7 タフィーとの再会 <1>
かろうじて届く月の光。
山の中でも何となくその景色が形見えるのは、光を遮る木の葉がないからだ。更には僅かな光を乱反射させる地面の雪が、暗闇の中で唯一明るさを感じさせてくれる。
その光を頼りに、あたしはある場所へと向かっていた。
きっと、タフィーもそこにいるはず。
今日という日を選んだのなら、きっとラディの…ううん、みんなのそばにいるはずだ、と。
そんな思いが、あたしの足をその場所に向かわせていた。
積もった雪は昼間の日差しで幾分溶けたものの、踏めば沈む深さがあるのは変わらない。一度通った道とはいえ、明け方と日が沈んだ夜とでは視覚的な事はもちろん、そこを滑らないように気を付けるだけでも思うような早さでは進めなかった。
そんな状況で、三人の足跡を追っている時だった。
───── !?
不意に、女性の叫び声らしきものが聞こえた。聞こえたのは後ろから。思わず足を止め振り返ると、隣ではネオスが同じように後ろを見ていた。
「ネオスも聞こえた…?」
「あぁ」
「今のって─…」
『リアンさんの声です』
足に触れたルーフィンから、即座に流れてきた声。直後、ネオスから返ってきたのも同じ言葉だった。
「リアンさんの声だった…」
その瞬間、〝何かあったんだ…!〟という言葉が互いの心の中でシンクロしたように、あたし達は元来た道を引き返していた。
川沿いを下る雪道より、引き返している時の方が歩きやすいのに、耳に残る彼女の声が心の臓を慌ただしくさせる。それが胸騒ぎなのか、それとも何があったのか想像できないことに焦っているのかは、正直自分でもよく分からない。
自分だけが聞いたなら、まだ気のせいだとも思える。でもここにいる全員が…それも耳のいいルーフィンが〝リアンさんの声〟だと言い切るくらいだから、その可能性はほぼないと言っていいだろう。
あぁ、だけど…!
聞き間違いであって…!
あたしは必死にそう願っていた。
家の明かりが見えてくると、その思いは更に強くなった。
外から見る限り特に変わった様子はない。玄関の戸が開けっ放しになっているが、あたし達が飛び出した時と同じという点では特に違和感はなかった。
「──リアンさん!?」
あたしは、玄関に飛び込むと同時に彼女の名前を呼んだ。けれど、そこで目に飛び込んできたのは、荒らされた室内と薪が散乱する中に倒れこんだリューイ。そして、意識のない彼を介抱しようとしていたランスの姿だった。
「何があったの…!?」
リューイの顔には殴られた跡があり、頭からは血が出ていた。ランスにも殴られた跡はあるが、介抱しようとする状況から二人がケンカしたとは思えない。
数分前とは全く違う様子に、あたしは頭の中が混乱していた。
「…リ、リューイさんは大丈夫なの?」
とにかくケガの状態が心配で聞いてみれば、ランスが〝多分な…〟と溜息交じりに答えた。
「殴られた拍子に、頭を打ち付けて気を失っただけだとは思うが─…」
それでも打ち所が悪かったら…という無言の言葉が聞こえてくる。
「いったい誰に…?」
「さぁ…なんか怒鳴り声だけは聞き覚えがあったんだが、知らねぇ顔だったな。玄関の戸を閉めてしばらくしたら、小汚ねぇ男二人が突然入ってきたんだ。リアンを見るなり〝やっぱりいた〟とか何とか言って、無理矢理連れて行こうとしたから──」
「小汚い男…?」
話の途中だったが、あたしはその言葉が引っかかった。思わず口に出してみて、ふと脳裏に浮かんだのは数日前に会った男。
「その男って…体格が良くて無精ひげ生やしてた…?」
「そうだが─…あんた、知ってんのか?」
やっぱり…。
あたしは男と同じ言葉を心の中で繰り返した。
それならランスの言う事も当然だわ。あの男が来た時、ランスは眠っていた。普通ならあの怒鳴り声に目を覚ましてもおかしくないけど、バーディアさんの薬を飲んでいたから起きられなかったのだろう。それでも、眠っている意識の中に現実の音と夢が入り混じることもあるため、〝聞き覚えがある〟と思ったに違いない。
一度は諦めたと思ったけど、やっぱりまだこの近くにいたんだ…。それであたし達が出て行くのを見て、絶好の機会だと──
「大変だわ…」
そう呟くが早いか、あたしの体は動いていた。──が次の瞬間、ネオスの手によって、玄関から飛び出そうとするあたしの腕を掴まれていた。
「ルフェラ、落ち着くんだ」
「でも…リアンさんはあいつらに連れて行かれたのよ!? 早く助けなきゃ──」
「タフィーのことはどうする?」
「───── !」
「タフィーには時間がない。おそらく、それはルフェラにとってもだ」
「───── !」
優先すべきはどちらなのか…それを選べっていうの…?
