11 竜巻の中で…
六、七歳の男の子が見覚えのある門の前に立っていた。ツヤのある髪と瞳は綺麗な緑色。何をするでもなくジッと門を見ていると、中から四十代半ばの男性が出てきた。男性は少し中腰になって話しかけた。
「どうした、ボク? ここに何か御用かな?」
男の子は黙ったまま首を横に振った。
「…フム。では、お父さんかお母さんは…?」
男の子は、また首を振った。
「ボク、一人かい?」
男の子は、首を縦に振った。
「そうか…。えっと、それでボクはどうしてここにいるのかな?」
男性が少し困ったように尋ねたその時、
「セト! ──あぁ、良かった。またここにいたのね?」
男の子を見つけた若い女性が走り寄ってきた。
「すみません…。ちょっと目を離した隙に抜け出しちゃって…」
「あぁ、そうでしたか。それは心配でしたね。──セト君、と言ったかな。良かったね、お母さんが見つけてくれて」
セトに向かってにっこりと微笑むと、代わりに答えたのは女性の方だった。
「い、いえ、違うんですよ…」
「うん…?」
「私は…色んな事情で身寄りのない子供たちが集まる施設で働いているんです。セトも、その面倒を見る子供たちの一人で…」
「身寄りのない子供たち…?」
「事故や病気で両親を亡くしたり、暴力を振るう親から子供を守る為に止むを得ず引き取ったり……色々事情があって一人になった子たちが集まって生活する場所なんです」
「では、この子も…?」
「えぇ、多分…」
「多分?」
「セトは、半年くらい前に突然現れたんです。施設の門のところに立っていて、どうしたのかと聞くと〝お父さんとお母さんがいないんだ〟と。最初は迷子かと思ったのですが、どう聞いても〝最初からいない〟の一点張りで…。どこから来たのか、今までどこにいたのか…色々聞いてはみたのですが、自分の名前がセトという以外は全く分からないみたいなんです。両親を探したくても手掛かりはないし、これから寒くなるのでそのまま一緒に住もうって事になって…」
「そうでしたか…」
「最近は一人で抜け出す事が多くて、何故かいつもここに来ているんですよ。──どうしてかしら、ねぇ?」
最後の質問はセトに向けていた。少し俯き加減のまま黙るセトに、今度は男性が聞いた。
「何か気になるのかな?」
その質問に、セトが頷いた。
「何が気になる?」
「…エデ…」
「うん?」
「カエデ…」
「楓…裏庭にある楓かい?」
セトが頷いた。
「楓が好きなのか?」
「…好き」
「そうか。じゃぁ、見てみるかい?」
その言葉に、セトの顔が〝ぱぁ〜っ〟と明るくなった。緑の瞳がより一層輝き、吸い込まれそうな美しさだ。
「い、いいの!?」
「もちろん。さぁ、おいで」
男性が招き入れるように手を出すと、セトは当たり前のようにその手を掴んだ。一瞬驚いた男性だったが、すぐににっこりと微笑んでセトの手を握り返すと、そのまま裏庭へと案内した。
裏庭には、実がなる前の野菜が青々としていた。その奥の隅の方に立派な楓の木がある。セトは野菜畑を慎重に抜けると、そこを目掛けて走って行った。そして自分の両手を広げても足らない楓の木に抱きついた。
「すごい…すごいよ…。こんなに温かいなんて…まるでお父さんとお母さんみたいだ…」
普通の人にとって、それはとても理解できるような言葉ではなかったが、男性は違うようだった。困ったように笑う女性の傍で、男性はセトが握っていた自分の手を見つめていた。そして再び木に抱きつきとても幸せそうなセトの顔を目にして、何かを決めたようにグッとその手を握りしめセトに問いかけた。
「ここに住むかい?」
その言葉にセトも女性も驚いた。でもセトの驚きは女性ほどではなかった。
「い…いいの…?」
「私達の息子になるって事だけど、それでもいいかい?」
「それって…僕のお父さんとお母さんになってくれるって事…?」
