4 争いの理由 ※
ラディの熱が下がって二日、充分な休息と食事は彼のみならず、あたし達 全員の体力をも回復させた。
シニアの一件以来、いつも通りとはいえ、間違いなくみんな あたしを気遣ってくれていた。それは分かっていたが、どこかでゆっくりと休もうという気持ちにはなれなかった。
一日でいい、疲れきって夢も見ずに眠れたら…そんな願いにも似た思いがあって、毎日ずっと歩き続けてしまったのだ。
その結果、ラディをあんな目に合わせてしまったのだが…。
先に倒れたのがラディだったというだけで、おそらくそれは誰にでも起きる可能性があっただろう。体力の消耗や気疲れが溜まっていたのは、ミュエリやネオス、イオータも同じだったからだ。
それでも、ショックで気を失ったとはいえ、最初にぐっすり眠ったミュエリの回復が一番 早かった。ラディの熱が下がって、あたし達と同じ部屋に移るようになると──ホッとしたのもあるのだろう──翌日には村の様子を見て回るほど、元気になったのだ。
次いで、ネオスやイオータが調子を取り戻し、相変わらずの夜を過ごしていたあたしも、川辺で昼寝すると不思議なほどよく眠れた為、睡眠不足の解消と共に、体力も回復していった。
夜中、あたしがルーフィンの元に行く事を知っていたラディも、約束をしたからか、連れ戻す為に起きることはなく、充分な睡眠を取れているようだった。
久々に感じる穏やかな時間。
自分のことで精一杯なのは変わらないが、日に日に元気になっていくみんなを見てると、以前のような息苦しさは感じなくなっていた。
〝もう、こんな夢見たくない…〟
〝誰か、この夢を消して、ここからあたしを連れ出して…〟
夢の中では助けを求めながら、そんな甘えは許されないと、必死で心の中に閉い込む。
〝いつも通りの自分でいなければ…〟
〝立ち止まってちゃいけない…〟
〝これ以上、心配かけちゃダメよ…〟
そう、自分に言い聞かせて…。
もし、自分が一人だったら、平常心を保とうとは思わないだろう。〝自分〟 を保っていられるのは、みんながいてくれるおかげで、それはとてもありがたい存在だと思う。けれど、その反面、自分ひとりのほうが、どんなにラクか…と思うことがあるのも、また事実だった。
そんな自分に気付くたび、何か黒いものが心の中を渦巻くようで、精神的に落ち込めば、そんな姿を見ている彼らが、また心配する。そしてまたあたしは、心配かけちゃいけない…と、気を張り、それが悪循環のように繰り返されて、どんどん息苦しくなっていったのだ。
元気な姿にホッとするのは、そんな悪循環を繰り返さなくていいから。彼らが元気になればなるほど、自分への関心が薄れるようで、その分、あたしも気を張らなくて済む。
夜中に見る あの夢は、逃れられない十字架を目の前に突き付けられてるようで、逃げ出したくなるほど苦しいものだ。けれど、充分な休息というのは、耐えることのできる心の余裕をもたらすのだろうか。今は以前とは比べ物にならないほど心が穏やかになっていた。
ただ、そんな穏やかな時間は、長くは続かないものだ。
それまで曖昧だったものが、突然ハッキリした瞬間、新たな心配事が顔を出す。
それは三日目の朝だった──
〝やめて……お願い、誰か助けて!!〟
そんな悲鳴にも似た叫び声が、ハッキリと聞こえ、あたしはまた、ガバッと飛び起きた。
以前、〝助けて〟 と言った小さな女の子の声じゃない。ここ何日か、起きる直前に聞いた夢の中の声だ。暗闇から聞こえてくるそれが、一度や二度なら気にしないようにすることもできたが、さすがに、毎日となるとそうはいかない。しかも、最初こそ、悲鳴か叫び声か分からなかったものが、日を追うごとに言葉となり、ハッキリと聞こえてくれば、何かあると思っても不思議ではないだろう。それが、一度でも予知夢を見たことのある者にしてみれば、だ。
何か嫌な感じがして胸を押さえていると、不意に真向かいから声が聞こえてきた。
「悲鳴の夢か?」
ハッとして顔を上げれば、両手を頭の下に組んだまま天井を見つめるイオータの姿があった。
「お…きてたの…?」
「──ってか、寝てたの あんただけだぜ?」
「え…?」
思わず部屋を見渡すと、彼の言う通り 既に三人の姿はなく、
「ついさっき、顔洗いに行った」
──とのことだった。
「──それで?」
勢いよく体を起こしベッドの上であぐらをかくと、イオータはその続きを求めた。
「それでって…?」
「だからぁ、悲鳴の夢なのか…ってきーてんの」
「…そ…うだけど…どうしてそれを──」
「決まってんだろ」
〝あいつだ〟 とばかりに、顎でしゃくったのは、あたしの隣のベッド。
「ネオスが?」
「ああ」
なんでネオスが知ってるのよ?