この日をずっと待ち望んできたタフィーにとって、残された時間はあと僅か。彼女だけじゃなく、ずっと苦しんできたラディにとっても救われる日になるかもしれないのに…。
だからと言って、リアンを見捨てるなんてことできるわけがないじゃない…!
「じゃ…ぁ、どうすれば──…」
自分で決断できない情けなさと、良い方法が思いつかない苦しさでそう吐き出すと──
「だから落ち着くんだよ、ルフェラ」
深呼吸でもするんだと言わんばかりに、ネオスの和らいだ声が聞こえた。
「ルフェラは知っているんだね、その男が何者で、なぜリアンさんを連れ去ったのか?」
「え…ぇ、確かな事は分からないけど大体のことは─…」
「じゃぁ、説明を聞くのはあとにしよう。その代わりひとつだけハッキリと答えてほしい」
「…………?」
「ルフェラはどうしたい?」
「…………!」
その瞬間、ある記憶が感情と共に一気に蘇ってきた。
あれは、ルシーナが一人で復讐しに行った時の事だ。
彼女を追いかけようと入った山の中で、役人に見つかりそうになった事があった。あの時ラディは足を痛めてたし、逃げるにも戦うにも不利な状況だったから、どうしていいか分からなかった。
その時、ネオスが言ったのだ。
〝ルフェラはどうしたい?〟
──と。
同じだわ、あの時と…。
どちらかを選べというのではない。自分がどうしたいのか、それを言葉にするんだ、と。そしてその為に〝もっと僕を信じて、もっと頼ってもいい〟…そう思わせる眼差しだった。
そんなネオスを見ていたら、あたしの焦っていた気持ちがスーッと引いていった。同時に、やるべき事がハッキリとした。
あたしは、どちらも助けたい。だから──
「ランス、リューイさんをお願い。ネオスはルーフィンと一緒にリアンさんを連れ戻して。あたしはタフィーを探すわ」
ネオスの目をまっすぐ見てそう言うと、〝それを待っていた〟とでもいうかのような笑みが返ってきた。そして〝分かった〟と頷くと、入り口で待っていたルーフィンを呼んだ。
「──行こう」
その言葉を機に、あたし達は再び踵を返した。玄関を出てすぐ二手に分かれたのだが、その直後──
「ルフェラ!」
突然、ネオスがあたしを呼び止めた。何か言い忘れた事でもあったのかと振り向けば、
「大丈夫、恐れないで」
急ぐ気持ちとは裏腹に、とても落ち着いた口調でそれだけ言うと、あっという間に体を翻し闇に消えていった。
どういう…意味…?
恐れないで…って、何に対しての…?
