2 左手の祈り ※
静かな闇が広がる…。
周りは暗くて何も見えないが、浮遊感だけは、なんとなく伝わってきた。この、足も着かない浮遊感に、恐怖や気味の悪さを感じてもいいはずなだが、心地よくさえ思えてしまうのは、どこか、覚えのある感覚だったからだろう。
どこで感じたんだろう…と、ぼんやり考えていたら、途端に、〝すぅー〟 っと真上に引き上げられた。
あ…れ…?
この感覚って……。
覚えのある感覚が、遠い記憶を呼び起こす。
あ、ああ…そうか…これは、あたしの意識なんだ…。
その状況が分かった途端、あたしは、引き上げられる意識の中で涙が出そうになった。
何日振りだろう…夢も見ずに目覚められるのは…。
何事もなく目覚めていたことが、もう 何年も前のことのように思える。夢を見ることが楽しみだった頃が、まるでウソのようだ。今は、何も見ないで済むこの時間が、いつまでも続いて欲しいとさえ願ってしまう。
ああ…お願い…。もう少し…もう少しゆっくり引き上げてよ…。
頼む相手がいないのはもちろんだが、そう願わずにはいられない。
〝眠り〟 と 〝目覚め〟 の意識の間に、扉が一枚あるとすれば、おそらくあたしは、その扉の前に来ているだろう。手を伸ばし軽く押せば、簡単にその扉は開き、目が覚める。
けれど、今度はいつ、この穏やかな眠りの世界がやってくるのかと思うと、なかなか扉に手をかけることは出来なかった。
しかし、そんな時だった──
────!!
な、なに…!?
女性の悲痛な叫びが、闇を切り裂くように響き渡ったのだ。
驚きと共に、その場で飛び起きたあたしの体から、一瞬にしてどっと汗が噴き出してきた。
だ、誰の声…?
何か…あったの…!?
バクバクと踊る心臓を掴むように、胸の辺りを押さえながら、周りを見渡す。しかし、ロウソクに照らされた、この 薄明るい部屋には、ベッドで眠る三人以外、誰もいなかった。
ど…うして…誰も起きないの…?
あんなに大きな声だったのよ。それが聞こえなかったっていうの…?
いくら疲れて寝てるとはいえ、この部屋の中で発せられたような声の大きさよ。もしここにラディがいても、彼が気付かないのは納得できる。でも、ネオスが寝返りひとつ打たないのは、考えられないことだった。そのうえ、戦術に長けたイオータですら、あの声が聞こえなかっただなんて…そんなことがあるのだろうか?
自分を倒そうとするものがいる…そんな状況に置かれている者なら、周りの音に敏感なはずだ。眠っている時でさえ──いや、眠っている時にこそ──人の気配や、物音ひとつで、すぐに反応できなければならない。それ程、神経を張り詰めていなければ、あっという間に命を落とすことになるからだ。
そのイオータが、静かに寝てるということは………。
ひょっとして…あたしの気の…せい…?
あり得ない状況から導き出された結論は、すぐには信じられないことだった。
あの声が この部屋のものじゃないにしても、この家のどこかであることには間違いない、そう思うほどリアルだったのだ。──なのに、いつまで経っても騒がしくならないということは、やっぱり、〝気のせい〟 だという結論に至ってしまう。ただ、同時に、もうひとつの可能性が脳裏を横切った。
夢じゃ…ないわよね…?
まさか…と思い、暗闇から引き上げられる感覚を思い出してみるが、やはり、暗いというだけで夢らしきものは見ていない。故に、あたしは夢という可能性を否定した。
夢じゃないなら、それだけで十分だわ。現実の夢でうなされるくらいなら、少しくらい納得できなくても、気のせいだと思うほうが、正直 ラクだ。
うん、そう。気のせいなのよ。
そう自分に言い聞かせると、それまで感じなかった感覚が、急に働きだした。
鼻腔に香る甘い匂いだ。
思わず、大きく息を吸い込んでみる。
眠る前には何の香りだったか思い出せなかったが、今なら分かる。
これは…バラの香りだわ。
小さな机に置かれたコップを手に取り鼻に近づけると、その香りが、より一層 増す。
そ…うか…。これを飲んであたし…眠っちゃったんだ。そしてみんなも…。ベッドで布団をかぶって寝てたってことは、多分ネオスね。──だとすると、ネオスはちゃんと この香りに気付いて、あたしが眠るのを待ってたってことになる…。
未だ部屋中に漂う香りのせいか、不思議と落ち着きを取り戻し始め、感心すると共に、そんな推測まで立てていた。今はもう、いつも通りの早さで鼓動が繰り返されている。噴き出した汗も、いつの間にか 乾いていた。
ほぅーっと軽く息を吐くと、すっきりした頭の中に、肝心なことが思い出された。
あ…たしってば…寝てる場合じゃないじゃない…!?