そう思うが早いか、次の言葉で思い出す。
「あんた、三日前にもその悲鳴で起きたんだって?」
「あ…あぁ…うん…まぁ…」
「昨日もその前も、飛び起きたりはしなかったけど、ビックリしたように目ぇ覚ましただろ。それがちょっと気になってな、何気なく話に出したら、あいつが 〝もしかして…〟 って言い出したからよ」
「そう…だったんだ…」
納得すると共に、ネオスの推察力にも驚いた。
〝悲鳴〟 と 〝夢〟 を口にしたのは三日前。それもたった一度きりだ。
熱が下がった後とはいえ、あの時はラディの事が最大の関心事だったはず。そんな時に、〝気のせい〟 とか 〝夢で起きた〟 程度の会話を覚えていて、しかも、その夢を繰り返し見てると推測するなんて…。
それがまた、当たってるから驚いてしまう。
「それで、どんな夢なんだ?」
「どんな…って言われても、真っ暗で何も見えないから…」
「真っ暗?」
あたしは無言で頷いた。
「声が聞こえるだけなのよ。起きる直前で何も見えてないっていうよりは、その声で目が覚めるって感じ。しかも、それが悲鳴なのか叫び声なのか分からなくてさ…。でも、今日はハッキリと聞こえたわ…彼女の叫び声が…」
「なんて言ってた?」
「………やめて、誰か助けて…って」
「誰か助けて…か」
そう繰り返した彼の表情が思ったより真剣で、考えたくもない不安がよぎってしまう。
「で、でも…ただの夢よ。たまたま同じ夢を見たってだけで──」
「いや。おそらく正夢になるぜ」
不安を打ち消そうと自分の考えを否定したが、更にそれを否定されてしまった。
正…夢……。
その言葉に胸がドキリと鳴った。
正夢といえば、夢で見たことが現実に起きるという、そんな夢だ。予知夢とはどう違うというのだろうか…。
「その声に聞き覚えは?」
「え…? ──あ、ないわ。もし知ってる人の声でも、あんな叫び声じゃ誰か分からない…」
「そうか…」
「──そ、それより、どうして正夢って分かるのよ?」
「そりゃ、見る回数が違うからな」
「それって、あんたも何度か正夢を見てきたってこと?」
見る回数と言われ、単純に、見てきた回数──つまり、今までにも何度か見てきたから経験で分かるという意味だと思ったのだが…。
素直にそう言えば、呆れた口調が返ってくる。
「あんた、結構ボケてんな?」
「な、なによ…」
「見る回数ってのは、その夢を見てるヤツにとってってことだ。夢なんて、普通は一度きりだろ? あっても、二度くらいだろうし、その二度目もだいぶ経ってからだ。けど、正夢は、同じ夢を何度も見るんだよ。言い換えれば、何度も繰り返し見る夢ってのが、正夢ってことだ。それくらい、多くのヤツが知ってるぜ」
「悪かったわね、知らなくて」
暗に 〝なんで、そんなことも知らねーんだ?〟 と言われてるようで、心の中では舌を出したが、同時に、あの疑問が頭をよぎり、思わず口に出していた。
「…予知夢とは…どう違うわけ?」
「予知夢…? ──あぁ~、そうだな…結果を見れば、言い方が違うって事だけだろ。それでもまぁ…大きな違いといえば、〝回数〟 と 〝見る者〟 だろうな」
「回数と、見る者…?」
「ああ。正夢は、さっきも言った通り、何度も見るものだ。何度も見るから正夢だって分かる。誰でも見るってわけじゃねーけどな、そこそこ見てるヤツはいるぜ。けど、予知夢は普通の夢と同じで、一度しか見ない。一度しか見ないってことは、普通の夢と区別がつかねーから、現実に起きるまで気がつかねーんだよ。ただ、それを見るのは限られた者だけだからな。簡単に言えば、特別なヤツってこと。まっ、区別はつかねぇ…とは言っても、〝特別〟 なヤツなんだから、何度か見てるうちに分かってくるんだろうけど?」
そんなイオータの説明の途中、あの時の言葉がフッと耳をかすめた。
〝ルフェラや、お前は特別な人間じゃ。ここで一生を過ごす事はできん。旅に出ていろんな人と出会い、自分を見つけることができた時に、またここへ戻ってくるんじゃよ〟
ばば様から、村を出る時に言われた言葉。けれど、何がどう特別かは教えてくれなかった。
ねぇ、ばば様… 〝特別〟 って…いったい、どう特別だっていうの?
