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女神伝説  作者: Sugary
第四章
40/127

1 ラディ、夏の病に倒れる ※

 数日前、火の月が終わり、今や 〝木の月〟 に入った。

 暦の上では暑さも和らぎつつあるはずだが、現実はまだまだ暑い。

 夏が来れば冬が恋しくなり、冬が来れば夏が恋しくなる。早く季節が変わって欲しいと願うことは多々あるけれど、変わらない事が、ありがたい時もある。

 今のあたしにとって、彼らの態度が、まさにそれだった。

 犯してしまった罪は忘れてはならない。けれど、いつまでも引きずって、前に進めないのは、もっとよくないことだ。忘れるのではなく、前に進むためにも、あたしは落ち込んでいるわけにはいかなかった。

 何度、夜中に あの時の夢を見ても、いつも通りの自分でいられるよう…そう、自身に言い聞かせていた。

 彼らが、そんな気持ちを知ってるかどうかなんて、今のあたしに考えられるほどの余裕はない。だけど、彼らのいつもと変わらない態度が、あたしにはありがたかったのだ。

 少なくとも、平常心を保っていられるから…。

 それにしても、まさか自分に 夢遊病の気があったなんてね…。

 しかも、眠りながら自分の寝床に戻ってくるなんて、都合のいい夢遊病だわ…。

 あたしは、何日も前から同じことを繰り返す自分の行動を思い出していた。



 雲の隙間を縫うように、あたしはある一箇所だけを見つめていた。

 重力に従うあたしを見上げているリヴィアの顔だ。

(ああ…もう、何度見てきただろう…、この光景…!)

 い…まだ…!!

(ダメよ、ルフェラ!!)

 そう叫んでも、夢の中に出てくる現実の光景はなんら変わりなかった。

 リヴィアの胸部…そこだけが強調されるように、よりハッキリと見えてくる。

(ああ…だめ!! その刃を放すのよ、ルフェラ、早く!!)

 けれど、短剣を持つ手は、決して揺るがない。

(ああ…間に合わない…!! お願いよ、リヴィア、よけて──!!)

 喉が裂けそうなほど強く叫んだ時には、既に、あたしの手に耐え難いほどの感触が伝わってきた。

(あぁ…ああ…そんな…リヴィア…!!)

 もう見たくない…と、顔を覆ったはずなのに、視界に映るのは、腹部から真っ赤な血を流す彼女と、対照的なほど青い顔…!!

 その血の気のない唇が微かに動いた…。

「…フェラ…」

(…リヴィア………ううん、違う…! 彼女はシニアだったのよ…!! あぁぁ…シニア…)

「ルフェラ…」

(シニア…ごめんなさい…あたし…あたし──!!)

「……ルフェラ、起きてください…!」

(え…?)

 思わぬ言葉が聞こえたと思ったら、突然、右手に痛みが走り、その部分を押さえようとした所で、喉の苦しさを感じ、目が覚めた──

『大丈夫ですか、ルフェラ?』

 即座に聞こえたルーフィンの声。途端に、緊張していた体から力が抜けていった。

「あ…ああ…ルーフィン……ルーフィン…!!」

 隣に感じた温もりに、思わず抱きついた。

 彼の声が聞こえなかったら、今、自分がどこにいるのか分からなかっただろう。ここ数日、ずっと あの時の夢を見て、うなされているのだ。最初のうちは、うなされたらすぐ、起こしてもらうよう、ミュエリに頼んでいたのだが、さすがに毎日となると、申し訳なくなる。睡眠不足にもなるし、なにより、あたしを心配する気持ちが分かりすぎるぐらい分かってくるのだ。それで、みんなが寝静まった頃、部屋を抜け出して、ルーフィンのところにきていたのだった。

 狼を家の中に入れてくれる所は少ないものだが、それでも、多くの場合、何もない外に置いておくのはかわいそうだという事で、家の主人が、小さな物置小屋をルーフィンの為に貸してくれる。

『ルフェラ、私の心臓の音を聞いてください』

「え…?」

『耳を澄まして、心臓の音を聞くのです』

「……………?」

『不思議と落ち着くものですよ、こういう音は』

「あ…あぁ…そういうこと…ね…」

 やっと、その意味が分かって、あたしはルーフィンの胸に顔をうずめた。

 柔らかな毛が右頬を覆う。その毛の奥から肌の温もり、次いで、小さな…それでいて力強い音が定期的なリズムにのって聞こえてきた。

 しばらくその音を聞いていると、なるほど…ルーフィンの言う通り、何かに包まれるように心が落ち着いてくる。体の震えが次第に消えていくと、思ったより汗をかいていたことや、夢を見ながら涙を流していたことにも気付き始めた。そこまで落ち着くと、今度は、右手に感じた痛みがなんなのかも分かってくる…。

「ルーフィン…」

『はい…すみません。なかなか起きないので、手首、咬みました…』

 責めるつもりは毛頭なかったのだが、言おうとしている事を先に越されたうえ、彼の口調があまりにも申し訳なさそうだった為、思わず、吹き出してしまった。

 その反応に驚いたのは、ルーフィンのほうだ。

『ル…ルフェラ…?』

「ご、ごめん……。そんな、謝ることないのに…と思って…」

『そう…ですか…?』

「そうよ。それどころか、感謝してる。それに、睡眠妨害しちゃって、悪いなぁ…とも、思ってんだから」

『そんな──』

「ほんとよ。ほんとに、悪いと思ってるの。だけど、自分でもどうすればいいか分からなくて…」

『ルフェラ…』

「耐えるしかない…耐えるべきだっていうのは分かってるのよ。だから、グチを言うつもりも、弱音を吐くつもりもない。夢の中では吐いても、ね。ただ──」

『ただ…?』

「ただ、最近のあたし…おかしいから……」

『死の光を見たり、予知夢を見たり…ですか?』

 あたしは無言で頷いた。

 村を出てから、いろんなことがありすぎる。

 ありすぎて、シニアから赤守球を奪う時に見た月の光や、それを手にした途端、自分が自分じゃなくなった恐怖のことは、ルーフィンにさえ、言えないでいた。

「なんか…さ…自分で自分が怖くって…」

『ルフェラ…そんなに自分ひとりで背負い込まないでください。気になることがあれば、話せばいいんです。解決できなくても、話すことで随分、楽になる事だってあるんですから。今までだって、そうでしょう?』