そう思うが早いか、あたしの体は動いていた。みんなを起こさないようそっと部屋を抜け出すと、ラディが寝ている部屋へと向かったのだ。
家の中の暗さはもちろん、静まり返っている事からも、おそらく今は夜中だ。
あたしが眠ってから、かなりの時間が経ったのね…。思えば、体もだいぶ楽になってるし、頭だってすっきりしてるもの。多分、眠りも深かったんだわ…。
ラディの様子はどうなんだろう…熱は下がったのかしら…? 意識はまだ戻らない…?
寝ている間の変化が気になり、そんな心配が、頭の中で繰り返される。
走りたい気持ちは山々だが、こんな夜中に走れるわけがなく、あたしは音を立てないよう歩を進めていた。しかし、半分ほど歩いた所で ふと足が止まった。
あたし…平常心を保っていられるかしら…?
不意に駆られたその不安は、昼間のことだった。
せめて、熱が下がっているならいいだろう。意識が戻ったなら、その不安もなくなる。だけど、まだ熱が下がらず、昼間のようなラディだったら…?
また、わけの分からない恐怖に襲われ、同じようなことをしてしまうかもしれない…。
大抵のことなら、抑えることも可能だろう。けれど、それは自分の意識がしっかりしていれば…の話だ。
今のあたしには、自分の中でコントロールできない何かがあり、それが動き出した時、同じことをしないという自信は、正直 持てなかった。
ひょっとして あたし、会わないほうが…いい?
ラディが心配で、もう一度顔を見たいと思うものの、昼間のことを思い出すと、そこから足が動かない。
部屋に戻って、ネオスたちが起きてくるのを待った方が、ラディにとって…そしてあたしにとっても賢明なのかもしれないわね…。
冷静に そう考え直すと、あたしは踵を返した。いや、返そうとした時、フッと息を吹きかけられるような感覚で、穏やかな声が聞こえた。
「…愛しなさい…」
え…?
すっかり寝静まっていると思っていた為、一瞬 驚いたのだが、ゆっくりとした口調は、更に聞こえてくる。
「……風も愛しなさい…貴方が私を愛するように…。しとつく雨を愛しなさい……」
自分に話しかけられたのかと思いきや、それはどうも違うらしかった。
どこ…から…?
その場で、聞こえてくる方向を探してみる。少しかすれ気味ではあるが、その声は斜め後ろの部屋から聞こえてきたものだと分かった。
引き戸が数センチ開いており、そこからは月の光が漏れていた。暗いローカに漏れる光は、それだけでも、自然と惹きつけられてしまう。そこから声が聞こえてくるなら尚更のこと、あたしは、吸い付けられるようにその部屋に近付いていった。隙間から覗いてみると、こちららに背を向けた人物が窓際に立っているのが見えた。
部屋の中は随分と暗く、背筋がピンと伸びた後姿だけでは、性別はおろか年齢も分からない。ただ、独り言のように囁く声と、かすれ声から、男性の老人だろうか…というぐらいの予想はついた。
しばらく、囁き声を聞いていたが、不意にその声が途切れた。
「…………?」
「──あなたも、眠れないのですか?」
「…………!?」
それは、独り言ではなく明らかに質問だった。
音も立てず、ジッとしていたにもかかわらず、後ろにいたあたしの存在に気付いた…?