人とは違う…何か特別な力を持ってるっていうのなら、イオータだって 〝特別〟 だわ。
彼の説明は推測で終わっていたが、何故か 〝特別〟 の意味を知ってるような気がした。もしかしたら、イオータも予知夢を見たことがあるのかもしれない…そんな可能性が頭をもたげたのだ。それが聞きたくて、口を開きかければ、急に玄関の方が騒がしくなり、
「なんか、あったみたいだな」
──という一言で、あっという間に そのタイミングを逃してしまった。
イオータに促されるまま部屋を出れば、騒がしさが一層 増した。玄関の方から聞こえてくるそれは、どうやら男性の怒鳴り声。そして、その合間を縫って聞こえてくるのは、おそらく、セオール医師だろう。
比較的元気な患者や付き添いの人達が、何事かとローカを覗き見る。ここで働く人たちも、忙しそうに動いてはいるが、玄関先の出来事が気になるようで、通りすがりにチラリと視線を泳がしていた。
玄関付近のローカでは、既に何人かが集まっており、その中には顔を洗いに行ったミュエリたちもいた。
「あの おっさん、何をそんなに怒ってんだ?」
後ろから声をかけられ、振り向くミュエリ。
「あ…イオータ。──それがね、勝手に自分の娘を診療したっていうのよ」
「なんだ、そりゃ?」
「それがよく分からないの。今までにもそういう事があったみたいで、その時にも、放っておいてくれ…って言ったらしいんだけどね…」
「また診療したってーのか、あの先生が?」
その目は、セオール医師を指していた。
「ううん、違うわよ。診療したのはあの先生の息子さん。ラディを最初に診てくれたノークさんよ」
小声でそう説明した矢先、呼ばれたであろうノークが現れた。その途端、男性の目が怒りで更に大きく開かれ、今にも掴みかからんほどの勢いで怒鳴り出した。
「あ…んた…いったい何様のつもりでこんな事するんだ!? あの子の事は放っておいてくれと何度も言っただろ!!」
「…でも、彼女は知りたがって──」
「黙れ! 例えそうでも、父親のオレが知らなくていいと言っているんだ!! それがあの子の為なんだよ!!」
「私は…そうは思いません」
「な…んだと!?」
「知りたがっているのを隠すのが、どうして彼女の為なんですか? 辛い思いをしているのは、今の彼女自身なんです。今のままでは、彼女が彼女でいられないんですよ」
「知ったような口を聞くな! あんたに、オレ達の何が分かるって言うんだ! 知らない方が幸せな事も、この世の中にはある。それくらいはあんたにだって分かるだろ!? いくら、セオールの先生だって、踏み込んじゃならねぇ所はあるもんだ。それが、人を診療するのに、絵を描いてるだけのあんたじゃ、尚更な!!」
「────!!」
唾を吐き捨てるほどの勢いでそう言うと、男性は踵を返して出て行った。
彼の姿が玄関から消えると、視線は自然にノークの方へと向くもので…揃ってそちらを見れば、彼の顔はさっきまでの落ち着いた表情とは一変していた。ただそれは、怒りではなく、核心を突かれたような、そんな辛い顔だった。
言葉もなく黙っていると、驚きと怒りが混じったようなセオール医師の声が聞こえた。最初こそ、感情を抑えているようだったが、次第に抑えきれず わなわなと震えてくる。
「お…前は…まだ、あんな意味もない絵を描いているのか…?」
「……………!」
「…絵の事を口にしなくなって、ようやくその気になったかと思っていたのに…まだ そんな甘い夢を持っていたとは……!?」
「夢では…ありません」
何かをグッと堪えるようにそう言えば、セオール医師の表情が更に険しくなった。眉間に入ったシワも力が入り深さを増す。
「ち…父上、聞いてください──」
「黙れ!」
「父上…」
「表面上は諦めたように見せかけて、自分の夢を許してもらう機会でも伺っていたのか!? 心の中では私を裏切っていたも同然ではないか!!」
