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女神伝説  作者: Sugary
第四章
45/127

3 老人の飛影 ※

 〝助けて…〟


 それは突然、暗闇から聞こえてきた。

 言葉が言葉だけに、一瞬にして体に緊張が走る。

 どこから聞こえるのかと、暗闇に目を凝らせば、少し離れた所で何やら ぼぅーっした光が現れだす。思わず、見てはいけないないもの──ミュエリが苦手とする幽霊──を見てしまった…と目を閉じてしまったのだが、怖いもの見たさで、すぐにまた目を開けてしまった。

 最初、ぼんやりした光は小さかったが、次第に大きさを増してくると、暗闇にも光にも目が慣れてきたのか、その光の中に見知らぬ子供が一人 立っているのが分かった。

 どうして…こんなところに子供が…?

 そんな疑問が頭の中を横切る。しかし──


 〝お願い…助けて…〟


 再び同じ言葉が繰り返されると、頭の中は新たな疑問に占領された。

 喋って…ない…?

 〝助けて…〟 と、懇願するその子供──女の子──の目は、間違いなくあたしに向けられている。言葉も聞こえてくるのに、何故か口が動いていなかったのだ。

 彼女ではなく 誰か他の人の声かとも思ったが、不思議と、その声が彼女のものだという思いのほうが強い。──というより、殆ど確信に近かった。

 あたし…どうしてあの子の声だって分かるのかしら…?

 初めて聞く声よ…?


 〝おねえちゃん…今度は本当の意味で助けて欲しいの…お願い……〟


 ────!?

 〝今度は本当の意味で…〟 その言葉の意味はよく分からなかったが、静かに流れる涙を見た瞬間、胸の中に彼女の痛みが伝わってきた。もらい泣きするように、あたしの目からも涙が流れてくる…。

 な…に…? どうしたっていうの…?

 分けが分からず、それでも、とにかく彼女が誰なのか、助けるとはどういう意味なのか…浮かぶ疑問を口に出そうとした矢先、またもや女の子が喋った。


 〝……あたし…行かなくちゃ…〟


 え…?


 〝人を待たせてるの……。だから、お願い…おねえちゃん…〟


 ちょ、ちょっと──

 〝待ってよ〟 と言い終わらないうちに、女の子は何かに引っ張られるように、後ろへ すぅーっと遠のき始めた。慌てて追いかけるも、近付くどころか、女の子は光と共に、小さくなり消えていく。

 な…んなの…?

 あの子は、いったい誰…?

 助けてって…どういう意味よ…?

 少し考えれば、これが夢だと分かるものだが、何か違う気がしてならない…。

 姿が消えた以上、答えなど聞けないと分かっていても、踏み出した足は止められず、気付けば光が消えた方向に、ずっと歩いていた。そして、最初に女の子が立っていた場所まで歩いただろうか…。そこまで来た途端、思いとは裏腹に足が止まった。

 あ…れ…?

 動かない…?

 そう思うや否や、体の力が急に抜け出した。立っている事もできず、膝から崩れるように座り込むと、そのまま 手も付かずに上半身さえ地面に伏してしまったのだ。

 や…だ…なによこれ…!?

 どうして力が…!?

 自分の意思ではどうすることもできない体に、いつしかの記憶が蘇りハッとする。

 ひょっとして…このまま 自分じゃない自分が現れた夜の夢──現実の夢──が映し出されるの…!?

 い、やよ…見たくない!!

 どんなに強く目を閉じても、その映像は見える。それは、ここ何日と同じことが繰り返されてきたから、分かりすぎるくらい分かっていることだった。

 なぜ見えるのか…。

 その疑問に対する答えが、最近になってようやく分かり始めてきた。おそらく、目ではなく、心で見ているからなのだろう、と。けれど、そうは思っても、実際にその映像が映し出されたら、即座に目を閉じてしまう。それは、頭で理解していても、目で見ているという現実には変わりないからだろう…。

 光が消えている為、目を閉じても暗さは変わらない。

 あの時の映像が流れてくる…!

 半ば覚悟しながらジッとしていると、何か違う感覚が流れてきた。それは映像ではなく、肌に感じる感覚…。

 恐る恐る目を開けると、さっきまで暗闇だった周りが、ほのかに明るい…。

 一瞬、女の子が戻って来たのかと思ったが……。

 ち…がう……?

 驚いて、ずらした手を見れば、その周りが青白い光に包まれていた。

 それだけじゃない。腕も足も…からだ全体がその光に包まれていたのだ。

 どうして…?

 ──と、心の中で問いかければ、タイミングよく光の粒が目の前を横切った。地面に横たわっている為、実際は上から下へと落ちたのだろうが…。

 自然と視線が上にいく。

 ────!!

 いったいこれは……!?

 見上げた場所から、細やかな光の粒子が雪のように舞い降りていたのだ。しかも、全てがあたしの体に向かって…。

 もちろん、月の光かとも思ったが、色が違うことにすぐに気付いた。そして何より、自分の意識がちゃんとあることに、ホッとした。

 ついさっき力が抜けたにもかかわらず、違う力が抜けるように、心地よい感覚に満たされ始めた。

 そう…眠る時の感覚…。

 夢の中で眠るというのも何かヘンだけど…。

 心地よすぎて、クスッと笑ってしまったが最後、あたしの意識が薄れていった。



 そして、どれくらいたったのだろう…。

 あたしは、また、あれを聞いた…。



 ────!!


「ル…フェラ…!?」

 目を開け飛び起きた あたしの視界に映ったのは、驚きと心配と疲れが入り混じった、ネオスの顔だった。

「ルフェラ……?」

「あ…あぁ…悲鳴が……」

「…悲…鳴…?」

 〝悲鳴って何の…?〟

 そんな言葉が聞かれそうなネオスの表情に、驚きながらも現実を把握しようとあたりを見渡す。

 部屋の中には、あたしとネオス以外 誰もいなかった。部屋の外は、声は聞こえるものの、日常的な会話や音のみ…。

 悲鳴を聞きつけたような騒がしさは全くない。この、家の外さえも…。

「…ル…フェラ…?」

「あ…ご、ごめん…夢…だったみたい…」

 〝夢〟 という言葉を自分の口で発し、ようやく現実が把握された…。

「あ、あたし…ラディのところにいたのに……?」

「あ…あ、それは──」

「ラディ…ラディの熱は!?」

 ネオスの説明さえまともに聞かず、ベッドから降りようとしたあたしを、ネオスの手がさえぎった。──と、同時に、一番欲しい言葉を発した。

「大丈夫だよ」

「え……?」

「ラディの熱は下がったから…」

「ほ…んと…?」

「ああ…」

「で、でも意識は…?」

「それも、大丈夫だろうって」

「ほ、ほんとに…?」

 ネオスは大きく頷いた。

 一気に体の力が抜ける…。

「今朝、ラディの部屋に行ったら、ルフェラがベッドに顔を埋めて寝てたんだ。夜中に行ったんだって?」

「あ…うん…。途中で目が覚めて…様子を見に行ったのよ…」

「そう…。一晩中、起きてたらしいけど、僕達が部屋に行った時には、疲れて眠ってた。ラディの熱も下がったし、休ませるならベッドの方がいいだろうって…イオータがね…」

「イオータが…?」

「うん。それから、数時間 経ってるから……ラディも目を覚ましたかもしれないね」

 その言葉にホッとすると同時に、いても立ってもいられなくなる。

 会い…たい…。

 どんなバカな会話でもいい、あたしの声に反応するラディの姿を見たい…。

 そんな思いから、まだゆっくり休んだ方がいいというネオスの手を押しのけて、あたしはベッドを降りた。

 床に足をつけた途端、ふらついた体を、ネオスがそっと支えてくれた。

「あ、ありがと…」

 ヘンな感覚だ…。地に足を付けていないような…雲の上を歩くとこういう感覚なのか…と思うほど、体がフワフワするのだ。

「ルフェラ、やっぱり──」

「う、ううん、大丈夫よ」

 この感覚をネオスが知るはずも無いが、あたしは心配させまいと、慌てて歩き出した。

 〝フワフワする〟 と、一言でも漏らせば、即行でベッドに寝かされるだろう。

 それにしても…なんとも、歩きにくい…。

 周りから見たら、そのヘンさが分からないかもしれないが、あたし自身は、とてもヘンな歩き方をしているように感じる。


 できるだけ普通に歩こうと気遣いながら、ラディがいる部屋まで辿り着くと、ちょうど引き戸が開きイオータ達が出てきたところだった。

「よぉ…目ぇ、覚ましたか…」

「あ…う、ん…」

「…一足、遅かったな」

「え…!?」

 嫌な言葉が、体のフワフワ感を一気に吹き飛ばした。

「それって……」

 ドキドキと心臓が走り出す。手にも冷や汗が滲み出てきた。

 次いで聞こえてきたのはミュエリの声。

「ほんと、もう少し早かったら……」

「────!!」

「オレら、先に部屋に戻ってるからよ…」

 そう言うと、立ち尽くしているあたしの横を通り過ぎて、部屋を離れていった。

 ま、まさか……!?

