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女神伝説  作者: Sugary
第四章
42/127

2 左手の祈り ※

 静かな闇が広がる…。

 周りは暗くて何も見えないが、浮遊感だけは、なんとなく伝わってきた。この、足も着かない浮遊感に、恐怖や気味の悪さを感じてもいいはずなだが、心地よくさえ思えてしまうのは、どこか、覚えのある感覚だったからだろう。

 どこで感じたんだろう…と、ぼんやり考えていたら、途端に、〝すぅー〟 っと真上に引き上げられた。

 あ…れ…?

 この感覚って……。

 覚えのある感覚が、遠い記憶を呼び起こす。

 あ、ああ…そうか…これは、あたしの意識なんだ…。

 その状況が分かった途端、あたしは、引き上げられる意識の中で涙が出そうになった。

 何日振りだろう…夢も見ずに目覚められるのは…。

 何事もなく目覚めていたことが、もう 何年も前のことのように思える。夢を見ることが楽しみだった頃が、まるでウソのようだ。今は、何も見ないで済むこの時間が、いつまでも続いて欲しいとさえ願ってしまう。

 ああ…お願い…。もう少し…もう少しゆっくり引き上げてよ…。

 頼む相手がいないのはもちろんだが、そう願わずにはいられない。

 〝眠り〟 と 〝目覚め〟 の意識の間に、扉が一枚あるとすれば、おそらくあたしは、その扉の前に来ているだろう。手を伸ばし軽く押せば、簡単にその扉は開き、目が覚める。

 けれど、今度はいつ、この穏やかな眠りの世界がやってくるのかと思うと、なかなか扉に手をかけることは出来なかった。

 しかし、そんな時だった──


 ────!!


 な、なに…!?

 女性の悲痛な叫びが、闇を切り裂くように響き渡ったのだ。

 驚きと共に、その場で飛び起きたあたしの体から、一瞬にしてどっと汗が噴き出してきた。

 だ、誰の声…?

 何か…あったの…!?

 バクバクと踊る心臓を掴むように、胸の辺りを押さえながら、周りを見渡す。しかし、ロウソクに照らされた、この 薄明るい部屋には、ベッドで眠る三人以外、誰もいなかった。

 ど…うして…誰も起きないの…?

 あんなに大きな声だったのよ。それが聞こえなかったっていうの…?

 いくら疲れて寝てるとはいえ、この部屋の中で発せられたような声の大きさよ。もしここにラディがいても、彼が気付かないのは納得できる。でも、ネオスが寝返りひとつ打たないのは、考えられないことだった。そのうえ、戦術に長けたイオータですら、あの声が聞こえなかっただなんて…そんなことがあるのだろうか?

 自分を倒そうとするものがいる…そんな状況に置かれている者なら、周りの音に敏感なはずだ。眠っている時でさえ──いや、眠っている時にこそ──人の気配や、物音ひとつで、すぐに反応できなければならない。それ程、神経を張り詰めていなければ、あっという間に命を落とすことになるからだ。

 そのイオータが、静かに寝てるということは………。

 ひょっとして…あたしの気の…せい…?

 あり得ない状況から導き出された結論は、すぐには信じられないことだった。

 あの声が この部屋のものじゃないにしても、この家のどこかであることには間違いない、そう思うほどリアルだったのだ。──なのに、いつまで経っても騒がしくならないということは、やっぱり、〝気のせい〟 だという結論に至ってしまう。ただ、同時に、もうひとつの可能性が脳裏を横切った。

 夢じゃ…ないわよね…?

 まさか…と思い、暗闇から引き上げられる感覚を思い出してみるが、やはり、暗いというだけで夢らしきものは見ていない。故に、あたしは夢という可能性を否定した。

 夢じゃないなら、それだけで十分だわ。現実の夢でうなされるくらいなら、少しくらい納得できなくても、気のせいだと思うほうが、正直 ラクだ。

 うん、そう。気のせいなのよ。

 そう自分に言い聞かせると、それまで感じなかった感覚が、急に働きだした。

 鼻腔に香る甘い匂いだ。

 思わず、大きく息を吸い込んでみる。

 眠る前には何の香りだったか思い出せなかったが、今なら分かる。

 これは…バラの香りだわ。

 小さな机に置かれたコップを手に取り鼻に近づけると、その香りが、より一層 増す。

 そ…うか…。これを飲んであたし…眠っちゃったんだ。そしてみんなも…。ベッドで布団をかぶって寝てたってことは、多分ネオスね。──だとすると、ネオスはちゃんと この香りに気付いて、あたしが眠るのを待ってたってことになる…。

 未だ部屋中に漂う香りのせいか、不思議と落ち着きを取り戻し始め、感心すると共に、そんな推測まで立てていた。今はもう、いつも通りの早さで鼓動が繰り返されている。噴き出した汗も、いつの間にか 乾いていた。

 ほぅーっと軽く息を吐くと、すっきりした頭の中に、肝心なことが思い出された。

 あ…たしってば…寝てる場合じゃないじゃない…!?