「あぁ。君の親としてはちょっと老けてるけどね」
男性がそう言って笑うと、セトは大きく首を振った。そして、今度は女性の方を見て聞いた。
「そうしても、いい…?」
セトの言葉に、ようやく女性が声を出した。
「あ…いや…きゅ、急で何て言ったらいいか…え、でもどうして─…」
子供一人を預かるのとはわけが違う。自分の子として面倒を見るという決断をするにはあまりにも急過ぎて理解ができなかったのだ。
男性は、女性を落ち着かせるようにゆっくりと口を開いた。
「私達夫婦には子供がいないんですよ。私も妻も子供が大好きで、結婚した時からずっと子供はたくさん欲しいと話していた。けれど、何故か一人もできなくてね…お互い辛い時期を過ごした時もありました。でもある程度歳をとると諦めるようになって、このまま二人で過ごす事を覚悟したのです。でも今日初めてあの子と会って、手を繋いだ瞬間、何か物凄く心が温かくなりました。両親の温もりをあの木に感じ、その木がここにあるのだとしたら…何か運命のようなものを感じましてね…」
「……………」
「すみません、突然こんな話を持ち出してしまって…」
「い、いえ…」
「もちろん、手続が必要ならそれをちゃんと経ます。ですからどうか、あの子を私達の子として育てさせてもらえませんか?」
頭を下げてお願いする男性に、女性は慌てて首を振った。
「いえ、そんな…顔をあげてください…。こんな立派なお家だし…本人同士がそれで良ければ私達が反対する理由はないわけで……」
「本当ですか!?」
「え、えぇ…でもみんなにも知らせないといけないですし…後日、正式に伺わせてもらう形になると思いますが…」
「えぇ、もちろん! その間に、私達もあの子に必要なものを揃えておきますよ!」
初めて会った時とは大違い。途中から、出掛けていた男性の妻が帰ってきて事情を知ると、泣いて喜んでいた。
後日、セトは正式に男性夫婦の息子となった。そして時々は施設のみんなが家に遊びに来る事を提案し、その施設への援助も申し出たのだった。
幼少期のセトは、よく笑っていた。毎日がとても幸せそうで、外を出歩いては、村の人とよく話をした。その方が本を読むよりずっと楽しかったのだ。嬉しい事も腹の立つ事も悲しい事も…そこには、嘘偽りない物語があり、それを知るたびその人の事がどんどん好きになる。村人もまた、そんなセトの事が好きになっていった。
「セトは、本当にみんなの事が好きなのね」
「うん。みんな、すご〜く愛おしんだ」
「愛お─…」
その言葉に母親は驚いた。けれど、少し可笑しそうに笑った。
「その年で愛おしいなんて…あなたはいくつなのかしら?」
「もう、十歳だよ」
「もう?」
そこでまた母親が笑った。
「…へん?」
「そうねぇ。十歳はもうじゃなくて、まだって言うのよ。でもとても大好きで、とても大事にしたいっていう気持ちは素晴らしいわ」
母親の言葉に、セトは喜んだ。
「みんな家族みたいなんだ。だから、みんなを守りたいって思う。父さんと母さんだって同じだよ。とっても大事な人だから」
「ありがとう。でも、それは私達も同じよ。あなたの事がとっても大事だから、何があっても守るわ」
優しい微笑みと〝絶対に〟という強い意志が、セトの心に伝わってきた。
「母さん…」
セトは嬉しさと愛おしさで母親に抱きついた。そして心の中で誓った。
(僕が守る。父さん、母さん、村の人たちみんな…この村の全てを僕が守るんだ)
そんな誓いを立てた数年後、セトはある棺の前に立っていた。そこに眠っているのは、死んでいるとは思えないくらいとても綺麗な顔をしている母親だった。
数日前の夜中、セトは突然鳴り響いた雷鳴に目を覚ました。雨音はしていなかったが、もうすぐ降るという匂いは感じられた。そして稲光が辺りを照らした時、楓のすぐそばに人の姿が浮かんだのに気付いた。