 さっきの感覚とは全く逆で、地に足を着けている感覚はあるものの、それ以上に足が重い…。

 引き戸の向こうでベッドに横たわるラディを凝視しながら、恐る恐る足を踏み入れる。

 部屋の中には、トゥナスがいなかった。それが、更に心臓を騒がせる。

 ようやく枕元までくると、ラディの顔がよく見えた。

 苦しそうな呼吸は、もうない。

 でもそれは………。

 〝一足、遅かった…〟

 その言葉が頭の中でグルグルと回りだす。

 あ…あ…ラディ…?

 ラディの頬に触れようとした手が、不安と恐怖で震えていた。

「ラ…ディ…?」

 左手が頬に触れる直前、ネオスと同じか…もしくは一瞬早く、女性の声が聞こえた。

「あら…残念だったわ…」

 心臓がドキリと鳴って、振り向けば、入り口から入ってきたのはトゥナスだった。

「あ……」

「ついさっきまで起きてたのよ」

「え…!?」

 驚きの声をあげながらも、あたしは自分の耳を疑った。

「あ…い、今…なんて…?」

「え…? だから…さっきまで起きてたって…。御飯もちゃんと食べたし…もう、大丈夫よ」

「ほ…んとに…!?」

「ええ、もちろん。あなたが部屋に戻ってしばらくしたら…ね。もちろん、呼びに行こうかとも思ったけど、かなり疲れてたでしょ? 事情を話したら、彼も 〝寝てるならそれでいい…〟 って言うから、そのままにしてたのよ」

 〝ほんと…残念だったわ〟 と付け足すと、トゥナスは静かに寝息を立てるラディを見やった。

 一方、あたしは、肺の中に溜まって出せないでいた空気を吐き出すと、その場で崩れるように座り込んでしまった。

「あ…ちょっと…大丈夫…!?」

「ルフェラ…!」

 トゥナスより近くにいたネオスが即座に跪き、あたしの体を支えると、あたしはその腕にしがみついた。

「…った…」

「え…?」

「よ…かった……ラディが助かって……。あたし…てっきり……」

 その後の言葉は、ネオスも同じことを思っていただろう。ただもう、助かってよかったという思いだけで、ネオスは何度も頷いた。

 その光景を見ていたトゥナスが、納得できないと、疑問を投げかけてきた。

「…ねぇ…? さっき、イオータさんたちと会ったのよね?」

「え…ええ…」

「 〝てっきり〟 って…彼らは何も言わなかったの? 〝ラディさんが目を覚ました〟 とか…」

「い、いえ…〝一足、遅かったな〟 とか 〝もう少し早かったら…〟って言われて……」

「あ…ら、やだ…。そんなことを…?」

 あたしは黙って頷いた。

「それは勘違いするわよね──」

 ──と、そこまで言って、彼女は 〝あっ〟 と、口に手を当てた。

「ひょっとして…私の言葉も勘違いさせちゃったからしら…?」

「……ええ。決定的な宣告に聞こえました…」

「あ…ごめんなさい…」

「…いえ…」

 ラディが助かった…それだけで、全ての力が抜けるくらい安心して、あたしはそう言うと、涙を浮かべながらも、クスッと笑ってしまった。それに釣られてトゥナスが肩を揺らし始めると、ネオスまでもが加わり…なんだかもう、可笑しくなって笑いが止まらない。それでも、寝ているラディを起こさないようにと、懸命に声を押し殺していた。

 しばらくして、笑いが一段落着くと、不思議と力が蘇ってきて、あたしはネオスの手を借りながらも、軽々と立ち上がった。

「トゥナスさん……ラディを助けてくれて、ありがとうございました」

 深々と頭を下げると、トゥナスはニッコリと微笑んだ。

「どういたしまして。──でも、きっと あなたの想いが神様に届いたんじゃないかしら?」

「想いが…?」

 同じ言葉を繰り返した途端、あたしはハッとした。

「あ…たし…もう一人にもお礼 言わなきゃ…」

「え…もう一人…?」

「ええ。昨日の夜中…ここに来る前に話したおじいさん…。ラディの事を話したら祈りなさい…って。そしたら、想いが伝わるかもしれないって……だからあたし──」

 お礼が言いたいのはもちろんだが、ラディの状況を早く知らせたくて、あたしは最後まで言い終わらないうちに部屋を飛び出していた。

 ラディが寝ていた部屋と、自分が寝ていた部屋のちょうど真ん中にある部屋…そこまでくると、目の前の引き戸を軽く叩いた。返事があるのを予測して、引き戸に手をかけたが、返事は聞こえてこなかった。

「ここの…人…?」

 後に続いてきたネオスに問いかけられ、あたしは 〝そう〟 と頷いた。

 再度、戸を叩いてみたが、やはり、返事は聞かれない。

 寝てる…?

 そう思いながらも、失礼して、そっと引き戸を開けて覗いてみた。しかし、部屋の中が見えた瞬間、驚いて、勢いよく引き戸を全開にしていた。

「ルフェラ…?」

「…ない…」

「え…?」

「おじいさんが…いない…」

 人がいないだけなら、なんら驚く事はないだろう。トイレに行っているかもしれないし、気分転換に散歩にでも行ってるかもしれないから…。けれど、その部屋はロウソクどころか、布団さえもない…つまり、誰かがいたという形跡がなかったのだ。

 ただ……。

「部屋を…間違えたとか…?」

 ネオスから発せられたその可能性は、同じタイミングであたしの頭の中にも浮かんだ。それを確かめる為、窓際に近寄ってみる。そこから見える景色は、やはり、昨日の夜 見えたものと変わらなかった。──という事は、この部屋に間違いないということ…。そして何より、あたしが腰掛けた椅子が、同じ場所に置きっぱなしなのだ。

「…ここよ…間違いない…」

 ──だとしたら、おじいさんはどこに行ったのか…そんな疑問を抱きつつ、あたしはキッパリと言い切った。

 ちょうどその時、ローカ側から声をかけられた。

「あなた方…そこで何を…?」

 振り向けば、洗濯物が入った籠を抱えた女性が立っていた。

「あの…ここにいたおじいさんは、どこに行ったんですか…?」

「え…?」

「白髪で…白い髭をはやした…ちょっとかすれた声のおじいさん……。昨日、ここで話したんです、あたし…」

「…ちょっとかすれた声…?」

 俯き加減で眉を寄せると、ふと、心当たりの人が浮かんだらしく、ハッと顔を上げた。しかし、すぐに、表情を曇らせる。

「あ、あの…?」

「…まさか、そんなことは…」

 あたしの呼びかけに答えることなく、女性は独り言を呟く…。

 そんな時、聞き慣れた声が聞こえてきた。

 ──トゥナスだ。

「…ここにいたのね…」

「トゥ──」

「トゥナスさん…ちょっとよろしいですか…?」

 女性は、トゥナスを見るや否や、あたしの声を遮ってローカのほうに連れ出してしまった。

 小さな声で話しているため、何を言っているのかは全く分からなかったが、女性の慌てた様子は伝わってきた。しばらくすると、〝もういいわ。あなたは仕事に戻って〟 と、落ち着いたトゥナスの声が聞こえてきた。女性の足音が遠のいてくのと同時に、トゥナスが部屋に入ってくる。

「…あなたが話したっていう人…ひょっとして、〝祈り〟 という詩を…?」

「え…ええ、そうです!」

「ほんとにこの部屋で…?」

 念を押すように、床を指さされ、あたしは 〝間違いない〟 と、大きく頷いた。

「そ…う…」

 そう言ったトゥナスの表情が、先ほどの彼女と同様、困惑気味になり、その変化だけで、なにやら嫌な事を予感させた。

「あ…の…トゥナスさん…?」

 恐る恐る呼びかけると、トゥナスは小さな息を吐き出し、次いで、言いにくそうに口を開いた。

「ルフェラさん…気分を悪くしたらごめんなさいね」

「………?」

「昨日の事…夢ってことはないわよね?」

「それって──」

 夢か幻…もしくは、遠まわしに嘘を言ってるってこと…?

