9 兄妹の想いとその真実 ※
いっ…たい…何が……?
いきなり、音も何もない闇の世界に放り出され、あたしは理解するどころか身動きさえできないでいた。
出歩いたあたしを追いかけてきたのだとしたら、ネオスがいたあの場所で起きた事は現実だろう。でも、何が起きたかは分からなかった。
エステルの手が触れた途端、微かに聞こえたのはテトラの声。借りる…って言ったけど、いったい何を借りるっていう意味なの…? それに、あの感覚……後ろから弾き飛ばされるような感じがした、あの感覚は…?
わけが分らず、ひょっとしたら またテトラの心があたしに何かを見せようとしているのかと思い、何度か心の中で話しかけてみたのだが、彼女からの返事はなかった。
テトラじゃないってことだとしたら、単に気を失っただけなの…?
そんな可能性が頭をよぎった時だった──
「なぜだ…」
フッと、どこからともなく辛そうな声が聞こえた。
反射的に辺りを見渡せば、暗闇の中にホワッと淡い光が見えた。それはまるでロウソクの炎のようで、次第に大きくなっていく。そんな光の中に現れたのは、三十歳くらいの男女の姿だった。
誰…?
──と思う間もなく二人があたしを見ると 〝なぜお前まで…〟 と続けた。でもそれが 〝あたし〟 に対して言ったのではないと分かったのは、そのすぐ後だった。
「…エステル…なぜお前までが そんな辛い使命を負うのだ……」
エ…ステル…?
一瞬、傍にエステルがいるのかと周りを探したが、目の前で話しかける男女以外は誰もいなかった。──というか、ただの闇でしかなかった。故に、ひとつの結論が浮かぶ。
ひょっとして…あたしがエステル…? エステルの目線で見てるってこと…? どうして…? それに使命ってなんなの…?
次々に思い浮かぶ疑問を心の中で投げかければ、ややあってエステルであろう子供の声が聞こえた。まるで、自分が喋っているかのようだ…。
「辛いなんて思わないよ、お父さん。共人は、その運命が辛いとは思わない。だって、守りたいって思う人を守るんだもん。それに…本当に辛い思いをするのは兄さんのほうだよ?」
「…あ…あぁ…それはそうだが……よりによって兄妹でその運命を背負うとは……信じられん…」
「そうよ…それに、共人が年下だなんて聞いた事がないわ…。幼いあなたが支える立場になるなんて…」
母親はそのまま言葉を詰まらせた。
〝共人〟 という言葉にどこか聞き覚えのある気もしたが、それを思い出す余裕は全くなく、故にあたしには何を意味しているのかよく分からなかった…。でも、ジェイスとエステルが何か大変な運命を背負っていて、その事で両親がひどく胸を痛めているというのだけは伝わってきた。
そして、またエステルの声が聞こえる。
「お母さん、泣かないで…。あたしは大丈夫。どんなに幼くても共人は共人だもん…きっと、生意気だって思われるくらいシッカリしてるわよ、あたし」
「エステル…」
「ただ…共人としてひとつだけ不安があるの…。それはね…兄さんを守らなければいけないあたしが年下で、力の目覚めに遅れがあるってこと…ただそれだけなの」
その言葉も口調も、本当に子供とは思えないものだった。そんなエステルに、両親は安心と切なさが混じったような、そんな溜め息を漏らした。
「本物の共人なのだな…お前は…」
「うん…」
その返事と共に、淡い光と両親の姿は小さくなり消えていった。
周りは、再び真っ暗な闇が広がる。けれど怖いとは思わなかった。何故なら、顔が見えないにもかかわらず、〝うん…〟 と言ったエステルの顔が誇らしげに輝いているような気がしたからだ。
ホッとしていると、また、聞き覚えのある声が聞こえた──
「…どうすればいいのですか…」
エステルの両親が現れた所とは違う場所で、淡い光が大きくなると、そこには夜空を見上げるジェイスのうしろ姿が映し出された。
「父さん…母さん…私はいったいどうすればいいのですか…。エステルにこれを渡せば、きっとあの子は自分を責めます…。あなた達が遺した唯一の形見が、エステルを苦しませるものになるなんて……。どうすればいいのですか…父さん…母さん…教えてください…!」
〝これ〟 を両手で握り締め、顔を埋めるように身を縮めたジェイスの肩が、声を押し殺すように震えていた。
その姿を、エステルが隠れるようにして見ていたのだろう。スッと目の前の扉が閉められ、次いで、さっきとは少し違う声が聞こえてきた。耳の奥から聞こえる…そんな声。おそらくこれは、エステルの心の声だ…。
(ごめんなさい、兄さん…。あたしは知ってたのよ……知ってて行かせたの…。それがお父さん達の運命だから…変えちゃいけない運命だったから──)
その最後の言葉に、あたしの心の臓がドクン…と脈打った。
変えちゃいけない運命って…どういうこと…?