それだけでも驚くが、本当の理由は、その老人が身動きひとつせず、話しかけてきたことだろう。
何を言っていいか分からず黙っていると、老人はゆっくりと体を翻し、隙間から覗くああたしの目を捉えた。
「私も眠れなくてね…」
「……………」
「──もし よろしければ、私の話し相手になってはくださらぬかな…?」
ここからだと暗くて表情さえ見えないが、紳士的な口調は、あたしを安心させた。
「──どうぞ?」
言葉での返事こそできなかったが、代わりに、軽く頭を下げ部屋の中に入ることにした。
手のひらで、椅子に腰掛けるよう勧めてくれたが、どう考えても、あたしが座るべきじゃないだろう。
そう思い、断ろうとしたのだが、あたしの言おうとした事が分かったのか、その老人は優しく微笑み、首を振った。
「私は、こうして立って外を眺めるのが好きでしてね」
月の光を浴びた老人の顔は、気を遣っているふうでもなく、本当に嬉しそうな顔をしていた。
それを見て、ようやくあたしも腰をかける。
「…今宵は、綺麗な三日月ですよ」
言われて窓を覗き見ると、なるほど、確かに綺麗な三日月が目に入る。しかし、同時に、疑問にも思った。
満月ならまだしも、三日月で、どうしてこんなに見えるのだろうか…?
改めて部屋を見渡しても、ロウソク一本すら灯っていなかった。なのに、月明かりだけで、かなり、見えるのだ。老人の髪、そして髭も銀色に輝き、白髪であることが分かる。額や目じりに刻み込まれたシワはもちろん、表情だって、窓際にいれば満月の下にいるかの如く、ハッキリと見えるのだ。
どうしてなんだろう…?
同じ言葉を心の中で繰り返した時だった。再度、老人が何かを呟いた為、その疑問と入れ替わるように、先ほど聞いた事を思い出した。
「あ、あの…」
「はい、なんでしょう…?」
「さっきの言葉は、どういう意味なんですか?」
「さっきの言葉…?」
「ええ。風とか雨を愛しなさい…とか何とか…」
「ああ、その言葉ですか。それは、〝祈り〟 という、詩ですよ」
「い…のり…?」
今のあたしに必要な言葉のような気がして、その三文字を繰り返した。
老人は無言で頷くと、包み込むような優しい口調で、その詩を朗読し始めた。
「 優しい風を愛しなさい
荒ぶる風も愛しなさい
貴方が私を愛するように……
しとつく雨を愛しなさい
激しい雨も愛しなさい
貴方が私を愛するように……
柔らかな陽射しを愛しなさい
焼きつく陽射しも愛しなさい
貴方が私を愛するように……
それは神が与えし自然の恵み
尊き命を育む源
さあ、貴方の為に祈りましょう
さあ、私の為に祈りましょう
そして、自分自身を愛しなさい
貴方が私を愛するように…… 」
年を重ねた老人の言葉が、心に染み入るように入ってきて、あたしの胸に何か熱いものが込み上げてきた。
文学に長けた人から見て、その詩が素晴らしいものかどうかなんて、素人のあたしには、正直 分からない。
言葉で何かを伝えようとする人は、短い文章にも深い意味を持たそうとするし、受け取る側がそれを全て理解するかというと、そう、簡単なものでもないからだ。故に、今のあたしが、その詩に込めた意味を理解できたのかというと、これもまた、難しいところだろう。
ただ、心に響いてきたことは間違いなかった。単に言葉が美しいだけなのかもしれないし、〝愛する〟 という言葉が多いだけだからかもしれない。だけど、老人の声や言葉に込めた想い、それに言葉そのものから、まるで、柔らかい大きな腕で抱かれている、そんな気持ちになったのだった。
「──この詩は、私にとって子守唄だったんですよ」
「子守…唄…?」
「ええ。不思議に思うでしょうなぁ。普通、子守り唄と言えば、その名の通り、〝唄〟 ですから」
「………そう、ですね」
「幼い頃、寝る前には必ず、母が詠んでくれましてね…耳元で囁く母の声はとても優しく、それを聞くと、私はいつも 安心して眠りにつけたのです。──ただその時は、なぜ母がその詩を詠むのかが分かりませんでした。いえ…正直、疑問さえ浮かびませんでしたなぁ」
「……じゃぁ、いつ…?」
「……母が死ぬと分かった時…正確に言えば、疑問を通り越して、分かったのです。その詩が意味するところ…つまり、母が言いたかったことを………」
「……どういう…ことですか…?」
母親の死を目前にして、ようやくその意味を知ったというだけでも、多くの人はその話に惹き込まれてしまうだろう。しかも、その意味が心に響いた理由かもしれない…と思えば尚更、その続きが聞きたくなる。
気付けば、あたしは椅子に腰掛けながらも、身を乗り出すように聞き返していた。
そんなあたしの気持ちとは裏腹に、老人は何も言わず、ジッと窓の外を見つめていた。
口元は髭で隠れて分からないが、外を見つめる目は眩しい物を見るように細められ、それは優しく、微笑んでいるようにさえ見えた。
しばらくして、ゆっくりとあたしの方を向き直った老人は、再び静かに口を開いた。
「……あなたは、自然を愛していますか?」
「え…?」
「自然ですよ。──例えば、この詩に唄われる風を、あなたは愛していますか?」
「あ…えっと…あの…」
思ってもみない質問に、あたしは戸惑った。
一体、なんて答えればいいんだろう…?
