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女神伝説  作者: Sugary
第五章
62/127

2 名もなき青年 ※

 白々しく夜が明ける頃、あたしは肌寒さを感じて目を覚ました。

 視線の先には、暖をとっていた焚き火の炎が、あと少しで消えそうなほど小さくなっているのが見えた。それでもその火が完全に消えてないという事は、誰かが最後まで火の番をしてくれたということが分かる。そしてその人が寝てから、時間的にはそれほど経っていないということも…。

 あたしは掛けていた布を、寒そうに身を縮ませているミュエリに掛けると、近くに落ちている小枝を拾って焚き火の中に入れた。

 パチパチ…と音を立て少しずつ火が大きくなってくると同時に、また一本、また一本と小枝を重ねていく。

 そんな暖かさを増していく炎をただぼんやりと眺めていたら、ふいに、数時間前の あの出来事が蘇ってきた。

 まるで、心の臓をつかまれ握り潰されるかと思った痛み…。

 死の恐怖さえ感じたあの痛みはなんだったんだろう…。

 いったい自分の体はどうなっているのか…あるいは、これからどうなってしまうのだろうか……。

 ──そんな不安から、あたしは自分の胸元をギュッと握り締めていた。

『──また、痛み出したのですか?』

 静かに流れ込んできた声に脇を見下ろせば、心配そうな目で覗き込むルーフィンと目が合った。

『あ…ううん。違うのよ…』

 慌ててその手を離し、〝そうじゃないの〟 と手を振った。

『ちょっと思い出しただけ…。あんな痛み初めてだったからさ…』

『そうですね…。私も驚きました』

『…うん』

『それで、今はなんともないのですか?』

『うん、全然』

『本当に? それらしい兆候とか、どこか他に調子が悪いところとかは──』

『ないわよ、本当に。ただ…』

『ただ…? 何です? ──何かあるのですか?』

 〝全然〟 という言葉にホッとしたのも束の間、〝ただ…〟 と区切られた事に、ルーフィンの心配が再発した。

『あの時、汗かいちゃったからお風呂に入りたいなぁ~と思ってさ…』

『え…? お…風呂…?』

 予想外の言葉に、ルーフィンの拍子抜けた声が届き、あたしはクスッと笑ってしまった。

『ルフェラ!?』

『あは…ごめん、ごめん。だって…あまりにも心配するから──』

『当然でしょう。あんな事があったら誰だって心配します!』

『…あ…ご、ごめん。でも…あんまり心配そうな目で見られると、逆に辛いから…さ…』

『…………?』

『だって…それだけずっと見られてるってことでしょ? ちょっとぼんやりしただけでも、〝どうしたんだ?〟 って心配されたら、下手に考え事もできない…』

『ルフェラ…』

「…四六時中、元気に振舞ってないと…ってそう思ってるうち、だんだん苦しくなってくるのよ…』

『それは……それは…あまりにもあなたが一人で抱え込みすぎるからで──』

『分かってる…。あたしが何も話そうとしないから…それでみんな心配するんだってことも…』

『だったら──』

『それでも、話せないことはあるのよ。話したくないことも含めて、ね…』

『……………』

『あ…で、でもね……前にも約束したように、これからはルーフィンにもちゃんと話すって言ったから…ちゃんと話すわよ…。だから…あんまり心配そうな目で見られると逆に辛いってことも、素直に話したんだから…』

『ルフェラ…』

 〝引っかかったなー〟 と笑って済む事かと思ってたのに、何だか朝からしんみりしちゃったな…。とりあえず、この話はこれで終わらせないと…。

『あたし、顔洗ってくるわね』

『では私も一緒に──』

『大丈夫だって。付いてきて欲しい時はちゃんと 〝付いてきて〟 って言うからさ』

『でも──』

 さっきの説明では納得できなかったのか、それともしたくないのか…。さらに食い下がろうとするルーフィンに、あたしは小さな溜め息をついた。

『時々、ネオスの心配性が乗り移ったんじゃないかって思うわ、ルーフィンって…。ねぇ、聞いてルーフィン。あたしは顔を洗いに行くだけよ? 調子だって悪くない。その間に誰かが起きた時、ルーフィンまでいなかったら余計心配すると思わない? それより、ここにいて火の番をしてくれてる方が、〝あぁ、すぐ戻ってくるんだな…〟 ってことが分かって安心すると思うのよね…』

