7 タフィーとの再会 <2>
あたしは左手を口元に近付けると、優しくフゥ〜っと息を吹きかけた。手の平に積もっていた光の粒子は、冷たい空気の中で吐く息のように白く、そして流れるようにタフィーの元へ向かっていく。それが彼女の体にぶつかると煙のように広がり、所々にできる陰影がタフィーの姿を映し出したのだ。
そこで初めて、ラディの表情が変わった。
「は…!? え…な、なんで…タフィー!?」
突然ぼんやりと現れたタフィーの姿に、思わずあたしの顔を見る。
〝オレにも見える! 何でだ!?〟
驚きのあまり声には出なかったが、ラディの目はそう言っていた。でもすぐに、落ち着いているあたしの表情と左手からタフィーに向かって流れてくる光の粒子を目にして──それが何かは別として──見えた理由には納得したようだった。
「話してみて」
あたしは、そう声を掛けた。どちらから…というのではなく、〝直接二人で話をしてみて〟という意味で。その言葉に、ラディがふと我に返った。
「…あ…タフィー…えっとな──」
「お願い! お兄ちゃんを助けてあげて!!」
「え…?」
タフィーがラディの言葉を遮って叫んだ。突然の大声にはもちろん、ラディは自分が想像していた言葉でなかったことに驚いた。言っている意味が理解できず、聞き返すことすらできなかったが、タフィーは構わず続けた。
「あたしが悪いの…。あの日、お兄ちゃんの言うことを聞かなかったから…お兄ちゃんはしゃべれなくなって…ラディお兄ちゃんまで──」
「や…ちょ、ちょっと待ってくれ、タフィー。何言ってんだ? 悪いのはオレだろ? クレイが喋れなくなったのだって、オレが釣りにさえ出かけなかったら──」
「違うの…!」
「……………!?」
タフィーはもう一度否定した。
「違うの…」
「ちが…うって─…」
「ラディお兄ちゃんもクレイお兄ちゃんも悪くない…。悪いのは言う事を聞かなかったあたしなんだもん…」
「…あ、あ〜…えっと…にーちゃん、バカだからかな…? 言ってる意味がよく分かんなくって─…その…最初から話してくれるか…?」
ミュエリから〝バカ〟と言われたら怒るラディも、妹には自ら〝バカだから〟と言う。その姿は、タフィーが生きている時の〝お兄ちゃん〟そのものなんだろう、と思えた。
目に涙を溜めたタフィーに、〝な?〟と言ってニッコリと笑みを向けると、タフィーはグイッと袖口で涙を拭った。
「…あたしね…お花が欲しかったの…」
「あぁ、それは知ってるさ。だからあの時オレがいたら──」
「そうじゃないの…」
「うん…?」
「あたしは…ラディお兄ちゃんにあげるお花が欲しかったの」
「……………!?」
「あの日、お兄ちゃんのお誕生日だったから…」
「……………!」
「あたしね、お兄ちゃんが大好きだったの。優しくて面白くて、いつも一緒に遊んでくれて…毎日すごく楽しかった…。だから、クレイお兄ちゃんに相談したの。ラディお兄ちゃんだったら、何が一番喜ぶかな…って…」
「まさか、それでクレイが〝花〟って言ったのか…? でもオレは──」
言いかけたところで、タフィーが首を振った。
「お花をあげたいって言ったのはあたしなの。でも、こんな季節にお花は咲いてないから別のものにしようって…。それに、あたしがあげるものなら、ラディお兄ちゃんは何だって喜んでくれるよ、って言われて…」
「あぁ、そうさ。その通りだ。タフィーから貰えるものなら、にーちゃん、みんなに自慢するくらい喜ぶぞ?」
ラディの言葉に、タフィーは少し照れたように頷いた。
「…だからね、色々と考えたの。お兄ちゃんの似顔絵とか、〝だいすき!〟って書いたお手紙とか、お魚釣りに行く時に持っていくお守りを作ってみようかなー…とか…」
ラディは、そのどれもが嬉しいと頷きながら聞いていた。が、タフィーはすぐに〝でも…〟と続けた。
「やっぱり、お花が良かったの…」
「…何で?」
「だって、お花は大好きな人を幸せにするんでしょ?」
「……………?」
「お父さんがお母さんにお花をあげると、お母さん、すっごく幸せな顔してたもん。あたしもお兄ちゃんが大好きだから、幸せな顔にしたかったの。だから、お花を見つけた時はすごく嬉しかった…。すぐにクレイのお兄ちゃんに〝お花を見つけたよ!〟って言いに行ったら、危ないから採ろうとしちゃダメだよって…。あたし…その時は〝うん〟って言ったの。言ったんだけど、どうしても欲しくて…それで…それで─…」