 そう思うが早いか、あたしの体は動いていた。みんなを起こさないようそっと部屋を抜け出すと、ラディが寝ている部屋へと向かったのだ。

 家の中の暗さはもちろん、静まり返っている事からも、おそらく今は夜中だ。

 あたしが眠ってから、かなりの時間が経ったのね…。思えば、体もだいぶ楽になってるし、頭だってすっきりしてるもの。多分、眠りも深かったんだわ…。

 ラディの様子はどうなんだろう…熱は下がったのかしら…? 意識はまだ戻らない…?

 寝ている間の変化が気になり、そんな心配が、頭の中で繰り返される。

 走りたい気持ちは山々だが、こんな夜中に走れるわけがなく、あたしは音を立てないよう歩を進めていた。しかし、半分ほど歩いた所で ふと足が止まった。

 あたし…平常心を保っていられるかしら…?

 不意に駆られたその不安は、昼間のことだった。

 せめて、熱が下がっているならいいだろう。意識が戻ったなら、その不安もなくなる。だけど、まだ熱が下がらず、昼間のようなラディだったら…?

 また、わけの分からない恐怖に襲われ、同じようなことをしてしまうかもしれない…。

 大抵のことなら、抑えることも可能だろう。けれど、それは自分の意識がしっかりしていれば…の話だ。

 今のあたしには、自分の中でコントロールできない何かがあり、それが動き出した時、同じことをしないという自信は、正直 持てなかった。

 ひょっとして あたし、会わないほうが…いい?

 ラディが心配で、もう一度顔を見たいと思うものの、昼間のことを思い出すと、そこから足が動かない。

 部屋に戻って、ネオスたちが起きてくるのを待った方が、ラディにとって…そしてあたしにとっても賢明なのかもしれないわね…。

 冷静に そう考え直すと、あたしは踵を返した。いや、返そうとした時、フッと息を吹きかけられるような感覚で、穏やかな声が聞こえた。

「…愛しなさい…」

 え…?

 すっかり寝静まっていると思っていた為、一瞬 驚いたのだが、ゆっくりとした口調は、更に聞こえてくる。

「……風も愛しなさい…貴方が私を愛するように…。しとつく雨を愛しなさい……」

 自分に話しかけられたのかと思いきや、それはどうも違うらしかった。

 どこ…から…?

 その場で、聞こえてくる方向を探してみる。少しかすれ気味ではあるが、その声は斜め後ろの部屋から聞こえてきたものだと分かった。

 引き戸が数センチ開いており、そこからは月の光が漏れていた。暗いローカに漏れる光は、それだけでも、自然と惹きつけられてしまう。そこから声が聞こえてくるなら尚更のこと、あたしは、吸い付けられるようにその部屋に近付いていった。隙間から覗いてみると、こちららに背を向けた人物が窓際に立っているのが見えた。

 部屋の中は随分と暗く、背筋がピンと伸びた後姿だけでは、性別はおろか年齢も分からない。ただ、独り言のように囁く声と、かすれ声から、男性の老人だろうか…というぐらいの予想はついた。

 しばらく、囁き声を聞いていたが、不意にその声が途切れた。

「…………?」

「──あなたも、眠れないのですか?」

「…………!?」

 それは、独り言ではなく明らかに質問だった。

 音も立てず、ジッとしていたにもかかわらず、後ろにいたあたしの存在に気付いた…?