 その説明に、今度はルーフィンの溜め息が聞こえた。

『…分かりました。ここで待っています。でも、火の番だけはごめんです』

『え…どうして?』

『そんな事をしたら、私のひげは燃えてしまいます』

『ル、ルーフィン…』

 あたしはそう言ったまま、思わず吹き出してしまった。

 火の番とは言っても、何も、木を咥えて火の中に入れてくれと言ったわけじゃない。それはあたしもルーフィンも分かっていることだが、あたしを笑わそうと、真剣な口調で言ったことはもちろん、焦げた顔のルーフィンを想像してしまったから、笑わずにはいられなかった。

『面白いですか、私の焦げた顔は…?』

『う、うん…かなり…』

『それはよかったです』

『ご、ごめん…ルーフィン…でも…』

『いいんです。あなたが笑ってくれるならそれで。──でも、ひとつだけ言わせてください』

『う…ん、なに…?』

『私は、彼らのように剣を持ってあなたを守る事はできません。心配する事しかできないのです。どうか、私があなたにできる唯一のことを拒否なさらないでください…』

『ルー…フィン…』

 切なる願いですと言わんばかりの言葉に、あたしは何だか胸が熱くなった。

『…ごめん…っていうかありがとう、ルーフィン。でも、それだけしかできないなんて、あたし、これっぽっちも思ってないわよ。話だって色々 聞いてくれてるし、慰められることも、大事な事も教えてもらってる…。あたしには、とっても必要な存在だから…だから、そんな風に思わないでよ…ルーフィン…』

 心の底からそう思っていても、どれほどルーフィンに伝わるか分からない。けれど、少しでもその気持ちを伝えたくて、あたしはルーフィンを抱きしめてそう言った。

 返事はすぐに返ってこなかったが、それでもややあって、溜め息交じりの声が聞こえてきた。

『分かりました。そんな風に思うのはやめます。でも、心配するのは私の仕事だと思って諦めてください。きっと、性分なのです。一人で抱え込んでしまう事が あなたの性分であるように、これが私の性分なのですよ。だから、心配かけないように…なんて考えず、どんどん話してください』

『ルーフィン…』

『微妙に、矛盾している会話のような気もしますけどね…』

 確かに、あたしの性分とルーフィンの性分は矛盾していると思う。だけど、あたしは改めて思った。

 ルーフィンには できるだけ素直に話そう、と。

 色んなことを話せば、それだけ心配事も増えるだろうけど、話さなければそれ以上に心配するだろうから。それに、抱えてる事の多くを話せるのは、きっとルーフィンだけだと思うしね…。

『この際、矛盾点を考えるのはナシってことね?』

『ええ』

『了解。──じゃぁ、顔洗ってくるわ』

 話が一段落ついた為そう言うと、あたしは軽く手を振ってその場を離れた。


 寝る前に確認した道を歩いていくと、しばらくして湧き水の川に辿り着いた。昨日の夜では分からなかったが、予想通り、山の中の水はとても綺麗に澄んでいた。

「しかも、冷たそう…」

 そんな独り言を言いながら、そっと手をつけると、案の定、顔を洗うのを躊躇うくらいの冷たさだった。

 だからって洗わないわけにもいかないし…何より、そんな事がミュエリに知れたら笑われてしまう。確か彼女、〝美しくなる為〟 には真冬でも水で洗うとか言ってたものね。

 えぇ~い、ここは覚悟を決めて とっとと洗っちゃおう!