〝え…?〟と聞き返す間もなく、届かない問いを心の中で呟いたが、それをここで考えている時間もなく…。
気になりつつもその疑問を振り切ると、再び背を向けて川沿いの道を下り始めたのだった。
少し前までネオスやルーフィンと通っていた道は、幾分歩きやすく感じられた。さっき通った道だというのもあるだろうが、自分の足跡も含め、踏み固められたところが多かったからだろう。更には暗さに慣れたせいか、周りの見え方がさっきと違っていたのだ。薄雲が消えたような、木々の枝がなくなったような…そんな感じだ。邪魔するものがなくなれば、周りや足元がよりハッキリと見え、一人だという心細さや怖さを感じないのも大きかったかもしれない。
そして黙々とラディ達の足跡を辿り、リアンの悲鳴を聞いた場所からしばらく進んだ時だった。
少し左手側の、自分の腰くらいの高さのある草木の向こうで、ホワッと光るものが目に入ったのだ。宙に浮きゆっくりと動くその光は、自ら発しているようにも見える。
思わず足を止め、視線の先を横切ろうとする光を目で追っていると、現れたのはタフィーだった。
「タフィー…!」
〝会えた!〟という思いから咄嗟にタフィーの名前を呼んだが、肝心の彼女には聞こえていないようだった。──いや、聞こえないはずはない。誰もいない夜の静けさに、聞こえない距離でもないからだ。それに、どうして皆がいる家じゃなくここにいるのか。しかも、タフィーの進む方向は家から反対方向なのだ。
思い詰めたような顔で視界を横切っていくタフィー。
あたしの所に近付いてくるならまだしも、彼女が行こうとしているのは右手側…つまり、川の方だった。
どうして川の方に…?
そっちに何があるの…?
タフィーが何をしようとしているのか分からず、それを確かめる為に川の方に視線を移せば、偶然にもそこが数日前に立ち止まった場所だと気が付いた。草木が途切れ、朝日に反射した水面が目に飛び込んできた、あの場所だ。そして同時に、河原へ降りる道がある事も知った。
あの時は眩しすぎて見えなかったのだろう。今は、夜とはいえ遮るものがないせいか、月の光だけでもよく見えたのだ。
タフィーは、その河原へ降りて行く道を進んでいった。
目的は分からないが、時間のないタフィーにとって無駄なことではないはずだ。
あたしは声を掛けるよりも、静かに彼女のあとを追う事にした。
流れるように降りて行くタフィーの体は透けていて、その向こうの景色がぼんやりと見えていた。周りを見ればもっとよく見えるのだろうが、なぜかタフィーの体を通した景色ばかり見てしまうのは、彼女が見ているものを知りたかったからかもしれない。
河原に降りると、タフィーは少し川の上流の方に向かった。その先にある草木は冷たい風で揺れている。が、一箇所だけ明らかに不自然な動きをしている所があった。
一瞬、獣かと思い身構えたが、草木が大きく揺れた次の瞬間、見えた姿に驚いた。
「ラディ!?」
「う、うぉわぁっ!!」
突然の声に振り返ったラディは、驚きのあまりそのまま尻餅をついた。
「…ってて──」
「ご、ごめん─…」
「…あぁ? あー…なんだ、ルフェラか…。だぁ〜、心臓止まるかと思ったぜ。──ってか、なんでここにいるんだ?」
「それはこっちのセリフよ。ラディこそ、家に行ったんじゃなかったの?」
「あぁ~…いやまぁ、ちょっと探し物が…な…」
「探し物…?」
「それがいるんだ、どうしても…」
「〝それ〟がここにあるっていうの…?」
「いや、どこにあるかは分かんねーんだけど─…」
「…………?」
言っている意味がよく分からずしばし黙っていると、時間を無駄にしたくないのか、再び草木を掻き分けながら話し始めた。
「花だよ、花」
「…花?」
「いつだったか、ディトールが描いた絵をルシーナに見せに行った時があっただろ? その中にあった、希望の花さ」
「───── !」
どうしてそれを…と思うが早いか、ラディが付け足した。
「イオータから聞いたんだ。どんな願いでも叶えてくれる、そんな花が本当にあった…って」
「で、でもそれは──」
「分かってるさ。たった一日、それもいつどこで咲くか分かんねーような、奇跡の花なんだろ? けど、探さなきゃ見つかるモンも見つかんねーんだから、やるしかねーじゃねか」
「それはそうかもしれないけど…でも、あの花は──」
〝代償がいるのよ〟
躊躇いつつも、そう続けようとした時だった。不意に視界がフワーッと明るくなった。それまでも夜にしてはよく見えると思っていたが、更によく見えて、影さえもくっきり現れるほどだ。──にも拘らず、ラディはその変化にまるで気付いていない。
「ラディー…」
「…あぁ?」
下を見ているからだろうか。顔を上げれば気付くかと思い声をかけたが、自然と空を見上げたあたしは、驚きのあまりハッと息を飲んだ。
ち…がう…!