別に、風を愛していないから…というわけではない。単に、今まで、風を愛するという発想がなかっただけだ。
答えられないでいると、老人は質問を変えた。その態度は、呆れるふうではなく、どちらかというと、答えられないことを予想していたかのようだ。
「──では、こういう質問はどうでしょう? 春の匂いを運ぶ柔らかな風は好きですか?」
「あ…はい!」
これは、即答だった。その反応に、老人がにっこりと微笑むと、さらに質問は続いた。
「夏、木陰で休んでいる時、汗で濡れた肌を そっと乾かしてくれる風は好きですか?」
「…はい」
「秋の夜長に、涼やかな虫の音を運んでくれる風は?」
「…好きです」
「──では、雨はどうです?」
「え…?」
「大地を潤してくれる、雨です。夏の夕方、暑い大地や空気を冷やしてくれる雨は?」
「…好き、です」
「朝露に注ぐ太陽の陽射しや、青草の匂いをかぎながら、うたた寝してしまうほどの暖かな陽射しは?」
「え、ええ…もちろん、好きです」
同じような答えが続き、老人は、そこでまた、にっこりと微笑んだ。そして、ここからが本題だ…とでも言うように、ゆっくりと息を吸い込むと、真剣な眼差しを あたしに向けた。
「──では、これはどうでしょうか? あらゆるものを吹き飛ばしてしまうほど、荒々しい風や、土砂崩れさえ引き起こしてしまうような激しい雨。そして、病にかかってしまうほどの強い陽射しは…?」
「そ、それは……」
ラディのことが頭をよぎり、その質問には 〝好き〟 とは答えられなかった。思わず、〝嫌い〟 と言ってしまいそうになったが、あとに続いたのは、老人の方が一瞬だけ早かった。
「人は、自分達にとって都合のいいものや、安全なものを愛してしまうものですね。けれど、どんなものでも、いい事ばかりじゃありません。利点もあれば欠点もある。その両面が合い重なって、成り立つものなのです。──それはまるで、人生と同じではありませんか?」
「……………?」
「人生も、いい事ばかりじゃありません。辛いことや苦しいことがたくさんあります。でも、それを知るからこそ、楽しいことや幸せなことを知ることができるのです。そして、それを乗り越えるたび、人は強くなっていくのですよ。
──自然もそれと同じ事。荒々しい風が吹けば、倒される木々もあるでしょうが、それを乗り越えた木々の根は、さらに力強く大地を掴むでしょう。強い日差しが続き、水不足になった場所では、殆どの生き物が命を落とします。しかし、僅かな水でも生き抜く術を得たものが、必ずいるものです。
自然の災害に恐れ嘆く必要などありません。そういう困難を乗り越えていく知恵と力を、命あるものは学ぶことができるのですから」
「………そう、ですね」
「おそらく、これからも人は様々なことを学び、成し遂げていくことでしょう。しかしながら、どれだけ研究を重ね、今、不可能なことが可能になるような技術が進歩したとしても、たった一つだけ、できないことがあります。あなたは、それが何であるか分かりますか?」
その質問に、あたしは無言で首を振った。
「──死、ですよ」
「────!!」
「死を伸ばすことはできても、死を止めることはできません。──なぜなら、それが自然というものだからです」
「……………!」
「命あるものはみな、生まれ、育ち、そして死する。それが、自然の法則なのです。風が吹き、雨が降り、陽射しを受けた大地は、草木や花を咲かせ、虫や小さな動物さえも生み育てていきます。そして、その多くは、己の命を全うし、次の新しい生命の手助けとなるべく、土に還っていきます。もちろん、時には荒々しい風や激しい雨、強すぎる日差し…あるいは、陽射しが足りずに枯れ果て、虫や動物たちが死を迎えることもあるでしょうがね。けれど、避けようのない死というものは必ず、自然のひとつとして存在するものなのですよ」
老人の話を聞いているうちに、なんだかとても悲しくなってきた。
「……それは……死ぬかもしれない人がいたら…………その…ラディのことは諦めろってことですか…?」
風や雨や陽射しを愛するという話から、どうして、死という話になったんだろう…?