「……うん」

 確かに、ルーフィンの言う通りだ。解決できなくても、ルーフィンと話したり、ネオスと話してるうちに、楽になった事はいくらでもある。

 だけど、今のあたしには、それ以上の返事はできなかった。

『ただ…ですね、ルフェラ…』

「うん、なに…?」

『イオータには、あまり話さないほうがいいと思います』

「え……どういうこと…?」

 あんなことは誰にも話せないと思いながらも、話すとしたら、月の光を借りたというイオータしかいない…そう思っていたところに、聞こえたルーフィンの忠告。

 一体どういう事かと、驚きを隠せないまま問いかけてみれば、返ってきたのは、矛盾する答えだった。

『彼は信頼できます。おそらく、ネオスと同じぐらい。でも、あまり話さないほうが賢明だと思います』

「…よ、よく…分からないんだけど…?」

『そう…ですね…。何というか…その、つまり…頼っても、アテにはできないと思ったほうがいいんです』

「アテに…できない…?」

 それでも、やっぱりよく分からず、オウム返しのように最後の言葉を繰り返してしまった。

『すみません。今はそれだけしか…。ただ、そういう気がしてならないんですよ』

 ちゃんとした根拠がないからなのか、ルーフィンは、説明できないことを申し訳なさそうに詫びた。だけど、そんなルーフィンを誰が責められようか…?

 〝時には、理由のない方が確かだったりするもんだよ〟

 どんなに反応がなくても、想いの石を持つのがイオータではなく、ネオスだと思った時に言われた言葉。その感覚は、誰でもない、このあたし自身が体験しているのだ。

『ルフェラ…?』

「あ…ううん。いいの、気にしないで。ルーフィンの言うこと、よく分かったから…」

『本当…ですか?』

「うん…。少なくとも、ルーフィンの言う事は信じられるもの」

 小さな窓から差し込む月の光は、とても弱く、あたしの目からルーフィンの顔は殆ど見えなかった。それでも、夜目の効くルーフィンになら、あたしの顔は見えるだろうと、出来うる限りの笑顔を作って見せた。

『そう…ですか。そう言ってもらえると、嬉しいですけど…』

 そう言ったルーフィンの声は、安心したように聞こえた。

『ルフェラ…?』

「うん…?」

『もう、そろそろ戻った方がいいのでは…?』

「う…ん、そうね…。でも、もう少しだけ…もう少しだけ、ここにいさせてくれない?」

『それは…構いませんけど…』

「ありがと…」

 そう言うと、あたしは しばらくの間、壁にもたれていた。

 ルーフィンの呼吸がすぐ近くで感じられる。ただ、それだけで、あたしの気持ちは和らいでいった。

 今日は もう、うなされることはないだろう。

 安心して目を閉じると、睡眠不足と疲労のせいか、瞬く間に深い眠りへと落ちていった。

 そして翌朝──ここ何日とそうだったように──あたしは布団の中で目を覚ましたのだ。

 あぁ…あたし、また眠りながら戻ってきたのね…。



 最初はまた、ネオスが連れ戻しに来たのかと思ったけど、ルーフィンに聞いたら、自分で戻って行った…って言うし…。

 記憶がないっていうのは怖いわ…。

 そんなことをボーっと考えていたら、ふいにミュエリの声が耳に届いてきた。

「ルフェラー、道が分かれてるわよ。どっちに行く?」

 ネオスとイオータの腕を両方で組み、目の前に迫った道の選択を尋ねるべく、ミュエリが後ろを──つまり、あたしの方を──振り返ったのだ。

「ミュエリはどっちに行きたいのよ?」

 一見、好意で相手の意見を聞いているように思える質問だが、あたしとしては、まったくの正反対だ。

「う~ん、そうねぇ──」

 と、数秒、左右の道を見比べたミュエリは、行きたい方向を指差した。

「そっ。じゃぁ、右ね」

「ちょ、ちょっとー。それって、どーいう意味よ!?」

「どーいう意味って…?」

 至って、平然と答える。

「あなたねぇ~。私は左って指差したのよ!?」

「分かってるわよ。だから、右に行くって言ったんじゃない」

「あのねぇ…」

「なに?」

「じゃぁ、どうして、わざわざ私に訊いたのよ!?」

「そんなの決まってるでしょ。あんたが行きたくない方向に行きたかったから」

「あなたって……一段と性格悪くなったんじゃない!?」

「そぅお?」

「そぅお…ってねぇ……自覚がないなんて救いようがないわよ?」

「あ~ら、それじゃあ、ミュエリの方が、よっぽど救いようがないんじゃない?」

「なんですってぇ~!?」

「おいおい、いい加減にしろよ、二人とも」

 半ば呆れたように…というより、ウンザリするように間に入ったのは、イオータだった。

 ここ数日、なぜか あたしとミュエリの言い合いが増え、それを止める役目になっていたのだ。

「だって、イオータ──」

「だってもくそもねぇ! なにかってーと、す~ぐ、二人で喚きやがって…ちったぁ、あいつを見習えってんだ!」

 そう言うと、イオータは 〝あいつ〟 を示すように、顎をしゃくった。それに習って、後ろを振り返る。

 ラディは、珍しくあたし達から遅れていた。それも、かなり、だ。

 確かに、最近のラディは静かだった。ミュエリが嫌味を言っても、まともに返さなかったし、そのお蔭で、彼らの言い合いは少なくなっていた。──が、代わりに始まったのが、あたしとミュエリの言い合いだったのだ。