──男だ。
普通ならこんな夜中に、しかも見知らぬ男が自分の家の裏庭にいたら驚く。だが、セトは何故か〝会わなければ…〟と思った。見知らぬ男ではあるが、何か自分と近い感じがしたからだ。
セトは両親に気付かれないようそっと裏庭に出ると、その男に近付いていった。稲光が光るたび、男の容姿もハッキリと見えてくる。白い髪は短髪で立ち上がり、瞳は金色に近い黄色をしていた。組んだ腕は筋肉質で、立ち姿だけでもサマになる格好良さがあった。
楓を見上げている男の横顔が、セトに気付いてゆっくりと動いた。
「やっと会えたな、ボウズ」
「…………」
「いや、相棒か…」
男が言い直した。
「相棒…?」
「枝葉同士、オレとお前とでコンビを組むんだ。ずーっと待ってたんだぜ、この日が来るのをよ?」
「僕を…?」
「あぁ。まぁ、しいて言えば若い女が良かったけどな」
冗談か否か、男はそう言って笑った。
「でもまぁ、やっと相棒ができるんだ。これ以上は何も望まないさ」
〝やっと〟という言葉通り晴れやかな顔をする男とは対照的に、セトは何かを考えるように硬い表情をしていた。
「どうした、何か不満か?」
「不満…というか、分からないんだ…。あなたが誰で、どうして僕が相棒なのか…。でも全然知らないわけじゃない。ただ、何か忘れてるような気がして……」
「あ〜…」
セトの説明に、男は〝そういう事か〟と納得した。自分が何者なのか、まだハッキリと分かっていないんだ、と。
「お前は、自分がこの村の守り神だって事は分かってんだよな?」
セトは頷いた。
「じゃぁ、誰の使いかは?」
セトは首を横に振った。
「そうか、じゃぁ教えてやる。お前は風神が使わせた分身─…つまり、枝葉だ」
「僕が風神の…?」
「あぁ。そしてオレもまた、ある神がお前の相棒にと使わせた枝葉なんだ。そこまで言えば分かるだろ?」
「僕が風神の枝葉で、あなたが僕の相棒って事は──」
その先の言葉を口にする前に、男が〝そうだ〟と頷いた。そして雨を確かめるような手の動きをしたかと思うと、その手の平に刺々しく光る紐のようなものが現れた。よく見ると紐の先に目のようなものがあり、その瞬間、セトはそれが何なのか分かった。
「オレの名前はヴィオ。ら──」
「セト…!」
突然、母親の叫ぶ声が聞こえ、ヴィオの言葉が途切れた。二人同時に声のした方を見ると、母親が血相を変えて走って来るところだった。しかも、裸足だ。
「セト、そこから離れて! 早くっ!!」
初めて見る母親の切羽詰まった表情と声に、セトはわけが分からず、思わず母親の言う通りにしていた。その場から離れたセトを母親が男から守るように抱きしめる。
「母さ──」
「大丈夫よ、セト。母さんが守るから─…」
そう言うと、男をキッと睨みつけた。
「こんな夜中にどうやってここに入ったのか知らないけど、この子に何かしたら母親の私が許さないわよ! 早く…早く出て行って!!」
「あ…母さん、違っ──」
「やめとけ」
母親が誰から自分を守ろうとしているのかを知り、慌てて説明しようすれば、冷静な口調で止めたのはヴィオだった。
「言ったところで理解できることじゃないさ。ま、今日のところはこれで帰る。用があったらそいつを使え」
それだけ言うと、母親の声を聞きつけて駆け寄ってきた父親をチラリと見てから、稲光と共に消えてしまった。
目の前の光景に驚く二人。だが、セトの肩の近くで浮かぶ光の紐のようなものを目にした母親は、すぐにそれを追い払おうと手を出した。
「ダメだ! 母さん、それに触っちゃ──」
セトが最後まで言い終わらないうちに、母親の悲鳴は甲高い雷鳴と共にかき消された。気が付くと、その体は楓の木がある壁まで飛ばされていて、ヴィオが〝そいつ〟と言った光の紐のようなものも消えていた。