 それだけでも驚くが、本当の理由は、その老人が身動きひとつせず、話しかけてきたことだろう。

 何を言っていいか分からず黙っていると、老人はゆっくりと体を翻し、隙間から覗くああたしの目を捉えた。

「私も眠れなくてね…」

「……………」

「──もし よろしければ、私の話し相手になってはくださらぬかな…?」

 ここからだと暗くて表情さえ見えないが、紳士的な口調は、あたしを安心させた。

「──どうぞ?」

 言葉での返事こそできなかったが、代わりに、軽く頭を下げ部屋の中に入ることにした。

 手のひらで、椅子に腰掛けるよう勧めてくれたが、どう考えても、あたしが座るべきじゃないだろう。

 そう思い、断ろうとしたのだが、あたしの言おうとした事が分かったのか、その老人は優しく微笑み、首を振った。

「私は、こうして立って外を眺めるのが好きでしてね」

 月の光を浴びた老人の顔は、気を遣っているふうでもなく、本当に嬉しそうな顔をしていた。

 それを見て、ようやくあたしも腰をかける。

「…今宵は、綺麗な三日月ですよ」

 言われて窓を覗き見ると、なるほど、確かに綺麗な三日月が目に入る。しかし、同時に、疑問にも思った。

 満月ならまだしも、三日月で、どうしてこんなに見えるのだろうか…?

 改めて部屋を見渡しても、ロウソク一本すら灯っていなかった。なのに、月明かりだけで、かなり、見えるのだ。老人の髪、そして髭も銀色に輝き、白髪であることが分かる。額や目じりに刻み込まれたシワはもちろん、表情だって、窓際にいれば満月の下にいるかの如く、ハッキリと見えるのだ。

 どうしてなんだろう…?

 同じ言葉を心の中で繰り返した時だった。再度、老人が何かを呟いた為、その疑問と入れ替わるように、先ほど聞いた事を思い出した。

「あ、あの…」

「はい、なんでしょう…?」

「さっきの言葉は、どういう意味なんですか?」

「さっきの言葉…?」

「ええ。風とか雨を愛しなさい…とか何とか…」

「ああ、その言葉ですか。それは、〝祈り〟 という、詩ですよ」

「い…のり…?」

 今のあたしに必要な言葉のような気がして、その三文字を繰り返した。

 老人は無言で頷くと、包み込むような優しい口調で、その詩を朗読し始めた。



「 優しい風を愛しなさい

 荒ぶる風も愛しなさい

 貴方が私を愛するように……


 しとつく雨を愛しなさい

 激しい雨も愛しなさい

 貴方が私を愛するように……


 柔らかな陽射しを愛しなさい

 焼きつく陽射しも愛しなさい

 貴方が私を愛するように……


 それは神が与えし自然の恵み

 尊き命を育む源


 さあ、貴方の為に祈りましょう

 さあ、私の為に祈りましょう


 そして、自分自身を愛しなさい

 貴方が私を愛するように…… 」



 年を重ねた老人の言葉が、心に染み入るように入ってきて、あたしの胸に何か熱いものが込み上げてきた。

 文学に長けた人から見て、その詩が素晴らしいものかどうかなんて、素人のあたしには、正直 分からない。

 言葉で何かを伝えようとする人は、短い文章にも深い意味を持たそうとするし、受け取る側がそれを全て理解するかというと、そう、簡単なものでもないからだ。故に、今のあたしが、その詩に込めた意味を理解できたのかというと、これもまた、難しいところだろう。

 ただ、心に響いてきたことは間違いなかった。単に言葉が美しいだけなのかもしれないし、〝愛する〟 という言葉が多いだけだからかもしれない。だけど、老人の声や言葉に込めた想い、それに言葉そのものから、まるで、柔らかい大きな腕で抱かれている、そんな気持ちになったのだった。

「──この詩は、私にとって子守唄だったんですよ」

「子守…唄…?」

「ええ。不思議に思うでしょうなぁ。普通、子守り唄と言えば、その名の通り、〝唄〟 ですから」

「………そう、ですね」

「幼い頃、寝る前には必ず、母が詠んでくれましてね…耳元で囁く母の声はとても優しく、それを聞くと、私はいつも 安心して眠りにつけたのです。──ただその時は、なぜ母がその詩を詠むのかが分かりませんでした。いえ…正直、疑問さえ浮かびませんでしたなぁ」

「……じゃぁ、いつ…?」

「……母が死ぬと分かった時…正確に言えば、疑問を通り越して、分かったのです。その詩が意味するところ…つまり、母が言いたかったことを………」

「……どういう…ことですか…?」

 母親の死を目前にして、ようやくその意味を知ったというだけでも、多くの人はその話に惹き込まれてしまうだろう。しかも、その意味が心に響いた理由かもしれない…と思えば尚更、その続きが聞きたくなる。

 気付けば、あたしは椅子に腰掛けながらも、身を乗り出すように聞き返していた。

 そんなあたしの気持ちとは裏腹に、老人は何も言わず、ジッと窓の外を見つめていた。

 口元は髭で隠れて分からないが、外を見つめる目は眩しい物を見るように細められ、それは優しく、微笑んでいるようにさえ見えた。

 しばらくして、ゆっくりとあたしの方を向き直った老人は、再び静かに口を開いた。

「……あなたは、自然を愛していますか?」

「え…?」

「自然ですよ。──例えば、この詩に唄われる風を、あなたは愛していますか?」

「あ…えっと…あの…」

 思ってもみない質問に、あたしは戸惑った。

 一体、なんて答えればいいんだろう…?