 あたしは心の中で 〝せぇ~の!〟 と声をかけると、息を止めた勢いでバシャバシャバシャ…と一気に洗ってしまった。

「くぅ~! 冷たいっ!!」

 ブルブルッ…と震えながら、急いで腰紐に挟んでいた布で顔を拭く。

 その直後だった──

 目を開けた途端、あたしは視界の悪さと妙な気配にハッとした。

 さっきまでなかった霧が、ものの数十秒のうちに立ち込めていて、更には、その霧の中──あたしから数メートル離れた場所──に、一人の男がこっちを見て立っていたのだ。

 歳は三十代後半から四十代前半。少し伸びた髪を抑えるように、額から上を黒い布で覆い縛っている。日に焼けた肌と無精ヒゲ、そしてガッシリとした体格と身に付けているものから、普通の男ではない事が分かった。

 心の臓がドクンと強く打つ…。

 ジッと見られてるだけでも気味悪いのに、その男の容姿が普通でない事と、視界を遮る霧がかった状況に、恐怖さえ感じてしまった。

 逃げ…なきゃ…。

 直感的にそう思い、あたしは瞬時に身を翻した。が──


 ────ッ!!


 いつの間にそこにいたのか、いやらしそうに口の端を上げて笑う男が二人、腕を組んで立っていたのだ。二人ともさっきの男と同じような容姿で、薄暗い所で見たら誰が誰だか分からないほどだ。それでも何か違いがあるとすれば、目尻の下あたりに描かれた模様の色だろうか。黒く不思議な模様の中に、色の違う丸い点があるのだ。

「な…なんのよ…あんた達…?」

 思わず後ずさってしまったものの、強気を見せようとして発した言葉。けれど、その声はとても小さく、震えていた。

 男の顔が更にニヤつく。あたしが後ずさった分だけ余裕の顔で近付いてきた。

 あたしは、今更ながらルーフィンを連れてこなかった事に後悔していた。

「 〝なんなのよ〟 とはご挨拶だなぁ」

 青い点のある男が、わざとらしく首をかしげて言った。すると、それに続くようにもう一人の男──黄色い点のある男──が口を開く。

「そうそう。本来なら、オレらが言うべき言葉なんだからよ」

「…ど…ういうこと…よ…?」

「まぁ…簡単に言えば、人んちの庭に勝手に入り込んだってことさ」

「人んちの庭って……も、森は誰のものでもないはずよ…」

「はっ! そんなこたぁ、オレらの知ったことじゃねぇな。ここがオレらのモノだっつったら、オレらのものになる、それだけだ。──分かるか、この意味が?」

「……………」

 その意味はよく分かった。

 つまり、この男たちに理屈や常識は通じないという事だ。

 どうしよう…という不安と恐怖が全身を包み込む…。

 胸の鼓動は早鐘を打ち、自然と足が後ろに引っ張れそうになった。けれど ここで弱気になったら、逃げ出すタイミングを見つけるどころか、そのまま地面に崩れ落ちてしまいそうで、あたしは拳をギュッと握ると、後ずさりしそうになる足にも力を入れた。

 そして、声が震えないよう、一度ゆっくりと深呼吸してから口を開いた。

「──それで、勝手に入り込んだあたしにどうしろと?」

「──ほぅ。いい質問だな、それは」

 ────!!

 突然、後ろから声が聞こえ振り向けば、さっきまで数メートル先に立っていたあの男が、そこにいた。

 目尻の下の模様には、赤い点が描かれている。

「これが何だか分かるか、ねーちゃん?」

 男は 〝ここを見ろ〟 と言わんばかりに、右腕を軽く叩いて見せた。

 そこに彫られた刺青の模様は、ひと目でそれと分かるものだった。

 中心から放射状に伸びた八本の線。その線を結ぶようにして一周すれば、綺麗な八角形が出来上がり、更にその八角形を少しずつ小さくして中心に向かって描けば、見たことのある模様が出来上がる。そして、その模様の左下には八本の足を持つ生き物が描かれていて、そこにも、目尻の下に描かれたものと同じ色の丸い点が描かれていた。そこでようやく気付く。丸い点がその生き物の目だという事に…。

