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女神伝説  作者: Sugary
序章
1/127

消えた記憶

 狩猟を特技としているこの村では、一年に一度開かれる〝狩り人祭〟というものがある。大猟と安全と命への感謝、そして正式な狩り人として任命を受ける儀式だ。儀式は全ての命が芽吹くという春に行われる。それは一年の始まりとしての季節に相応しく、その月の最初の満月の夜に執り行われるのが決まりだった。

 狩り人祭の前夜、九歳のアルティナと十六歳のオーディは、その会場の近くで月を見ていた。時折聞こえてくるのは、狩り人祭の準備をしている人々の声。その中には、アルティナにとってオーディと同じくらい仲のいい、カイトという十五歳の青少年もいた。カイトは、明日の狩り人祭で正式に狩り人として任命される。十五歳での狩り人は最年少記録だった。聞こえてくる個々の声は誰のものか分からなかったが、間違いなくその中にカイトの声があると思うと、二人とも嬉しくて誇らしい気持ちだった。

 そんな時、ふとアルティナが大事な事を思い出した。

「そうだ、()()()考えたのよ」

 アルティナが得意げな笑みを見せていった。

「考えたって何を?」

「オーディへの誕生日プレゼント」

「ほんとに?」

「うん。昨日、あれからずーっと考えてたの」

「それは楽しみだなぁ」

 オーディが嬉しそうに言った。嬉しいのはプレゼントではなく、〝ずーと考えていた〟というその事実だ。そんなオーディの顔を見て、アルティナもつられるように嬉しくなった。

「え、え~とね─…じゃぁ、目をつむってみて」

「…分かった」

 言われた通り目を閉じたオーディ。アルティナは、確認するように目の前で数回手を振った。

(うん、ちゃんと閉じてるね)

 軽く頷いたアルティナは、そっと身を乗り出した。その直後の行動に、

「────!!」

 オーディは驚きでハッと目を開いた。そして反射的にアルティナの両腕を掴んで引き離していた。

「オーディ…?」

「アルティナ…今…何を…!?」

「何って…オーディへのプレゼント─…」

 それは、アルティナが想像していたものとは全く違う反応だった。その表情には、今までにない動揺が見てとれる。

「どうして口付けを……こんなこと簡単にしてはいけないよ…!」

「どうして…? こうしたあとは、みんなとっても幸せそうな顔してた…。だからオーディも喜んでくれると思ってたのに…。どうしてそんな怖い顔するの…?」

 非難するつもりも怒ったつもりもなかった。ただあまりにも動揺が大きくて、そんな口調になってしまったのだ。その行動の重要性を知っていたから。

 初めて見るオーディの表情に、アルティナは悲しくなって涙が溢れてきた。

「わたし…いけないことした…?」

「そういう事じゃないんだ。そういう事じゃなくて、口付けはとても特別なことなんだよ。特にアルティナ、君の場合は。だから──」

「分からない─…分からないよ、オーディ。わたしはただ、オーディを喜ばしたかっただけで─…」

「アルティナ…」

「ただ、それだけだったの…。でも…ごめんなさい…オーディがダメだって言うなら…もうしない。だから、もう怒らないで…」

「違う、僕は怒ってなんか─…。本当はとっても嬉しいよ。だから泣かないで…」

 分かっている。何もかも知っているようで、何も知らない。ただ純粋に自分を喜ばせようとしただけだという事は、オーディも分かりすぎるくらい分かっていた。だからこそ、胸が苦しくなる。

 大粒の涙を流して謝るアルティナを、オーディは強く抱きしめた。

「僕は怒ってない─…本当だよ。だからもう泣かないで」

「ほんとに…?」

「ああ」

 オーディは返事と共に頷いた。

「アルティナのプレゼント、嬉しかった。でもこれは二人だけの秘密にしよう、いいね…?」

「うん、分かった…」

 九歳になって僅か半年にも満たないアルティナを、オーディは複雑な心境で優しく包み込んだ。〝分かった〟とは言いながらも、納得はしていないだろう。ただそういう運命だと理解しているだけだ。

(一日でも長くアルティナの笑顔を見ていたい)

 そう思う一方で、そろそろ限界だという事も分かっていたのだ。オーディは、覚悟を決めるように小さく頷いた。と、その時だった。異様な視線と空気を肌で感じたオーディは、ハッとして顔を上げた。