 そんな推測をあたしの表情で読み取ったのか、トゥナスは慌てて言葉を足した。

「あ…ごめんなさい。でもね、もし、あなたが話したというご老人が、私の思っている方と同じなら……あり得ないのよ」

「え……?」

 嫌な予感が心臓を刺激した。

「確かに、〝祈り〟 という詩を詠む ご老人はいるわ…違う部屋にね。でも、その人は歩くどころか、立つ事すらできない体なのよ」

「…………!」

 立つ事すら…できない…!?

「…どう…いうことですか…?」

「かなりのご高齢で、衰弱してるというのもあるけど、昔の事故で両方とも足首から下がないの…」

「────!!」

 なん…だか、眩暈がした…。

 ──だったら、あたしが話した人は誰なの…?

「それに…もし、その ご老人が歩いてこの部屋に来れる体だったとしても、もう、話すことはできないわ」

「…ど…うして……?」

「………今朝早くに、亡くなったから……」

「そ…んな──!!」

「老衰よ…。とても幸せそうな顔で永眠(ねむ)ってる…」

「…信…じられない……。だって…とても元気そうに喋ってたのよ…。この窓際に立って…〝こうして外を眺めるのが好きだ〟 って…そう言って、微笑んでたもの──」

 〝人違い〟

 ──そんな言葉を期待してた。けれど、悲しい事に、その言葉はトゥナスの予想を確信に導いただけだった。

「ルフェラさん…残念だけど、同一人物のようだわ…」

「え…?」

「あなたが見た ご老人の容姿や、かすれた声は、まさにその通りよ。でも、歩ける体じゃなかったから、違う人か、もしくは夢だと思ったんだけど…今のその言葉で、分かったわ」

「………?」

「その方が元気なときにいたのはね、この部屋なの」

「………!」

「そして、窓から外を見るのを好んでらした。もちろん立てないから、ベッドに腰掛けてだけどね。一度でいいから、立って景色を見たいって…言ってたのよ」

 トゥナスは、その光景を思い出すかのように、視線を外に向けた。光の加減か、うっすらと目頭が光っているように見えた。

 〝同一人物〟

 そう聞いたところで、納得できるものじゃない…。

 立つ事もできないその人が…老衰で亡くなる数時間前にあたしと話すなんて…どうやって納得すればいいっていうの…?

 そんな気持ちで何も言えないでいると、それまでずっと黙っていたネオスが、そっと口を開いた。

「……飛影(ひえい)…ですか…」

 その言葉に驚いたのは、もちろん、あたしとトゥナスだ。けれど、トゥナスが驚いた理由は あたしと違った。

「…ええ、おそらく…」

 二人が納得する傍で、あたしだけが理解できずにいた。なにせ、そんな言葉を聞くのは初めてなのだ。

 あたしは、その説明をネオスに求めた。

「…飛…影…って…?」

「……時々、あるらしいんだ。亡くなる人の想いというか…願い事が、直前になって叶えられるという現象がね。死ぬ前に誰かに会いたいとか、もう一度、思い出の場所に行きたいとか…想いが強ければ強いほど、体から心を飛ばしてしまうんだ…って、聞いたことがある」

「それって…ばば様から…?」

「うん…」

「そして──」

 続けたのはトゥナスだった。

「飛ばされた心は実体のない、もう一人の 〝人〟 になる。だけど、誰もがその姿を見れるってわけじゃないの。その人に求められた人とか、波長があった人が見たりするのよ」

「…じゃ…ぁ…あたしが喋ったのは…おじいさんの飛影って…こと…?」

「…でしょうね」

 〝多分〟 とか 〝おそらく〟 といったような、可能性が含まれる返答なのに、その口調は 〝間違いない〟 と言っているように聞こえた。

 ──とはいえ、それをすぐに信じられるかというと、そうじゃないのが現実であり、あたしは、無言のまま、老人が立っていた窓際を見つめた。

 月の光に照らされた老人の姿が思い出されると、次第に、声や眩しそうに細めた目が浮かんでくる。

 ラディの事で涙を流した時は、頭を撫でてくれ、詩の意味を知って、違う涙が溢れた時は優しく包んでくれた。その手の…体の温もりさえ、リアルに思い出されてくる。

 そして、胸の中に熱いものが込み上げてきたあの詩が、すぐ傍で囁かれているように、耳元を通り過ぎていった。



 優しい風を愛しなさい

 荒ぶる風も愛しなさい

 貴方が私を愛するように……


 しとつく雨を愛しなさい

 激しい雨も愛しなさい

 貴方が私を愛するように……


 柔らかな陽射しを愛しなさい

 焼きつく陽射しも愛しなさい

 貴方が私を愛するように……


 それは神が与えし自然の恵み

 尊き命を育む源


 さあ、貴方の為に祈りましょう

 さあ、私の為に祈りましょう


 そして、自分自身を愛しなさい

 貴方が私を愛するように……



 不思議だった…。

 その詩を最後まで思い出すと、信じられない気持ちは薄らぎ、心の中が温かくなったのだ。

 別に、〝信じられた〟 わけじゃなければ、どうして、あたしに見えたのかという疑問も、ないわけじゃない。

 ただ、受け入れた途端、薄らいだのだ。

 それが不思議な現象だとしても、あたしの人生の中で、起こるべくして起きた自然の体験だとしたら、受け入れるべきだと思ったから。そして、老人の死も愛すべきだと──

 あたしはゆっくり瞬きすると、トゥナスに向き直った。

「トゥナスさん。あたしを…おじいさんに会わせて下さい」

「え…?」

「あたし…やっぱり、お礼を言いたいんです。自己満足に過ぎないかもしれないけど、この気持ちを伝えたい…」

「ルフェラさん…」

 あたしの、さっきまでの様子からは思ってもみない言葉だったのだろう。一瞬、驚いたものの、トゥナスはすぐにニッコリと微笑んだ。

「もちろん。きっと、ご老人も喜ぶわ」

 そう言うと、早速、老人が永眠る部屋へと案内してくれた。

 部屋はそこから四つほど、ラディ寄りの部屋だった。

 静かに引き戸を開け中に入ると、柔らかな御香の香りがあたしたちの体を包んだ。

 白く、綺麗に整頓されたベッドでは、四角い布を被せられた人が永眠っていて、枕元に近付いたトゥナスが、その白い布をそっと取ってくれた…。

 そこに現れた顔は…。


 お…じいさん…!