そこまで聞いて、あたしはようやく理解した。自分が悪いと言った理由と、誰の言うことを聞かなかったのか、を。そして同時に、タフィーの話が映像となって脳裏に浮かんできた。
──いや、そう思ったがすぐに違うと気付いた。
タフィーが話す光景じゃない。これは…似てるけど違う光景だ。
木の間、その下の方に見えた一輪の花。何故かそこだけぼんやりとしていてハッキリ見えなかったのだが、探し求めた花を見つけた瞬間の嬉しさまで感じられる、不思議な光景だった。
そして、すぐに声が聞こえてきた。
〝危ないから、採ろうとしちゃダメだよ〟
〝ロープを持ってくるから、それまでここでジッとしてて〟
そう言って走り去っていく男の子の後ろ姿を見送った後、少し頑張れば手が届きそうなのに…と、木に掴まりながら思わず下の方に身を乗り出したその時だった──
ズルッと足元が滑った感覚がしたと思ったら、視界が大きく揺らぎ落ちる感覚に襲われたのだ。
その感覚に思わず現実の自分まで倒れそうになりハッと我に返ったのと、立っている足に力が入ったのは同時だった。
落ちる夢を見て目が覚めた時のように、心の臓が僅かに早鐘を打つ。その感覚を感じながら、あたしは極自然に分かった。
これは、誰か別の人が経験した光景じゃない。これは、あたしの経験─…あたしの記憶だ、と。
タフィー同様、あたしも花を取ろうとしてどこかに落ちたんだわ…。
自分の記憶だと分かり、いつどこで落ちたのだろうと記憶を手繰りよせようとした所で、再びタフィーの声が聞こえて現実に引き戻された。
「クレイお兄ちゃんは、あたしがお花を採ろうとした理由を知ってるから苦しんでるの…。言ったら、ラディお兄ちゃんが苦しむのを知ってるから…。それに、あたしを止められなかった事にも苦しんでる…。でも、言う事を聞かなかったのはあたしなの…。悪いのはあたしなのに…ラディお兄ちゃんまで自分が悪いんだって、家まで出て行っちゃうし…。お花は、ラディお兄ちゃんを驚かせたかったから、もし一緒にいても〝採ってほしい〟…って言うつもりなかったんだもん…。だから…あたし…あたし…ずっと謝りたかったの…。ラディお兄ちゃん…ごめんなさい! クレイお兄ちゃん…言うこと聞かなくて、ごめんなさい…!!」
タフィーは溢れる涙を拭おうともせず、ギュッと服の裾をつかんだまま、お辞儀をするように頭を下げた。それは怒られた子供が素直に頭を下げる姿そのもので、ラディも堪らず抱きしめていた。
「ば…かやろう…。死んだお前がそれ以上自分を責めんなよ…」
「…だ、だって──」
「いいか、タフィー…お前は全然悪くない…。にーちゃんに花をあげたいって思っただけなんだろ? だったら、すんげー優しいってだけじゃねーか。…ただ、その時の運がちょっと悪かっただけなんだ…運が…さ。だからもう、自分を責めるな。お前は悪くない…なんも悪くないんだからよ。──な?」
「…じゃ…ぁ、誰も悪くない…?」
「うん…?」
「運が悪かっただけなら、お兄ちゃん達も悪くないんだよね…?」
その言葉に、ラディがハッとした。
タフィーの心を救うために本気で言った事が、まさか自分にも返ってくるとは─…。
〝事故だった〟
何度そう言われても自分の中では納得できなかった事が、今ようやく自らの言葉で受け入れた瞬間だったのだろう。
ラディは、久々に穏やかな顔を見せた。
「…あぁ、悪くない。にーちゃんもクレイも─…誰も悪くないさ」
「クレイお兄ちゃんも、そう思ってくれるかな…?」
「もちろん、思うに決まってんだろ。──ってか、にーちゃんがちゃんと話してやるから、心配すんなって。ぜってー、大丈夫だから、な?」
「うん…」
ラディの言葉に、タフィーがやっとホッとした笑みを見せた。するとその笑みを機に、次第にタフィーの姿を形作っていた陰影が薄くなり始めた。それにラディが気付き、慌てて〝待ってくれ〟と言いかけた時だった。
「お兄ちゃん、これ…」
そう言ってタフィーが差し出したのは、いつの間にか両手で握っていた一輪の花だった。その花を見た瞬間、あたしの心の臓が激しく打ちつけた。
あれは──!!