「────!!」

 思わず息を呑む。その体の硬直がアルティナにも伝わったのだろう。どうしたのかと顔を上げた瞬間──

「アルティナ! オーディ様から離れろ!!」

 怒声が聞こえ、反射的に振り向いた。

「────!!」

 アルティナはひどく驚いた。なぜなら、そこには自分たちに矢を放とうと弓を構えている狩り人が何人もいたからだ。彼らの隣には、同じ数の狩猟犬が凛と立っている。

 向けられた矢尻が、月の光を受けて小さく輝いていた。その光が全く微動だにしないのは、さすが狩り人と言うべきだろうか。そんな狩り人たちの中に、一人だけ弓を持たない人がいた。──カイトだ。

「どういう…事…?」

 何が起こっているのか理解できず、アルティナは狩り人とオーディに戸惑いの目を向けた。すると、一人の狩り人が弓を構えたまま叫んだ。

「どうしたもこうしたも…共人のお前が主を汚したのではないか!!」

「わたしが…汚す…?」

「違うんだ…! みんな落ち着いて──」

 オーディは慌てて否定した。──が、すぐに別の狩り人が続いた。

「いいえ、違いません! オーディ様が、共に生きてきたアルティナを庇いたいという気持ちは分かります。しかし、神を汚す者はたとえ共人でも許されぬこと──」

「だから違うんだ…話を──」

「神が汚されれば、神のお力は無となります。それはこの村にとっても神であるオーディ様にとっても、決してあってはならぬこと。唯一その事態を避けることができるのは、汚した本人を殺してしまうしか方法はないのです。あなた様がお怒りになって私どもの命を奪うというのなら、それでも構いません! その覚悟はできています!!」

「違う…本当の主は──」

「お許しください!!」

 今までより僅かに弓が引かれたか思うと、オーディの言葉を最後まで聞かず一斉に矢が放たれた。─と次の瞬間、ギュッと目を閉じたアルティナは、体ごとグイッと引っ張られ、そのせいでバランスを崩して転んでしまった。思わず目を開ければ、

 〝ザシュッ!〟

 ──と音を立て、一本の矢がアルティナの手のすぐそばの地面に突き刺さった。あと少しでもズレていたら、その手を貫通していただろう。アルティナは、咄嗟に自分の手を引っ込めた。緊張と恐ろしさで体が震えてくる。ただそれを増幅させていたのは、耳が聞こえなくなったのかと思うくらいの異様な静けさだった。

「オーディ様…どうして─…」

 震える声と息を呑むような音が聞こえて、アルティナがようやく顔をあげた。そこには、両手を軽く広げ微動だにしないオーディの後ろ姿があった。

(良かった、無事だったのね─…)

 ホッと胸を撫で下ろしたものの、視界の端で何かがポトッと落ちるのが見えた。なんだろう…とごく自然にそれを目で追いかければ、なぜかオーディの指先から雫が滴り落ちているではないか。すぐには理解できなかったアルティナだったが、オーディの手の平から一本の矢が突き出しているのを目にしてハッとした。

「オーディ…!?」

 アルティナは一瞬にして理解した。間違いなく自分たちに向かって飛んできた幾つもの矢が、自分の体には一本も突き刺さってこなかった理由を──

(そんな…うそ─…)

 アルティナが震える手を伸ばしたその時だった。〝カハッ〟と何かを吐き出すような音と共に、オーディの背中がゆらりと動き後ろに向かって倒れてきた。アルティナは咄嗟に支えようとしたが、オーディの体が地面に打ちつける衝撃を僅かに減らすくらいしかできなかった。

 仰向けになったオーディを目にして、アルティナはその光景に息を呑んだ。アルティナを庇ったその体には、幾つもの矢が突き刺さっていたのだ。認められた狩り人だからこその命中率だが、今はそれが腹立たしく、そして悔しくもある。

 傷口から流れ出た血が、みるみるうちに身体中を赤く染めていった。

「…オ、オーディ…オーディ! いやよ、死んじゃいや…!」

「…アル…ティナ、ケガは…?」

 口から血を流しながら、オーディがアルティナの無事を確かめる。彼にとって重要なのはそれだけなのだ。

「し、してない…でもオーディの体が真っ赤なの──」

「…よか…った…」

 オーディの顔が心底ホッとしたように緩んだ。アルティナは口を固く結んで大きく首を振った。

「よくない…! よくないわよ…どうしてこんなことに──」

「いい…んだ…アルティナが無事なら…」

「…ダメよ、オーディ……わたし、なんだってするからー…どうすれば助けられる? ねぇ、どうしたらこの血を止めることができるの…ねぇ!?」

 何とかしたいのにその方法が思いつかない。──いや、方法はある。力を使えばいいだけの話だ。ただ力が使えるようになった時から、オーディには強く禁止されていた事があった。だから、必要なのは〝それ以外の方法〟なのだ。けれど──

