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 一夜明けて日曜日。まだ陽の光が山の上から差す前に、榊は寝床から出た。狭い部屋の中、隣では布団に包まった樒が、寝息が聞こえないぐらい静かに眠っている。自然と、自分の掌を彼女の顔の前に出し、吐息が触れてくるのを確認して息を吐いた。

 家にある食パンだけで朝飯を済ませ、足を忍ばせて、家から出る。村の外れにある、トタン屋根の小屋と言ってもいいぐらいの小さく古い家。それが、榊と樒の今の塒だった。玄関の隣には使い古しの鉢から沢山の朝顔が延びている。たまに忘れることもあるが、樒が毎日水をやっていた。絞り上げられたような蕾が開き、赤や青、紫の花が咲き始めている。自然とどれが何個あるか数えようとして、すぐに止めた。昨日の会話など、樒はもう忘れているだろう。

 古びて軋む自転車を漕ぎ、畦道を走る。既に田圃で働いている村人達は、煩い自転車と榊の姿にすぐ気づくだろうに、誰もが声をかけず俯いている。

 五年前。樒が、十年に一度行われる神事に巫女として参加し、榊のせいで失敗してから、村人達は皆ふたりを詰った。それは榊の親も例外ではなく、声高に子供を責め、その上で彼らも村人に蔑まれ、村から追い出されていった。今どこにいるのかは誰も知らない。それ以来ずっと、榊と樒はふたりきりだ。

 歯を食い縛って、ペダルを踏み込む。麓まで自転車で進み、躊躇わず村を囲む山へと足を踏み入れた。畑も無い、人の手が入っていない森の中へ。手に持つものはたった一つ、竹刀袋から取り出した木刀だけ。

 山の中腹まで登ると、少し木々が途切れていて村が見下ろせた。狭い村だ。郷愁や親しみなど、榊の中には微塵も無い。

 親も、家も、村も、全部全部、自分と樒の敵だった。だから自分だけは樒を守ろうとして――出来なかった。その後悔がずっとずっと、心の内で燻ぶっている。

 村を挟んで反対側に、大きな神社の鳥居が見える。あそこに祀られているのが、むくろじ様だ。名前の由来は知らない。この地を富まして守る、そういう神様らしい――とても信じられないけれど。

 ぞわり、と足先から背筋へ寒気が這い上がってきて、爪先の前に木刀を振り下ろした。暗く淀んだ妖の種が、僅かに青い火花を散らして消える。

 この木刀を与えた者は、榊にこう言った。これで只管妖を祓い続ければ、そこそこの力は得られるだろうと。時間はかかるだろうが、神と名の付くものにも一太刀浴びせられるぐらいにはなる、と。

 榊はそれを、信じるしかなかった。それ以外のやり方も、償い方も解らなかったから。

 ぞわぞわと、朝でも暗い森の中から、黒い靄から異形に変わったモノ達が近づいてくる。これらは、神社に祀られているものと、それを封じたものに怯え、こちら側の山に留まっているらしい。そして、もしそれらがいなければ、すぐに樒を狙ってくるとも。

「――失せろ」

 ぎり、と歯を食い縛り、榊は木刀を振るった。黒い靄が火花と共に散っていく様を見届け、暗い森の中を歩き出す。どんなに念入りに潰しても、後から後から湧いてくる。今年の祭りも近い、暢気にしている暇はなかった。


 

 ×××


 

 ぱち、と何度か目を瞬かせて、樒は漸く目を覚ました。

「……さきちゃん?」

 名前を呼ぶが、返事は無い。隣の布団は既に綺麗に畳まれていて、狭い家の中の何処にも見当たらなかった。ぷ、とまた頬を膨らませながら、もたもたと自分の布団を片付ける。ちゃんとやらないと、榊に叱られてしまうから。

 一応携帯ガスコンロは台所にあるが、別に空腹では無いので朝飯は必要ない。でも、多分榊が自分の為に残していってくれた食パンが置いてあったので、有難くいただいて外に出た。

「あ、アサガオ」

 随分日が昇っていたので、少し萎れている朝顔に水をやることにする。用水路から勝手にバケツで汲んで水を使うのは黙認されていた。村の人々にとって、樒達は追い出したい存在だろうが、それは出来ないのだろう。

 義理の母――つまり、榊の実の母が、むくろじ様のお山から戻ってきてしまった樒を責め、その手を振り上げた時。彼女の肘が有り得ない方向に曲がったのを、樒もこの目で見た。その時たまたま、逆に父に叱られていた榊が傍に居なくて良かった、と樒は思っている。

 この身は既にむくろじ様のものであり、傷つけたら報いがある。それがあっという間に村の中に広がって、両親の方が村を出て行った。榊の親を自分のせいで奪ってしまったと思い、謝ったら逆に怒られた。

 あの日から自分は酷く愚鈍になってしまったという自覚は、樒にもある。大事なものは、全部むくろじ様に取られてしまった。だから、どうすればいいのか、今の樒にはよく解らない。