「これって…あの時お前が握ってた…?」
「一輪だけ咲いてたの。雪と同じで真っ白で、とってもキラキラしてキレイだったから…」
「あ…ぁ、そうだな。ほんとキレイだ…。これ、にーちゃんがもらっていいのか…?」
「うん!」
それはもう、ようやく渡せたという満面の笑みだった。一輪の花をタフィーから受け取ったラディは、〝ありがとな〟と返した。とても幸せそうな顔をして…。
あたしはそんな二人の姿を見て、複雑な気持ちだった。何故なら、その花は間違いなく〝死の花〟だったからだ。
もしかして、タフィーが死んだのはあの花を摘んだから…?
あたしは、ふとそんな事を思った。──が、すぐに否定した。
ううん、そんなはずないわ。だって代償は願い事が叶ったあとにあるんだもの。十年も前に摘んだ花が枯れずに残っているわけないし、願い叶わず枯れたなら、それこそ代償なんてあるはずがない。だけど──
タフィーの願いが叶った今、どこに代償が来るのか…と不安に思ってしまうのは、その花がまるで今摘んだばかりのように瑞々しく見えたからかもしれない。
「ありがとな、タフィー…。にーちゃん、すっげー嬉しいぞ」
花を受け取ったラディがそう言うと、タフィーもすごく嬉しそうに笑った。
「けど…どうすりゃいい…? オレだけこんなに幸せな気分になって…何かお前にもしてやりたいって思うのに時間がねぇなんてよ…」
さっきより陰影が薄くなった姿を目にしながら、それだけが心残りだと呟くと、タフィーがこれまた嬉しそうに微笑んだ。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。あたし、またお兄ちゃんに会いに来るから」
「…………?」
「今度は、もっとずっと長く一緒に居られるの」
「え…もっとずっと長く…って──」
「ずっとそう願ってきたから…。それが叶うのはもう少し先だけど…でも、絶対に会いにくるから。だから─…」
そこまで言うと、僅かに間を置いた。そして──
「だから、またね……お…うさん……」
「─────!!」
最後の言葉と共に、タフィーの姿が風のように流れ消えていった。実際、最後の言葉は耳で聞こえたのかどうか分からないくらい小さなものだったが、なぜかハッキリと伝わった。
〝おとうさん…〟
タフィーは間違いなくそう言ったのだ。
それはラディにも伝わっていた。しばらくの間タフィーが消えた空を眺めていたラディは、その意味を理解したのだろう。ややあって、〝またな…〟と嬉しそうに微笑んだ。すると、その言葉が合図にでもなったかのように、手に持っていた花も光の粒子となって広がり消えていったのだった…。
あたしは、そんな光景とラディの姿を見て心から嬉しく感じた。
なぜ、タフィーが急いでいたのか。本当に時間がなかったのはタフィーの方で、命日であるこの日に成仏するためだったのだ。全ては、来世での望みを叶えるために──
また会える…。それだけで、ラディやその家族の未来が見えるようだった。
「ルフェラ、ありがとな」
光の粒子が完全に消えたのを見届けた後、ラディがあたしを見てそう言った。さっきより周りが暗くなってしまったが、その表情はとても晴れやかなのが分かる。
あたしは、ゆっくりと首を横に振った。
「タフィーよ。あたしは何もしてないわ…」
「ンなわけねーだろ? それのお陰でタフィーの姿も見れたし、話もできたんだからよ」
ラディは、〝それ〟を指差した。
「まぁ…それはそうだけど─…」
そう言いかけたところで、今更ながらラディに月の光を見られた事に気が付いてハッとした。──と同時に、自分の体の異変にも気付いた。
どうしよう…体がすごく重くなってきたわ…。確か前にもあったはず…。月の光であたしじゃない〝あたし〟が現れて、元に戻ったあと歩けなくなるくらい体が重くなったことが…。
「…けど、一体あれはなんだったんだ?」
「何って─…」
「光る粉みたいで、すっげー綺麗だったよなぁ。あんなの、手からどうやって出すんだ?」
「どうやってって…あれは…手から出すって…いうより─…」
怖がるどころか興味の方が強い反応にホッとしつつも、立っているのが辛くなるほど体の重さが増してきて言葉が途切れてしまった。倒れまいと体や足に力を入れようとすればするほど、話ができない…。
そんな状況に、さすがのラディも気付いた。
「大丈夫か、ルフェラ…?」
心配してあたしの腕に手をかければ、ちょうどそのタイミングで耐えられなくなったあたしは足元から崩れ落ちてしまった。