 そう。それは、ミュエリがいなかった時、あたしとラディが言い合いした時のように…。

 あたし自身、まともに返さなければいいんだろうなぁ…と思うのだが、今は、言い合っているほうが、気分が落ち着くため、どうしても言い返してしまっていた。

 ネオスは、以前から止めることはなかったし、ミュエリの嫌味に付き合わなくなったラディが、わざわざ間に入って止めるはずもないため、結局、あたしたちを止めるのはイオータになってしまったのだ。

 それが、数日も続いてくると、〝二重人格〟 も限界を迎えたらしい…。

 今まで優しかった口調が一気に崩れ、ミュエリはその変わり様に、ショックを受けているようだった。

 どういう状態であれ、相手が黙ってしまえば、あたしもそれ以上 言う事はない。

 ようやく二人が黙った為、溜め息混じりに 〝行くぞ〟 と吐き出すと、再び、歩き始めた。──もちろん、進路は右に。

 その時、風が吹くようにあたしの耳に流れてきた声があった。

 ──ルーフィンだ。

『ルフェラ?』

『あ…うん、なに?』

『ラディの様子がおかしいですよ』

『え…?』

 言われて後ろを振り返ると、木に寄りかかった途端、その体はぐらりと揺れ、ラディが地面に倒れる瞬間だった。

「ラ、ラディ…!?」

 叫ぶと同時にあたしは駆け出していた。

挿絵(By みてみん)

 ──静かだったのは、体調が悪かったからなの!?

 今更ながらの如く、そんな言葉をラディと自分に問うように心の中で叫んでいた。

 全力疾走しても、ルーフィンに適うわけがなく…彼の後に続いて、ようやくラディの元に駆け寄ることができた。

 倒れこんだラディを見て、一瞬にして熱があると分かった。荒く苦しそうな息づかいだが、呼吸はどこか弱々しい。不思議なのは、顔色の悪さより、よすぎることだ。──よすぎるというのは、つまり、紅潮しているという事だ。

 普通の熱じゃない…!?

 抱き起こしてみると、ラディの体が思った以上に熱いことに、更に驚いた。

 異常だわ…。

「ラディ、ラディ…!?」

 頬を軽くペシペシと叩いてみるが、呻き声どころか、目を開ける反応さえない。

「ラディ、しっかりして! ラディ!?」

 体を揺さぶり、頬を叩く手にも力が入る。しかし、反応はまったくなかった。

「いったい…どうしたって──」

 あたしの後に続いて、すぐに追ってきたミュエリたち。ラディを見て、ミュエリはそのまま声を失ったようだ。

 咄嗟にイオータがあたしの隣に座り込み、同じように頬を叩いた。──が、やっぱり、何の反応も返ってこなかった。

 ──と、不意に、上のほうから誰か別の男性の声が聞こえた。

「これは─」

 顔を上げるや否や、一人の男性──二十代半ばであろうか──が、持っていた荷物を放り出して、ラディの体を調べ出した。

 見も知らぬ男性のその仕草をみて、思わず口から出るのはたった一言だけだ。

〝た、助けてください…!〟

 しかし、その言葉を発するより、彼のほうが一瞬だけ早かった。

「急いで私の家へ! それから、何か覆うものはありませんか?」

「え…?」

「何でもいい。この日差しから彼を守るのです!」

「あ…えっと…」

 焦りと不安、そして何より、彼の希望するものを持っていないため、どうしていいか分からず、あたし達はオロオロとお互いの顔を見合すしかなかった。

 そこへ、再び彼の声。

「それは?」

 指差したのは、あたしの腹部。正確には、銀の布だった。

 ──そうか、これがあったわ!

 慌ててそれを手渡すと、今度はまた何かを見つけたようで、〝中身は?〟 と聞いてきた。

 中身…?

 ──と、誰もが繰り返す間もなく、

「失礼!」

 と言うや否や、ネオスから木筒を奪っていった。

 持っただけで、中身があると分かったからか、彼はすぐさま 中の水を──ほんのわずかだけ──ラディの口へ流し込んだ。すぐさま、コクッと飲み込む様子を確認すると、今度は、残りの水をラディの頭からぶっ掛けたではないか。

 水を飲ませるまでは分からない行動ではないが、頭から水をぶっ掛けるその行動に、あたし達は呆気にとられてしまった。あまりにも予想外だった為、彼に不信感を抱く余裕さえなかったほどだ。

「早く、彼を運んでください! それから、この布を頭から被せて──」

 最後まで言い終わらないうちに、ラディを背負う人間を指名し、あっという間に準備を整え、歩き出した。

 イオータがラディを背負い、そのあとにあたしたちが続いた。

 それでも、数歩行きかけて、彼が放り出した荷物を持っていないことに気付いたあたしは、急いで、それをとりに戻り、再び合流した。

 ラディとイオータの様子を窺いながら、出来る限り早足で向かう。

 数回、道を曲がると、前方に少し古めかしい、そして他の家より大きな建物が見えてきた。

「もう少しですから──」

 布に覆われたラディの背を押し、男性はイオータを励ました。

 同じ体重でも、意識がある者と そうでない者を背負った場合、かなりの労力を必要とするのは、断然、意識のない者のほうだ。自分では体を支えられない為、重心が定まらず、背負う方が気を付けなければ背中からずり落ちてしまうからだ。