「…方法は…ない…」

「そんな─…」

 最悪の答えだった。

「だ、だったら──」

「ダメ…だ…」

 アルティナが何を言おうとしたのか分かり、オーディはすぐに否定した。

「共人に…力を使うことは…許され、ない─…」

 それは何度も言われた言葉だった。それまで、大抵のことは〝大地の力〟でなんとかなっていた。だからそんな状況が訪れるとは思っていなかったのだ。ただそうは言っても、心のどこかで〝いざという時は許されるのだろう〟と漠然と思っていた。なのに、まさか本当にこの瞬間ですら許されないとは──

 アルティナはどうしていいか分からなくなった。このままではオーディは助からない。何もできない焦りと失う恐怖で体は震え、目からは大粒の涙が溢れてきた。

(あぁ、アルティナ…。こんな風に泣かせたくなかった…ただただ笑顔でいて欲しかっただけなのに─…)

 できるなら、彼女を抱きしめてあげたい。そう思い腕を動かそうとしたのだが、意思に反して指一本すら動かなかった。オーディは、覚悟を決めたように一度目を閉じてから言った。

「僕の最後が…主を守れたなら…それでいい…」

 アルティナは大きく首を振った。

「…アルティナからのプレゼント…本当に嬉しかった…。生きていて…本当に良かったと思う…。ただ…こんなに早く…アルティナを一人にさせてしまうのが…僕は…心残り……」

「…や…いや─…お願い、オーディ…死なないで…ねぇ、死なないで…オーディ…!」

 オーディは薄れる意識の中、小さく息を吸い込んだ。

「…すみ…ませ…ん、ア…ティナ……様─…」

 最後にそう言うと、体に電気が走ったかのように振え、全身の力が一気に抜けてしまった。

「オーディ…? オーディ…ねぇ、目を開けて…? オーディ…オーディ!?」

 オーディの体をゆすっても叩いても、彼の体は何の反応も示さなかった。不安と恐怖が体中に満ちてくる。

「オーディ! 目を開けなさい!! 死ぬなんて、わたしは許してない…!! ねぇ、聞いてるの!? オーディの主はわたしよ!! わたしの言う事は〝絶対〟だって言ってたじゃない!! ねぇ、オーディ…オーディィィィィ!!!」

 もはや、この間違いに村人は気付いてしまった。なんて事をしてしまったんだ…と騒いでも、既にそのざわめきもアルティナの耳には届かない。

 アルティナは、体の中で湧き上がる何かを強く感じた。不安、恐怖、怒り、悲しみ─…様々な負の感情に飲み込まれると、途端に自分の意識も理性もなくなってしまった。時々、脳裏に焼きつくような村人の怯えきった顔が見えたりもしたが、何に対してだったのか、何が起きたのかさえ分からない。ただ最後に見た光景で覚えていたのは、無残な村の姿だけだった。


 それからどれくらい経っただろうか──

 気が付くと、アルティナは森の中を彷徨っていた。最初こそ〝なぜ自分がここに…?〟と思ったが、意識が途切れる前の出来事や怯え切った村人の顔、そして最後に見た光景が何度もフラッシュバックするうちに、あれは自分がやった事だと理解した。

(わたしが…壊したんだー…全部…全部、わたしが──…)

 自分がした事の残忍さに体が震えてくる。そして守るべき立場の自分が、自らの手で殺めてしまったという事実に絶望した。そんな自分のどこに生きる価値があるというのか。いやむしろ、死を持って償っても足りないくらいだというのに。

(誰か…殺して……わたしを殺して─…)

 アルティナは、フラフラと彷徨いながらもそう強く願った。どんなに死にたくても、その立場ゆえに自ら命を断つことができない。それは決まり事のひとつではあるが、〝ただの決まり事〟なら今更守る必要もなかった。だから、何度も自分の体を傷付けた。でもその度に、大地の力によってすぐに傷口が治癒してしまうのだ。もちろん大地の力にも限界はある。オーディがいなくなった今、修復不可能なくらいズタズタにされれば死ぬこともできるだろう。ただそこまでの致命傷を自らの手で加えるには、あまりにも力がなかったのだ。