「……さきちゃん、早く帰ってこないかな」

 榊は優しい。ああやって毎週休みを返上してお山に入るのも、修行という奴らしい。それも、自惚れでなく、樒の為にやっている。

「しぃも、うれしい、」

 言い聞かせるような言葉は漏れるけれど、その声はちっとも嬉しそうでは無かった。何故なら、彼の優しさを受け取る資格が自分に無いことを知っている。榊が本当に、欲しいものも知っている。――五年前から、彼は樒の名前を呼ばなくなったのが、その証だ。

「いまのしぃは、さきちゃんの好きなしぃ、じゃない」

 榊の前で見せる柔い表情を無くして、樒はぶらぶらと畦道を歩き出す。榊のところへ行きたいけれど、行ったら怒られる。自然と爪先は、神社のある山の方へ向かっていく。

 ずっと呼ばれている。五年前のあの日から。あの日、半分は無くなってしまって、繋がったところから、色々なものが少しずつ無くなっているのが――自分という存在が、どんどん薄れていくのが解る。むくろじ様が、食べているのだ。

「……急がなきゃ」

 早くしないと、間に合わない。五年は長い、もう我慢は出来そうにない。

 五年前にたった一人で登り、二人で戻ってきた神社の階段を見上げる。鳥居の真ん中に据えられている其処に、足をかけようとして――

「あ。……さんざし様」

 ひらり、と目の前に青い炎が散って、漸く樒は我に返った。

 その炎は樒の目の前でゆらゆらと形を変えて、美しい蝶の形となり――まるで樒を誘うように、神社とは反対方向に飛んでいく。

「さきちゃん、そっちにいるの? じゃあしぃもいく」

 今までの何処か無機質な表情とは裏腹の、無邪気な笑みを浮かべて樒は蝶を追った。


 

 ×××

 

 

 日が暮れてきたため、榊は一息吐いて木刀を肩に担いだ。流石に夜になると森で迷わない自信が無い。下生えを掻き分けながらどうにか麓まで戻ると、

「さきちゃん、おかえりぃ」

 古びた自転車と道祖神の隣に、樒がしゃがみ込んでいた。叱り飛ばしてやりたくなるのをぐっと堪える。どうせ聞きやしないと解っているので。

「……帰るぞ」

「ん、だめ」

「あぁ?」

 自転車のハンドルを握って乗るように促すと、否定の言葉が帰ってきたので眉を持ち上げる。振り向くと、いつも通り溶けた餅のような笑顔の樒、その指先に小さな蝶がとまっていた。夕暮れにも拘らず、青い羽が燐の火のように輝いている。

「さんざし様が、呼んでるから」

「……チッ」

 強く舌打ちをしても樒は怯んだ様子を見せず、にこにこしたまま荷台に跨って来る。憤りも込めて、大きくペダルを踏み込んだ。その周りを飛ぶ蝶は、自転車よりも早く、先導するように真っすぐ飛んでいく。この村の中心にある、一番大きな屋敷に向かって。狭い村なので、そう労せず辿り着いた。

 昔は所謂庄屋のような役割を担っていたらしく、敷地の中に蔵が並んでいるぐらい広い。村の女衆が交代で掃除などの家事を担っており、堂々と二人乗りの自転車で門をくぐった榊達に対してあからさまに眉を顰めて見せた。いつものことなので、腹も立たない。軋む自転車から降りて押し始めると、樒も飛び降りて後ろに続き――家屋から出てきた相手に、ぱっと声を上げた。

「さんざし様!」

 そう呼ばれたのは真っ白な長い髪を背に流した、男とも女ともつかぬ美貌を湛えた着物の青年だった。紅も引いていないのに赤い唇をゆるりと緩め榊と樒を――正確には樒だけを出迎えに来たらしい。女衆は慌てて最敬礼を取っているが、そちらには全く視線を向けない。

「山査子様、お出迎えは私達が――」

「やあやあ、よく来たよく来た。大きくなったな、樒や」

 神秘的な装いと裏腹に、好々爺のようなしゃがれた声を上げた山査子は、草履をつっかけて土間まで降りてきて、樒の頬を撫でて見せた。そこで初めて女衆は樒の存在に気付いたらしく、怯えたように後退る。樒は気にした風もなく、寧ろにこにこと笑っていた。

「こんにちは! あれ、こんばんは! かなぁ」

「もう日暮れだものな、どちらでもいいとも。腹は減っていないか? まだ夕餉には早いけれど、今日は西瓜があるんだ、切ってあげよう」

「おい――」

「すいか!」

 榊が止めようとする前に樒がぱあっと顔を輝かせたので、ますます美貌の青年は笑った。まるで孫を可愛がる祖父母のように。

「うんうん、沢山おあがり。――坊主も一緒にな」

 そこで漸く、山査子は榊の方に顔を向けた。露骨にもう一度舌を打ってやっても、本人は全く気にした風もない。彼が、榊に戦う術を教えた張本人にして、この村の頭領である山査子だった。