「違います──」
「どこが違うというのだ!? 私を裏切るだけならまだしも、それ以上に許せないのは、人の命に対するお前の裏切りだ!!」
「────!!」
「人の命をなんだと思っている!? 心の中に他事を抱え込んだまま やれるほど、この仕事は甘くない!!」
「父上──」
「いいか、これが最後だ。絵の事はサッパリ諦めるか、そうでなければこの家を出て、二度と戻ってくるな!」
「────!!」
怒り心頭でそう怒鳴ると、ノークに反論する間も与えず、部屋の奥へ引っ込んでしまった。
それは、既に話し合う余地などないと言う意味だ。突然 突き付けられた父親からの最終勧告に、傍で見ていたラピスが慌ててノークに駆け寄った。
「…に…兄さま……きっと お父様も本気では──」
しかし、そう言いかけたラピスの言葉に、ノークは背を向け部屋の奥へと消えて行った。
誰がなんと言おうと、セオール医師の言葉が本気だという事はノーク自身がよく分かっていたからだろう。
「兄さま…」
その場に取り残されたラピスは、どうしていいか分からず、オロオロとするばかり。彼女の目には、今にもこぼれ落ちそうになる涙が浮かんでいる。そんなラピスにトゥナスが近付き、そっと肩を抱くと、彼女の目から堪えていた涙が溢れ出てしまった。
「…どう…しましょう…トゥナスさん…お父様も兄さまも……このままでは本当に二人は……」
「…ええ…そうですね…」
「…どうして…どうしてこんなことに……? どうして兄さまは絵にこだわるの…? お父様の跡を継ぐのは自分の夢だとも言っていたのよ…なのになぜ…?」
「ラピス様……とりあえず、お部屋に戻りましょう?」
あまりにも静かな為、ここにいるのが彼女たちだけだと錯覚しそうだが、トゥナスはみんなの視線が自分達に集まっていることを知っている。少し離れた所で覗き見しているあたし達のことはもちろん、他の部屋で仕事をしている仲間でさえ、聞き耳を立てているだろうという事も、だ。
故に、そう ラピスにそう促すと、戸口にいた女性に、すれ違いざま何かを囁き、出て行ってしまった。
女性の様子から、おそらくトゥナスが注意したのだろう。ハッとしたように軽く頭を下げるや否や、パンパンッと手を叩いた。
「さぁ…みなさん。もうすぐ お食事ですからね、お部屋に戻ってください。──ほら、あなたたちも、ちゃんと仕事に集中して!」
その声で、みんなの気持ちが一瞬にして現実に引き戻された。それはまるで、止まっていた時間がフッと戻った感じだった。
部屋に戻る僅かな時間に、色んな疑問があたしの頭の中に浮かんできた。
娘を診療したというだけで、なぜそこまで怒るのか…。
その娘は何を知りたがり、父親はなぜそれを止めようとするのか…。
父親が反対したとしても、ノークはその娘の力になろうとしてるだけじゃないのか…?
──それだけじゃない。
ノークとセオール医師の問題も浮かぶ。
二人とも、なぜそんなに絵にこだわるのか…。
なぜ、それほどまで関係が崩れてしまったのだろうか…。
おそらく、考える事はみな同じなのだろうが、部屋に戻ってきても誰一人、その事には触れないでいた。個人的な問題であるため、詮索するわけにはいかないし…当の本人たちだって触れて欲しくない事だと思うからだ。
特に、この家の中で話せば、彼らの耳に入る可能性は高く、ここで働く人たちが見て見ぬフリをしていれば、尚更の事だろう…。
けれど──
好奇心旺盛で、思ったことを口にするミュエリだけは別だった…。
「ねぇねぇ、どうしてあの人、自分の娘を診療されるのが嫌なの? さっきの話を聞けば、ノークさんは彼女を助けようとしてるとしか思えないんだけど。それに、ノークさんとお父さんの関係もなんだか──」
「ちょっと、ミュエリ!」
あたし達だけにその話題を振るならまだしも、よりによって食事を運んできた人──つまりは、トゥナスと同じ仲間──に聞くとは…!