 見た目にも、事実でも、体力があるのは、間違いなくネオスよりイオータのほうだが、その彼でさえ、男一人…しかも、意識のない者を背負えば、既に、足元がフラついていたのだった。

 ネオスやミュエリは、少しでも彼の負担を減らそうと、両隣からラディの体を支えていたのだが、あまり効果はなかったらしい。

 それでも、何とか男性が案内する家に到着すると、乱暴に開けられた引き戸のせいか、何事かと、数人の女性が奥から出てきた。

 その中の一人、中年の女性が、あたしたちの様子を目にするや否や口を開きかけたが、それよりも早く、男性の指示が飛んだ。

「今すぐ床を用意して、彼を運んでください! おそらく、日差しと水の病です。意識はありません。ありったけの氷を用意して、体を冷やしてください!! それから、こちらの方にも、水を差し上げて──急いで!!」

「は、はい!!」

 厳しい口調とテキパキとした指示。それだけでも、圧倒されそうになるのだが、女性達は、どちらかと言うと、彼の言葉から緊急事態を察知したようだった。

 先ほど、口を開きかけた中年女性は、その中でも中心的役割を担っているのか、彼同様、周りの女性に、次々と指示を与えていった。

 氷を用意する者、床を作る者、ラディを運び始める者……などなど。

 おそらく、男性が指示したこと以上の事を、この場にいない者にも、指示しているのだろう。目の前にいた女性達が四方八方に散らばると同時に、家中が慌ただしくなったのだ。

 その急な変化に、あたしは、一瞬、ラディの様態を心配することすら忘れてしまったほどだった。

 そんな時、周りの慌ただしさとは対象的な、落ち着いた声が聞こえてきた。

「あの…これ、どうぞ?」

 見れば、あたしと同い年ぐらいか、一・二歳年上に見える女性が、水の入ったコップをお盆に載せ、膝をついたところだった。

 〝こちらの方にも水を──〟

 その指示通り、水を運んできたのだ。イオータの分だけでなく、あたし達の分まで用意してくれていた。

「さぁ、どうぞ」

「あ…ありがとう…」

 差し出された水を受け取ったあたしは、まず、力尽きたように、板の間に腰掛けているイオータに勧めた。

 肩を叩かれても返事一つなく、ただ、無言で顔をあげる。〝水よ〟 と言うと、受け取るや否や、一気に飲み干してしまった。それでも、すぐには声が出ないようで、〝ありがとう〟 の言葉の代わりか、軽く手を上げた。それに続き、あたし達も用意されたコップを手に取り、喉を潤したのだが、半分ほど飲んだ所で、いつの間にか、さっきの男性がいなくなっていることに気付いた。

「あ、あの…さっきの人はどこに…? ──ラディは…ラディは助かるんでしょうか…? あたし…ラディが調子悪いなんて全然気付かなくて…ずっと歩かせていたんです。きっと、朝から調子悪かったはずなのに… 〝えらい〟 なんて一言も言わなくて…。あたしがもっと早く気付いていればこんなことには──」

 〝あたしのせいだ…〟

 そんな思いからか、だんだん気持ちが高ぶっていった時だった。不意に肩を掴れ、振り向けば、あたしと目が合ったネオスが、無言のまま首を振った。

「ネ、オス……」

 お…落ち着けってこと…?

 それとも、自分を責めるなってことなの…?

 〝無言〟 に隠された言葉を知りたかったが、今は、その言葉を聞きだす状況でないことぐらい、今のあたしにも分かっていた。

 それに、どちらにせよ、あたしがこれ以上 口を開いても、まともに話ができる状態じゃないだろう。だから、ここはもう、ネオスに任せるしかない。

 その気持ちを察したかのように、あるいは、あたしの言葉を遮った時点で、そのつもりだったのか、ネオスが静かな口調で問いかけた。

「ラディの容態は…どういう状態なんでしょうか?」

 さっきの男性が、〝病の先生〟 であろうということや、その人がここにいないという事は、普通に考えて、ラディの所にいるであろうという推測が立てば、敢えて、今、質問する必要はない。たとえ、その推測が立たなくても、一番、知りたいのは、ラディの容態なのだ。

 質問された女性は、ネオスと同様、静かな口調と真剣な面持ちで答えた。

「今は、油断が許されない状態です。詳しいことは先生が説明されると思いますが──とりあえず、こちらにどうぞ?」

 そう言うと、女性は部屋に上がるよう促した。〝どうぞ〟 と手招きされ、順に上がり始めると、次いで、合図でも送ったのか、近くにいた女性が、コップと盆を下げ始めた。

 最後に、あたしが靴を脱ぎかけたのだが、水を飲むため、足元に置いた荷物のことに気が付いた。

「あ、あの…」

「はい…?」

「これ、さっきの人の荷物なんですけど…」

「あ…ら…兄さまったら、また…」

 拾い上げた荷物を見せれば、少々 焦ったように辺りを見渡し、急いで受け取った。

「すみません。重かったでしょう?」

「あ…いえ…」

 重いかどうかというよりは、多少、物が大きくて、運びにくかっただけなのだが、イオータに比べれば、どうってことないものだ。

「──ちょっと、ごめんなさい。これだけ置いてきますので…。見つかったら大変だわ…」

 最後の言葉を独り言のように呟くと、荷物を置きに、慌てて この場を去っていった。

 その間に、靴を脱ぎ家の中に上がったのだが、同時に、誰かが入ってきたらしく、すぐ後ろで小さな声が聞こえた。

 振り返ると、そこにいたのは、歳も背格好もジーネスと同じぐらいの女の子──いや、女性というべきだろうか──だった。

 肩まで伸びた黒髪は真っ直ぐで、とても艶やか。肌の色は、真夏の日差しで焼けてはいるものの、比較的、白い方だった。若いのに、あまり健康的に見えないのは、その肌の色だけかとも思ったが、どうやら、違うらしい。表情──特に瞳──の輝きが乏しいように思える。パッチリとした目のはずなのに、何か悩み事でもあるのか、力のないその目が、とても小さく見えてしまうのだ。