「か、母さん…!? 母さん…! 母さん──…!!」
(守れな…かった…僕が守るって誓ったのに……。僕のせいで母さんが…母さん、ごめん…。ごめんね…母…さん…)
心の中で謝りながら、今にも目を覚ましそうな母親の顔に手を伸ばせば、触らなければ分からなかった冷たさに涙が溢れて止まらなくなった──
母親を失ったセトからは、それまでのような笑顔が消えた。家の外に出て村の人たちと話す事もなくなり、唯一の繋がりがあったのは施設の子供達の訪問だけだった。ただそれも、セトが二十歳を過ぎると部屋に引きこもり顔を合わせない事が多くなった。父親はそんなセトを心配し色々と手を尽くしたが、閉じたセトの心を開かせる事はできなかった。
何も変わらないまま年月だけが過ぎていく…。
そして父親も老いを感じるようになった頃、突然一人の少女が屋敷を訪ねてきた。
年は十四・五歳といったところだろうか。肩まで伸びた黒髪がよく似合っていて、右の目尻にある小さなホクロが何とも儚げに見えた。聞けば、ここで働きたいと言う。理由は施設のみんながこの家に訪問した時に、塞ぎ込んでいるセトを目にして〝いつか自分がセト様を元気にして差し上げたい〟と思ったのだそうだ。老いを感じていた父親は、最後の望みとしてその少女にセトを託す事にした。
「初めまして。今日からここで働く事になったセセラです」
「…………?」
セトはわけが分からず、すぐには何も言えなかった。父親は大地主ではあったが、今まで人を雇うような生活はしておらず、故になぜ急に人を雇ったのか理解できなかったからだ。
「…なぜ、ここに?」
ようやく口にすれば、セセラは穏やかな笑みを浮かべてこう言った。
「セト様を笑顔にしたいからです」
「……………!」
儚げな見た目とは違い、優しく、だけどどこか芯のあるその少女に、セトは何か心穏やかになるものを感じたようだった。
それから数ヶ月が経ち、セセラの存在は塞ぎがちだったセトの心を少しずつ救いあげていた。父親以外ほとんど関わろうとしなかったセトが、セセラとはよく話すようになったのだ。
「セト様は、どうして外に行かれないのですか?」
その質問に、セトは少し間を置いて答えた。
「人をね…あまり知りたくないんだ…」
「それって…人が嫌いって事ですか…?」
そうだとしたら悲しい…そんな思いが伝わってくる。
セトは〝いや〟と首を振った。
「その逆だ…」
「逆…?」
「人と関われば関わるほど、その人を知り愛おしくなる…。それが辛いのだ」
セトの答えに、セセラは困惑した。愛おしくなる事が辛い…その意味するところが分からなかったからだ。
「…ごめんなさい、セト様。私はまだまだ子供みたいです…」
理解できない事をそう言うと、セトは一瞬目を丸くして、それから笑った。
「…え? あ…わ、私なにか変なこと言いました…?」
「いいや、そうではない。ただ、ちょっと意外だったのだ。そんな風に返ってくるとは思わなかったから…」
「そうですか…?」
「あぁ。だから、セセラは大人だよ。少なくとも、私の話を肯定も否定もせず受け止めてくれるくらいにはね。そして、とても素直だ」
「セト様…」
「よし。そんなセセラに、ひとつ私の秘密を教えてあげよう」
「秘密…?」
「私が外に行かないもうひとつの理由だ。──聞きたいか?」
セセラは大きく頷いた。真剣な目が、単なる興味本位からくるものではないと分かる。セトもそれを感じていた。そして秘密を知った時に、セセラがどう反応するのか知りたいと思った。
「実はね…私は二十歳を過ぎると、時間の早さがみんなと変わるんだよ」
「それってどういう…?」
「遅いのだ。みんなと比べると遥かに遅くなる。簡単に言えば、みんなと同じ年月を過ごしても、私だけ年を取らない…そんな風に見えるんだよ」
セトの説明を、セセラは一生懸命理解しようと心の中で繰り返していた。