突然、ルーフィンから言われた言葉が彼女の口から聞かれ、否応なしに 〝まさか…〟 という思いが湧いてくる。
そんなはずない…だってあれは──
湧き上がる 〝まさか〟 を懸命に否定すれば、新たな光と映像がすぐ近くで浮かび上がり、あたしはその中で見えたものにハッと息を飲んだ。
こ…れは──!!
「お…父さん……!?」
明け方、そっと家を出ようとしていた両親を見つけたエステルは、その頭上で揺らめく赤い光を目にして思わず駆け寄った。
その声に驚いた両親が振り返る。
「エ、エステル…!」
「どこに…行くの…?」
「あ…い、いや……」
〝ちょっと…〟 と濁そうとしたようだが、父親はすぐに諦めたように溜め息をついた。
「見つかってしまっては仕方ない…内緒で出かけようと思っていたんだがな…」
「どう…して…?」
「──もうすぐお前の誕生日だろう?」
「…ぁ…あ……」
「十五歳はひとつの区切りとして特別な歳だからな。親が心を込めて作ったものを贈るのは、大人として認める証と、その先の幸せを願ってのことだ」
「しばらく家を空けて心配かけるけど、帰ってきたら 〝贈り物〟 を渡して驚かそうと思っていたのよ…ねぇ、あなた?」
「あぁ。──でもまぁ、見つかったものはしょうがない。そういう事だから、楽しみに待っていなさい、エステル」
「あなたにピッタリな物を作ってくるからね」
「──あ…お、お父さん…お母さん…」
〝じゃあね〟 と手を挙げ出て行こうとする両親を、エステルが堪らなくなって呼び止めた。
「…うん?」
「……い─」
(行かないで……)
そんな言葉が耳の奥で聞こえた。おそらく、必死になって飲み込んだのだろう。それが 〝変えちゃいけない運命〟 だと分っていたから…。故に、心とは裏腹な事を口にした。
「…い…行ってらっしゃい。あたし、楽しみに待ってるね」
この時の彼女が精一杯の笑顔を見せていたのは、ニッコリと笑って出て行った二人を見れば分る事だった。ただ、それはエステルにとって、あくまでも偽りの笑顔だ。
(……ごめんなさい、お父さん…ごめんなさい、お母さん……そして ごめんなさい、兄さん…)
何度も何度も謝るエステルの心の声と共に、二人のうしろ姿は涙で見えなくなっていった…。
エステルの辛さが、まるで自分のことのように思えた…。
赤い光は初めてだが、あれは間違いなく死の光…。その後に起こった事を考えれば、事故を意味する色だと分かる。助けたいと思いつつ助けられなかったあたしと、その気持ちを押し殺して敢えて見送ったエステルでは、きっとその辛さはあたし以上なんだろう。しかも、その相手が自分の両親なんだもの…!
十五歳の少女がそれを決断し、自分が見殺しにしたのも同然だと責めても不思議はない。更に言えば、ジェイスは何も知らないのだ。その彼が両親を亡くした悲しみと、自分の事で苦しんでいると分かったら、エステルの辛さは想像を超えるものだ…。
それを考えるとあまりにも辛く悲しくて、あたしの目にも涙が溢れてきた…。
そんな時、またあたしの耳に彼女の心の声が聞こえた──
(兄さんは何も知らない…兄さんが眠ってる間に、あたしが二人を見送ったんだもの……。だから悲しんでる…さよならも言えなかったことに…そして、渡してあげたいと思う唯一の形見が、あたしを苦しめてしまうことに……。あたし…そんな兄さんを助けたいの…少しでもその苦しみをなくしてあげたいの…! だから…だ…から…お願い…兄さんに、もう一度 お父さんとお母さんを会わせてあげて…! それが無理なら、せめてあたしに死者の姿が見える力をちょうだい…! そしたら…あたしが兄さんに会わせてあげられるから…! ねぇ、お願い…あたしはどうなっても構わないから…ねぇ、お願いよぉ…!!)
切なる願いが、耳鳴りのようにあたしの心の中を響き渡った。──とその時、目の前に白い一輪の花が浮かびあがった。何でもないただの花に見えたが、すぐに違うと思った。
エステルの涙が花びらを濡らした途端、水の波紋が広がるように、様々な色に変化したのだ。そして、次の瞬間には花そのものが小さな粒子のように弾け、あたしを囲む暗闇に広がった。
まるで、さっきの淡い光が周囲を包み込むような感覚だ…。
そのうち今まで見てきた映像が一斉に映し出されると、視界そのものがグルグルと回り始めた。
倒れそうになる体を支えようと手をつけば、地面がないどころか、自分の体そのものの感覚がないことに気付いて驚いた。
な…どうして…!?
わけが分からず夢中で辺り見回すと、更に視界が回り気持ち悪くなってきた…。焦れば焦るほど、気持ち悪さも眩暈のような視界もひどくなる。映像はもとより、声まで頭の中で回ってくる感じだ…。
や…だ…もう…やめてよ…なんでこんな事になるの…!? いったい何なのよ、ここは…!?
治まるどころか更に激しさを増す視界の悪さ…。あまりの気持ち悪さに気さえ失いかけた時、今まで見た映像と声の中に、新たなものが流れていることに気が付いた。
いきなり、浅い川の中で子供に掴み掛かったエステル。
(や…めて…! 離れてよ…!)