 初めてここに来たからなのか、それとも、この慌ただしさに驚いているからなのか、女性は、しばらくの間、不安げに、キョロキョロと辺りを見渡していた。

 正直、手助けする気分ではなかったが、それでも声を掛けた方がいいのかどうか迷っていると、先ほど、コップを下げた女性が彼女を見つけたらしく、先に声を掛けた。

「こんにちは、ラミール」

「こんにちは…」

「ごめんね。たった今、急患が入って……しばらくかかると思うのよ」

 見たことのない人物が、すぐ近くで重苦しい空気を漂わせていれば、その 〝急患〟 と関わりがあることぐらい、容易に察しがつくだろう。彼女の言葉に、一瞬、あたし達を見ると、すぐに目を逸らし、再び、小さな声を出した。

「そう、ですね…」

 力のない目が、更に沈む。

「ノーク様には、ちゃんと伝えておくわね。一段落着けば、すぐにでも会ってくれるだろうし…。その時は、頃合いを見計らって私が迎えに行くから」

 そう言ってニッコリ微笑むと、ラミールと呼ばれた彼女も、力なくではあるが、僅かに微笑んだ。

「それじゃ…失礼します」

「ええ。じゃ、またあとでね」

 軽くお辞儀をして出て行くのを見送っていると、部屋の奥から、荷物を置きにいった女性が戻ってくるところだった。

「ごめんなさいね。それじゃ、こちらへどうぞ」

 柔らかな表情を向け、歩き出した女性の後に、重い足取りのあたし達が続いた。

 両サイドには、横開きの引き戸が均等に並んでいた。殆どは半分ほど開いている状態だったが、所々、全開になっている所もあった。そこから見えるのは、清潔そうに整えられた、誰もいないベッドと、荷物をしまう為の、小さなタンス。そして、折りたたみの、簡易椅子が壁に立てかけてあるだけだった。

 引き戸から真正面に見えるのは、大きな窓で、そこが開け放たれているためか、引き戸を横切るたび、心地よい乾いた風が体に当たり、通り抜けていった。

 病室、か……。

 しばらく歩き、案内されたのは、ローカの突き当たり、両サイドにある、片方の部屋。引き戸が開けられると、それまでの部屋とは違い、そこそこ、広かった。

 自分たちの村にも、病の先生はいた。そして、病人が治療を受ける部屋も。だけど、数は少ない。正確に言えば、個室が三つほどだ。よっぽどのことがない限り、自分の家に帰っていくし、実際、よっぽどのことが、ないのだ。故に、三つのうち、二つは先生の子供が使っていたりする。

 初めて見る部屋だが、ベッドが四つあることから、比較的、軽い病人が集まる部屋なんだろうということぐらいは分かった。

 ただ、そこには、誰もいなかった。誰もいないという事は、つまり、肝心のラディもいないということだ。

「あ、あの──」

「彼は入り口近くの部屋にいます。先生や他の誰もが すぐ駆けつけられるように、重病の方は、診察部屋のすぐ近くで治療することになっているんです」

「じゃぁ、ここは…?」

「ここは、あなた方が お使いください。見たところ、皆さんも、かなり疲れているようですし。特に、あなた…ですけどね」

 少々、心配げに微笑んだ彼女の目は、あたしに向けられていた。

 この中で、誰が一番疲れているかと問えば、一目瞭然。ラディを運んできたイオータのはず。なのに、彼ではなく、あたしだと言う事は、やっぱり、さっきの態度が原因なのだろうか…?

 なんだか、恥ずかしいやら、情けないやらで俯いていると、彼女は更に話を続けた。

「本題に入る前に、自己紹介だけさせてくださいね。私は、ラピスと言います。あなた方と一緒に来た人は、ノークと言って、私の兄なんです。そして、私達の父が病の先生で、彼の治療にあたっているところです」

「え…じゃぁ、さっきの人…ノークさんは、先生じゃないんですか…?」

「え、ええ。まだ、色々あって正式には……。あ、それで、あなた方は…?」

「あ、すみません…。あたしは、ルフェラと言います」

「僕はネオスです」

「私はミュエリ」

「オレは、イオータだ」

 あたしに続いて、順に名乗り終えた時だった。後ろの引き戸が静かに開いた。現れたのは、先ほどの男性、ノークだ。

「皆さん…ちょっと、よろしいですか?」

 部屋に入り引き戸を閉めた途端、彼の真剣な眼差しが、あたし達に向けられた。その表情が、ただならぬ事を予想させ、瞬時に、皆の体に緊張が走った。

「本来なら、先生が説明するところですが、今はまだ手が放せないので、私が代わりに お話しさせていただきます」

 そう切り出すと、ノークは一呼吸 置いた。意を決して何かを告げる、そんな間だ。

「──彼の容態は、かなり危険な状態です。先ほど、ここの者に伝えた通り、日差しと水の病にかかっていて、意識がない状態なんです」

「日差しと…水の、病…?」

 繰り返した言葉に、ノークが無言で頷いた。

「この病のことは…?」

「え、ええ…知ってます。でも…」

 病の先生が下した診断なら間違いないだろうが、あたしには信じられなかった。それは、ラディが危険な状態であるという事ではない。もちろん、その状態を 〝信じたくない〟 という気持ちはあったが、この時の 〝信じられない〟 というのは、あの症状が、日差しと水の病である…という事のほうだ。

