結
ただ只管に、走る。緩やかな上り坂なのだから、出口に向かっているのだと信じて。
現世と幽世が交じり合い、全てが曖昧な坂の途中。腕の中の重みと、しっかり繋いだ手のぬくもりがあるのが何より有難かった。
「――榊、止まって!」
腕の中の樒が不意に大声を上げ、考えるより先に足を止める。坂の途中、白い髪を背に流した、美しい美丈夫が立っていた。
「……さんざし様」
きゅ、と樒が右腕にしがみついてきて、もう一人の樒の手にも力が籠る。やはり役目を果たせなかった負い目があるのか、それとも山査子自身を恐れているのか。何も気にすることは無いと告げる代わりに、目の前の男に向かおうとした時、山査子の方からすいと足を引き、道を譲った。
「……、」
「何だその顔は。どうにかしたのだろう、ならさっさと行け。村に戻るんじゃないぞ、面倒なことになる」
「……いいの?」
おずおずと聞く樒の頭を笑って撫でて、山査子は坂の下へと歩を進めた。
「充分面白いものは見せて貰った。駄賃だ、足止めぐらいは引き受けてやる」
「……悪いな」
信じられないまま、それでも思わず詫びを入れると、くは、と面白そうに山査子は嗤って肩を竦めた。
「何だ、いつになく素直じゃないか、気色悪い。……早く行け」
「山査子様! あの、私――」
抱き上げたままの小さな樒が必死に訴えると、困ったような顔で再び振り向いた。聞き分けの無い幼子を宥めるような声は、いつになく優しい。
「そろそろ坂を抜けるのだから、大人しくひとつに戻りなさい。安心せい、どうやったってもう、坊主はお前の手を離さんよ」
「……、」
「うん。ありがと、さんざし様」
困ったように俯く小さな樒に対し、樒はにっこり笑って榊に抱き着いてきた。正確には、榊が抱き上げたままの小さな樒に抱き着いてきた。
その二人の姿は陽炎のように揺らぎ、歪んで――腕の中の重みがずん、と増えて、慌てて両腕で支えた。その時には、もう右手の中の掌は無い。
代わりにしっかりと、自分よりは背が低いけれど間違いなく、同い年の少女が腕の中に納まっていた。
「……樒、」
「だいじょうぶ。ちゃんと、此処にいるよ」
絞り出すように、彼女の名を呼ぶ。ほ、と息を吐いて、腕の中の樒が笑った。今までと顔立ちは変わらない筈なのに、どこか酷く、心細げな、それでも安堵をした顔で。
「樒なんだな」
「うん、うん。呼んでくれてありがとう。……嬉しい」
そう言ってしがみついてくる体をもう一度抱き締めて、後は振り向かずに地上へ向かって、二人で駆け出した。
×××
「やれやれ全く、面倒だ」
山査子はひとりで、穴の奥へと降りていく。ずるずると緩慢に地下から伸びてきた白い帯は、彼に触れる前に青い炎で焼かれていく。
まだこの村が村ですらなかった頃の、遠い遠い昔の話だ。この辺りを好き勝手に食い荒らしていた妖が、別の妖に懲らしめられた。殺さなかったのではなく、殺せなかっただけ。妖はどれだけ痛めつけられても死なない――簡単に言うなら、心が折れなければ生き続けるもの。故に妖同士で命を奪い合うこともしない。不毛だからだ。
だから、懲らしめた方は懲らしめられた方が逃げないように、体を全部燐の火で念入りに焼いて、土に埋めて、その上に石を置いた。するとそこに人間達がやってきて、石をご神体だのと拝みだし、土を耕して暮らし始めた。
懲らしめた方の妖も、大分力を使って疲れており、人間の動きに興味など無かった。するといつしか、妖の力を恐れた人々は彼を崇めだし、封じられたあれも神として祭り上げた。どちらも人間にとっては、ただ恐ろしいものでしかなかったから。
人間は臆病だけれど、寿命は短い。どれだけ伝えても、どれだけ残しても、忘れていく。数多の飢饉や災害に襲われた時、誰かが神に贄を捧げれば良いと言い出して、それがたまたま上手くいってしまった。簡単に言えば、久々に餌を貰えたあれが元気になって、土地を肥えさせただけ。しかし人々はそれを喜び、信じ、安堵し、崇め奉った。
その頃にはすっかり自分も飽きていたし、何をする気も起きなかった。たかが人の数十、数百人があれの餌になっても、封印が解けるわけもなかったので、止めることもしない。
それなのに、あの身の程知らずの坊主に、人が妖に一矢報いる方法を教えたのは。
「随分はしゃいでいるな。一度吾に負けたのに、まだ懲りないか」
ゆっくりと歩く山査子の背に舞う白い髪が、別の形を取る。雪のように白いそれはふさふさと毛を纏った尾になり、その穂先に青い燐の火を灯した。
「あのふたりは、お前にやらん。悔しかろうな、腹が減ったろうな」
無患子の怒りに呼応して、空気が歪む。天にぴんと尖った耳を頭に生やした山査子は、その顔もぐにゃりと歪ませ――九本の尾を蓄えた、巨大な狐と化した。
「人に傷つけられ、気に入りの贄を奪われた。悔しかろうな、無様よなぁ」
その口から漏れる言葉は嘲りだ。存在自体が気に入らない相手を、今度こそ細切れにして、燃やし尽くしてやれば流石に絶望し、滅されるかもしれないという期待だ。妖は己の欲の赴くままにしか動かない。人の機微など、慮ることはない。
「――無理ならせめて、あのふたりの命が尽きるまでは、大人しくしていろよ」
その癖、最後に呟いた誰にも届かない言葉には、どこか慈悲の色が含まれていたかもしれない。
×××
がしゃん、と耳障りな音を立てる自転車が走る。念のため、神社の麓に持ってきていたものだ。ライトをつけているので尚更ペダルが重いが、足を緩めるつもりはなかった。
少ない荷物とかき集めた金も用意していて、樒が背負って、荷台に跨った。これからどうするのかなんて何も決めていない。村から出たことのない自分が、どうやって生きていけるかも解らない。
それでも、腰にしっかりと回った細くて白い腕が、ぎゅっと自分にしがみついてくるから、榊は何も怖くは無かった。
「さきちゃん、榊」
「んだよ」
呼び方が混じっていることすら、今は心地よかった。樒の小さな声は、背中に唇をくっつけるようにしがみついているおかげで、ちゃんと聞こえた。
「これから、どうしよう」
「離れてから、考える」
息はあがっていくが、ちゃんと答える。もう二度と彼女の言葉を聞き逃しはしない。
「榊。さきちゃん。……大好きだよ」
一瞬、ペダルから足を滑らせかけたが、ぐっと堪えて更に踏み込む。応えてやりたいが、村から出る最後の坂道に差し掛かったので、一度だけ腰に回った手をぎゅっと握り締め、すぐ離す。
「下るぞ、口閉じてろ!」
「うん……っ」
「あと、俺もだ!」
それだけ叫んで、後は必死にペダルを漕ぐのに集中した。耳障りなホイールの軋む音に混じって、本当に嬉しそうな声で樒が笑ったのも、ちゃんと聞き逃さなかった。