 別に、風を愛していないから…というわけではない。単に、今まで、風を愛するという発想がなかっただけだ。

 答えられないでいると、老人は質問を変えた。その態度は、呆れるふうではなく、どちらかというと、答えられないことを予想していたかのようだ。

「──では、こういう質問はどうでしょう? 春の匂いを運ぶ柔らかな風は好きですか?」

「あ…はい!」

 これは、即答だった。その反応に、老人がにっこりと微笑むと、さらに質問は続いた。

「夏、木陰で休んでいる時、汗で濡れた肌を そっと乾かしてくれる風は好きですか?」

「…はい」

「秋の夜長に、涼やかな虫の音を運んでくれる風は?」

「…好きです」

「──では、雨はどうです?」

「え…?」

「大地を潤してくれる、雨です。夏の夕方、暑い大地や空気を冷やしてくれる雨は?」

「…好き、です」

「朝露に注ぐ太陽の陽射しや、青草の匂いをかぎながら、うたた寝してしまうほどの暖かな陽射しは?」

「え、ええ…もちろん、好きです」

 同じような答えが続き、老人は、そこでまた、にっこりと微笑んだ。そして、ここからが本題だ…とでも言うように、ゆっくりと息を吸い込むと、真剣な眼差しを あたしに向けた。

「──では、これはどうでしょうか? あらゆるものを吹き飛ばしてしまうほど、荒々しい風や、土砂崩れさえ引き起こしてしまうような激しい雨。そして、病にかかってしまうほどの強い陽射しは…?」

「そ、それは……」

 ラディのことが頭をよぎり、その質問には 〝好き〟 とは答えられなかった。思わず、〝嫌い〟 と言ってしまいそうになったが、あとに続いたのは、老人の方が一瞬だけ早かった。

「人は、自分達にとって都合のいいものや、安全なものを愛してしまうものですね。けれど、どんなものでも、いい事ばかりじゃありません。利点もあれば欠点もある。その両面が合い重なって、成り立つものなのです。──それはまるで、人生と同じではありませんか?」

「……………?」

「人生も、いい事ばかりじゃありません。辛いことや苦しいことがたくさんあります。でも、それを知るからこそ、楽しいことや幸せなことを知ることができるのです。そして、それを乗り越えるたび、人は強くなっていくのですよ。

 ──自然もそれと同じ事。荒々しい風が吹けば、倒される木々もあるでしょうが、それを乗り越えた木々の根は、さらに力強く大地を掴むでしょう。強い日差しが続き、水不足になった場所では、殆どの生き物が命を落とします。しかし、僅かな水でも生き抜く術を得たものが、必ずいるものです。

 自然の災害に恐れ嘆く必要などありません。そういう困難を乗り越えていく知恵と力を、命あるものは学ぶことができるのですから」

「………そう、ですね」

「おそらく、これからも人は様々なことを学び、成し遂げていくことでしょう。しかしながら、どれだけ研究を重ね、今、不可能なことが可能になるような技術が進歩したとしても、たった一つだけ、できないことがあります。あなたは、それが何であるか分かりますか?」

 その質問に、あたしは無言で首を振った。

「──死、ですよ」

「────!!」

「死を伸ばすことはできても、死を止めることはできません。──なぜなら、それが自然というものだからです」

「……………!」

「命あるものはみな、生まれ、育ち、そして死する。それが、自然の法則なのです。風が吹き、雨が降り、陽射しを受けた大地は、草木や花を咲かせ、虫や小さな動物さえも生み育てていきます。そして、その多くは、己の命を全うし、次の新しい生命の手助けとなるべく、土に還っていきます。もちろん、時には荒々しい風や激しい雨、強すぎる日差し…あるいは、陽射しが足りずに枯れ果て、虫や動物たちが死を迎えることもあるでしょうがね。けれど、避けようのない死というものは必ず、自然のひとつとして存在するものなのですよ」

 老人の話を聞いているうちに、なんだかとても悲しくなってきた。

「……それは……死ぬかもしれない人がいたら…………その…ラディのことは諦めろってことですか…?」

 風や雨や陽射しを愛するという話から、どうして、死という話になったんだろう…?