(お願い、誰か…誰かわたしを─…)

 アルティナは、あの日から何も口にしていなかった。体の中の水分は、オーディや多くの人の死を悼み流した涙で枯れ果ててしまった。なのに、喉の渇きを感じない。いや、もうそんなものはとうに過ぎていて、感覚がおかしくなっているだけなのかもしれない。現に、皮膚感覚も痺れているようで鈍くなっているのだ。今が寒いのか暑いのかも分からない。吹いてくる風が体に触れているのも分からない。間違いなく踏みしめている足の裏の感覚もなくなっていた。耳は遠く視界も霞む。

(あぁ、そうか…)

 アルティナは思った。

(もしかしたらこれで死ねるかも──…)

 本当ならズタズタに切り裂かれ、みんなが受けた痛みを感じながら死にたかった。許してはくれないだろうが、それくらいされた方が少しは救われる気がするからだ。けれど、それはもう叶いそうにない。

 アルティナはふと足を止めた。そしてガクンと膝をつくと、

(…ごめん…なさ─…)

 そのまま意識を失うように地面に倒れてしまった──


 ちょうどその頃、弓で〝鏡矢〟の練習をしに森に来ていた一人の少年がいた。少年の名前はネオス、十二歳だ。

 ネオスから十五メートルほど離れた場所には、自分を中心として左右対称の場所に木でできた丸い的が設置されていた。ネオスは目を閉じて呼吸を整えた。そしてゆっくりと目をあけてから、二本の矢を弓に当てがいグッと引いた。的を狙う矢は、十二歳とは思えないほど力強く微動だにしない。最近は力を付けたことで成功率が上がってきたのだ。ネオスは一瞬息を止めると同時に、指をパッと開いた。〝ビュンッ…〟と風を切る音がしたかと思うと、右の的に〝タンッ〟と矢が突き刺さった。──が、もう一本の矢は左の的を僅かにかすっただけで、木々の中に消えてしまった。その直後、獲物が倒れたような〝ドサッ〟という聞き慣れた──けれど、練習中には決してしなかった音──が聞こえてハッとした。

(しまった…。イノシシにでも当たってしまったか…)

 無駄に命を奪ってしまったかも…と慌てて音がした方に行けば、そこで目にした光景にネオスの心臓が激しい音を立てた。

(大変だ…人を…女の子を死なせてしまった…!)

 そう思い慌てて女の子を抱き起こしたのだが、不思議なことに体のどこにも矢が刺さっていなかった。

(じゃぁ、矢はどこに…?)

 咄嗟に周りを見渡すと、的から外れた矢の軌道の延長線上の地面に、一本の矢が突き刺さっているのが見えた。

(よか…った…。矢で傷付けたんじゃなくて…)

 ネオスはホッと胸を撫で下ろした。でも同時に〝この子はどうしてこんなところに?〟という疑問が湧いた。見る限りケガをしているところはないようだが、体中が土で汚れている。その汚れゆえに、顔には涙を流した跡がくっきりと残っていた。

(とにかく、ばば様のところへ連れて行かないと─…)

〝このままでは死んでしまう〟

 直感的にそう思ったのは、彼女に触れている手から伝わる不思議な感覚だった。今まで感じた事のない感覚。だけど、間違いなく彼女の〝何か〟だというのは分かった。

 ネオスは弓を肩に掛けた。そして両手で彼女を抱き上げた時だった。

(────!?)

 予想外の事に、勢い余って転びそうになってしまった。間違いなく彼女を抱き上げているのに、想像以上に重さを感じなかったのだ。

(こんな事って─…)

 〝あり得ない〟と思ったが、これが彼女から伝わる不思議な感覚だとしたら──

 そう思うと、ネオスは反射的に走り出していた。


「ばば様…! この子を助けてあげて…!」

 パーゴラのばば様の家に駆け込んだネオスは、扉を開けるなり開口一番そう叫んだ。

 ばば様は不思議な力を持っている、この村一番の長老だ。昔からその力を使って村を守ってきたため、何かあれば必ずばば様に相談しに行くくらい、村人からの信頼が厚い。ネオスもその一人で、だからこそばば様なら彼女を助けられると信じてここに来たのだ。

 いつもは落ち着いているネオスが珍しく大声を出したため、ばば様も何事かと慌てて奥から出てきた。

「助けてって、いったい──」

「死にそうなんだ、この子…すごく軽くて──」

(軽い…?)

