解できないことだった。
ジェイスは彼女をエステルに預けると、男たちのもとへ向かった。これから何をしようとしているのか…それを知っているエステルは、彼の姿を見つめたままテトラにそっと囁いた。
「…さぁ、あの男たちの最後を見届けるのよ」
──と。
男たちは、赤い光の粒子に縛られ体の自由を奪われていた。理由は分からないものの、力任せに動けば何とかなるのではないか…と必死にもがいているが、赤い光の粒子は体を包むだけでなく、地面に張り付いているようで、びくともしない。
そんな男たちの目がゆっくりと近付いてくるジェイスを捉えると、すごい形相で彼を睨みつけた。そして、数分前の手下と同じ言葉を繰り返した。
「て…ンめぇ…何しやがった…!?」
「償うべき者の魂を捕らえたのだ」
「な…にぃ…!?」
ジェイスの顔は あたしたちに背を向けているため見えないが、その口調はとても冷ややかで、背筋がゾッとするようなものだった。
言っている意味が分からずとも、彼の表情を目にしている男たちは、あたしたち以上に実感するものがあるのだろう。その顔は徐々に強張り、冷や汗が滲んでくるのが分かった。──が、すぐにフッと口元が緩んだ。
「ははっ…死をもって償えってか…。いいさ、殺れよ。オレらは死なんざ恐れちゃいねぇ」
どうやっても形勢逆転にならないことを悟ったのか、両手両足を放り出す勢いで、ジェイスから視線を外した。ただ、諦める気持ちはあっても、ヤケクソだとか無理に強がっている様子はない。こういう輩でも、人を殺めてきた者はそれなりの覚悟ができているのだろう。死を恐れていないというのは、どうやら本気のようだった。
いくらなんでも無抵抗の者を殺せるはずがない…そう思っていると、ジェイスが冷ややかな中にも、薄い笑みを持たせた口調で言い放った。
「簡単に死なせはしない」
「…なんだと?」
「 〝死〟 に値する償いは、死を恐れている者に与えられる。死を恐れてない者に与えても、それは償いにはならない。──償いとは苦しむことだ」
「……………!」
──だとしたら、自分達をどうしようというのか…そんな疑問が男たちの目に浮かんでいた。
一方、あたしはジェイスの言葉にイオータの言葉を思い出していた。
〝死にてーって思ってるヤツの願いなんか叶えたくもねーや。どうせなら、一生苦しんでくれ…って思っちまう。死にてーヤツは生かして、生きたいヤツは殺しちまう〟
別に、男たちが 〝死にたい〟 と言っているわけではない。でも、罪を犯した者は 〝苦しまなければならない〟 という点では同じだと思った。だとしたらやはり、男たちにとって何が償いなのだろう。死ぬ事を恐れず、罪の意識さえ持たない男たちにとって、そのどちらも償いにならないのだとしたら…。
ジェイス…いったいどういう償いを……?
心の中で問いかければ、男たちに答えるべくジェイスが口を開いた。
「お前たちの償いは、身代わりの魂としてこの村に存在することだ」
「身代わりの…魂…?」
男たちは眉を寄せた。
「肉体は滅び、魂だけが封印された石となりこの世に残る。人として生きる事も死ぬ事も許されない身代わりの魂は、今の記憶や感情、感覚を保ったまま封印される。そして村人の苦痛を身代わりとして貰い受けるのだ。死んで地の獄に行くまでの期限なき償い…それは、死なせてくれと懇願するほど苦しいものになるだろう」
「────!!」
ジェイスの言葉に、男たちの顔色が一変した。
封印だとか身代わりの魂だとか…彼の説明は現実離れしていて信じられるものではない。けれど、信じるとか信じないとか、あるいは、本当だとか嘘だとかという以前に、その償いの苦しさが恐怖として伝わってきたのだ。更に、普通ならあり得ない事でも、この男ならやりかねない…そう思わすものがジェイスにはあった。
そしてそれは、現実のものとなる──
ジェイスが恐れおののく男に剣の矛先を向けると、彼の顔を凝視するしかない男の目が、恐怖で見開いた。
「…ぁ…あぁ…ぁ…あ……」
ジェイスは、そんな男にまるで感情がないように、躊躇うことなく剣の矛先で不思議な文字を書き始めた。三文字か四文字くらいだろうか。書き終わった直後、赤い粒子は光を増して男の体を包み込み、痛みの為か、断末摩の叫び声が聞こえたかと思うと、眩しさのあまり目を逸らした次の瞬間、そこに男の姿はなかった──
動けない状態で目の当たりにした光景に、残りの男たちの顔が驚きと恐怖で血の気を失っていた。
それにも構わず、ジェイスは残りの二人にも同じ事を繰り返した。
おそらく、あの男たちにとって恐怖の叫び声を上げたのは、最初で最後の事だろう。
夜の闇に彼らの叫び声が不気味に響けば、見ていただけのあたしも、恐ろしさで体が震えてきた。
ジェイスは男たちの姿が消えた場所で身を屈めると、三つほど何かを拾いあげた。そしてゆっくりとこちらを振り返って、あたしたちの元に戻ってきた。
「テトラ…」
彼女に見せるように手の平を開ければ、そこには赤と青と黄色の印が付いた、黒い石が載っていた。それを見たテトラの目から、再びポロポロと涙が溢れてきた。
「…先…生……ありがとう……」
それが身代わりの魂なのだろう…。
テトラの復讐にも勝り、死んだ方がマシだと思うほどの苦しい償いは、今まさに始まろうとしていたのだ。
テトラはそれだけ言うのがやっとで、ジェイスの胸の中に飛び込んで泣いた。ジェイスは、そんな彼女を優しく抱きしめていたが、しばらくすると、そっと自分の胸から引き離した。
「さぁ、テトラ。明日は君の特別な日…。もうそろそろ、その体をルフェラさんに返してあげなさい」
優しく諭すようにそう言うと、テトラは素直に頷いた。そして、あたしのほうにゆっくりと向き直ると、今度はエステルの手をとって目を閉じた。それからほんの僅か後、エステルの目を通して見えたのは、ジェイスがネオスから松明の炎を受け取ったところまでだった。
テトラが触れている手の感覚が鈍くなると、まるで風船がしぼむように意識がスーッと小さくなり、数時間前と同じように暗い世界に飛ばされたのだった。