やさしく心に響いたあの詩と、どう繋がっていくというのだろうか…。
疑問が浮かぶものの、ジワリと目に込み上げてくるものは押さえられず……老人の説明から、ラディのことを口走っていた。
「あぁ…すみませんね…。あなたを泣かせるつもりじゃなかったのですが…。どうも、厳しい話でしたかな…」
突然の涙に、老人は困ったようにあたしの頭を撫でてくれた。
「ご、ごめんなさい…。言い出したのはあたしの方なのに………」
「いいえ。話し相手になってくださいとお願いしてたのは、私ですからな…」
どこまでも優しい声と撫でる手…それに老人の気遣いが、更に涙を溢れさせ、あたしはまたもや、首を大きく振ることしかできなかった。
「………ラディ…さんというのは…あなたの お友達ですか?」
「………え…ええ…」
「そんなに、お悪いのですか?」
「……日差しと水の病にかかって…今、意識がないんです…」
「そうでしたか…。では、今は待つしかないという事ですね?」
その質問に、コクンと頷いた。
「──ならば、今のあなたにもこの詩が必要だと思いますよ」
「……………?」
「私は母の死があとわずかだと知った時、自分を責めました。どうして今まで気付かなかったのだろうか。もっと早くに気付いていれば、助けることができたかもしれない。死期が迫った母は、病の先生でさえ手の施しようがなく…私は愛する母を目の前にして、何もできずにいたのです。そんな自分に……無力な自分に腹を立てました。そんな時、母は一言、こう言ったのです。〝私の為に…そして何より、これからも生きるあなた自身の為に、自分を愛しなさい〟 と」
「自分の…為に…?」
「ええ。それで、子守唄のように唄っていた詩の意味を理解したのですよ」
「……………?」
「生きていれば必ず、避けられない 〝死〟 と出会います。もしくは、あなたのように、どうすることもできない状態というのが……。病に倒れた人や死を目の前にした本人も、もちろん辛いでしょうが、同じように周りの者も辛いものです。
母はその事をよく知っていました。母は昔から体が弱く、自分がそれほど長生きできないことを、知っていたのでしょうね。だからこそ、いざという時、私が苦しまないよう、そしてこの辛さを乗り越えられるように…と、唄い続けたのです。
〝全てを受け止めないさい。これは、神が与えた自然と同じ。風や雨や陽射しを愛するように、死という自然も愛しなさい。何もできないことを責める必要はありません。自分を愛し、自分を救う為にも祈りなさい…〟
──とね。分かりますか? 諦めなさいという意味ではありません。現状を受け止め、苦しんでいる人や、何もできない事に苦しむ自分を救う為に、祈る事も必要だという事です」
「……あ……あぁ…」
そう…いう事だったんだ……この詩には…そういう意味があったんだ…。
だから、あんなにも深く心に響いたのだ……。
最も重要な説明──老人の母親が一番伝えたかったこと──を知り、今の自分が救われた気がした。
今度は違う涙が溢れてくる。その涙のわけを老人も理解したようで、優しくあたしを包んでくれた。
「祈りなさい。何でもいいから祈りなさい。お友達の為に、そしてあなた自身の為に…」
「………は…い…」
しばらくは涙が止まらなかった。その間、老人はずっと背中をさすってくれていた。温もりが伝わってくる…。
そして、また不意に、新たな質問が聞こえた。
「 〝母の手は万病の治療薬〟 ──そんな言葉を知っていますか?」
「え…? あ…いいえ……」
「手には、不思議な力があるのですよ」
「力…ですか?」
「ええ。お腹が痛くなったとき、こうやってお腹に手を当てたりしませんか?」
老人は、そう言って自分のお腹に手を当てた。
「え、ええ…当てます」
「頭が痛いときも当てるでしょう?」
「はい…」
「それは、手から痛みや病気を治す不思議な力が出ていて、無意識のうちに治そうとするからだそうですよ。小さな頃、痛むところを母親に優しく撫でてもらうと、不思議なことに痛みが消えたりしました。そういう経験は…?」
あたしは曖昧な反応をした。経験があるか ないかというより、すぐには思い出せなかったのだ。
老人は更に続ける。
「──もちろん、本当に全ての病が治るわけではありませんけどね。触れることで安心して、痛みが治まることもあるでしょう。もしくは、痛みを取ってあげたいという想いが、本当に治してしまうのかもしれません」
「………………」
「言葉自体は 〝母の手〟 となっていますが、その力は誰にでもあるものです。大事だと思う相手なら、尚更、その想いが届くかもしれませんね。──さぁ、あなたも お友達の手を握り祈ってあげなさい」