 やさしく心に響いたあの詩と、どう繋がっていくというのだろうか…。

 疑問が浮かぶものの、ジワリと目に込み上げてくるものは押さえられず……老人の説明から、ラディのことを口走っていた。

「あぁ…すみませんね…。あなたを泣かせるつもりじゃなかったのですが…。どうも、厳しい話でしたかな…」

 突然の涙に、老人は困ったようにあたしの頭を撫でてくれた。

挿絵(By みてみん)

「ご、ごめんなさい…。言い出したのはあたしの方なのに………」

「いいえ。話し相手になってくださいとお願いしてたのは、私ですからな…」

 どこまでも優しい声と撫でる手…それに老人の気遣いが、更に涙を溢れさせ、あたしはまたもや、首を大きく振ることしかできなかった。

「………ラディ…さんというのは…あなたの お友達ですか?」

「………え…ええ…」

「そんなに、お悪いのですか?」

「……日差しと水の病にかかって…今、意識がないんです…」

「そうでしたか…。では、今は待つしかないという事ですね?」

 その質問に、コクンと頷いた。

「──ならば、今のあなたにもこの詩が必要だと思いますよ」

「……………?」

「私は母の死があとわずかだと知った時、自分を責めました。どうして今まで気付かなかったのだろうか。もっと早くに気付いていれば、助けることができたかもしれない。死期が迫った母は、病の先生でさえ手の施しようがなく…私は愛する母を目の前にして、何もできずにいたのです。そんな自分に……無力な自分に腹を立てました。そんな時、母は一言、こう言ったのです。〝私の為に…そして何より、これからも生きるあなた自身の為に、自分を愛しなさい〟 と」

「自分の…為に…?」

「ええ。それで、子守唄のように唄っていた詩の意味を理解したのですよ」

「……………?」

「生きていれば必ず、避けられない 〝死〟 と出会います。もしくは、あなたのように、どうすることもできない状態というのが……。病に倒れた人や死を目の前にした本人も、もちろん辛いでしょうが、同じように周りの者も辛いものです。

 母はその事をよく知っていました。母は昔から体が弱く、自分がそれほど長生きできないことを、知っていたのでしょうね。だからこそ、いざという時、私が苦しまないよう、そしてこの辛さを乗り越えられるように…と、唄い続けたのです。

 〝全てを受け止めないさい。これは、神が与えた自然と同じ。風や雨や陽射しを愛するように、死という自然も愛しなさい。何もできないことを責める必要はありません。自分を愛し、自分を救う為にも祈りなさい…〟

 ──とね。分かりますか? 諦めなさいという意味ではありません。現状を受け止め、苦しんでいる人や、何もできない事に苦しむ自分を救う為に、祈る事も必要だという事です」

「……あ……あぁ…」

 そう…いう事だったんだ……この詩には…そういう意味があったんだ…。

 だから、あんなにも深く心に響いたのだ……。

 最も重要な説明──老人の母親が一番伝えたかったこと──を知り、今の自分が救われた気がした。

 今度は違う涙が溢れてくる。その涙のわけを老人も理解したようで、優しくあたしを包んでくれた。

「祈りなさい。何でもいいから祈りなさい。お友達の為に、そしてあなた自身の為に…」

「………は…い…」

 しばらくは涙が止まらなかった。その間、老人はずっと背中をさすってくれていた。温もりが伝わってくる…。

 そして、また不意に、新たな質問が聞こえた。

「 〝母の手は万病の治療薬〟 ──そんな言葉を知っていますか?」

「え…? あ…いいえ……」

「手には、不思議な力があるのですよ」

「力…ですか?」

「ええ。お腹が痛くなったとき、こうやってお腹に手を当てたりしませんか?」

 老人は、そう言って自分のお腹に手を当てた。

「え、ええ…当てます」

「頭が痛いときも当てるでしょう?」

「はい…」

「それは、手から痛みや病気を治す不思議な力が出ていて、無意識のうちに治そうとするからだそうですよ。小さな頃、痛むところを母親に優しく撫でてもらうと、不思議なことに痛みが消えたりしました。そういう経験は…?」

 あたしは曖昧な反応をした。経験があるか ないかというより、すぐには思い出せなかったのだ。

 老人は更に続ける。

「──もちろん、本当に全ての病が治るわけではありませんけどね。触れることで安心して、痛みが治まることもあるでしょう。もしくは、痛みを取ってあげたいという想いが、本当に治してしまうのかもしれません」