 ラディをここに運び込んだ時、ノークは、〝日差しと水の病だ〟 と叫んだ。その瞬間、頭に浮かんだのは──実を言うと── 〝まさか?〟 の三文字だった。

 日差しと水の病は、別名、〝夏の病〟 と言われ、その症状は、眩暈や、体のだるさ、そして、火照りだ。夏の暑い日差しが原因で、先生でなくとも、多くの人が知っている病のひとつだった。

 あたし達の村でも──特に炎天下で長時間 働いている人に──多かったし、ちょっと無理をするだけで、すぐかかってしまうぐらい、よくあるものなのだ。

 暑さから汗をかき、必要以上に体の中の水分がなくなるからだそうで、この病の症状が現れたら、しばらく日陰で休み、水分を摂れば、すぐによくなるのだ。

 だから、改めてノークが発した 〝日差しと水の病〟 という病名が信じられなかった。どう見ても、あたしが知ってる症状とは大きく違っていたからだ。しかも、危険な状態となれば、尚更 信じられない。

 〝でも…〟 の後に言葉が続かないでいると、その心境を察したかのように、ノークは更に話を続けた。

「日差しと水の病は、あなた方も知ってのとおり、どんな人にもよく起きるものです。そして、その症状が現れたら、水を飲んだり、日陰で休めばすぐによくなることも、よく知っていることでしょう。ただ…よくある病、そして、簡単に治ってしまう病は、どうしても軽く見られがちです。それ故に、処置が遅れやすく、危険な状態になってしまうことがあるのも、また、事実なんですよ」

 〝残念ながらね…〟

 ──そんな言葉を付け足すように、小さな息を吐いた。

「……で、でも…助かるんでしょう? 水を飲ませて、しばらく休めば──」

 〝危険な状態だ〟 と言われても、処置さえすれば大丈夫のはずだ。──いや、そう思いたい。

 〝ええ。もちろん、大丈夫です〟

 その言葉が聞きたくて問いかけたミュエリだったが、最後まで言い終わらないうちに、ノークの視線が床に落とされた。

「ノー…クさん…?」

「すみません、今はなんとも…。少しでも意識があれば、水分補給も可能なんですが、彼の場合、その肝心な意識がないんです。意識がない時に水分を与えれば、二次的な病…つまり、肺の病を引き起こす可能性があるのです。あの時は倒れた直後でしたので、せめて一口でも…と思い飲ませましたが、必要量を飲ませることは無理です。この先、病の技術が進歩すれば、他に方法があるのかもしれません。けれど、今は口から水分を補給するしか手がなくて……もしこのまま、意識が戻らず、水分補給が出来ないとなると──」

 そこまで言うと、ノークは一旦、言葉を切った。そして、一呼吸置くと、言いにくそうに口を開いた。

「──命を…落とすことになります」

「────ッ!!」

 足元が、揺れた…。

 〝危険な状態〟 というのが、どういう事を示しているのかは、よく分かっていた。けれど、〝命を落とす〟 とハッキリ言われると、やっぱり、受けるショックは大きい。

 すぐ後ろで、〝そんな…〟 という声が聞こえたかと思うと、そのまま意識を失ったらしく、振り返った時には、ネオスがミュエリの体を支えている所だった。

「ミュ…エリ…」

 思わず、震える足に力を入れた。

 もし、ここにミュエリがいなかったら──いや、それよりも、あと数秒、意識を失うのが遅かったら──この場で倒れていたのは、あたしの方だったかもしれない。

 誰かが倒れることを予想していたのか、それとも、今までの経験からか…すぐ傍にいたラピスは慌てることなく、ミュエリをベッドに寝かせるよう、ネオスに指示した。

 半ば呆然と その様子を見ていたのだが、血の気を失ったミュエリの顔を見た途端、妙に冷静さを取り戻した。

 これじゃぁ、ダメだ。しっかりしなきゃ…あたしがしっかりしなきゃ…そう、思ったのだ。

「あ、あの…」

「はい」

「どう、すればいいんですか? あたしに出来ることがあれば、なんでもします。何か、方法があるなら教えてください」

「それは…」

「お願いします、ノークさん」

 〝何かしてないと、耐えられない…〟

 それが、本音だろう。なんでもいい、とにかく何かをしていたかった。

 けれど、ノークから返ってきた言葉は──

「待つしか、ないんです」

 ──だった。そして更に続ける。

「私たちが出来ることは、一刻も早く、彼の体温を下げることです。氷で体を冷やして…そして、ただ、待つのみなんですよ」

「待つ、のみ…」

「ええ。体温が下がれば、意識が戻る可能性も出てくるかもしれません。それに賭けるしかないんです…」

「賭けるって…そんなに、可能性の低いことなんですか?」

 その質問に、ノークは静かに頷いた。

「どう…して…?」

「体力が、問題なんです。倒れてすぐなら、まだ、かろうじて体力も意識もあります。でも、彼の場合、倒れてから発見されるまでに、長時間かかった時のように、全く意識がなかった…。倒れてからすぐ駆けつけたのに、そこまで意識がないという事は、かなり、ギリギリまで我慢していたんでしょう。それに、ここ何日か、まともに食事もしていなかったようにも思います」

「────!!」

 まるで、頬をぶたれたような気がした…。

 言われて、ここ数日、ラディの様子がおかしかった事に、ようやく気付いたのだ。

 そういえば、いつからだろう?