 白髪と白い髭…。思ったより痩せこけた顔だったが、声が聞かれなくても、間違いなく、〝祈り〟 の詩を詠んでくれた、あの老人だと分かった。

 あたしは、ベッドに近付き跪くと、お腹の上で組まれた手にそっと触れた。

「…おじいさん…ラディが目を覚ましました。もう、大丈夫だって…。それから、あたし…あの詩を忘れません、絶対に…。あの詩のお蔭で、おじいさんの自然(死)も愛する事ができます。あたし…おじいさんとお話しできて、ほんとによかった…。ありがとうございます、おじいさん。そして、安らかに……」

 あたしはそう言ってから胸の前で手を合わせた。

 そして、祈りの形を解くのを見計らって、白い布を顔に被せたトゥナスが、静かに口を開いた。

「…それ…じゃぁ、部屋に戻りましょうか?」

「あ…はい…」

 そう促され部屋を出た直後、再び聞き覚えのある声に名前を呼ばれた。

「ルフェラさん──」

 振り向けば、安堵の表情を浮かべたラピスが、足早に寄ってくるところだった。

「ラ…ピスさん…」

「ルフェラさん、よかったわね。ラディさんが目を覚まして…」

「え…え…ほんとに…。トゥナスさんや皆さんのおかげです…」

「あら、それだけじゃないわよ」

「え…?」

「あなただって一晩中、看病してた…って聞いたわよ?」

「あ…でも…あたしは何も……。それに、途中で眠っちゃったし──」

「無理もないわ…。だって、ここ何日と まともに眠れてなかったのでしょう?」

「…ど…うして それを…?」

「見る者が見れば、分かるものよ。少しでも休んでもらおうと思って用意したお茶は、ムダだったみたいだけど…明け方に効いたのかしらね…?」

 そう言ってクスッと笑ったラピスは、最後に 〝それに、大切なのは気持ちですもの〟 と付け足した。

 そして、今度はトゥナスに話しかけた。

「──そうそう、兄さまを見ませんでした?」

「ノーク様なら、ラディさんの容態を確認してから、つい先ほど出かけましたけど?」

「ひょっとして…あの道具を持って…?」

「ええ…」

「も…う…困った人ね…。徹夜明けで、今日くらいは家にいるかと思ったのに…お父様に見つかったらどうするつもりなのかしら…」

 ラピスの表情からは、困ったと言いながらも、心配する気持ちの方が強いように感じられた。

「そうですね…。でも、今日は早めに戻ると思いますよ。夕方にはラミールを呼びに行くことになっていますし、私も、そう申し上げましたから……」

「そ…う。──ありがとう、トゥナスさん」

 申し訳なさそうにそう言うと、トゥナスは 〝いいえ〟 と首を振った。

「──あ、そうだわ、ルフェラさん?」

「は、はい…?」

「イオータさんやミュエリさんが、食べ物の前で お預け状態なの。もしかしたら、我慢できなくて先に手を付けてるかもしれないけど……。温かいうちに食べてくださいね」

 優しい笑みと冗談混じりの口調に、久々に心が緩んだ。しかも、〝お預け状態〟 の様子が容易に想像できてしまえば、笑いと同時に、焦りも沸いてくる。

「大変だわ…ネオス」

「うん。僕たちの分がなくなるかもね」

 その一言で、その場にいたあたし達は笑い、彼女達にお礼を言うと、急いで、部屋へと向かった。

 部屋の戸を開ければ、イオータが 〝待ってました〟 とばかりに 〝よしっ!〟 と一言。それが合図でもあったかのように、二人が一斉に目の前の食事に箸をつけた。

 さっきまで、〝お腹がすいた〟 という感覚さえ忘れていたあたしにも、おいしそうに食べる姿はもちろん、嗅覚に反応した脳が一気に空腹感を思い出させた。そうなれば、いても立ってもいられなくなるのは当たり前で……彼ら同様、まるで競争でもするかのような勢いで食べ始めたのだった。

 食事を終えると、ミュエリは店を見に行こうとネオスを誘い、イオータは 〝今のうちに体力回復しねーとな〟 と言うなり、再び眠ってしまった。あたしはというと、〝休んだ方がいい〟 と言うネオスの勧めを、〝全然、大丈夫よ〟 と平気そうに断った。眠れるものなら眠りたいが、夢の事を考えると、眠りたくない、というのが本音なのだ。

「…ちょっと、散歩にでも行ってくるわ」

「あ…じゃぁ、僕達と一緒に──」

「ううん、いいの。ミュエリと二人で行ってきて。あたしは、のんびり 川でも眺めたい気分だから……」

「でも、知らない土地だし──」

「大丈夫よ。ルーフィンを連れ──」

 ──と、そこまで言って、ハッとした。

「ルフェラ…?」

「わ…すれてた…」

「え…?」

「ルーフィンのこと、すっかり忘れてた──」

 そう言葉にした途端、あたしは部屋を飛び出していた。

 とりあえず、昨日 別れたのは玄関だったと、そこまで戻ってみたが、案の定と言うべきか、姿はなく…あたしは少々焦った。

 別に、一晩 一緒にいなかったからといって心配する事はない。泊まる場所がなくとも、ルーフィンなら何とかするだろうし、実際、村にいた時は、夜になると森に帰っていたからだ。

 ただ、自分がルーフィンのことを忘れたことが申し訳なくて、早く顔を見て謝りたいと思ったのだった。

 しかし、近くにいた人に声を掛け、ルーフィン──犬──がどこに行ったか尋ねてみれば、居場所はすぐに判明し、親切にも案内までしてくれた。

 そこは裏庭で、木々や花などの手入れも、よく行き届いていた。

「ほら、あそこに…」

 そう言って指差す先を見れば、低木の根元で、ゆったりと昼寝をしているルーフィンが目に入る。

「ありがとう…」

 お礼を言い、その人が戻って行ったのを確かめてから、あたしは静かに名前を呼んだ。

「…ルーフィン…」

 その一言で、弾かれるように顔を上げると、彼はすぐさま体を起こし座り直した。その姿に思わず抱きつく…。

「ルーフィン、ごめん…あたし すっかり忘れてて──」

『いえ…気にしなくていいですよ。あの状況では仕方がありませんから。──それより、ラディの様態は…?』

「あ…うん…一時は危なかったけど、もう大丈夫よ。熱も下がって、ちゃんとご飯も食べたって……。今は また眠ってる…」

『そう…でしたか。それはよかった…』

「うん…」

 そう頷いたものの、何かが胸に引っかかった。

 なん…だろ…よく分からないけど…何かが違う…?

「ねぇ…ルーフィ──」

『…すみませんでした』

「え…!?」

 何がどう違うのか確かめようとした矢先、突然の謝罪に驚いた。

 今までもそうだが、ルーフィンに落ち度があるような事は殆どないといっていい。故に、その謝罪が、何に対してなのか分からず……。

「…な、んで謝るの?」

 ──と尋ねてみれば、返ってきた言葉に、更に驚かされた。

『ラディの事は…私の責任でもあるので…』

「ど…うして…? そんなわけないじゃない。だって、ラディの様子に真っ先に気付いたのは、ルーフィンなのよ。倒れたことにも気付かず、あのまま歩いてたら、きっと、助からなかったわ…」

『そう…かもしれません。──でも、黙っていたのは私の責任ですから…』

「え……?」

『本当の事を言うと…夜中、あなたは自分で布団に戻っていないんです』

「…………!?」

『ウソ…だったんですよ』

「あ…ウ、ウソ…!?」

『ええ…』

「──え…あ…よく分からないわ、ルーフィン……どうしてそんなウソを…? 自分で戻ってないならいったいどうやって──」

 突然の告白に驚きながらも、〝自分で戻ってないならどうやって〟 と言いながら、その先が瞬時に理解された。

 〝どうやって…〟 もなにも、自分じゃないなら、〝誰か〟 が連れ戻しに来たということであり、ルーフィンがラディのことで謝るということはつまり──

「ま…さか…ラディが…!?」

 辿り付いた結論は、やはり、あたしの責任だと再認識させた。

 そして、最近のラディの言動が脳裏に横切る。

「最近……ラディがずっと、眠たいって言ってたのは…毎日、あたしを連れ戻して寝不足だったからなのね? それで、体もだるくて…食欲もなくなったから、陽射しの病に──」

『すみません──』

 ルーフィンは、本当に申し訳なさそうに謝った。

 でも、それはルーフィンの責任じゃない…。

 〝戻ったほうがいい〟

 そう言ったルーフィンの言葉を断って…都合のいい夢遊病に安心して眠ってたのはあたしなんだもの…。彼を責めるなんてとんでもないことだ。

 ただ、分からなかった。夜中に毎日 見てるなら、ラディの様子がおかしい事くらい分かるはずだ。体力的に危ないという事にも…。

 なのに──

「…ど…うして…言ってくれなかったの ルーフィン…?」

『それは……』

「もっと早くから、ラディの調子が悪いって気付いてたんでしょ…?」

 そんな気はないのに、思わず責め口調になってしまい、慌てて謝った。

「ごめん…。ルーフィンを責めてるんじゃないの…もちろん、悪いとも思ってない。悪いのはあたしなんだもの…。ただ、らしくないから…。だって、ラディの様子に気付いていながら、あたしに言わないなんて…そんなのヘンでしょ? いつもなら、ちゃんと忠告してくれるのに──」