時間の流れ方が人と違う─…
普通ではありえない事だが、あるのだとしたら…と考えたのだ。しばらくして、セセラが口を開いた。
「セ、セト様は若く見えるけど…ひょっとして、おじい様くらいの年数生きているなんて事は……」
「おじー…」
思わぬ言葉に同じ言葉を繰り返しそうになったが、すぐに〝あははは〟と笑い出した。
「だ、だって…年を取らないという事はその可能性も──」
「あぁ。あぁ、そうだ。間違ってはいないな。でも流石に私もまだその年数は生きていないよ。二十歳を迎えたのは、セセラの年月でいうと数年前だ」
「そうなんですか? ──じゃぁ、私がセト様の年齢に近付くのもすぐですね!」
何故かとても嬉しそうに言うセセラを見て、セトは自分の心に新たな感情が芽生えたのを知った。
それから何年か経ち、セセラが二十歳になると、その感情は確かなものになっていた。
「セト様、ほら見てください。こんなに立派なお野菜が採れましたよ」
裏庭で採れた色んな野菜を抱えて、セセラが嬉しそうにセトに見せた。
「本当だ、すごいな。どれも美味しそうだ」
「でしょう? ほら、もうお腹が空いてきたんじゃありません?」
「あぁ。どうもこの赤いトマトを見ると惹かれてしまう」
「分かりました。じゃぁ、ひとつ切ってきますから一緒に食べましょう?」
「あぁ、いいね。──いや、やっぱり冷やしてからにしよう。この暑さだと、その方がずっと美味しいだろう」
「それもそうですね。…じゃぁ、冷やしている間に私は買い物に行ってきます。何か必要なものはありますか?」
「そうだな…。できれば、この暑さをしのげるものを」
「またそんな簡単なようで難しい要望を…」
「そうか?」
「そうですよ。食べ物とか、涼しく感じるものとか、実際に使って涼しくなるものとか…色々あるんですからね」
「…フム、確かに。では、セセラが欲しいものにしよう」
「私がですか?」
そう言ってしばらく考えると、
「分かりました。でも、文句は言わないでくださいね?」
「あぁ、もちろん」
セトは優しく微笑むと、〝楽しみにしているよ〟と付け足しセセラを見送った。
そして──
いつもより時間が掛かった買い物でセセラが買ってきたのは、赤く色付いた美しい楓の葉が描かれた扇だった。
(楓…か。そう言えば、私は風神の使いだったな…)
偶然にも風神が扱う扇を手にしたことで、自分が何の使いであるかを思い出したセト。同時にそれを思い出させてくれたセセラが、自分にとってかけがえのない存在になっている事を確信した。
セトは、極自然にセセラを抱きしめた。
「セ、セト様…?」
「ありがとう、セセラ。お前は、私にとって救いの神だ…」
「救い─…? どうしたのですか、急に…?」
「…私は、今も自分の運命を受け入れられずにいる。村を…人々を守りたいと思いつつ、守れない現実が辛くて逃げているのだ。毎日のように、村のどこかで命の火が消えていくのも分かっていた。分かってはいたが、私にはどうする事もできなかった。それほど私は無力なのだよ。この村にいる意味すら見出せなくなるほどに…」
「あ…あの、セト様…? 私には言ってる意味がよく──」
抱きしめられた胸の中で見上げるセセラに、セトは〝分かっている〟と頷いた。
「理解できなくてもいい。ただ、もうしばらくこのまま私の話を聞いてはくれないか…?」
セトの腕が緩む気配はなく、セセラが〝分かりました〟と小さく頷けば、再び裏庭を眺めながらその続きを話し出した。
「そんな塞ぎ込んでいた私の前に、セセラ…お前が現れた。私を笑顔にしたい─…そう言った時は驚いたよ。それまで、笑顔にするのは私の役目だと思っていたからね。でもその私が笑顔でいられなくなっていた事に気付かされた…。そして同時に、セセラという存在が私を救ってくれるような気がしたのだ」