 〝暑くて寝られない〟

 そう言って、まともに朝ごはんも食べず、寝るようになっていたのは。昼も、夜も…食欲がなく、あたしは、ちょっとした夏バテぐらいにしか、考えていなかった…。

 ──ううん。本当の事を言えば、それ以上、考えられなかったのだ。自分のことで精一杯で…。

 その結果、倒れるまで歩かせてしまった……。

「高熱は、体力を奪っていきます。体温が下がっても、今残されている体力が、更に奪われるのは、間違いありません。その状態で、意識が戻るかどうか…それが、問題なんです」

 ノークの声が、心なしか遠くに聞こえる。

 やっぱり…あたしのせいだ…。

 あたしが、しっかりしてないから…。自分のことしか考えられなかったから、こんなことになったんだ…。

 あたしの旅なのに、ラディたちを巻き込んだ上、命を危険にさらさせるなんて…。ああ…なんて、あたしはバカなの…!?

 情けなくて、申し訳なくて…涙が溢れてくる。

「ルフェラ──」

「ノー…クさん…」

 何かを言おうとしたネオスの言葉を、あたしは咄嗟に遮った。

 ダメだ…。どんな言葉であれ、ネオスが放つ言葉に、あたしはきっと甘えてしまう。

「ノークさん…ラディに、会わせてくれませんか?」

「え…?」

「お願いします。ラディに、会わせてください」

「でも…会っても意識は──」

「分かってます…。でも、あたしジッとして…られない……」

 それ以上の理由は見つからなかった。待つしかないと言われても、ラディのいない この部屋で待つなんてできない。すぐに、変化は見られないかもしれないし、何もできないかもしれない。でも、状況が分からないのは、不安でたまらないものだ。せめて、一緒の部屋にいさせて欲しい。わずかな変化も見逃さないから…。

 そんな思いが募り、言葉にもできなくなっていると、ノークの手があたしの肩に触れた。

「──分かりました。では一緒に来てください」

 そっと 背中を押され、それまで立ち尽くしていたあたしの足が、力なく動く。そのあとに、ネオスとイオータが続いた。

 ラピスは、ミュエリが目覚めた時、誰もいないのは不安だろうから…という事で、その場に残った。

 さっき歩いたローカを戻り、玄関近くで左に曲がると、突き当りが、その部屋だった。

 急患とはいえ、待つしかないからなのか、部屋の前に来ても、とても静かだった。

 ノークが引き戸を開けると、先にあたし達を通してくれた。中にいた女性が一瞬驚いていたものの、あたし達のすぐ後ろから、ノークが入ってくるのを見つけたからなのか、彼女は小さく頭を下げた。

「今は、体温が下がるのを待つしかないということなので、つい先ほど、先生は診察部屋にお戻りになりました。また、診察の合間を見ながら、様子を見に来ると思いますが…」

 その説明は、ノークとあたし達のどちらにしたものなのか、分からなかった。もしかしたら、その両方だったのかもしれないが、今のあたしには、正直、どうでもいいことだ。それより、看病する人が一人だけという事が、本当に 〝待つしかないんだ〟 と思わせ、なんだか、無力感で一杯になってしまった。そして、ベッドの上で苦しそうな呼吸をしているラディを目にすると、今度は、想像以上の状況に驚かされた。

 薄い布が被せられ、体のあちこちに、氷の詰められた袋が置かれていたのだ。まるで、氷に埋もれているようだった。

「体を冷やすには、太い血管が走っている場所…つまり、首や脇の下、それから太ももの付け根を冷やすのが効果的なんです。あとは、直接、体に触れないにしても、冷やされた空気が当たるように、体の周りに氷を置いています」

「そ…うですか…」

 驚いているあたし達に、ノークが説明してくれたのだが、それ以上は何も言えなかった。

 ラディの枕元に近づき、改めて彼の顔を覗いてみる。顔の紅潮も、浅く早い呼吸も変わらなかった。次いで、恐る恐る頬に手を当ててみたのだが、やはり、最初に触れた時の熱さと、なんら変わっていなかった。

 こんなに沢山の氷に埋もれているのに、まるで その効果がないなんて…。

「ラ…ディ…?」

 耳元で名前を呼びながら、彼の表情を窺う。

 もちろん、反応はなかった。

「ラディ…聞こえる? ルフェラよ…」

 苦しそうな息づかい…ただ、それだけが続く。

 分かってる…意識がないのは分かってる。でも、やっぱり、反応が欲しい。なんでもいい…何かひとつ、反応がほしいのだ。

 喋らなくてもいい、目を開けなくてもいい…睫毛だけでもいから、あたしの声に反応してよ…ラディ…。

 お願い…!

 強い願いから、自分の手に力がこもる。

「ラディ…ホントは聞こえてるんでしょ…ねぇ、ラディ…。あたしの声、ちゃんと聞こえてるんでしょ…ねぇ…?」

「ルフェラ…」

 何一つ反応がなく、自分でも、気持ちが高ぶってくるのが分かった。それに気付いて、ネオスが止めようとしたのだが、あたしの中で、何かものすごい恐怖が湧き上がってきた。

 苦しそうだけど、息もしている。生きているのに、反応がないからか、〝死〟 という恐怖が襲ってきたのだ。まるで、もう、既に大事な何かを失った…そんな、恐怖感。

 な、に…この恐怖感は…?

 体中が震えてくる…。

「ラ…ディ…? 目を…開けてよ…。あ、あんたは…こんな小さな病で死ぬヤツじゃないでしょ…? ねぇ…こ、んな…こんなことで死んだら…許さないわよ…。ねぇ、聞いてるの…ねぇってば…起きなさいよ!」

「ちょっと、あなた──」

「ルフェラ、やめるんだ──」

「い…やよ──」

 止めようとする女性やネオスの腕を振り払うと、あたしは、無我夢中でラディの頬を叩き、肩を掴んで荒々しく揺らし始めた。

 なん…なの…?