『ラディが……どうしても言うなと──』

「え…ラ、ラ…ディが…!?」

『はい…』

「ちょ、ちょっと待って……。ルーフィン…ラディとも喋れるの…!?」

『あ、いえ……そうじゃありません。理解する、しないに関係なく、そう言っていただけです。独り言のように…』

「あ…そう、なんだ…ビックリした…。でも、どうしてそれだけで? 頼まれたわけでもないのに……」

『…そう…ですね……。珍しく、真剣な面持ちだったからでしょうか…』

 そう言ったルーフィンの目は、何かしら、とても辛そうに見えた。そして、それこそ独り言のような口調で呟く…。

『…それとも甘さか…』

「え…?」

『あ…いえ、なんでも。──これからは、ちゃんと忠告させていただきます』

 いつものルーフィンらしい口調に戻って、思わず、背筋が伸びた。

「う、うん…。でも…や、やんわりとね…?」

『さぁ…それは保障できかねますが…?』

 冗談とも取れるそんな口調に、伸びた背筋も やや 和らいだ。

 あたしはこの時、ホッとしていた。さっき胸に引っかかった違和感は、ルーフィンがずっと黙っていたという罪悪感によるものだと思ったから……。

『…ルフェラ?』

「うん…?」

『もしよかったら、少し出かけませんか?』

 デートの誘いかと思うような改まった言葉に、思わず笑いそうになったが、その一言で本来の目的を思い出した。

「そうだったわ…」

『え…?』

「あたしも散歩に行きたくて、ルーフィン呼びにきたのよ、そういえば…」

『そうですか、それはちょうどよかった』

「ねぇ…あたし、川辺でボーっとしたいんだけど、さ──」

『分かりました、探しましょう』

 人間のように外見では分からないが、目や声のトーン、ニュアンスから、なんとなく表情が見えてくるものだ。今のは、とても優しく笑ったように見えた。

 ルーフィンが人間だったら、どんな顔してるんだろう…。

 ふと、そんな バカみたいな事を考えてみた。

 優しい口調と優しい笑み。いつだって冷静で、あたしの心にすんなり入ってくる…。

 色んな事を考えているうちに、ふと浮かんだのがネオスの顔で、思わず 〝あ…〟 と漏らしていた。

『ルフェラ…?』

「え…あ…ううん、なんでもない、なんでもない。──さぁてと、出かけますか。頼りにしてるわよ、川辺案内人さん♪」

『川辺案内……』

 突然 ついた肩書きに、一瞬 言葉を失うルーフィン。それでも、反論することなく歩き始めた彼の後姿を、あたしは面白そうについていった。


 数十分ほど歩くと──さすがルーフィン──希望した川に到着した。

 大きな川ではないが、寝そべるくらいの場所は十分ある。

 汗で濡れた体に、地面で吹くものとは違う──少し湿り気があり、冷ややかさのある──風が、心地よく通り過ぎていった。緩やかに蛇行する川の水面が、流れに合わせて不規則にチラチラと輝くのは、束の間、見惚れてしまうほどだ。

『ルフェラ、ボーっとするのはまだ少し早いですよ?』

「え…? あ、そ、そうね…」

 同じ事は繰り返すまいと、日差しを避け木陰まで移動すれば、ようやく寝そべることができた。

 土と草の匂いが覆い被さるように、頭からつま先まで包み込んでいく。

「んん~、きっもちいい~~。やっぱり、川にきて来て正解だわ。──ありがとね、ルーフィン」

 手を伸ばし、隣で身を伏せたルーフィンの頬に触れれば、〝どういたしまして〟 と返ってくる。その後は、二人とも暗黙の了解のように自然の音に耳を傾けていた。

 水が流れる音はもちろん、風で草が波打つ音や虫の音、木々の囁きが耳に心地いい。形の変わる雲が青空を横切り、鳥が鳴きながら翔るのを見ると、今までの事がウソのように思えるほど、穏やかで幸せな気分になった。

 真上では、顔の上に木漏れ日が降り注ぐ。その光が目に入るたび、眩しくて目を細めていると、自然の音と聞き違えてしまうほど、柔らかな声が滑り込んできた。

『……眠っても構いませんよ?』

『…ルーフィン? ──あ…うん…でも、大丈夫よ。ちょと眩しかっただけだから──』

『そうですか? 〝眠りたくない〟 というのが正直なところでは?』

『………鋭い、わね…』

『体は正直なものです。昨日だって、まともに眠れてないでしょう?』

『う~ん…全てお見通しか…』

『当たり前です。ムダに、あなたの傍にいるわけではありませんからね』

『そ、そうよ…ね…』

『ルフェラ…』

『うん?』

『もし、自然に眠たくなってきたら、怖がらず目を閉じ休んでください。自然の流れに身を任せたほうが、楽になれますよ。こういった自然を肌で感じている時は、特に…』

『……自然、か…』

 ルーフィンの 〝自然〟 と言う言葉が、あの詩を思い出させた。

『…優しい風を愛しなさい……』

『え…?』

『…荒らぶる風も愛しなさい 貴方が私を愛するように……』

『ルフェラ…?』

『 〝祈り〟 という詩よ』

『祈り…?』

『うん。──昨日の夜、おじいさんに教えてもらったの、おじいさんの飛影にね…』

 チラリと横目でルーフィンを見れば、珍しく驚きの感情が目に表れていた。

『…昨日の夜ね──』

 あたしは、昨夜 出会った老人の事を、ルーフィンに話すことにした。

 〝祈り〟 という詩やその意味を、母親から教わった事。自分もその意味を知って、涙が溢れた事、そのあと自分とラディのために祈った事…。そして、その老人が今朝早く老衰で亡くなり、自分と話したのが老人の飛影だと知ったこと…など、一部始終を話した。

 全てを聞いたルーフィンは、しばらくして小さな吐息を漏らし、そして口を開いた。

『飛影とは……不思議な体験でしたね…』

『うん…。たまたま波長が合ったにしても、あの時のあたしには、とてもありがたかったわ。感謝しても足りないくらいよ…』

『ええ。でも、たまたま…ではないかもしれませんよ?』

『どういう事…?』

『その老人は、あなたを求めていたのかもしれない、という事です』

『………?』

『今までに経験したことのない世界ですから…死を目の前にして、恐れない人はいないでしょう。例え、悔いのない人生だったとしても、不安や親しい者たちとの別れは辛いものです。自分の死を、避ける事のできない 〝自然〟 として愛し、受け入れようと口ずさんでいたのではないでしょうか。そして、その詩を必要な人に伝えたい…とね』

『……そう…なのかな?』

『ええ。真相は分かりませんけど、少なくとも私が老人の立場なら、そう思います』

『…だとしたら、あたしは少しでもおじいさんの望みを叶えられたのかしら?』

 死にゆく人を救うどころか、逆に助けられただけの事に、どこか情けなさがあった。それが、もしかしたら、自分も役にたったかもしれないと思えるルーフィンの言葉に、思わずそう訊いていた。