「…その私は、少しでもセト様のお力になれたのでしょうか…?」
心配そうにセセラが聞くと、セトはその額に口付けをした。
「少しどころではない。人々の命の火が消える苦痛の中にいても、その笑顔と会話に私の心は癒された。心穏やかに過ごせる日々が、どれほど私の救いになった事か…。もしセセラがいなければ、私はとうに過ちを犯し、今ここにはいなかっただろう。だからこそ、守りたいと思う。セセラと共に過ごす日々、そしてセセラが住むこの村を─…」
「セト様…」
「…だから頼む。これからもずっと、私の傍にいてくれないか? 私が己の運命を受け入れ、この村の守り神でいられるように─…私の傍にいて力になって欲しいのだ」
「あ…わ、私もずっとセト様のお傍にいたいと思っていました。でも、本当に私で良いのですか…?」
「他に誰がいる?」
「だって…私はすぐにセト様の年を追い越してしまうんですよ? お婆さんになっても、セト様は今とそう変わらないでしょうし…そんな私に幻滅する事だって…─────っ!?」
言いかけた言葉を遮ったのは、セトの唇だった。
初めての事に戸惑うセセラ。セトは構わず続けた。
「誓って、それはないと言おう。お前が私に幻滅する事はあったとしても、その逆はあり得ない。お前以外には考えられないし、お前でなければダメなのだ。だから、私と共に生きてくれ。たった一人…私が、生涯愛し続ける人として…」
「も…もちろん、私も愛し続けます…! そして、誓います! たとえ死んでも、またすぐに生まれ変わってセト様のところに戻ると…共に生きると…!!」
「あ…ぁ、セセラ…! 私の愛おしいセセラ…!」
セトは再び彼女の唇に自分の唇を重ねた。
村人に対するそれとは明らかに違う愛おしさが、セトの心を満たしていた──
それからのセトは、少しずつだが人の死に向き合えるようになった。セトにとって彼女の存在はとても大きく、父親が亡くなった時もその死を受け入れ乗り切ることができた。
守り神としての能力も徐々に開花していく。風を操る力は、村人たちの救いにもなった。時に重たい荷物を運ぶ人を後ろから押し、時に暑さをしのぐそよ風となり、時に恵みの雨をもたらし作物を育てた。村人の喜ぶ顔は更なる力を得る糧となる。そうして全てがうまく回り始めた時、それは突然起こった。
裏庭で野菜を収穫している時にセセラが倒れたのだ。すぐに医師を呼んで診てもらったが、返ってきたのは──
〝心の臓の病で、そう長くは持たないだろう…〟
──という、受け入れがたい言葉だった。症状を和らげる薬と〝できるだけ安静に…〟という言葉を残し帰って行った医師の背中に、セトは初めて飛刃を打ちたいという衝動に駆られた。けれどすぐに〝違う〟と否定した。
(私に力がないからだ…。宵の煌さえ得られれば、どんな病をも治すことができる。セセラだけでなく、村のみんなも助けることができるのだ。だからこそずっと欲しかった力なのに─…)
部屋に戻ったセトは、セセラの手を握りしめた。
「セセラ…お前は私が助ける。必ず助ける。だから心配するな、いいな?」
「セ…ト様…」
倒れたばかりで息苦しそうなセセラの声に、セトの胸は自責の念で押し潰されそうになった。
〝必ず助ける〟
──そう言いながら、本当は分かっていたからだ。力は欲しいと願って手に入れられるものではない事を。
(私の責任だ…私が自分の運命から逃げていたから──)
それでももし今この瞬間に宵の煌が目覚めたなら、最初の一粒の光さえ無駄にしたくないと、セトは長い間セセラの手を握り続けていた。
(風神の父よ、母よ…私に力をお貸し下さい…。今後、どんなに辛い試練でも決して逃げず、守り神として受け入れ乗り越えてみせます。ですからどうか…どうか、私に宵の煌が目覚めるよう力をお貸しください…!)