 一目で 〝それ〟 と分かる刺青とは…。

 ──そう。クモと、その巣だったのだ。

 あたしは改めて目尻の下の模様に目をやった。

「…クモ…ね…」

「そう。見たまんまだ。──クモってやつは頭がいい。巣を張れば、水はもちろん、獲物だって手に入る。しかも、向こうからやってくるのを待ってるだけでいいんだからなぁ」

「…何が…言いたいの?」

「捕まった獲物は、その巣のご主人様に食われちまうのが運命だってことさ」

 そう言うと、男はあたしの顎をグイッと持ち上げた。あたしは反射的にその手を払いのけようと腕を上げたのだが──

「いっ……!!」

 瞬時に、後ろにいた男に捻り上げられてしまった。更に、首筋には鋭く光る冷たいものが当てられた。

 〝少しでも動けば斬る〟

 ──そう警告していた。

 冷や汗が首筋を流れた…。

 男は顎を持ち上げたまま、自分の顔を近づけてきた。

「そして──」

 生温かく臭い息が顔にかかり、思わず顔を背けようとしたのだが、男の力がそれをさせなかった。そしてゆっくりと口を動かした。

「──オレらが、山の賊、〝クモ賊〟 だ」

「────!!」

 一瞬、背筋が凍りそうになった。

「捕まえた獲物が男なら、生きて帰さん。だが女なら殺しはしない。特に、あんたのような上玉はな」

 男は、今までよりずっといやらしい目をした。

「…ど…どうする…つもり…よ…?」

 あまりの恐怖と気味悪さに涙が出てきそうになった…。

「言ったろ? ご主人様に食われちまうって。あぁ…でも怖がるこたぁねーぜ。あんたほどの女は滅多にお目にかかれねぇからな。荒々しく一気に…っていうのはもったいねぇ。今回ばかりは、ヘビのようにゆっくりと味わってやるからよ」

「────!!」

 それのどこが 〝怖がる事はない〟 と言い切れる理由になるのか。

 こんな大柄じゃなく、人数も一人だったら、急所と言われるところを蹴飛ばし、一喝してやるくらいの強気は見せられる。だけど、だけど……!

 震えてくるあたしを面白そうに見つめると、男はゆっくりとあたしの首筋に顔を近づけてきた。

「い…や……やめ──」

 耐えられず、泣き叫びそうになった その次の瞬間だった──

 ヒュルヒュル…と空を切る音が聞こえたと思ったら、いきなり右の方から目の前を何かが横切った。──と同時に、つかまれていた顎が横切ったものを追いかけるように、思い切り左に振られた。

 自然と視界に映ったのは、今までに見たことのない光景。

 横切った何かが見えないものの、一直線上に霧が裂け、その部分だけ本来の景色が色鮮やかに見えたのだ。

 咄嗟に、何かが飛んできた方を見ようと顔を戻せば、目の前にいた男が腕と鼻を押さえながらよろけた姿が映る。

 そしてまた、ヒュルヒュル…と音が聞こえた。

 瞬時に顔を右に向けると、同じように霧が裂け本来の景色が浮かび上がる。明らかに何かが近付いてくるのに、それが見えない…。

 いったいなんなの──

 そう思う間もなく、見えない何かが 〝ぐわっ〟 という男のうめき声と共に、あたしの後ろを横切ったのだ。その勢いで、あたしも半回転して転んでしまった。

 最初にヒュルヒュル…と聞こえてから転ぶまでの時間、わずか三・四秒。

 弾けるように飛ばされた男たちが手首や腕を押さえながら立ち上がると、その、何かが飛んできた方向を一斉に睨み付けた。

 そして初めて気付いた。立ち込めていた霧は、既に、あたしと男たちの距離しか見えないほど濃くなっていることに。

 自分たち以外、誰の姿も見えないこの状況にはもちろん、一瞬の出来事に驚いた男たちにできることなど、睨みつける事くらいしかないのだろう。

 それでも、最初に叫んだのは 〝青い目〟 の男だった。

「誰だ、そこにいるのは!?」

 けれど、返事はおろか、〝誰か〟 が近付いてくる気配すらない。ずっと立ち止まったままなのか、それとも、もうそこにはいないのか…。どちらの推測にも答えが出ないまま、しばらく沈黙の状態が続いた。そして、次にその沈黙を破ったのは 〝黄色の目〟 の男だった。

「おい、こらぁ! いるのは分かってんだ。そっちが出てこねーなら、こっちから狩に──」

 ──とそこまで言った時、再び、あの音が聞こえてきた。

 ハッとして霧の中に目を凝らすと、突如として男二人の前方が「S」の字に裂け、あっと思った次の瞬間には、男二人が声を出す間もなく後ろに弾け飛ばされてしまっていた。

 彼らはそのまま気を失ったようで、ピクリとも動かない。

 なん…なの…今のは…!?