〝どういう常識してんのよ!〟 という意味も込めて、その話題を制すれば、返ってきた答えに唖然とする。
「何よ? みんなだって気になってるんでしょ? 私たちだけで話したって、結局、何も分からないんだし、聞いたほうが早いじゃない」
「おまっ…だからってなぁ──」
「何よぉ。何か文句あるの? ──だいたい、どうしてラディがここにいるのよ? あなたの部屋はここじゃないでしょ。私に文句言う前に、自分の部屋に戻りなさいよ」
「──ンだと!? オレは今日からここに移ってもいいって言われたからだな──」
「あら、でも布団はまだないじゃない?」
「う…………」
「それに、食事だって向こうに運ばれてるんじゃないのぉ~?」
故に、〝ここにいてもあなたの食事はないわよ〟 と言ったのだろうが、そこで引き下がるラディではない。例え病みあがりであっても、だ。
「だったら、オレがお前の分 食ってやるから、お前があっちの部屋 行って食えばいーだろーがよ」
「な…んですってぇ~。どうして私が──」
「あ、あのぉ~」
二人のやりとりがエスカレートし、そのうえ、誰も止めようとしない為、不安になったのか、食事を運んできた若い女性が間に入った。
「食事は持ってきますから…」
〝だから、ケンカはしないで下さい…〟 と、手の平で制すると、慌てて部屋を出て行き、再び、一人分の食事を持って戻ってきた。
「これでいいですよね?」
「あ、あぁ…サンキュー」
「いえ…それでは…」
それだけ言って軽く頭をさげると、ミュエリの質問が繰り返される前に、引き戸は閉められてしまった。
「もぅ…。あなたのせいよ、ラディ」
「何でオレが…」
「あなたが口を挟むからじゃない。あのままだったらきっと、彼女も私の質問に答えてたはずよ」
「はぁ…?」
何の根拠があって、そう言えるのか…。はたまた、どこからその自信がくるのかしらねぇ…まったく。
普通に考えて、身内のトラブルを他人に話したがる人なんていないでしょうが…?
そう思い、
「他人の家に土足で上がり込むような事するほうが間違ってんのよ」
──と言えば、
「…そういえば、最初にあなたが口を挟んだのよね」
──と、あたしの言葉を無視して、責任の矛先がこちらに向いてしまった…。
あぁもう…これだからミュエリへの反論は疲れるんだわ…。
黙ってりゃよかった…と後悔すると共に、もう何も言う気がしないと溜め息を付いた、その時だった。
「──ないのよ、記憶が」
「え…?」
突然、声が聞こえたから驚いた。
顔を上げた視線の先には、窓からこちらを覗く女性が一人。窓枠の上で両手を組み、その上に顔を乗せていた。
年は、十七・八というところだろうか…。
「…ねぇ、それどういう事?」
彼女が誰なのか、いつからそこにいたのか…そんな疑問が湧くことはないのか、あんたは…?
そんなツッコミを入れたかったが、彼女の発した言葉のほうが気になるのも正直な気持ちで……結局、あたしもミュエリの質問に乗っかってしまった。
「記憶がないって…誰の事なの?」
その質問に、あたしと目が合うや否や、彼女は興味津々な目で違う質問を返してきた。
「お姉さんでしょ、飛影を見たのって?」
「え…?」
「ねぇ、どんな感じだった? 幽霊みたいに透けて見えた? それとも、現実みたいにハッキリ見えたの? 見えた時は怖くなかった? お姉さんの意識はちゃんとあったのよね? 夢みたいにフワフワしてるんじゃなくて──」
「おいおい…そう、矢継ぎ早に質問するな。──ってか、こっちの質問にも答えてねーだろーが?」
〝そう〟 とも 〝違う〟 とも挟めないほど飛んでくる質問。それに答えられないでいたあたしを見兼ねたのか、彼女の質問を止めたのはイオータだった。
暗に 〝質問に答えねーなら、こっちも喋らねーぞ〟 と言われた為か、彼女は しょうがない…とばかりに溜め息をひとつ付いて、話を元に戻した。
「さっき怒鳴り込んできたオジサン──バダルさん──の娘よ。あたしと同い年でラミールって言って、八歳くらいまでの記憶がないの」
よいしょっ…と声を掛け、彼女は軽がると窓枠に腰掛けた。
ラミール…?