 

 ×××


 

 冷えた西瓜をひと切れ食べて満足したらしい樒は、山査子の部屋の縁側から庭に出て遊びだした。ここにある鯉のいる池が、彼女のお気に入りなのだ。

「随分と、薄くなったな。食も細くなった。うちの女共も、吾が触れるまで気づかなんだか」

 彼女の姿を目で追っていた榊に、山査子の静かな声が届く。ぐっと拳を握り締めて苛立ちを吐き出すのを堪え、座敷の上座に座る相手に向かい合った。

 袋に入れたままの木刀を、ぐいと手渡す。山査子も躊躇い無く袋を開き、使い込まれた木刀につつ、と指を滑らせる。ぱち、と僅かな青い火花が指先から散った。

「悪くない、といった程度だな。今年の祭りには――」

「間に合わせる」

 ぴしゃりと言い切ると、山査子はにやりと口の両端を引き上げて笑った。酷く神経を逆撫でする、不快な笑みだ。

「何度も言っているだろう。こんなものは気休めにしかならん。人にはあれは殺せぬし壊せぬよ。せいぜいがあれの、か細い毛の一本か二本、切り飛ばせる程度」

「それでも――あいつを助けることは出来るだろう。あんたがそう言った筈だ」

「万が一つに、と続けた筈だが? ――自惚れるなよ坊主」

 膝に肘をつき、ずいと身を乗り出してくる山査子の赤い目の中に、金の色が混じって煌めいている。――人ならざるものの目だ。

 彼がいつの頃からこの村にいるのか誰も知らない。代替わりをしているのだという者もいるが、彼はいつもこの姿のままで、年若い姿も年老いた姿も、見たことがある者はいない。そしてそれを、誰もが疑問を持たない程度に、彼はこの村を支配していた。彼自身が言うなら、勝手にそちらが畏れて崇めているだけだ、とのことだが。

 彼が榊に知恵と力を貸してくれている理由の一つも、ただの気紛れに過ぎないと解っている。もう一つは――

「あれに取られて、魂が残っているだけでも上等だと、いい加減に分別を持て。それはあの子が――」

「さんざし様ー!」

「おや、どうした? 樒や」

 氷の刃のように鋭かったしゃがれ声がすっと温もりを持ち、山査子はすぐに座布団から立ち上がって、縁側に膝を乗せた樒の方にいそいそと近づいていく。  

「あれやって! ちょうちょ作って!」

「おお、いいともいいとも」

 ぶんぶんと手を振って強請る子供に、山査子は唇をすと窄めて、細く息を吐いた。夕闇に変わってきた空に、青い火花の帯がたなびいてゆく。

 紅い唇の隙間から煙のように広がった燐の炎は、まるで生きているかのように蠢き、羽根を広げ――美しい蝶々たちの姿となった。わぁ、と歓声をあげた樒が、ひらひらと飛ぶ炎の蝶を追いかけて走っていく。

「……あの子は酷く妖に好かれる。そういう風に生まれついてしまった子供だ。敢えて言葉で表すのならば、魂の色が濃い。そういう子供は妖に狙われる――だからお前の両親も、目を付けたのだろうさ」

 人に対する嘲り声で語るけれど、樒を見る瞳は優しい。本当に、彼女自身を気に入っているように。榊は僅かな苛立ちを、胸の内だけで噛み殺す。気づかれたら死ぬほどからかわれるのが目に見えているので。

「今あの子が狙われていないのは、あれに半分取られているからだ。唾をつけられているのと同じだからな。だが、あれは大喰らいだ。その内あの子も全部、食いつくされるぞ」

「だから、今年だ。これ以上は待てねぇ」

「自惚れるなと言った筈だぞ」

 じろりと睨み下ろされても、引くつもりは無かった。暫く視線を絡ませ、ふーっと息を吐いて目を伏せたのは山査子の方だった。

「やれ、生意気な。たったの五年前は、べそを掻いて泣きついてきた癖に」

「五年も、だ」

 多分恐らく、五年など山査子にとっては瞬きの間の話なのだろう。無謀な子供に手を貸したのも、ただの気紛れに違いない。それでも、この好機を逃すわけにはいかないのだ。

 ずっと目を逸らさずにいると、山査子がごそりと懐を探り、小さな木札を二枚取り出した。無造作に畳の上に放られたそれを拾う。

「姿隠しと目晦ましだ。誰かに見咎められそうになったら使え。言っておくが、人の目を欺けるだけのものだ、あれには通じんぞ」

「解ってる」

 これも気休めでしかないのだろうけれど、どんなものでも有難い。ぐっと握り締めてポケットに仕舞う。

「いいか、あれを殺そうなどと万が一つにも思うな。邪魔なものだけ斬り飛ばして、兎の如く逃げてこい。……今度は、置いてこないようにな?」

 く、とまた嘲りの顔で山査子は嗤うが、睨みつけるだけで返事をした。


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