『そうですね。おそらく、死を目の前にして孤独な時に、あなたと話ができただけでも、老人にとっては、嬉しい事だったのではないでしょうか?』

『そう…かな…。そうだったら嬉しいわ、あたしも…』

『ええ、きっと』

 そう言うと、ルーフィンは 〝祈り〟 の詩を、静かに詠み始めた。

 ゆっくりと、澄んだ声が心に入り込んでくる。

 あ…ぁ、不思議…。

 ルーフィンの声が…詩が…子守唄のように響いてくる。それは、風に乗る花びらのように舞い、あたしの体を優しく包んでいくようだった。

 優しさと心地よい響きに満たされて、眠たい…と感じる間もなく、あたしの意識は雲のように漂い始めた……。



 そして──

 ふっと、風向きが変わったような気がして目を開ければ、辺りは日が暮れかけていた。その景色の変化に、初めて、自分が眠っていた事を知る…。

 いつの間に…と思うのはもちろん、目が覚めるまで夢を見なかったことに、正直、驚いた。

『──どうです、ご気分は?』

『え…?』

『よく、眠っていたように思いますが?』

『あ…ぁ、うん…。眠ったつもりなかったのに、気付いたら今になってて……自分でもビックリしてる…。夢も見なかったなんて…』

『それはよかったです。──きっと、自然が守ってくれたのでしょう』

『自然が守る…?』

『ええ。大地は、命あるもの全ての根源ですからね。人間で言えば、母体とでもいいましょうか…。与えられた自然に身を任せれば、おのずと自然の流れに乗る事ができる。その流れに逆らわなければ、自然が守ってくれるのですよ。──まぁ、自然といっても、こういう大地の自然ばかりじゃありませんけどね』

『なる…ほどね』

 大地が母体だなんて…規模が大きくて現実的には思えないけど、考え方としてはそれもありで、信じたくなるものだ。

 多分それは、神の存在に似ているかもしれない。神を見た者がいなければ、姿 形さえ知る者もいないのに、人はその存在を信じている。守られていると思えれば、人は安心することができるからだ。

 実際問題、どうやって自然が守ってくれたのかなんて、言った本人でさえ説明できないだろう。でも、それでいいのだ。大事なのは、それを証明する根拠ではなく、考え方のほうだから。

 自然が守ってくれる…その言葉だけで、あたしは不思議な安心感を得ていた。

 しばらくの間、暮れ始めた太陽の色に景色が染まっていくのを眺めていたが、こういう変化をのんびりと見るのは久しぶりで、時間さえ忘れてしまいそうになる。それを察知していたのか、ルーフィンは頃合を見計らったように、〝そろそろ、戻りましょう〟 と声を掛けてきた。

 まだまだ、ゆっくりとしていたかったが、あまり遅くなっても、ネオスたちが心配するため、ルーフィンの言葉に従い、部屋に帰ることにした。


 途中、ルーフィンが誰かを見つけたらしく、教えてくれた。

『ルフェラ、あの人…』

 〝あの人〟 と言われ、ルーフィンの視線の先を追えば、地面に座り込んでいる一人の男性と男の子が目に入った。

『あ…ノークさん…』

『ノーク…?』

『うん。──あ、そっか…昨日、玄関の所で別れてそのままだったもんね』

『ええ…』

『彼は病の先生の息子さんで、ノークさんって言うのよ。先生はもちろんだけど、彼もラディを診てくれたの』

『そうでしたか』

『うん』

 あれ…でも、こんな時間にここにいていいのかしら?

 誰かが来るから早めに戻るように…とか何とかトゥナスが言っていたのを思い出し、慌てて彼の元に走り寄れば、かけてくる足音に気付いたノークが振り向くのと、あたしが声を掛けるのは、殆ど同時だった。

「ノークさん…」

「あぁ、ルフェラさん」

「あの──」

「よかったです」

「え…?」

「だいぶ顔色が戻られた。やはり、彼の回復が大きかったようですね」

 一瞬、何を言われているか分からなかったが、横にいたルーフィンから 〝あなたの心配もしていたようですね〟 と言われ、ハッとした。

「あ…すみません。それから…ラディの事、ありがとうございました」

「いいえ、どうしたしまして…と言いたいところですけど、待つ身だったのは、私も同じですからね。感謝されるほど大したことはできませんでしたよ。せいぜい、様子を診るぐらいでしたから…」

「そんな事ないです。徹夜までしていただいて…あたしの方こそ何もできなかった…。それに、あの時──ラディが倒れた時──の処置が早かったから、ラディは助かったんです。あたし達だけじゃとても……。だから、やっぱり、ノークさんのお蔭です」

「う~ん、病を診る者としては、当然のことをしたまでですけど…そう言っていただけると嬉しいですね。ありがとう」

「あ、いえ…そんな…」

 ニッコリ笑った笑顔は本当に嬉しそうで……なんだかこっちまで嬉しくなってしまった。

「あ…そうだ。ノークさん、帰らなくてよかったんですか?」

「え…?」

「誰かが来るから早めに帰ってきてもらう…とか何とか、トゥナスさんが言ってたから──」

「ああ、ラミールの事ですね。大丈夫ですよ、今日のところは済みましたから」

「え…そうなんですか?」

 ノークは 〝ええ〟 と頷いた。

「一度家に帰って、それからまた、ここに来たんです」

「…そう、なんだ…」

 はは…昼寝してたあたしが心配する事じゃなかったわね…。

 ──と、半ば自分に呆れていると、男の子が一枚の紙を残して無言で立ち去っていった。

 ノークさんに挨拶もなし…?

 少々、不快な思いもしたが、ノークは小さくなっていく男の子の背中に、

「またね」

 と、声を掛け見送った。角を曲がり、その姿が見えなくなってようやく、男の子が地面に置きっ放しにした紙を拾い上げた。

 そこには、二人…いや、三人の絵が黒一色で描かれていた。

挿絵(By みてみん)

 それを見つめるノークの表情は、何か思いつめているように見える。

「絵を…教えているんですか?」

「え…?」

 さっきから気になっていたのは、ノークの周りにある道具だった。それは、昨日ラディを助けてくれた時、思わず忘れてしまった持ち物。今朝、ラピスが言った 〝あの道具を持って…?〟 と言ったのは、おそらく、これだろう。

 ──そう、それは絵を描く道具だったのだ。

 地面に座り込み、膝の上に載せていたのも、ノークが描いていた風景画だった。

「子供たちに絵を…?」

「あ…ぁ、いえ…教えるというものじゃありませんよ。みんな自由に描いているだけですから。私が書いているとね、一緒になって描き始めるんですよ。見たものを描いたり、想像した事を描いたり…。子供って好きなんでしょうね、絵を描く事が。ただ─」

 ノークはそう言うと、再び手に持っていた一枚の絵に視線を落とし、黙ってしまった。

「ノーク…さん?」

「え…? あぁ…いえ、なんでも…。──さぁ、日もだいぶ沈んできた事ですし、私達も帰りましょうか?」

 そう言うや否や、ノークは手際よく道具を片付け始めた。

 あたしはルーフィンと顔を合わせ 〝?〟 マークを投げかけたのだが、会話する時間は殆どなく…あっという間に、〝さぁ、帰りましょう〟 と、片付け終わったノークの声がかかった。

 歩き始めてすぐに、ノークは 〝ああ、そうそう〟 と切り出してきた。

「ひとつ、言い忘れていた事がありました」

「な、何ですか…?」

「ラディさんを救った感謝すべき人…言わば、一番の救世主のことです」

「一番の救世…? え…だ、誰ですか?」

 一瞬、聞き慣れない 〝救世主〟 という言葉に驚いたが、一番感謝すべき人がいるなら、お礼を言わなきゃ…と思い、身を乗り出すように聞き返していた。

「分かりませんか?」

「え…?」

 そう言われるという事は、あたしの知っている人だろう…と思い当たる人を考えてみる。

「…ノークさんのお父さん──先生──ですか?」

 病の先生なら、待つ身だったとしても、何かしら方法を見つけていたのかもしれないと思ったのだが、ノークは静かに首を振った。

「じゃ、じゃぁ…トゥナス…さん?」

 ずっと看病していたのはトゥナスだ。寝ずに、何度も氷を換えたりと、実際に手を尽くしてくれたのは彼女であり、そう答えたのだが、やはり、ノークは首を横に振った。

 ほかに誰が…?