 その表現が死にそうな彼女の姿とは結び付かず、ばば様は一瞬眉を寄せた。しかし彼女に触れた途端、それが〝ただの少女〟でない事を悟った。

(ついに現れたか…!)

 ネオスの役目と彼が感じた感覚の意味を考えると、その結論に結びつく。ばば様は、すぐに彼女をベッドに連れて行くよう指示した。

 それからは、ばば様とネオスが交代で看病した。その甲斐あってようやく目を覚ましたのだが──

「どうして死なせてくれなかったの…!」

 怒りと悲しみに満ちたその言葉が、彼女の第一声だった。

(どうして死ねないの…? どうしてわたしはまだ生きてるの…? 生きる意味なんてとうになくなってるというのに……!)

 アルティナは、一日中ベッドの上でうずくまって泣いた。それがまた悲しかった。体中の水分がなくなって涙も出なくなったというのに、今は涙が出てくるからだ。口の中の渇きがなくなっている事も悲しくて腹が立つ。死の間際から遠のいてしまった事を思い知らされるからだ。

 意識を失っている間は自然と大地の力が体を癒していく。口の中に水が入ると飲み込んでしまう反射を利用して、ネオスとばば様が誤嚥しないように少しずつ与え続けた結果が、今なのだ。生かそうとする二人に抵抗するように、アルティナは目を覚ましてからも何も口にしようとはしなかった。

「お前さんは、どうしてそんなに死にたがる?」

 ばば様が優しく聞いた。けれど、アルティナは口を閉じたままだった。今度は違う質問をした。

「名前は?」

「…………」

「ふむ…困ったの…。名前が分からんと、色々と不便なんじゃが…」

 小さな溜息をついて肩を落とすばば様の様子に、第一声以降ダンマリを続けていたアルティナは思わず呟いてしまった。

「…いない…」

「うん?」

「わたしは…いない…。この世界には、いないと思ってくれればいい…」

「それはまた難しいことを…」

「どうして…? 簡単なことでしょ。放っておいてくれればいいだけなんだから」

「見えないものを見えているように演じるのも難しいが、その逆もまた難しいものなんじゃよ。見えているものは、どうやったって目に入る。目に入れば、放っておくことはできん。それが人間だ」

「…………」

「ネオスも心配して、あれ以来ずっとここに泊まっておるしのぉ」

「心配なんか…わたしなんか心配しないでよ…。そんな価値、わたしにはない。優しくされる価値もない…わたしは…わたしは……そういう人たちを大勢殺したんだから…!」

「────!」

 その言葉には、さすがのばば様も驚いた。──と同時に、死にたがっている理由もそこにあるのだと分かった。ただの少女が言ったことなら、そんな言葉は信じないだろう。けれど、彼女は違う。殺そうと思えば殺せる力がある。ただ死にたいと思うほど後悔しているということは、そうしたかったわけでも、それが必要だったわけでもないのだろう。そして一人森の中を彷徨っていたということは──

(帰る場所がなくなった、というところか…。だとすれば、殺めた大勢というのは─…)

 ばば様なりに導き出した答えは、簡単に口に出せることではなかった。ただ、それならば尚更放っておくことはできない。

「お前さんに、ひとつ頼みがあるんじゃが─…」

 ばば様は、アルティナの反応を見るようにゆっくりと言った。

「この村の者たちを守ってくれないかの?」

 予想外の言葉に、今度はアルティナが驚いて顔を上げた。

「…な…なにを言ってるの…?」

 アルティナは本気でそう思った。あまりにもあり得ない言葉に、言っている意味が分からなかったのだ。

「わ、わたしは──」

「ここにはな──」

 〝わたしは大勢の人を殺したのよ?〟と繰り返そうとしたアルティナの言葉を、ばば様が遮って続けた。

「どの村にも必ずいるという、守り神がいないんじゃよ」

「────!」

(この人…わたしが何者か知ってる…!?)