「お…ぃ、ルフェラ…!?」
「…大…丈夫よ…」
そう…大丈夫、きっと大丈夫よ…。
あたしはそう自分に言い聞かせた。
ラディに支えられたため座り込むだけで済んだが、ここで余計な心配をさせたらダメだと、必死に自分の力で状態を保った。
「大丈夫なわけねーだろ? ──ってか、もしかしてあの光のせいなのか?」
「…違う…そうじゃないわ…」
「けど──」
「そうじゃないから…!」
あたしは敢えてラディの言葉を遮り、腕を掴んだ。
これ以上心配させたら、ラディは次の行動を起こせなくなる。やっと、家族に会えない理由がなくなったんだもの。ううん、それどころか会って話さなきゃいけないんだから…。
「ラディ…早く──」
〝家族に会いに行って〟
──そう言いかけた時だった。ラディの腕を掴んだ左手から、見覚えのある光が滲み出ているのに気付いて思わずその手を離した。自分の手の平を凝視すると、その光は間違いなく手の平全体から湧き出ている。
この色は─…確か、宵の煌…。動けなくなったあたしにネオスが使ってくれた力だわ…。
そう思った瞬間、あたしはハタと気が付いた。
そうよ、これを使えばクレイの熱も──
そう思うが早いか、あたしは必死に足元の雪をかき集め始めた。
「え…ル、ルフェラ…? なんで雪を集めてんだ…?」
突然の行動に驚くラディ。月の光は見えても、この光は見えないのだろう。だけど、あたしは説明するより重い腕を動かすことの方に必死だった。ただひたすら無言で雪を集めると、真ん中を窪ませて器のように整えた。そしてその中に手の平から湧き出てくる宵の煌を流し込むと、再び蓋をするように上から雪をかぶせたのだ。
これで宵の煌を運ぶことができるわ。
少し丸く形を整えてからラディに差し出すと、当然ながら意味が分からず困惑した表情を見せた。
「持っていって…」
あたしは言葉を足した。
「持ってくってどこに──」
「ラディの家よ…」
「オレの…?」
「ネオスかイオータに渡せば分かるわ…。それに、タフィーとの約束もあるんだし…行って、ちゃんと話をしてくるのよ」
「話って─…そんな体でお前一人置いていけるわけねーだろ?」
「大丈夫よ、あたしは──」
「…ンなわけあるかよ。座ってるのもやっとなんだろ? 話なら今すぐじゃなくたって──」
「熱が下がらなかったら、あとはないかもしれないのよ!?」
「───── !」
その一言に、ようやくラディもあたしの言っていることが分かったようだった。同時に、あたしはある気配を感じた。なぜか分からないけれど、それが誰のものなのかも分かったのだ。
「あたしの事は大丈夫、心配しないで。ランスだっているんだから…」
「は…? ランス…!?」
思わぬ名前が出てきて驚くラディをよそに、あたしは次いで気配のある方に話しかけた。
「出てきて、ランス。そこにいるんでしょう?」
そこはちょうど河原に降りてくる坂道。草木で人の姿は見えなかったが、ややあって姿を現したのは間違いなくランスだった。ラディ同様、名前が呼ばれるとは思っていなかったのか、驚きと戸惑いの表情を見せていた。
「なんでお前がここに──」
ランスの顔を見るなり、ラディの口調が刺々しくなった。家を出る前の感情を思い出せばそうなるのも無理はないのだが、ここは喧嘩腰で話をしている場合でもない。
もちろん、家でリューイを見ているはずのランスが何故ここにいたのか、という疑問はあたしにもあったが…。
今は敢えてそれには触れず、話を進めた。
「聞いて、ラディ。今のクレイを救えるのはラディだけよ。タフィーとの約束を果たすためにも、今行かなきゃダメなの。あたしなら、ランスもいるから大丈夫。だから、信じてみんなのところに行って…!」
「ルフェラ…」
両腕をギュッと掴み、ラディの目をまっすぐ見てそう言えば、僅かに考える間があった後、ラディは〝分かった〟と頷いた。そしてゆっくりとあたしを立ち上がらせると、ランスの前まで連れて行った。
「ルフェラの事、任せていいか?」
その口調は刺々しさもなく、心から頼みたいというものだった。月明かりに見えるラディの表情も、いつもと違って大人びて見える。それ故に、ラディの真剣さが伝わってきた。
知り合って日の浅い、しかも自分の事をよく思ってない相手からの頼み事だったとしても、その気持ちは伝わるはずだ。
案の定、ランスは〝あぁ〟と答えた。その声に、不満や戸惑いといった負の感情は感じられなかった。だから、ラディも安心した表情を見せた。