どこかで聞いた事があると記憶を辿れば、昨日、ノークと帰って来る時に彼の口から聞いたのだと思い出した。──と同時に、次の言葉で更なる記憶が蘇ってくる。
「あ、そうそう。そこのお兄さんが運ばれてきた時、ちょうどラミールもやってきたのよ。急患がいるからって、すぐに帰ってもらったけどね……」
「……ひょっとして…黒い髪の…大人しそうな…?」
「そう、その子!」
「やだ、なに…? ルフェラ知ってるの?」
「…あ…うん…目が合ったのよ…あの日、玄関の所で…」
そして更に思い出す。あの日、ラミールに話しかけたのがトゥナスだったという事も…。
「ふ~ん…私は全然気付かなかったけど…」
〝…ネオスは?〟 と問いかけるミュエリを置いて、再び質問したのはイオータだった。
「──それで? なんでそのラミールは記憶がないんだ?」
「それは知らない。記憶喪失の原因は頭を強く打つか、精神的ショックが大きいって言うけど…ラミールの場合は分かんないのよね…」
「それはねーだろ? どっちの原因にしろ、誰かは知ってるはずだ。頭打ったんなら大怪我しただろうし、精神的なショックでも、必ずその出来事があるんだからな」
「そりゃ、普通はね」
「…そうじゃないってーのか?」
「…あの二人、もともとこの村の人じゃないから」
「どうゆーことだ?」
「もとは違う村にいて、そこで記憶を失くしてるの。そのあとでここに来たから、あたし達には何が原因か全く分からないのよね…」
「つまり…記憶喪失の原因を知ってるのは、その親父だけってことか…」
「そっ。──唯一の手掛かりは一枚の絵なんだけど…」
「一枚の絵…? どんな絵なんだ、それは?」
「楓の葉が風に舞ってる絵よ。兄様が紅葉の季節に描いてて、たまたま通りかかったラミールがそれを見たの。そしたら、急に胸騒ぎがして、何か思い出しそうになったんだって。過去の記憶がそういう景色に関連してるのかもしれないから…って、兄様が描いた絵を色々見だしたんだけど…それ以上の収穫はなかったみたいでさ…。あんなに知りたがってるのになぁ…」
〝教えてやればいいのに…〟 という意味が含まれたその言葉に、珍しく静かな口調で答えたのは、それまで黙っていたラディだった。
「知らないほうが幸せだからだろ、その原因も過去もよ」
「そうなんだろうけどさぁ…」
「本人が知りたいって言ってるんだもの、言ってあげればいいじゃない。それに、失くした記憶を取り戻したいんでしょ、ラミールは? そう思わない、ネオス?」
「え…あ…あぁ…」
突然、ミュエリから求められた同意に、ネオスの返答は曖昧だった。
「それに、ノークさんも言ってたじゃない? 彼女は苦しんでるって。だったら尚更──」
「ほっとけよ。人間生きてりゃ、忘れたい事のひとつやふたつ誰にでもあるだろ」
「な…によ…それ…。彼女は忘れたいなんて思ってないでしょ!? それどころか、思い出したいって思うから──」
「だとしても、だ! そいつの過去を知ってる人間が、知らないほうが幸せだって言ってんだから、それでいいじゃねーか。赤の他人じゃねぇぞ。娘の幸せを願う父親がそう言ってんだ。オレらが口挟むことじゃねーんだよ!」
持っていた箸をテーブルの上にバンッと叩きつけると、そのまま、シーツも何もないベッドの上で寝転がり、あたし達に背を向けた。
その口調は、押さえられない何かを吐き出すようで、ミュエリはもちろん、他のみんなも口を閉ざしてしまった。
そんな中、何かがあたしの脳裏を掠めた。
そう…いえば…こんな事、前にもあったような気がする…。
いつだったけな…。
確か、何かに怒ってたのよね…。
怒って、部屋を出て行った…。
──とそこまで考えて、思い出した。
そうだ…。
ジーネスが子供を預かった…とか何とか言ってた時だわ。
あの時の態度は、ラディの過去が引っかかってるかもしれない…ってネオスが言ってたわよね…。
じゃぁ、今の態度は何…?
あの時と同じような怒りが感じられるのは…?
それに、忘れたい事のひとつやふたつあるっていう言葉も気になる…。
ひょっとして──
「まぁ…人の命がかかってるみたいだし、そっとしておくほうがいいのかもねぇ…」
呟くように聞こえたそれは、僅かに続いた無言の中で、ラディの過去に繋がりを見つけた気がした矢先の言葉だった。
〝人の命がかかってる〟
──その言葉で、ラディの事は一気に吹き飛んでしまった。
「人の命…ってどういうこと…?」
「さぁ…。ただ、あのオジサン 言ってたのよ。前に怒鳴りこんできた時に、〝人ひとりが死んでもいいのか!?〟 って…。さすがにあの時はみんなビビっちゃってさ、ラミールも父親に強く言われたからか、しばらくは来なかったんだけど…。でも、どうしても知りたいから…って、また来るようになったのよね…」
「………………」
人ひとりが死んでも…って…いったいどんな過去があるっていうのよ…?
彼女が記憶を取り戻す事で死ぬ人間がいるとすれば…それは彼女自身ってこと…?
娘を想う父親が、彼女の幸せを願う為に 〝知らないほうがいい〟 というなら、その過去は彼女にとって辛いものだからよね…?
その辛さに耐えられなくて死にたいと思うからなの…?