これは月の光だ─ !
空からは、今までどうして気付かなかったのかと思うほど、光の粒子が降り注いでいたのだ。──と同時に、忘れていた恐怖が蘇ってきた。あたしじゃない〝あたし〟が現れる恐怖──
でも、その時だった。
その恐怖と入れ変わるように、あの言葉が頭の中に流れてきた。
〝大丈夫、恐れないで…〟
別れ際、ネオスに言われた言葉だ。あの時は何に対して恐れないでと言ったのか分からなかったが、今、やっと分かった。
ネオスには見えていたんだわ。あの時既に、この光が─…。
あたしが月の光を避けている事も知ってたし、きっと、その時に何が起きているのかも知っていたんだ…。
そう思ったら、不思議と月の光に対する恐怖心が薄れていった。
確かに、あたしじゃない〝あたし〟が現れることは怖い。でも少し冷静になって考えてみれば、〝あたし〟がしていることは怖い事ばかりじゃないことにも気付く。
赤守球を奪う時はこの光を浴びて形勢逆転したし、テイトの魂が天の国に召された時もこの光を浴びていた。つまり、恐れていたのは〝あたし〟が起こす行動の方ではなく、そこに自分の意思が全く働かなかった事の方だったのだ。だけど、その恐れももうなくなった。あたしに何が起きているのか知っているネオスが〝恐れないで〟と言うのなら、それを信じ受け入れればいい──そう思えたからだ。すると、心の中で何かがストンと落ちて、心地良い安定感が生まれた気がした。
「…ルフェラ?」
ふと、ラディの声が聞こえた。反射的に空から視線を戻すと、しゃがんだまま〝どうしたんだ?〟と心配そうな顔を向けるラディと目が合った。その傍らでは、彼に抱きついているタフィーの姿も見える。改めて見てみると、体がほんのりと光って見えたのは月の光のせいだという事も分かった。
あたしは、とても落ち着いた気持ちで口を開いた。その感覚はこれまでの〝あたし〟とは違い、自分と〝あたし〟がとても近く、時折重なっているようにさえ感じるものだった。
「花を探すより、タフィーと話してあげて」
「タフィーと…?」
あたしを通じてタフィーと話をさせる。そう約束した矢先にこういう状況になり、正直、ラディもすっかり忘れていたのだろう。一瞬意味が分からず眉を寄せたが、家ではなく、こんな場所にあたしがやってきた事実に気付いてハッと顔を上げた。
「まさか…ここにいるのか!?」
あたしはゆっくりと頷いた。
「どこに──」
「すぐそばよ。ラディの首に手を回して抱きついてるわ」
「首…!?」
思わず、それを確かめるように自分の手を首に当てたラディ。当然ながら、実体のないタフィーをその手に感じることはできず…。
「は…はは…分かるわけねーよな…」
すぐに気付いて、寂しそうに笑った。
もちろん、タフィーさえいれば言葉を伝え会話をすることはできる。できるけど、寂しそうに笑うラディを目にすると、その存在を感じてもらいたいという思いが強くなった。体に触れている感覚、声、姿…どれでもいい。どれかひとつだけでいいから、ラディにその存在を感じられる方法はないだろうか…。
あたしは、極自然にもう一人の〝あたし〟に願っていた。
お願い、何かいい方法があるなら教えて…。
もう一人の〝あたし〟は、明らかにあたしよりも物事をよく知っている。その〝あたし〟だったらどうするのか…。月の光を浴びてもなお、自分の意思で話し、動ける状況で冷静に問いかけてみた。すると──
意識もしていないのに、左手がスッと胸の高さまで持ち上がった。空から降り注ぐ月の光を受け止めるように、手の平を上にして──
緩やかに窪んだ手の平に、光の粒子が雪のように積もっていく。その様子を見ていたら、なぜか急にどうするべきか分かった気がした。