「じゃぁ、頼んだぞ。──ルフェラ、落ち着いたらすぐに戻るから、な?」
「大丈夫よ。ラディは家族の時間を大切にして…」
そう言うと、ラディはタフィーに向けたのと同じような優しい笑みを残し、森へと続く坂道を駆け上がっていったのだった。
あたしは、ラディの姿が見えなくなってから大きく息を吐き出した。
家族の元に行ってくれた、それも宵の煌を持って…。
きっと、これでもう大丈夫…。
その安堵感からか、更に体のだるさが増した。
「…っと、大丈夫か?」
再び崩れ落ちそうになったあたしを、ランスが咄嗟に支えてくれた。
「…あ…りがとう。大丈夫って言いたいけど、支えがないと無理みたい…」
「…だよな。どうする? しばらくここで休んでから帰るか?」
その問いに一瞬頷きそうになったが、あたしは慌てて〝ううん〟と首を振った。
本音はそうしたかった。というより、このまま横になって眠りたかったのだが、一度そうしてしまうと、立てないどころか二度と起きられない気がしたのだ。例え今が冬ではなく、夏の夜だったとしても──
「帰るわ、今すぐ…」
そう付け足すと、ランスは〝分かった〟と頷き、あたしの腕を自分の肩に掛けて支えてくれた。
そこから家に戻るまでの道のりは、来た時と違いずっと長く感じられた。足元は暗く、改めてさっきまでの見えやすさは月の光が作用していたのだと実感する。とはいえ、足を運ぶのに精一杯のあたしにとって、周りの景色を見る余裕もないため、暗さに問題はなかったのだが…。
「それにしても、オレがあそこにいると知ってたとはな…」
無言の時間が流れ、ランスがふと口を開いた。
「いつから気付いてた?」
「…声を…かける直前よ…。まさかあんたが…いたとはね…。リューイさんはどうしたのよ…? 大丈夫なの…?」
「頭を打って気を失っているだけだ。まぁ、すぐには目を覚まさねーだろうけど…あんたに比べたら大丈夫だろ」
気を失うような衝撃が頭にあって、何を根拠にあたしより大丈夫だと言えるのか…。いつものあたしならそう突っ込んでいるところだが、今はその返答に〝…そう〟としか返せなかった。
いつからあそこにいたのかも気にはなったが、聞けば色々と説明を求められるだろう。タフィーの姿を見ていれば銀色の光が何なのか、そしてなぜその光を操れるのか…とか。だけど、ただでさえ説明が難しいのに、今の状況で話を続けるのは正直辛い…。思うように動かなくなってきた足を動かすのにも、一瞬息を止めて踏ん張らないと前に進めないどころか、その場で崩れ落ちそうになるのだ。──とはいえ、実際、自分がどれだけ踏ん張っているのかは分からなかった。ある程度自分の足で支えているのかもしれないし、ほとんどの体重をランスに預けているのかもしれない。
「大丈夫か…? やっぱり、ちょっと休んだほうが──」
そう言って足を止めそうになるランスに、あたしは無言で首を振った。
背負ってやるとも言ってくれたが、この暗さで人を背負い雪の上を歩くのは危険だとずっと断ってきたのだ。
「そうか…。なら頑張れよ、あともう少しだ」
改めて肩に回していたあたしの腕を担ぎ直すと、止まりそうになった足を再び動かした。
そうしてどれくらい経っただろうか。顔を上げる力もなくずっと足元ばかり見て歩いていたため、景色はもちろん、どれくらい歩いたのかさえ分からなかった。ただ〝あともう少し〟という言葉を忘れそうなほど、それまでの道のりは長く感じていた。
そんな時だった。ようやくランスから待ち望んでいた言葉が聞こえてきた。
「ほら、見えたぞ」
言われて何とか顔を上げれば、視線の先にホッとする明かりが見えた。
…やっとだわ…やっと眠れる…あそこまで行けば……
最後の力を振り絞り、重い足を一歩、また一歩と前に進める。そして家のすぐ近くにある段差まで来た時、これを登ればすぐそこが入り口だと必死に足を上げようとした時だった──
「あっ…おいっ──」
何度となく失いそうになる意識を〝まだダメよ!〟と自分に言い聞かせここまで来たのだが、家の明かりを目にして無意識のうちに気が緩んでしまったのだろう。あたしの視界がフッと真っ暗になり意識が飛んでしまったのだ。ただその瞬間、なぜか誰もいないはずの右側がガッと何かに当たり、その衝撃で、僅かだが反射的に開いた目にキラキラ光る糸が見えた気がした。が、それもほんの一瞬。あたしの意識はあっという間に闇の中へと引きずり込まれたのだった。