無我夢中で子供を引っ張り、背中を叩いたりすれば、恐怖で子供が泣き叫び始めた。その声に母親が慌てて駆け寄ってきた。
「な…にするのよ、あなた…!!」
止めようとする母親を突き飛ばすと、エステルは更に子供に掴み掛かる。左右に振られる子供は、何度も川の中に投げ出された。
(絶対に連れて行かせない…! この子は連れて行かせないんだから…!!)
何度も心の中で叫ぶエステル。睨みつけるその目の先には、子供を引き込もうとする死者の姿が映っていた──
いつかの時のように、エステルは少し離れたところから、ジェイスとテトラが話しているのを見つめていた。ただし、テトラの視線が時折こちらに向いては、ニッコリと微笑むことから、以前のように隠れているというわけではなさそうだ。
「ねぇ、先生?」
「うん?」
「エステルさんは…十五歳の誕生日に何を貰ったの?」
テトラの質問に、ジェイスの顔が曇ったのが見えた。けれど、テトラはジェイスの表情には気付かず、話を続ける。
「あたしね、実の月で十五歳になるんだぁ」
「実の月というと……あと半年か。それで、実の月のいつ?」
「十九日」
「そうか。もうあと半年で大人の仲間入りなんだ…。おめでとう、テトラ」
「やだ…まだ少し早いよ、先生」
そう答えるものの、テトラはとても嬉しそうだった。
「最近ね、お父さんとお母さんがあたしに聞くの。〝特別な贈り物は何がいい?〟 って。それで、あたしが 〝何でもいい〟 って答えたらね、二人とも物凄く困った顔しちゃったんだ。でも、本当に何でもいいんだけどなぁ…。だって、あたしの事を想って贈ってくれるんだもん、何だって嬉しいよ。そうでしょ、先生?」
「…うん、そうだね。でも、娘が一番欲しいものを…って思うのが、親心なんじゃないかな」
「う~ん…。そう言われたら そうなんだけど……」
「何かないのかな、少しでも欲しいと思うものは?」
「…う…ん…。あるといえばあるんだけど……」
「何かな、それは?」
「…鏡、かな」
「鏡?」
「うん。いつでも持ち歩ける手鏡がいいかなぁ~って」
そして、少し恥ずかしそうに続けた。
「大人の仲間入りだし…これからお化粧もするようになるじゃない?」
「…そうか」
〝うん〟 とテトラが頷いた直後だった。テトラが何かに気付いたようだ。
「誰か来るわ…。先生、あたしもう行くね」
「あ、あぁ…。気を付けて」
その言葉を受けて背を向けたものの、すぐにジェイスの方を振り返って付け足した。
「先生、あたし……あたしは先生の事もエステルさんの事も大好きだから…。二人のこと、信じてるからね!」
「テトラ…」
〝じゃあね〟 と手を振って帰っていくテトラのうしろ姿を見つめながら、ジェイスが小さく呟いた。
「ありがとう、テトラ」
そして、また耳の奥で聞こえる。
(テトラ…ありがとうね…)
「うそ…でしょ、兄さん…? あたしには分かるわ、兄さんはうそを──」
「いいや、うそなんかついていない。私は彼女を見殺しにしたんだ…」
(違う…絶対に違うわ…! 分かってるのよ、兄さん…! 兄さんはわざと自分を責めるようにしてるって…! 悲しみをぶつける相手がいない苦しさを知ってるから…だからわざと──!!)
「────ッ!!」
(痛ッ…! まただわ…また発作が……)
目を瞑っているからか、視界は真っ暗だった。そんな時、聞き覚えのある会話が聞こえてきた。
「…どうしたの?」
「いや…よく分かんねーけど…気分が悪いみたいだ…」
「顔色も悪いし…どこか休める所か、病の先生に診てもらったほうがいいと思うんだけど…」
「兄さん…?」
夜中に目を覚ましたエステルはジェイスがいないことに気付いた。
(…そ…ういえば…もうすぐあの子の誕生日…もしかして……?)
慌てて出かければ、例の林の場所でジェイスとあたし達がいるのを見つけた──
「あ…なた…!」
(兄さん…兄さん…! どこに行ったの…!?)
夜道を走り回るエステルが、フッと何かを思い出したのか険しい顔付きになった。
(あ…の女だ…! あの女が兄さんを連れて行ったんだ…!)
思考回路がバカになっているような状態でも、あたしは 〝あぁ、そうなんだ…〟 と分かった気がした。
エステルの願いも、子供を溺れさせるように見えたことも、ジェイスがウソを付いている事も、なぜ夜中にジェイスがあそこにいたのかも、ようやく全て分かった気がした。
そして更に、そのボンヤリした頭の中で繰り替えされる言葉を聞いているうち、熱で寝込んでいる時に同じ事を聞いていたことも分かったのだった。
〝真実は、時にうまく伝わらぬものよ…〟
あたしは、パーゴラのばば様が言っていた言葉のひとつを思い出していた──