 あんなに体格のいい男二人が一瞬にして気を失うなんて…いったい何が飛んできたっていうの?

 それさえも見えなかったのよ…?

 それほど早いってこと…?

 だけど、彼らに当たったら、その 〝何か〟 がどこかに落ちていてもいいはずだ。それがどこにも見当たらないなんて…。

 いったい、なんなのよ…!?

 状況から言えば、あたしは姿も見えない何(誰)かに助けられている。それだけで怖がる必要などないはずなのだが、やっぱり、〝得体の知れない何か〟 には体が震えてきてしまう。

 それは、〝赤い目〟 の男も同じようだった。特に、〝敵〟 とみなされている者にとっては…。

 気絶した仲間から霧の中に視線を移す男の顔は、僅かに引きつっていた。

 男は腰に差していた剣をゆっくり引き抜くと、〝何か〟 が飛んできた方向に向かって静かに構えた。

 その時だった──

 霧の中で何かが動くのが見えたのだ。反射的にその動きに焦点を合わそうと、目を凝らしていると、それが人影で、真っ直ぐこっちに向かって歩いてくるのが分かった。

 あたしはもちろん、男の緊張もグッと増す。剣を握る手、腕、地面を踏みしめる足にも力が入っていくのが見て取れた。

 そして一歩、また一歩と近付いてくる人の姿が見えた時、あたしはその意外な正体に驚いた。

 なっ…せ、青…年…!?

挿絵(By みてみん)

 一瞬にして、体の震えも消えてしまった。

 ──そう。霧の中から現れたのは、右手に剣を持っているものの、十七・八歳くらいの青年だったのだ。金髪に近い茶色の髪と、きれいな顔立ち。

 あんなに鋭く怪しいものを飛ばすような人には到底 見えなかった…。

 男もその正体に驚いたようだが、その現実は彼にとって余裕をもたらしたようで、今や、引きつっていた顔には笑みさえ浮かんでいる。

 それもそのはず。自分よりずっと年下なのはもちろん、体格だって比べ物にならないほどスラッとしているのだ。男にとって彼は、子供相手といっても過言ではない。

 それのどこに恐れる理由があるだろうか。

 男は戦いの姿勢を解くと、剣を地面に軽く突き刺し、その柄に両手を乗せた。

「何をどうやったか知らねぇが、オレの庭で暴れると身動きできなくなるほど絡まっちまうぜ?」

 男は 〝分かるか、この意味が?〟 と言いたげにフンッと鼻を鳴らした。

 もちろん、〝クモ賊〟 と聞いたあたしはすぐに理解する。つまり、巣の中で暴れた獲物の行く末を意味しているのだ。

 青年がその意味を理解するかどうかは分からないが、表情ひとつ変えないところを見ると、男の脅しに効果はないように思えた。その上、男を無視するかのように視線を外すと、ゆっくりとあたしに近付き、不思議な事を口にしたのだ。

「……あなただったのですか、これは」

「……え?」

「ずっと気になっていたんです、この感覚が…」

「…感…覚…? あの──」

 何の事だかさっぱり分からず、その意味を問おうと口を開きかけたが、ほぼ同時に、転んだあたしを起こそうと手を差し出してくれたから、そのタイミングを失ってしまった。しかも、その手を取ろうとした瞬間、青年とあたしの間に鋭い剣が滑り込んだのだ。反射的に手を引いたからよかったものの、僅かに遅れていたら確実に手を斬っていた。