「………………」

「言葉自体は 〝母の手〟 となっていますが、その力は誰にでもあるものです。大事だと思う相手なら、尚更、その想いが届くかもしれませんね。──さぁ、あなたも お友達の手を握り祈ってあげなさい」

 ポンッと、軽く背中を叩かれ、あたしは椅子から立ち上がった。

「あ、あの……」

「はい?」

「あ…りがとうございました…」

「いいえ。こちらこそ、いいお話ができました。ありがとうございます」

 深々と頭を下げ お礼を言えば、反対にお礼を返されてしまった。あたしは、老人がにっこり微笑むのを見てから、足早にラディの部屋へと向かった。

 昼間のように、自分自身がコントロールできなくなったら…そんな不安は、今や不思議と消えている。

 ただ、コントロールできない何かが消えたわけではない…そのことも、もちろん分かっていたのだが……。


 部屋の前に来ると、あたしは深呼吸をひとつしてから軽く引き戸を叩いた。

「……はい?」

 一瞬の間があり返事が聞こえてから、そっと戸を開ける。

「あなたは──」

 あたしの顔を見るなり、警戒心の色を浮かべ近付いてきたのは、昼間と同じ人。

 あの老人に会って話をする前、自分自身が抱いた不安を、彼女が持つのは当たり前なわけで……あたしをラディに近付かせないよう、強いては部屋に入れないよう、間に立ちはだかるのは仕方ないことだった。

「申し訳ないけど、部屋に戻って──」

「ご、ごめんなさい!」

「え…?」

「あたし…昼間はどうかしてたんです。自分でも何やってるか分からなくて…。でも、今は大丈夫です。あんなこと二度としません! ──ですから、お願いです、傍にいさせてください!!」

 彼女が最後まで言い終わらないうちに頭を下げると、一気にそれだけ吐き出し、再び深く頭を下げた。

「ちょ、ちょと…あなた──」

「お願いします! 傍にいて手を握るだけでいいんです。ただ、それだけですから……!」

 頭を下げたままでいると、しばらくして、頭上から溜め息が漏れた。

「……約束、できます?」

 その質問に、ガバッと頭を上げると、次いで彼女の目をしっかり見つめた。

「はい、約束します!!」

 彼女もまた、あたしの気持ちを見抜くように、数秒見つめると、再び小さな溜め息を漏らした。

「──いいわ。じゃぁ、入って」

 そう言うと、彼女は体を少しずらし、あたしを部屋に通してくれた。

 中は、数本のロウソクだけで薄暗いものの、昼間と同じような光景には変わりなかった。

 ゆっくりと、ベッドの上で横たわるラディに近付いていく…。

 顔色まではハッキリと分からないものの、荒い息使いは昼間と変わらず、恐る恐る額に触れた手には、まだかなりの熱が伝わってきた。

 再び、何の変化もない状況を目にして、思わず、下におろしていた手をギュッと握り締めていた。それに気付き、慌てて目を閉じると、体の力を抜く為に、数回、深呼吸を繰り返した。

 大丈夫、大丈夫よ……。だって、あの時のような恐怖は湧いてこないもの…。

 改めて、わけの分からない恐怖が自分の中に湧いてこないことを知って、ホッと胸を撫で下ろした。同時に、体からも力が抜ける。

 ラディ……。

 心の中で、ラディの名前を呼んだあと、あたしは、布と氷の下に埋もれている彼の右手を、両手で そっと包み込んだ。

 そんなあたしの態度を見て、〝大丈夫そうだ…〟 と判断したのだろう。それまで、引き戸を閉めたままジッとしていた彼女が、ようやく動き出した。

「─どうぞ。夜は長いわよ」

 そう言うと、壁に立てかけてあった椅子を、あたしの真後ろに用意してくれた。

「……あ、ありがとう…」

 少々ためらいがちに座ると、彼女はラディの左側──あたしと真向かう形で──椅子に腰掛けた。

「──これでも、少しずつ下がってきてるのよ」

「え…?」

「まぁ、下がったとは言っても、まだまだ熱は高いから、平熱の私達が触れたところで、そうは感じないでしょうけどね。でも、表情や呼吸の仕方、それに脈の数は、最初に比べれば、落ち着いてきてるの」