ポンッと、軽く背中を叩かれ、あたしは椅子から立ち上がった。
「あ、あの……」
「はい?」
「あ…りがとうございました…」
「いいえ。こちらこそ、いいお話ができました。ありがとうございます」
深々と頭を下げ お礼を言えば、反対にお礼を返されてしまった。あたしは、老人がにっこり微笑むのを見てから、足早にラディの部屋へと向かった。
昼間のように、自分自身がコントロールできなくなったら…そんな不安は、今や不思議と消えている。
ただ、コントロールできない何かが消えたわけではない…そのことも、もちろん分かっていたのだが……。
部屋の前に来ると、あたしは深呼吸をひとつしてから軽く引き戸を叩いた。
「……はい?」
一瞬の間があり返事が聞こえてから、そっと戸を開ける。
「あなたは──」
あたしの顔を見るなり、警戒心の色を浮かべ近付いてきたのは、昼間と同じ人。
あの老人に会って話をする前、自分自身が抱いた不安を、彼女が持つのは当たり前なわけで……あたしをラディに近付かせないよう、強いては部屋に入れないよう、間に立ちはだかるのは仕方ないことだった。
「申し訳ないけど、部屋に戻って──」
「ご、ごめんなさい!」
「え…?」
「あたし…昼間はどうかしてたんです。自分でも何やってるか分からなくて…。でも、今は大丈夫です。あんなこと二度としません! ──ですから、お願いです、傍にいさせてください!!」
彼女が最後まで言い終わらないうちに頭を下げると、一気にそれだけ吐き出し、再び深く頭を下げた。
「ちょ、ちょと…あなた──」
「お願いします! 傍にいて手を握るだけでいいんです。ただ、それだけですから……!」
頭を下げたままでいると、しばらくして、頭上から溜め息が漏れた。
「……約束、できます?」
その質問に、ガバッと頭を上げると、次いで彼女の目をしっかり見つめた。
「はい、約束します!!」
彼女もまた、あたしの気持ちを見抜くように、数秒見つめると、再び小さな溜め息を漏らした。
「──いいわ。じゃぁ、入って」
そう言うと、彼女は体を少しずらし、あたしを部屋に通してくれた。
中は、数本のロウソクだけで薄暗いものの、昼間と同じような光景には変わりなかった。
ゆっくりと、ベッドの上で横たわるラディに近付いていく…。
顔色まではハッキリと分からないものの、荒い息使いは昼間と変わらず、恐る恐る額に触れた手には、まだかなりの熱が伝わってきた。
再び、何の変化もない状況を目にして、思わず、下におろしていた手をギュッと握り締めていた。それに気付き、慌てて目を閉じると、体の力を抜く為に、数回、深呼吸を繰り返した。
大丈夫、大丈夫よ……。だって、あの時のような恐怖は湧いてこないもの…。
改めて、わけの分からない恐怖が自分の中に湧いてこないことを知って、ホッと胸を撫で下ろした。同時に、体からも力が抜ける。
ラディ……。
心の中で、ラディの名前を呼んだあと、あたしは、布と氷の下に埋もれている彼の右手を、両手で そっと包み込んだ。
そんなあたしの態度を見て、〝大丈夫そうだ…〟 と判断したのだろう。それまで、引き戸を閉めたままジッとしていた彼女が、ようやく動き出した。
「─どうぞ。夜は長いわよ」
そう言うと、壁に立てかけてあった椅子を、あたしの真後ろに用意してくれた。
「……あ、ありがとう…」
少々ためらいがちに座ると、彼女はラディの左側──あたしと真向かう形で──椅子に腰掛けた。
「──これでも、少しずつ下がってきてるのよ」
「え…?」
「まぁ、下がったとは言っても、まだまだ熱は高いから、平熱の私達が触れたところで、そうは感じないでしょうけどね。でも、表情や呼吸の仕方、それに脈の数は、最初に比べれば、落ち着いてきてるの」
そう言われ、改めてラディを見れば、昼間より幾分かラクになっている気がしないでもない…。
「じゃ…ぁ、このまま熱が下がればラディは──」
〝もちろん、大丈夫〟
──そんな言葉を期待していた。病の知識を持った彼女の口から、その一言さえ聞ければ、何より心強いものはない。けれど、現実はそう甘くないものだ…。
「──できることなら、〝もう、心配ないわ〟 って言いたいけれど、今はなんとも言えないの。意識が戻るかどうか…本当のヤマはそこにあるから…」
あ…あ…そう言えば、ノークもそんなことを言ってたわよね…。
体力が持つかどうか、それが問題だ…って。
あたしは、握っている手に僅かながら力を込めた。
「……そう言えば、私、自己紹介してなかったわね?」
「え…?」
「私の名前はトゥナス。今日だけじゃなく、彼が回復するまで担当することになってるの。よろしくね」