「おい、勝手なことすんじゃねぇ、ボウズ。こいつはオレの獲物だ」

 剣の矛先を青年の喉元に突きつけると、〝後ろに下がれ〟 とばかりに、刃をグッと押し当てた。

 抵抗できぬままゆっくりと下がる青年。その姿に男の笑みが更に増した。

 この状況は、どう見ても青年の方が追い込まれている。なのに、焦りや恐怖はおろか、緊張感さえないように見えるのはなぜなのか。まるで変わらない表情からは、何一つ彼の心情を知る事ができなかった。

 だからなのか、あたしはそれが怖いと思った。凄みをきかせて脅されるより、目の前で刃を突きつけられるより、なにを考えているか分からない事の方が、ずっと怖いと思ったのだ。そしてそれは、優位に立っているはずの男も感じたようだった。

 男の顔から余裕の笑みが消える。

 〝子供相手〟 だと思うなら、今の状況でも十分のはず。だけど、感じた恐怖がそうさせたのだろうか。男は剣を突きつけたまま、

「そいつも渡してもらうぜ」

 ──と、青年の剣に手を伸ばした。

 青年も言われるがまま剣を差し出した。──かに思えた次の瞬間、青年は軽くのけぞると同時に、思い切り剣を振り上げた。

 ジャキッ……ン…!

 ──と耳を突くような音と共に、男の剣が青年の喉元を掠め弾け上げられた。僅かでもタイミングがずれれば、自分の喉元を斬りつけかねない、そんな一瞬だ。

 不意を突かれた出来事に、男は思わず剣を落としそうになる。けれど、もともと力のある男。なんとかグッと握り締めた。──が、更に青年の剣がすくい上げるように男の剣を跳ね上げた。

 キッ…ン…!

 ──という金属音が聞こえたかと思うと、既に男の手には剣がなく、驚く間も与えずに、青年の剣が左から真一文字に振られた。その瞬間、剣が男の体に触れていないにもかかわらず、〝グオッ〟 という声と共に、男が吹き飛ぶようにして霧の中へと消えてしまったのだ。そしてその直後、弾き飛ばされた男の剣が、あたしの後ろの方でカン…カラン…と乾いた音を立てた。

 なんて…早業……!

 あまりの早さに、あたしは声も出なかった。

 一瞬でも目を逸らせば、男の姿がなくなっているほどの早さだ。にもかかわらず、あたしの脳裏には、その動きがシッカリと焼き付けられてしまった。

 青年の動きには、しなやかで流れるような美しさがあった。それが残像となって、スローモーションのように頭の中で繰り返し流れる。

 あたしは、さっき感じた 〝怖さ〟 のことなどすっかり忘れ、その残像に見惚れてしまっていた。

「大丈夫ですか…?」

「………え?」

 その一言で、あたしの意識が残像から現実へと切り替わった。──途端、青年があたしの様子を伺うように、軽くかがみ込んでいたことに気付いてハッとした。

「あ…え、ええ! ええ、大丈夫です……ありがとう…」

 慌てて立ち上がろうとしたら、〝どうぞ〟 と目の前に手が差し伸べられた。あたしは軽く頭を下げ、その手を借りて立ち上がった。

「あの…本当にありがとうございました…」

 深々と頭を下げると、それまで表情のなかった青年の顔に小さな笑みが浮かんだ。その笑みに、あたしもなんだかホッとした。

「けがされなくてよかったですね」

「…ほんと…。今は引っかき傷ひとつでも、〝どうしたんだ!?〟 って血相変えて大騒ぎするような人がいるから──」

「引っかき傷…?」

「ええ」

 青年は不思議な顔をした。けれどそれも束の間、すぐに 〝あぁ…〟 と納得した。

 まさか、彼の言った 〝けがされなくて〟 という言葉が、〝怪我されなくて〟 という意味じゃなかったなんて、あたしは思いもしなかった。そして、不思議な顔をした理由を知ったのは、もっとずっと後のことだった。

「──それはそうと、早くこの森を抜けたほうがいいですよ。あの男たちなら、半日は起きてこれないでしょうけど、いつまた、仲間が襲ってくるか分かりませんからね」

「…仲…間…?」

 考えれば当然のことなのに、言われて初めて気がついた。

 そう…よね…。山の賊が三人だけなんてあり得ないもの…。何人いるか分からないけど、同じ格好をした仲間が、この森にいる事だけは確かなのだ。

「分かったわ…。ホントはちゃんとお礼をしたいんだけど…」

「いえ、気にすることはないです。ただ、これからは一人で行動しないほうがいい。特に、今のあなたには危険すぎることですから」

 危険すぎる?