 そう言われ、改めてラディを見れば、昼間より幾分かラクになっている気がしないでもない…。

「じゃ…ぁ、このまま熱が下がればラディは──」

 〝もちろん、大丈夫〟

 ──そんな言葉を期待していた。病の知識を持った彼女の口から、その一言さえ聞ければ、何より心強いものはない。けれど、現実はそう甘くないものだ…。

「──できることなら、〝もう、心配ないわ〟 って言いたいけれど、今はなんとも言えないの。意識が戻るかどうか…本当のヤマはそこにあるから…」

 あ…あ…そう言えば、ノークもそんなことを言ってたわよね…。

 体力が持つかどうか、それが問題だ…って。

 あたしは、握っている手に僅かながら力を込めた。

「……そう言えば、私、自己紹介してなかったわね?」

「え…?」

「私の名前はトゥナス。今日だけじゃなく、彼が回復するまで担当することになってるの。よろしくね」

「あ…あたしはルフェラです…。こちらこそ、よろしくお願い…します」

 重苦しい雰囲気の中、自己紹介という、あまりにも普通の会話に戸惑ったが、考えてみれば、名前を知らないというのも不便な為、あたしは そのままの体勢で頭を下げた。

 そして、顔を上げれば、あの老人が言ったように、強く祈ろうと思っていたのだが…トゥナスの会話は、更に続いた。

「──それで、彼はルフェラさんの恋人?」

「え……?」

 あまりにも場違いで、尚且つ、思いも寄らぬ質問に、一瞬 何を言われたのか理解できなかった。しかし、次の瞬間には思いっきり首を振っていた。その反応に、トゥナスが不思議な顔を向けた。

「あ…ら、違うの?」

「ち、違います…どうしてそんな──」

「あの時、あなた完全に我を失っていたでしょう?」

「…………!」

「突然のことで取り乱すのはみんな同じだけど、我を失うほどっていうのは、肉親か恋人…あるいは好意を寄せている相手に多いのよ。だから、てっきり、あなたの恋人かと思って…」

「違い…ます。ラディはただの友達で…一緒に旅をしてる仲間ってだけです…」

「そう…」

 トゥナスは、いまいち 納得できない様子だった。

 確かに、昼間のあたしを見て 〝ただの友達だ〟 と言われても、納得できないだろう。あたしが彼女の立場でも、やっぱり、納得できないと思う。だけど、今までのように納得してもらうまで説明する気にはなれなかった。

 しばらく沈黙が続き、これで話は終わりかと思いきや、トゥナスは またもや話しかけてきた。

「…じゃぁ、前にも こいういう事が?」

「え…こういう事──って、ラディが倒れたこと…ですか…?」

「う…ん、正確には…あなたが一人にされたこと…かしら」

「あたしが一人にされた…こと…?」

 わけが分からなくて、そのまま繰り返すと、トゥナスは軽く頷いた。

「 〝また、あたしを一人にしたら許さないから…〟 って、あなた叫んでたでしょう? 私、その言葉がどうも気になっていたの。あの時のあなたの様子……あれほど激しく心乱す理由が、恋人でもなんでもないっていうのなら、その言葉に原因があるんだろうな…って。

 だって、〝また〟 って事は、前にもそういう事があったってことだものね。違うかしら?」

 トゥナスは、自信に満ちた目で、そう問いかけた。しかし、あたしは、その説明さえまともに聞いていなかった。

 理由は……。

「あ…あたし…そんなこと言ってたんですか…?」

 ──だった。

 質問に質問で返されたトゥナスは、その内容に驚いた。

「お、覚えてないの…?」

 あたしは無言で首を横に振った。

「あたし…本当に自分でも何やってるか分からなくて……呼び掛けても何の反応もないラディを見てたら……な…んだか…急に怖くなってきたんです…。どうしてだか分からないけど……怖くて怖くて仕方なくて…体まで震えてくるし……そのあとのことは、自分でも止められないまま あんな事を……」

「無意識が引き起こした行動……ってことね…」

 独り言のように呟いたその言葉は質問ではなく、どちらかというと、何かを察知した時のものだった。

「ルフェラさん…」

「は、はい…?」

「できれば、その原因、突き止めたほうがいいわ」

「え…?」

「どうして自分がそういう行動をとってしまったのか……知らず知らずのうちに口走ってたことはもちろん、怖くなったのも、おそらくそこに原因があると思うの。一人にされた経験がないと思っていても、単に忘れてるだけかもしれないわ…。あなたをよく知る人に一度聞いてみたらどうかしら?」