 ──とも思うが、本当は分かっている。あの、飛影の老人だ。だけど、それを言っていいのか分からず黙っていると、

「聞きましたよ、飛影のこと」

 まさに、その言葉がノークの口から発せられた。

 〝どうして知っているのか…〟

 思わず、そう聞き返そうとしたが、一度家に帰ったなら、その話を聞いているのが当然のことだと、すぐに理解する。

「ひょっとして…みんなに知れ渡ってたりします…?」

「いいえ。あなたの仲間と、私たちの極一部だけですよ」

「そう、ですか…」

 よかった…。

 別に、知られて困るような事じゃないけど、出来るならあまり知られたくない。言っていいのかどうか…というよりは、言いたくないという気持ちが強かったのかもしれない、と、あたしはこの時 思った。ノークの口から 〝飛影〟 と聞いた瞬間、脳裏に浮かんだのは、今朝の女性──洗濯籠を持った女性──の顔だったからだ。

 ──そう、有り得ない話を聞いた時の…あの、曇った顔だ。

「…どうか、しましたか?」

「え…? あ…いえ…」

 や…だな…。思わず、村を出るときの事 思い出しちゃったわ…。

「──え、えっと それで…その救世主は、飛影のおじいさんってことなんですよね…」

「さぁ、それはどうでしょうか?」

「……………?」

「確かに、飛影の御老人のお蔭でもあるでしょうけど、私が思うに…本当の救世主は、あなただと思いますよ」

「は…あ、あたし、ですか!?」

 思ってもみない言葉に、しばらく開いた口が塞がらなかった。

 言った本人はとても真面目で、冗談を言っているようには見えない。

「人の想いというのは、時に、奇跡を起こすものなのですよ。どれほど優秀な病医でも、大切な人の想いには、敵わない時があるのです。一晩中、祈っていたあなたの想いが彼を救ったと言っても過言ではないでしょう」

「あ……でも、そんな…」

「いいんですよ、それで」

「…………?」

「自分がそう思っていなくても、周りはそう思います。祈りは通じる…そう思う事で、祈りは受け継がれていくものだと思いますからね」

 あ…ぁ、そうか…そうなんだ…。

 自然を愛する祈りもそうだけど、誰かの為に祈るという事も、また、大切な事なのだ…。

「でも…」

「…………?」

「──少なくとも私は、本当に思っていますよ。あなたが彼を救ったのだ、とね」

「………ありがとう、ございます」

 自分のせいで…という思いがずっとあったからだろうか、彼の一言は、あたしの心をすっと軽くしてくれた。と、同時に、とても嬉しかった。


 宿に着くと、あたしは真っ先にラディの部屋へと向かった。

 軽く戸を叩いてから、引き戸を開けるのと、中にいたトゥナスが返事をするのは、ほぼ同時だった。

 部屋の中には、知らない中年男性がいて少々驚いたが、ベッドの上で上半身を起こしているラディを目にすれば、よかった…と安堵の笑みが漏れる。

「あぁ、ルフェラさん。ちょうどよかったわ、中に入って?」

「あ…はい…」

「──今頃で申し訳ないんだけど、こちらがノーク様のお父様、セオール先生よ」

 そう紹介されるや否や、セオール医師は軽く頭を下げた。

 あ…ぁ…この人が病の先生…。

 ラディの様子を診にきたのだと、あたしも頭を下げた。

「本当は昨日の時点で、挨拶すべきでしたが色々忙しくて…申し訳なかったですね」

「あ…いえ…」

「──ラディさんは、もう大丈夫ですよ。明日にでも、あなた方の部屋に移れますから」

「ほ…んとうですか…?」

「ええ」

「…あ、ありがとうございます!」

「いいえ。それにしても、あなたも、だいぶよくなりましたね? 安心しましたよ」

「え…?」

「明け方、様子を見に来たとき──疲れて眠っていましたが──顔色があまりよくなかったのでね。ノークやラピス…トゥナスまでもが心配して……いや、よかった、だいぶ良い顔色だ」

 明け方、この部屋にきたとは知らず、その上、顔色──しかも、寝顔──を見られていたとは…と思うと、なんとも、恥ずかしくなる…。

「…し、心配かけてすみませんでした…」

「いや、なに…これが私たちの仕事でもありますからな。──では、私はこれで」

「あ、はい、ありがとうございました」

 部屋を出て行くセオール医師の背に深く頭を下げると、〝私も行くわ。ゆっくり話してて〟 とすれ違いざま囁き、トゥナスまでもが出て行った。

 戸が閉められると、途端に静けさが戻り、なんとなく妙な沈黙が漂う。たった一日、顔を見てないだけだというのに、ヘンな緊張感があるのだ。

 元気になったラディを目の前にすると、あんなに必死になった自分が、なんだか大げさすぎた感じがして、恥ずかしくなったのかもしれない。

 そんな緊張感がラディにも伝わったのか、

「座れよ?」

 ──と、椅子を勧めた第一声は、まるで、なにかの台詞のようだった。けれど、あたしが椅子に腰掛け、二言、三言話し始めると、いつもの調子を取り戻していった。

「ありがとな」

「え…?」

「一晩中、看病してくれたんだろ?」

「あ、ああ…うん…でも、何にもできなかったわよ、途中で眠っちゃたし…」

「そんなことねーさ。オレ、お前に助けられたんだからよ」

「助け…られた…?」

「ああ。気が付いたら、オレ…砂漠にいてな──」

「は…さ、砂漠…? 砂漠って、一体なんの──?」

「いや、だから、夢だよ、夢」

「あ…ああ、そう…」

「もう、メチャメチャ暑くってよ…マジ、死にそうだったんだぜ。──けど、お前の声が聞こえたら、急に砂漠の景色が変わってな……んで、泣きながら 〝帰ってきてくれ〟 っつーから、無我夢中で走ったわけよ。そしたら目が覚めて…。いやぁ…もし あの時、お前の声が聞こえなかったら、間違いなく砂漠で死んでたな、うん」

「そう…。夢の中だけでも助けられたならよかったわ」

「ばっか…夢ったって、ただの夢じゃねーぞ?」

「…………?」

「聞いたぜ。あの晩、飛影を見たんだってな、ルフェラ?」

「あ…あぁ…うん…まぁね」

「実を言うとな…オレも見たんだ、そのジイさん」

「え…?」

「夢の中に出てきた」

「じょ…冗談でしょ?」

「冗談なもんか。オレも、最初は夢だと思ったんだ。だってよ、砂漠に一緒にいたのに、メチャメチャ涼しい顔してんだぜ? あり得ねーだろ、夢以外に」

「ま、まぁね…」

「──んで、オレも夢だと思ってたから、まぁいいか…と思って、話してたんだけどな…すぐに案内人が現れて──」

 ──と、そこまで言って、言葉が途切れた。

「ラディ…?」

「あ、ああ…わりい。…えっと…それでだな…その案内人と一緒に光の方へ歩いて、消えちまったんだよ。最後に、ある言葉を残してな」

「ある…言葉…?」

「ああ、なんだと思う?」

「…さぁ…?」

「──詩、だよ」

「詩…!? 詩って…も、もしかして…!?」

 ラディはゆっくり頷いた。

「ルフェラが飛影を見たって話と、今朝 亡くなったのが 〝祈り〟 の詩を詠むジイさんって事を聞いたんだ。その飛影を見てから、ルフェラが祈ってくれた…ってこともな。それで、分かったんだよ。あれは普通の夢じゃない、死への道夢(みちゆめ)だって事に…。あのジイさん、最後の最後に、〝声を聞け〟 っつってよ、そのあと聞こえたんだ、お前の声が。あの時…お前が、オレの為に祈ってくれなかったら……泣きながら 〝帰ってきてくれ〟 って言わなかったら……オレ…今頃、ここにはいなかったぜ…」

「……ほ…んとに…?」

「ああ」

 生と死の間を彷徨っていると、普通の夢とは違うものを見ると聞いたことがある。

 普通の夢と大して変わらないため、死への道夢かどうかを判断するのが難しく、戻ってくるのは稀だという。しかも、同じ時間に同じ夢を見る者は──つまり、同じく 生と死を彷徨っている者であり──助言を与えてくれる可能性は殆どないのだ。故に、何気なく歩いているうちに、死の世界へ導かれてしまうらしい。

 進む方向を間違えれば、死を意味する。そんな死への道夢をラディが見ていたとは…改めて、危険な状態だったのだと再認識させられた。そして、同時に、生の世界へ戻れるよう導いてくれたのは、やはり、あの老人だということにも気付かされた。