そっとしておくほうがいいと思う反面、気持ちは既に彼女の過去に傾いてしまっていた。
それはおそらく、ネオスたちも同じだろう。ここで誰も口を開かないということは、あたしと同じ事を考えているからだと思う。
そんな時、イオータが最初に浮かんだ疑問を投げかけた。
「──にしても、お前 いろいろ知ってんだな? その格好からして病人には見えねーし…かといって、ここで働くにはまだ早い年齢じゃねーのか?」
「まぁね~。あたしまだ十八だもん。それに色々 知ってるのは、ここの末っ子だからよ。名前はユイナっていうの」
「…そういうことか…」
「そっ!」
それであたしも疑問が解けた…。
さっきから、ずっと気になっていたのだ。
あたし達と、ノークさんの達の極一部しか知らない飛影の事を、なぜ彼女が知っているのか…と。
極一部と聞いて、あたしは勝手に五人だと思っていた。セオール医師とノークとラピス、それからトゥナスと、最初に話しかけた洗濯籠を持ったあの女性だけだと。知らない人にわざわざ教えることでもないしね…。
まさか、もう一人、妹がいたとは考えもしなかったけど…ここの家族なら知る必要があるわよね…。
そう、納得したのだった。
「それにしても…兄さまこれからどうするんだろ…」
空を見上げ、溜め息混じりに呟いたユイナは、ラピスほどではないものの、寂しそうな顔をしていた。
そんな彼女に、次の質問をしたのはミュエリだった。
「ねぇ…あなたのお兄さまとお父様の関係、どうしてあんなにも悪くなっちゃったの? 原因は 〝絵〟 みたいだけど…絵を描くのって悪いことじゃないでしょ? むしろいいことだと思うわよ…?」
「まぁね。でもそれが、医師としての妨げになるとしたら…?」
「妨げ…?」
「兄さまの絵って、風景画が多くて…ほら、そういう人って、季節の変わり目なんかになると、いても立ってもいられなくなるじゃない? それは兄さまも同じでさ、昔からお父様に反対されても、我慢できずに出かけてたのよ。それでも小さい頃はまだ許してたんだって。でも、医師として勉強するようになってからは猛反対! 病は医師がいる日を選んで発症しないし…特に急患はいつ来るか分からないもの。絵を描きたいけど出かけられない…そんな気持ちを持ったままじゃ、人の命なんて救えない…っていうのが、お父様の考え方なの」
「でも、子供じゃないんだし…仕事は仕事って割り切れるでしょ? それに、ラディが倒れた時も適切な処置してくれたわよ。ねぇ、ルフェラ?」
「そうね…大事な絵の道具だって、あの場に放り出したまま忘れたほどだもの」
「そりゃ、急患が目の前にいれば、誰だって大事な道具だろうと忘れちゃうわよ。でも、お父様の言うことはそういう事だけじゃないの。お父様が死んだあとは、みんなが兄さまを頼ってくるようになるでしょ。もし、絵を描きに出かけてる時に急患が運び込まれたら、診る人がいないわけよ。誰かが呼びに行って、すぐに戻ってきたとしても、そのたった数分が命取りになる事だってあるんだもん。そういう事を全てひっくるめて、お父様は反対してるの。もちろん、兄さまもそれは理解してるんだけどさ…絵をやめようとしないから…結局、今も お父様に認めてもらえないまま…。医師としての知識も技術も十分あるのになぁ……」
「なるほどねぇ…」
セオール医師の言い分がよく分かれば、それ以外にかける言葉は見つからないわけで…ミュエリがそう答えた傍らで、あたしも頷いたのだった。
「でもね…」
ユイナは悲しそうな目を外の景色に移した。
「あたし…兄さまには絵をやめて欲しくないんだ…」
「……………?」
「…小さな頃、あたし病気がちだったから、あまり外に出してもらえなかったのよ。窓から見える景色はいつも同じ。外に出てもこの家の庭くらいで…もう、ほんっとつまらなかった…。そんな時、兄さまはいろんな所に出かけて、絵を描いて見せてくれたのよ。初めて見る木や花もあったし、綺麗な小川も、そこで泳ぐ魚もまるで生きてるみたいだった。じっと見てると、その景色の中にいるような感覚になるくらいよ。そんな兄さまの絵…あたしすごく好きなの…。だから、兄さまにはずっと絵を描いていて欲しくってさ…あたしがお父様の跡を継ぐようになれば、それで問題解決…って思ってたんだけどなぁ…。まさか、こんなにもは早くあんな決断を求めるなんて…」
ユイナは、再び空を見つめて大きな溜め息をついた。