「あ…あたしはルフェラです…。こちらこそ、よろしくお願い…します」
重苦しい雰囲気の中、自己紹介という、あまりにも普通の会話に戸惑ったが、考えてみれば、名前を知らないというのも不便な為、あたしは そのままの体勢で頭を下げた。
そして、顔を上げれば、あの老人が言ったように、強く祈ろうと思っていたのだが…トゥナスの会話は、更に続いた。
「──それで、彼はルフェラさんの恋人?」
「え……?」
あまりにも場違いで、尚且つ、思いも寄らぬ質問に、一瞬 何を言われたのか理解できなかった。しかし、次の瞬間には思いっきり首を振っていた。その反応に、トゥナスが不思議な顔を向けた。
「あ…ら、違うの?」
「ち、違います…どうしてそんな──」
「あの時、あなた完全に我を失っていたでしょう?」
「…………!」
「突然のことで取り乱すのはみんな同じだけど、我を失うほどっていうのは、肉親か恋人…あるいは好意を寄せている相手に多いのよ。だから、てっきり、あなたの恋人かと思って…」
「違い…ます。ラディはただの友達で…一緒に旅をしてる仲間ってだけです…」
「そう…」
トゥナスは、いまいち 納得できない様子だった。
確かに、昼間のあたしを見て 〝ただの友達だ〟 と言われても、納得できないだろう。あたしが彼女の立場でも、やっぱり、納得できないと思う。だけど、今までのように納得してもらうまで説明する気にはなれなかった。
しばらく沈黙が続き、これで話は終わりかと思いきや、トゥナスは またもや話しかけてきた。
「…じゃぁ、前にも こいういう事が?」
「え…こういう事──って、ラディが倒れたこと…ですか…?」
「う…ん、正確には…あなたが一人にされたこと…かしら」
「あたしが一人にされた…こと…?」
わけが分からなくて、そのまま繰り返すと、トゥナスは軽く頷いた。
「 〝また、あたしを一人にしたら許さないから…〟 って、あなた叫んでたでしょう? 私、その言葉がどうも気になっていたの。あの時のあなたの様子……あれほど激しく心乱す理由が、恋人でもなんでもないっていうのなら、その言葉に原因があるんだろうな…って。
だって、〝また〟 って事は、前にもそういう事があったってことだものね。違うかしら?」
トゥナスは、自信に満ちた目で、そう問いかけた。しかし、あたしは、その説明さえまともに聞いていなかった。
理由は……。
「あ…あたし…そんなこと言ってたんですか…?」
──だった。
質問に質問で返されたトゥナスは、その内容に驚いた。
「お、覚えてないの…?」
あたしは無言で首を横に振った。
「あたし…本当に自分でも何やってるか分からなくて……呼び掛けても何の反応もないラディを見てたら……な…んだか…急に怖くなってきたんです…。どうしてだか分からないけど……怖くて怖くて仕方なくて…体まで震えてくるし……そのあとのことは、自分でも止められないまま あんな事を……」
「無意識が引き起こした行動……ってことね…」
独り言のように呟いたその言葉は質問ではなく、どちらかというと、何かを察知した時のものだった。
「ルフェラさん…」
「は、はい…?」
「できれば、その原因、突き止めたほうがいいわ」
「え…?」
「どうして自分がそういう行動をとってしまったのか……知らず知らずのうちに口走ってたことはもちろん、怖くなったのも、おそらくそこに原因があると思うの。一人にされた経験がないと思っていても、単に忘れてるだけかもしれないわ…。あなたをよく知る人に一度聞いてみたらどうかしら?」
「…………」
「──じゃないと、同じ事を繰り返してしまうわよ」
「…そ…んな……!!」
あたしは、彼女の言葉にショックを受けた。
自分の中にコントロールできない何かがあるのは分かっている。だけど、老人と話をしたあとは、少なくとも、今回のようなことは繰り返さないだろう…そう思えたからだ。
「あ、あたし……あたし…どうしたら………」
できるものなら、彼女の言葉を否定したかった。それは誰の為でもない、自分の為だ。自分に言い聞かせる為に、〝そんなことはあり得ない〟 と口にしたかったのだが、悲しいことに、あたしのどこを探しても、〝大丈夫だ〟 という自信は見つけられず……結局、一瞬にして、不安に包まれてしまった。そして、気付けば、そう口にしていたのだった。
その直後、肩に何かが触れ、ハッと顔を上げると、目の前にいたはずのトゥナスが、すぐ傍であたしの顔を覗きこんでいた。
「…大…丈夫…?」
「あ…あぁ……」
「ごめんなさいね。別にあなたを動揺させるつもりじゃなかったのよ。むしろ、何か少しでも力になれたら…って思ってたの……」
ち…からに……?