「…………」

「──じゃないと、同じ事を繰り返してしまうわよ」

「…そ…んな……!!」

 あたしは、彼女の言葉にショックを受けた。

 自分の中にコントロールできない何かがあるのは分かっている。だけど、老人と話をしたあとは、少なくとも、今回のようなことは繰り返さないだろう…そう思えたからだ。

「あ、あたし……あたし…どうしたら………」

 できるものなら、彼女の言葉を否定したかった。それは誰の為でもない、自分の為だ。自分に言い聞かせる為に、〝そんなことはあり得ない〟 と口にしたかったのだが、悲しいことに、あたしのどこを探しても、〝大丈夫だ〟 という自信は見つけられず……結局、一瞬にして、不安に包まれてしまった。そして、気付けば、そう口にしていたのだった。

 その直後、肩に何かが触れ、ハッと顔を上げると、目の前にいたはずのトゥナスが、すぐ傍であたしの顔を覗きこんでいた。

「…大…丈夫…?」

「あ…あぁ……」

「ごめんなさいね。別にあなたを動揺させるつもりじゃなかったのよ。むしろ、何か少しでも力になれたら…って思ってたの……」

 ち…からに……?

 肩に伝わる手の温もりと、思ってもみなかった彼女の言葉に、あたしの動揺が少しずつ消えていく。

 それを感じ取ったのか、トゥナスは再度 〝ごめんなさいね〟 と呟くと、元の席に戻っていった。

 それからのトゥナスは殆ど喋らなかった。余計な事を言ってしまわない為なのか、それとも単に、話すことがなくなったからなのか…それは、分からない。もしかすると、今が夜中であるということや、病人を目の前にして、いつまでも喋っているものではないという、常識的な判断だったのかもしれない。

 一方 あたしは、〝力になれたら…〟 という彼女の言葉が嬉しく、同時に、その理由を聞いてみたいと思った。けれど、少しでも長く祈りたい…と思うのも、また正直な気持であり……故に、あたしも彼女同様、殆ど喋らず、ラディの手をしっかり握ったまま、目を閉じた。



 ラディ…ラディ、あんたは絶対 大丈夫よ。だって、そんなに弱くないもの。それは、あたしが知ってるわ。だけど、一番よく知ってるのは自分自身のはずよ。──そうでしょ?

 ここに、あんたの意識はないけど、どこかで聞いてるよね?

 あたし、ずっと話してるから……あんたが目覚めるまで、ずっと祈ってるからさ……ちゃんと聞いててよ。心の中でいいから聞いてて。

 もし、眠った意識が夢のような空間で彷徨ってるなら、そこでは何が見える?

 真っ暗な闇なの…? それとも、昼間のように明るい?

 もし暗闇だったら、光が差し込むように祈るわ。それで見えるでしょ?

 そしたら何が見える? 目印になるようなものがある? それとも、何もない?

 もし、何にもない殺風景な場所なら、綺麗な自然が見えるよう祈るわ。

 でもきっと、見たこともない場所よ。だから、どっちに行けばいいか迷うわよね?

 誰か教えてくれそうな人はいる?

 もし、誰もいないなら、進むべき方向を知っている人が現れることを強く祈るから…。

 ねぇ、ラディ……そこで吹く風は優しい?

 荒々しい風なら、すぐに止むよう祈るわよ。そしたら前に進めるでしょ?

 雨はどう?

 激しい雨なら、風が雲を吹き飛ばすよう祈るわ。現れた太陽は、濡れた服もすぐに乾かしてくれるもの…。

 だけど、陽射しは強すぎない?

 焼けるような暑さになったら、また雨が降るよう祈るわ。今度は優しい雨でありますように…って。



 途中、何度か、ラディの体を埋めていた氷をトゥナスと交換しては、朝までずっと、話しかけたり祈ったりしていた。

 もちろん、老人が詠んでくれた詩も、心の中で繰り返していた。



 優しい風を愛しなさい

 荒ぶる風も愛しなさい

 貴方が私を愛するように……


 しとつく雨を愛しなさい

 激しい雨も愛しなさい

 貴方が私を愛するように……


 柔らかな陽射しを愛しなさい

 焼きつく陽射しも愛しなさい

 貴方が私を愛するように……


 それは神が与えし自然の恵み

 尊き命を育む源


 さあ、貴方の為に祈りましょう

 さあ、私の為に祈りましょう


 そして、自分自身を愛しなさい

 貴方が私を愛するように……



 繰り返し、繰り返し……。

 最後には、自分が眠りに落ちたことにも気付かず、夢の中でも、祈っていた……。

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