 人を殺した者にこの村を守って欲しいという事にも驚いたが、自分の正体に気付いていた事にはもっと驚いた。そんなアルティナの表情を気にもとめず、ばば様が続けた。

「この村は、寄せ集めでできた村じゃからな」

「寄せ…集め…?」

 ばば様が頷いた。

「村から追い出されたり、自らの意思で村を出てきたり、あるいは旅の途中に居ついたり…と、ここにいるのはそういう者たちばかりだ。だから、守り神がいないんじゃよ」

「…………」

「どうかの、引き受けてはくれぬか?」

「そん…なの、ムリよ…」

(自分の村を滅ぼして、守るべき人を失ったから新しい人たちを守れって…? そんな都合のいい事─…)

「そんな資格、わたしにはないわ…」

 そう口にすると同時に、アルティナはそれが一番自分の気持ちを正しく表した言葉だと感じた。

「資格か…。確かに、その資格はないかもなぁ。けど、お前さんは後悔しておる。そして自分の意思に反して、なぜか生きている」

「そうよ…死にたいのに死ねない…。誰も殺してくれない─…」

「ならば、生きるしかないじゃろ。なぜ死ねないかを考えて悩むより、なぜ生きているのかを考えて悩む方がずっと価値がある。殺めてしまった人の数だけ、守り救うだけでも生きる意味ができるとは思わないか? そしてそれ以上の人を救えば、生きる価値が生まれる。どうせ罪の意識で苦しむのなら、一日でも長く生きて苦しみ償っていけば良いと思うがの?」

 ばば様は〝どうだろうか?〟と無言で問いかけた。

(生きて、苦しみ償う…。殺めてしまった人の数だけ…ううん、それ以上の人を守り救う─…それでわたしが生かされるって事…?)

 もちろん、それで許されるとは思っていない。ただ価値や資格云々というより、償いができるかもしれないという思いが、アルティナの閉ざしていた心の扉をフッと緩めた瞬間だった。

 それからのアルティナは涙を流す事がなくなった。この村を守るという事を本気で考え始めたからだ。それでもまだ覚悟が決まらないうちは、名前を明かそうとはしなかった。そんなアルティナに、ばば様とネオスが〝ルフェラ〟という名前を送った。

 ネオスはいつもルフェラに寄り添った。優しくて落ち着いていて、時折オーディを思い起こさせるようなネオスに、ルフェラが心を許すのに時間はそうかからなかった。そして〝ルフェラ〟としてこの村で生きていこうと覚悟を決めた時、初めて本当の名前を二人に教えたのだった。

 それからしばらくすると、ネオスの母親が病気を患ってしまった。治らない病気だと言われた事を知ったルフェラは、ある夢を見て〝救える〟と自信を持った。それに必要な花を探しにネオスと二人で森に入ったのだが、その花を採ろうとしたルフェラは足を滑らせ崖下の川に落ちて流されてしまった。落ちた瞬間ネオスは違うところにいて、ルフェラが川に流されたことを知ったのはしばらく後だった。必死に川を下り探した結果、下流の浅瀬にルフェラが横たわっているのを見つけた。手には探していた花が握られていた。そしてなぜか、その隣には一匹の狼が佇んでいた。

 ネオスはルフェラと初めて出会った時のように両腕に抱えると、急いでばば様の家に向かった。体温は低く、身体中が傷ついて骨折しているところもあった。抱き上げた時の軽さは、初めて抱き上げた時以上だ。ある程度体温が戻ってきた後は、今度は高熱がルフェラの体を襲った。

 そんなルフェラを誰よりも失いたくないと思ったのはネオスだ。ようやく主君に会えたという思いと、それ以上の気持ちがネオスにある行動を起こさせた。

 ネオスはルフェラが握っていた花を手に取ると、その花に願ったのだ。強く、強く、強く──

 そうしていつの間にか眠っていた。ふと目が覚めた時には、握っていた花は消えていて、ルフェラの熱も下がっていた。

(良かった…)

 心の底から安堵の息が漏れた時、ルフェラもフッと意識が戻り目を開けた。

「ルフェラ…! あぁ、良かった…。──ばば様! 目を覚ましたよ、ばば様! ルフェラが目を覚ました!!」

 隣の部屋で仮眠をしていたばば様を呼び起こそうと大声を上げた直後、ルフェラの口から発せられた言葉に、ネオスの心臓が止まりそうになった。

「ルフェ…ラ…? ──って誰…?」

「え…?」

 あまりの衝撃に、ネオスは声も出なかった──


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