 あたしが…?

 この状況なら、危険なのはみんな同じのはずでしょ?

 なのにどうして 〝特にあたし〟 なの…?

 彼の言葉に、そんな幾つかの疑問が頭をよぎった。けれど、早くここから逃げなきゃ…という思いのほうが強く、一瞬にしてどうでもいい疑問になってしまったのが事実だった。故に、〝分かった〟 と頷けば、彼も 〝分かってくれてよかった〟 と頷く。

「じゃぁ、僕はこれで──」

「あ…ま、待って…!」

 軽く一礼し去ろうとした彼を、あたしは思わず呼び止めた。どうしても、ひとつだけ聞いておきたい事があったのだ。

「あ、あの…あなたの名前は…?」

 別に、ミュエリのような不純な動機はない。ただ、助けてくれた人の名前くらいは知っておきたかったし…逆に、聞かないことのほうが失礼だと思ったからだ。

「あたしは、ルフェラっていうの。旅をしてるから、この先、また会えるかどうかは分からないけど…でももし、どこかで会ったら、やっぱり、ちゃんと今日のお礼をしたいな…って…。それに…名前が分からないと、見かけた時、なんて声を掛けていいか分からないから…」

 〝だから、せめて名前だけでも…〟

 ──と、ありふれたセリフで結ぶと、青年はなぜか申し訳なさそうに目を伏せた。そして、今回 二回目の──いや、さっきの 〝危険すぎる〟 というのを入れれば、三回目になるだろうか──不思議な言葉を返してきた。

「すみません…。僕はまだ名乗る資格がないんです…」

 ──と。

 あたしは、あまりにも不思議な言葉に、〝どういう意味?〟 とさえ聞けなかった。

「あ、でも…今度どこかで見かけたら、その時は僕の方から声をかけますよ。それでもいいですか、ルフェラさん?」

 青年は、もう覚えたとばかりに、あたしの名前を口にした。

 名乗る資格がないなんてどういう事か分からないけど、要は、言いたくないだけなのかもしれない。だとしたら、無理に聞かないほうがいいわけで……。

「じゃぁ、その時は必ず…」

 ──と答えると、青年は軽く微笑んでから、霧の中へと消えていったのだった。

 ひとり霧の中に残されたあたしは、しばらくの間、青年が消えた方をボンヤリと見つめていた。

 さっきまで逃げなきゃ…と思っていたのに、周りに誰もいなくなった途端、その緊張感がなくなったのだ。

 それはきっと、この光景のせいなんだと思う。周りを霧で囲まれた空間は、まるで夢の中にいるようなのだ。しかも、非現実とも思えるこの状況で起きたのは、いい事も悪い事も含め、日常とはかけ離れた事ばかり。それ故なのか、過ぎてしまうと一気に現実味をおびなくなるのだ

 夢じゃ…ないよね…?

 思わず自分で自分に問いかけてしまう。

 そんな時、ふと左頬に日が当たるのを感じた。自然とそちらを見上げれば、木々の間からこぼれた陽射しが顔に当たっていたのだと気付く。そして、思ったより綺麗に見える景色を不思議に思いながら、視線を元に戻せば、そこに映った景色の変化に驚いてしまった。あんなに濃かった霧が、今や跡形もなく消えていたのだ。

 なんなの…これは…?

 霧が出たのもあっという間なら、消えたのもあっという間…。それこそ夢か幻を見てるようだ。けれど、本来の景色の中に、さっきの男たちが倒れているのを見つけ、現実だと実感した。


 〝いつまた、仲間が襲ってくるか分かりませんからね〟


 途端にその言葉が思い出され、あたしは慌ててその場を離れることにした。そして、みんなの所に戻ると──既にネオスとイオータは起きていた為──まだ眠っているラディとミュエリを起こし、早々とその森を抜けることにしたのだった。

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