肩に伝わる手の温もりと、思ってもみなかった彼女の言葉に、あたしの動揺が少しずつ消えていく。
それを感じ取ったのか、トゥナスは再度 〝ごめんなさいね〟 と呟くと、元の席に戻っていった。
それからのトゥナスは殆ど喋らなかった。余計な事を言ってしまわない為なのか、それとも単に、話すことがなくなったからなのか…それは、分からない。もしかすると、今が夜中であるということや、病人を目の前にして、いつまでも喋っているものではないという、常識的な判断だったのかもしれない。
一方 あたしは、〝力になれたら…〟 という彼女の言葉が嬉しく、同時に、その理由を聞いてみたいと思った。けれど、少しでも長く祈りたい…と思うのも、また正直な気持であり……故に、あたしも彼女同様、殆ど喋らず、ラディの手をしっかり握ったまま、目を閉じた。
ラディ…ラディ、あんたは絶対 大丈夫よ。だって、そんなに弱くないもの。それは、あたしが知ってるわ。だけど、一番よく知ってるのは自分自身のはずよ。──そうでしょ?
ここに、あんたの意識はないけど、どこかで聞いてるよね?
あたし、ずっと話してるから……あんたが目覚めるまで、ずっと祈ってるからさ……ちゃんと聞いててよ。心の中でいいから聞いてて。
もし、眠った意識が夢のような空間で彷徨ってるなら、そこでは何が見える?
真っ暗な闇なの…? それとも、昼間のように明るい?
もし暗闇だったら、光が差し込むように祈るわ。それで見えるでしょ?
そしたら何が見える? 目印になるようなものがある? それとも、何もない?
もし、何にもない殺風景な場所なら、綺麗な自然が見えるよう祈るわ。
でもきっと、見たこともない場所よ。だから、どっちに行けばいいか迷うわよね?
誰か教えてくれそうな人はいる?
もし、誰もいないなら、進むべき方向を知っている人が現れることを強く祈るから…。
ねぇ、ラディ……そこで吹く風は優しい?
荒々しい風なら、すぐに止むよう祈るわよ。そしたら前に進めるでしょ?
雨はどう?
激しい雨なら、風が雲を吹き飛ばすよう祈るわ。現れた太陽は、濡れた服もすぐに乾かしてくれるもの…。
だけど、陽射しは強すぎない?
焼けるような暑さになったら、また雨が降るよう祈るわ。今度は優しい雨でありますように…って。
途中、何度か、ラディの体を埋めていた氷をトゥナスと交換しては、朝までずっと、話しかけたり祈ったりしていた。
もちろん、老人が詠んでくれた詩も、心の中で繰り返していた。
優しい風を愛しなさい
荒ぶる風も愛しなさい
貴方が私を愛するように……
しとつく雨を愛しなさい
激しい雨も愛しなさい
貴方が私を愛するように……
柔らかな陽射しを愛しなさい
焼きつく陽射しも愛しなさい
貴方が私を愛するように……
それは神が与えし自然の恵み
尊き命を育む源
さあ、貴方の為に祈りましょう
さあ、私の為に祈りましょう
そして、自分自身を愛しなさい
貴方が私を愛するように……
繰り返し、繰り返し……。
最後には、自分が眠りに落ちたことにも気付かず、夢の中でも、祈っていた……。