「それが本当なら…あたし達は、おじいさんに感謝すべきね。おじいさんが、生の世界へ戻れるよう、ラディに助言してくれたんだもの。そして、声が聞こえるよう、あたしに祈りの詩を教えてくれたのよ」

「…そう…だな」

 そしてもうひとつ。あたしがおじいさんに会わなければ、怖くて、この部屋に来ることすらできなかったんだもの。

 あたしは、そんな言葉を胸の中で続けた。

 そして、〝ありがとう〟 と心の中で呟いた間があったかと思うと、突然、ラディは何かを思い出したかのように、天井を見上げ吐き出した。

「──あぁ~、それにしても、嬉しかったなぁ~」

「なにが?」

「だってよぉ、オレの為に泣いてくれたんだろ?」

「は…? ちょ、ちょっと……それ、さっきから気になってたんだけど、あたし泣いてなんかいないわよ?」

「まぁまぁ、そう照れるなって」

「べ、別に照れてなんか……」

「だって、現に お前が祈った事がオレの夢に聞こえたんだぜ? ぜってー、あれは泣いてた」

 〝うん、間違いねぇ〟 と、自信ありげに何度も頷く…。

「た、確かに祈ってはいたけど──」

 ──と、更に否定したものの、ある映像が脳裏に浮かび、一瞬言葉が途切れた。

 あ…あの子…。

「 〝けど〟 なんだよ?」

「え…? あ…その…泣いてたのは泣いてたけど──」

「ほらみろ、やっぱ泣いてたんじゃねーか」

「ち、違うって…そうじゃなくて………もらい泣きしたのよ、もらい泣き」

「もらい泣き? 誰の?」

「いや…誰のって言われても…知らない子っていうか…」

「んじゃ、ダメだ」

「何が──」

「恥ずかしくてそう言いたくなるのも分かるけどな──」

「だから違うって──」

「分かった、分かった。じゃぁ、こういう事にしようぜ。心の中で泣いてたってことでよ?」

 心の中とはいえ、泣いていたという事には変わりなく……更に否定しようとしたのだが、泣きたいくらい必死になってたという点では一理あったかも…と思うと、納得してしまった。

「……そうね。ラディが倒れたのは あたしのせいだもん…申し訳なくて泣いてたかもね…」

「…………?」

「──毎日、夜中に起きて、あたしを布団に連れていってくれたんでしょ?」

「いっ…!? あ…ぁ…な、何のことだか──」

 大袈裟なほどの反応で、誰が見てもウソだと分かるのに、〝知らない〟 と言い切ろうとするラディ。けれど、〝とぼけないでよ〟 と言い返すどころか、笑いもしないあたしの顔に気付いて、その言葉を飲み込んだ。

「……ミュ、ミュエリのやつだな?」

「…違うわよ」

 平然と答えながらも、〝ミュエリも知ってたとは…〟 と、心の中では、正直 驚いていた。もちろん、〝違う〟 とは言っても、〝ルーフィンから聞いた〟 とは言えない。

「違う…? じゃあ、誰だよ?」

「誰も…。なんとなく気付いたのよ」

「マジかよ…!?」

「まぁ…ね」

「かぁ~!?」

 〝いつ気付かれたんだ…?〟 と、頭を抱えて考え込むラディを見て、あたしは小さな溜め息を付いた。

「──ねぇ、ラディ?」

「んぁ…?」

「ごめんね、心配かけて…」

「…あ…ぁ…?」

「これからは、ちゃんと自分で布団に戻るようにするからさ……。だから、安心して、ラディも眠ってよ」

「…………」

 〝分かった〟 という返事がすぐに聞けるかと思いきや、無言なうえに、明らかに不満げな顔。

「ラ…ディ…?」

「……だけかよ…」

「え…?」

「…それだけなのかよ?」

「そ…れだけって…?」

「自分で布団に戻る…ってゆーのが、結論なのか…?」

 結…論…?

 そう言ったラディの意図がよく分からなかったが、〝自分で布団に戻るようにする〟 という気持ちに間違いはないため、

「そうだけど」

 ──と、答えれば、ラディの顔は更に不満げ…というより、どこか不機嫌になってしまった。

「ラ──」

「わぁーったよ」

「え…?」

「結局、なんも変わんねーんだよな…」

「ちょっと…何のことよ?」

「別にぃ…」

 わざと目を逸らし、そのまま仰向けになってしまいそうなほど、不機嫌で投げやりの態度に、あたしは すぐに言葉が出てこなかった。らしくなく 戸惑っていると、諦めたような溜め息がして、次いで聞こえたのは いつものラディの口調だった。

「あぁ~、ハラ減ったぁ。──そろそろメシだよな?」

「え…さ、さぁ…」

「ぜってー、メシだ、間違いねぇ。オレの鼻がそう言ってるからよ」

「あ、そう…」

「──で、どうする?」

「何がよ?」

「決まってんじゃん、ここで食うかってことだよ」

「なんで──」

「オレは全然 構わねーぜ。お前と二人っきりなんて、そうあることじゃねーんだしな」

「あ、あのね──」

「おぉ、そうだ。いい機会だから、〝あ~ん〟 ってやってもらおうかなぁー」

「はぁ…!?」

「いいだろ、それくらい。病人なんだからよ?」

「な…に、バカなこと言ってんのよ!? 自分で食べれないならまだしも、先生からお墨付きが出るほど、元気でしょ? それに、自分で食べれないほど弱ってんだったら、病の知識を持ったトゥナスさんに任せるわよ」

「ちぇーっ! 相変わらず冷てぇなぁ」

「失礼ね。冷たいんじゃなくて、最善の方法を言ってるだけよ」

 ラディにとっても、そして、自分にとっても…ね。

「どこが…!? オレにとっての最善の方法は、お前と二人っきりで、恋人同士みたいに甘~く──」

「はいはい、そんな 有り得ない妄想はそこまでにして。じゃないと、虚しくなるだけよ?」

「うぉ~、妄想とはなんだよ!? しかも、有り得ないとは……あ、お、おい──」

 まだ続きそうなラディの反論から逃げるように、あたしはそそくさと立ち上がった。

「それじゃ、あたしは部屋に戻るから」

「なっ…! おい、こら待て…。大体、一人で食ってもつまんねーだろーがよっ──」

「だったら、みんなでここに来てあげようか?」

「うげっ…」

 一人部屋に五人が集まって、騒々しい夕飯を思い浮かべたのだろう。

「それは最悪のシチュエーションだ…」

 ──と言うなり、布団を被って寝っころがってしまった。

 あたしは、そんな姿を見て素直に笑い、そっと戸を閉めた。

 あれほど、うっとうしいと思った 惚れた晴れたの口調が、今はとても嬉しかった。

 いつものラディに戻った。

 ──そう、実感したから。


 部屋に戻りしばらくすると、ラディの言う通り、夕飯が運ばれてきた。

 それだけでも、回復した証拠か…と、笑いのネタになったなんて、本人は思いも寄らないだろう。

 久々に笑って、久々に楽しい食事。ふと、ラディをこっちに連れてこればよかったかな…と思いながら、食事は終えた。

 その後は──昼間に聞いたのだろうか──飛影の話をミュエリにふられ、今日 何度目かの説明をすることになった。幽霊の類が苦手なミュエリも、それと飛影は違うと聞いたからか、それとも、ラディを救ってくれた老人だからか…とても いい話として聞き入っていた。

 そんな話が終わったのは、夜も更けた頃。

 お風呂も借りて体が温まれば、心地よい睡魔が襲ってくる。それぞれが布団の中で寝息をたて始めると、あたしはいつものように、部屋を抜け出した。行く先は、もちろん、ルーフィンのもと。

 久々に訪れた穏やかな気持ちのまま、夢も見ずに朝まで眠れるかも…とも思ったが、そう簡単に心の十字架は消えないだろう…という不安もある。そう思い、ルーフィンの所で一眠りすれば、案の定と言うべきか、その不安は的中した。汗をかいた体を、このまま外の空気にさらしていたいとも思うが、それをすれば、あたしはこのまま外で眠ってしまう事になる。ラディとの約束もあり──しかも、言い出したのは自分だし──あたしは、すぐに部屋へと戻ったのだった。

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