絵はやめてほしくないけど、家も出て行ってほしくない…。
与えられた二つの道を、どちらも切り捨てずに済む方法がないものか…と考えるのは、甘いのだろうか…。
「二つのうち一つ…か…。だとしたらやっぱ、絵を諦めそうだな…」
ラディの声がしてそちらを振り向けば─話が変わったからか──いつの間にかベッドの上であぐらをかいていた。既に、いつものラディに戻っている。
「どうして…?」
あたしはその根拠を聞いてみた。
「──言ってただろ? 〝父の跡を継ぐのが夢だって言ってた〟 ってよ」
「そう…いえば…」
「でも…もしそうなら、もっと早くに諦めてもいいものじゃない? 父親に 〝医師〟 として認めてもらえば、その夢が叶うんだもの。それを今までずっと諦めないってことは…それほど跡を継ぎたいと思ってないのかもしれないわよ?」
確かにその考えも一理ある、と思う。だけど、どちらかといえば──
そう心の中で考えれば、同じ言葉がイオータの口から発せられた。
「──ってか、どっちも同じくらい大事なんじゃねーのか? それほど跡を継ぎたいと思ってねーんなら、何も悩むことはねーんだしよ」
「そうね…。〝やめろ〟 って言われてる事をやめない頑固さがあるなら、父親に対して申し訳ないっていう思いを背負ってでも、きっと絵を選ぶんじゃないかな。それが今まで引きずってるってことは、やっぱり、どちらも同じくらい大事だからよ。その二つをどうにか両立しながら、認めてもらおうって思ってたのかもしれないわ」
「………それだけじゃない…と思う…」
〝そうだな〟 と、無言で頷いてる姿を見て、付け足したのはユイナだった。
みんなの視線が再び彼女に移る。
「好きだから絵を描く…っていうのはもちろんだけど、それ以外にも理由があるみたいなのよね」
「どんな…?」
「さぁ…それは分からないんだけど…トゥナスさんがそう言うのよ。〝ほかに何か考えがあるのよ、きっと〟 って」
「 〝きっと〟 ってことは、確信してるわけじゃないのね…?」
その言葉に、ユイナは無言で頷いた。
「もし本当に何か考えがあるなら言ってほしいのよね。そうすれば、あたし達から お父様を説得できるかもしれないのにさ…」
力になれない自分が悔しいのか、それとも、何も話してくれないことが悲しいのか…ユイナは愚痴でもこぼすように呟いた。
そんな彼女を見て、ラディがしんみりとする。
「…なんか…大変だな、お前んち…」
「まぁね…。時々、薬で治る病のほうが全然いい…って思えちゃうわよ。崩れた人間関係に効く薬ってないもんねぇ…」
「…お前…ほんとに十八かよ…?」
人生を悟ったような言葉に、思わずラディがそう言えば、素の表情で 〝どうして?〟 と返ってきた。
「い、いや…別に…」
「ふ~ん…変なの。──ねぇ、それよりさ…ご飯食べたほうがいいんじゃない? 冷めちゃうよ?」
「お? あ、あぁ、そーだな。オレ、昨日の夜、お粥だったからよ…もう、腹へって死にそうなんだ。──んじゃ、いただきぃーす!」
両手をパンッと叩き、目の前の食事に手を付け始めたラディ。
ご飯の事を思い出せば、すぐに空腹感が蘇ってきて、あたし達も、彼に続き食事を始めたのだった。
それを見たユイナは、飛影のことなどすっかり忘れたらしく、〝じゃ、あたし行くね〟 と言うと、ピョンと地面に飛び降り、どこかへ行ってしまった。
朝食が終わると、ラディのベッドが準備された。
元気になってこの部屋に移れたことにホッとしたのだが、同時に気になることも出てきた。それは──
〝宿じゃないんだから、元気になったあたし達が、いつまでもここにいるわけにはいかない〟
──という事だった。その事を切り出せば、他のみんなも納得し、とりあえずは先を急ぐ理由もない為、宿を探すことにしたのだが、何も知らない土地で探すより、ここは聞いたほうが賢明だろうという結論に至った。早速トゥナスに相談すれば、すぐ近くに宿があり、そこで動物も預かってくれるから…と教えてくれた。
ただ一番の問題は、やっぱりお金の事だろう…。
治療費や、あたしたちまでもがここに泊めてもらったお金が払えない事を正直に話し、あるだけの物を見せると、ミュエリが持っていたお金と、リヴィアの村で貰ったあの球で、何とか了承を得ることができた。しかも、宿の主人にも話を通してくれたため、あたし達は翌日、紹介してくれた宿に移る事になったのだった。