 もう…押さえられない…。

 そして、次の瞬間には、恐怖感に突き動かされるように、叫んでいた。

「ラディ、起きなさい! 起きて、水を飲んでよ!! じゃないと、あんた死ぬのよ!? ──ちょっ…やめてよ…放して…!! ──ラディ!! いいの!? ねぇ、それでもいいの!? よくないでしょ!? そんなことで死んでみなさいよ、大口開けて笑ってやるから!! それが悔しかったら、起きなさい! 目を開けなさいってば!! また、あたしを一人にしたら許さないんだから!! 聞こえてるんでしょ、ラディ──」

 止める彼らの手を払いのけ、もがきながらも、ラディの体を荒々しく揺さぶる。そんな時、急にものすごい勢いで、体をグイッと引っ張られた。──かと思うと、途端に、強烈な衝撃が左頬に走った。いきなりの事で、すぐには把握できなかったが、次第に頬がジンジンと痺れてくると、ようやく、叩かれたんだと分かった。

 目の前には、怒りに満ちたイオータの顔があった。掴まれた右腕にも痛みが走る。かなりの力が入っていた。

「あ……」

「いい加減にしろよ!!」

 腕と頬の痛み…それから、イオータの強い口調が、あたしの正気を取り戻させた。

 恐る恐る部屋を見渡せば、女性がラディの容態を気遣いながら、床に落ちた氷や乱れた布団を直していた。敢えて、あたしの方を見ようとはしない。

 ノークは、突然のあたしの行動に驚いている様子だった。その傍では、辛そうな顔をしたネオスが立ちすくんでいる。

「…ご…めん…なさい…」

 その一言を言うのがやっとだった。

「悪かったな…オレら、部屋に戻るわ」

 ノークと女性にそう言い残すと、イオータは、あたしの腕を掴んだまま、引っ張るようにその部屋を出て行った。

 未だ体の震えが治まらず、思うように歩けない。けれど、イオータはそんな事は承知の上だとでも言うように、強引に引っ張っていく。何度か転びそうになりながらも、時々、後ろを歩くネオスに助けられ、もとの部屋に連れてこられた。そして、入り口近くのベッドに荒っぽく座らされると、イオータが目の前で仁王立ちになった。

「まぁ…どうしたんですか、そんな──」

「おい…あんた何やったか分かってんのか?」

 あたし達の様子に驚いたラピスが声をかけたが、イオータはその言葉を遮った。

「危険な状態だって言ってんのに、何やってんだよ…!?」

 もう一度、叩かれそうなほどの勢いに、あたしは、ただただ身をすくませるしかなかった。わずかだが、体の震えも、止まらない…。でも、イオータに怒られている、そんな恐怖の震えではなかった。

「おい、聞いてんのかよ!?」

「……………」

「なぁ──」

「イオータ、僕が…」

 あたしの態度を見かねたのか、ネオスが口を挟んだ。イオータは、数秒 無言だったが、溜め息をつくと、別のベッドにドッカと腰を下ろしてしまった。交代したネオスが、あたしの隣に腰掛ける。

「ルフェ──」

「…分…からないの…」

 ネオスの手が肩に触れた途端、〝どうして?〟 と聞かれる前に、声を出していた。

「自…分でも分からない…分からないけど…ラディを見てたら急に怖くなった……どうしようもなく怖くなって…気が付いたらあんな事……! 自分でも止められなくなって……どうしてか…分からない…」

 喋りながら、涙が溢れてきた。

 自分じゃない自分がいた時もそうだけど、自分の事が分からなくなっている。コントロールできない何かが、あたしの中にあるのだ…。

「ご…めん……ごめんなさい…あたし…ほんとに、あんなことするつもりじゃ──」

「分かった。分かったよ、ルフェラ。もういいから、落ち着いて──」

 震えを止め、落ち着かせようと、ネオスはあたしを抱き寄せた。肩に触れていた手が背中で優しく上下する。

 耳元で、もういいからと何度も囁かれ、次第に、落ち着きを取り戻し始めた。

 そんな時だった。不意に、ラピスの声が聞こえてきた。

「さぁ、どうぞ?」

 その声に顔を上げると、いつの間にこの部屋を出て行ったのか、お盆に陶器のコップを乗せ、戻ってきたところだった。

「気が動転したのよね? 大丈夫、誰にでもあることよ。──さぁ、これを飲むといいわ。温かいし、香りもそうだけど、気持ちが落ち着く成分も入ってるの」

 柔らかな笑みで そう言うと、ラピスは一人一人にそのコップを渡し始めた。

 ネオスに渡す時は、なにやら耳元で囁いたようだが、あたしには聞こえなかった。

 受け取ったコップを鼻に近づけると、ほのかに甘い香りがした。しばらく、その匂いが鼻の奥でも留まっているが、きつくないからか、とても心地よい。覚えのある香りだけど、考えられるほどの余裕はまだないらしい。

 一口、くちに含ませゆっくりと飲み込んでみる。香りと同じく、ほのかに甘かった。でも、後味はすっきりしている。

 美味しい…。

 〝落ち着く〟 と言われたからか、半分ほど飲むと、思考回路がボンヤリとしてきた。体も温かいし、ふわふわする…。

 あたし…眠くなってきたのかしら…?

 こんな時…なのに……?

 まぶたが重くなると、次第にあたしの視界が狭まっていった。そして、最後に大きく体が揺れたかと思うと、瞬く間に、あたしの意識は遠くへ飛んだ…。

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