ただひたすらセセラを想い、宵の煌を目覚めさせる為に朝からずっと鍛錬を重ねていた。セセラが倒れてから毎日、毎日…。それでも左手から望んでいる光が見えてこず、堪らず風神の父と母に願いを乞うたのだ。そんな姿をセセラが見ていた。
「セト様…」
小さな声だったが、セトにはハッキリと聞こえた。
「セセラ…?」
声がした方を振り向くと、少し症状が良くなったのか、セセラが裏庭に面したローカに立っていた。
「セセラ…!」
思わずセセラに駆け寄ると、セトは優しく、だけど強く抱きしめた。
「セセラ、起きていて大丈夫なのか…? 胸は苦しくないのか?」
「えぇ、今日はとても体が楽なのです」
「そうか、それは良かった…」
言葉通り顔色も随分と良く、セトはホッと胸を撫で下ろした。そして裏庭を眺めるように二人でローカに座ると、セセラを自分の方に寄り掛からせた。
「セト様…」
「うん?」
「ひとつだけ、お願いがあります…」
「あぁ、なんだ?」
「死ぬ前に一度だけ…一度だけでいいのでセト様と結ばれたいのです…」
「───── !」
「自分の体の事はよく分かっています。そして、セト様が私の為に苦しんでいる事も…」
「な…にを言っている…? お前を助ける為に必要な苦しみなら、それは苦しみとは言わない。お前を失う事の方が私には耐え難い苦しみなのだ。だからあの力を得て──」
「いいえ、私が苦しいのです…」
「……………!?」
「私がここに来たのは、セト様を笑顔にしたかったからです。その思いは今も変わりません。それどころか、愛する人だからこそ更にその思いは強くなりました。でも、今のセト様は心からの笑顔が消えてしまいました。それが私には苦しいのです…」
「だ…だが、セセラ──」
「私は誓いました。たとえ死んでも、またすぐに生まれ変わってセト様のところに戻ってくる…と。離れるのは、生まれ変わるその一時だけですから。それに生まれ変わった私を見つける為にも、苦しみに耐えている暇はないかもしれませんよ?」
いつものように、少し冗談ぽく微笑んだセセラ。そんな彼女に、セトは小さく息を吐いた。
「お前は、いつの間にそんなに強くなったのだ…」
「さぁ、いつからでしょう?」
セセラが悪戯っぽく微笑んだ。
「でも、何故か分かるのです…。私は必ず生まれ変わって戻ってくる。生まれ変わって、今度こそセト様と共に生きる、と…。だから不思議と怖くないのです、死ぬ事が…」
「セセラ…」
「ただ…生まれ変わった私がセト様を覚えているかは分かりません。セト様と気付かず、他の人と一緒になるかもしれません。だから、忘れられないように刻み込んで欲しいのです。私の体、私の記憶に…セト様の──」
「分かった、もう何も言うな…」
最後まで言い終わらないうちにそう言うと、セトはセセラの唇を覆った。
「目を閉じても私だと分かるくらい、私の全てを刻み込もう…。セセラ…私の愛おしいセセラ…愛している、今までも…これからもずっと──」
セトとセセラが結ばれた瞬間から、村の風が止んだ。そして再び吹き始めたのは、それから一ヶ月後。セセラが息を引き取った直後だった。
セトは彼女を抱きしめ泣き崩れた。だから、セセラの口元から浮き出た淡い光がどこに行ったのかを見ていなかった。
セセラを失ったセトは三日間泣き続け、村も雨と風の嵐が三日間続いた。涙が枯れる頃、セトは左手から滲み出る青白い光に気付いた。何故に今…と腹立たしさを覚えたが、本当は分かっていた。愛するものを失った全ての経験が新たな力を目覚めさせたのだと。
(これでもう、誰も死なせはしない。愛するもの全てを守る─…。そして今度こそセセラ、お前を──)
セトは、すぐにセセラの生まれ変わりを探し始めた。そして彼女が亡くなった翌日に生まれた、リアンと名付けられた赤子の存在を知ったのだった。
それ以降、セトは自然に訪れる村人の死すら宵の煌を使って命を繋げていた…。
あとはリューイが話した通りだったが、ひとつの間違いと、ひとつの知らなかった事実が明らかになった。
ひとつは、大地主であるセトの父親は既に亡くなっていた為、温泉を探す計画を立てたのはセトだったという事。そして知らなかった事実は、リューイの命の火が消えそうになっている事に気付いたセトが、宵の煌を飛ばしリューイの命を救った事だった──
あぁ、と思った。
あぁ、そうか─…と。
実際は僅かな時間だったのだろうが、この長い長い物語を見て、あたしはようやく理解した。
この村に来る時からずっと感じていた、この息苦しさと胸の痛み。それはあたしの体の不調ではなく、彼に共鳴したものだったのだ。風の音が、それとは違うように聞こえたのもそう。あれは彼の心の叫び。そして飛刃やつむじ風、竜巻の中に混在したものは全て、彼の記憶と感情だったのだ─…と。
だから分かった。あたしが結界の中に入る事を許した理由が。
それを確信したのは、意識を取り戻す直前に聞こえた彼女の声だった──