起
がしゃん、がしゃん、と錆びた自転車のホイールが気まずい音を立てて行く。
田圃沿いの畦道を、ペダルを踏むたびに軋む古びた自転車で、篠目榊はいつも通り、不機嫌そうな顔で走っていた。
高校三年生にしてはかなり恵まれた体躯を持ち、悪い道と古い自転車に負けず、山奥の村から麓の高校までこぎ続ける膂力と体力は有り余っている。
時代に置いていかれたようなこの篠目村には、当然学校などは無く、小学生の頃から山道を降りるのには慣れていた。錆びた荷台に、そんなに重くは無いけれど大きな荷物を載せることにも。
「ねぇねぇ、さきちゃん」
背中の後ろから声がする。急で凸凹な坂道でも、通い慣れているので肩越しに後ろを振り向く余裕はあった。
荷台の上に逆向きに座り、顔だけをこちらに向けた少女がいる。紺色のスカートの下から覗かせている足を車輪の横でぶらぶらさせて、道交法など知ったこっちゃない振る舞いをしている彼女は、この田舎では非常に珍しい、酷く色素の薄い髪と肌を持っていた。薄茶色の髪は染めておらず、自前だ。幼い頃に、榊という名前を発音する時に間違えて以来始めた呼び方を、彼女は使う。……以前は、名前で呼んでいた癖に。
「ん、だよ」
夏が近づいてきた太陽の光は、朝でも強い。汗を流してペダルを踏みながら乱暴に言い捨てると、少女は汗ひとつ掻かない色白の顔で、ふにゃふにゃと子供のような顔で笑って言った。
「今日ねぇ、うちのアサガオにつぼみが出来たの、知ってた?」
実に他愛のない雑談に眉を顰め、「知らねぇ」とだけ返してまたペダルを強く踏む。がしゃん、とぶれるホイールの音が耳障りだ。いくら油を注しても全く直る気配がない。ホルダーに挿した竹刀袋も、がたがたと震えて油断すると落ちそうだ。後ろの声は相変わらず暢気で、何も気にした風は無い。
「今年は、赤いのと青いのと、むらさきのと、どれが一番咲くかなぁ」
子供の頃に学校で育てて以来、ずっと家の鉢に植え続けている朝顔はすっかり増えてしまった。毎年違うよねぇ、と煮蕩けた声で呟く少女は見た目だけなら女子高生である筈なのに、喋る内容も喋り方も酷く子供っぽい。昔は自分よりも余程大人びていたのに、ほんの五年前から、こうなってしまった。そんな彼女の姿は、いつも榊の心に苛立ちを齎す。
「下るぞ、口閉じてろ」
「はぁーい」
学校に向かう最後の難所である急な坂道に辿り着いたので、後ろの少女をぴしゃりと叱る。間延びした声で返事が来たことにやはり苛立ったまま、榊は軋む自転車を進めていった。
×××
少女の名前は、篠目樒という。誕生日は榊と三ヶ月しか違わないが、一応兄妹ではある。義理の、が付くが。
お互いが五つの頃に、榊の両親がどこからか貰って来た子供で、当たり前のように一緒に育てられた。親も親戚も、血が繋がっていないことを公言していたので、互いを兄だの妹だのと呼んだことは無い。
目つきが悪く、他人に愛想を振るのが苦手な榊に対し、子供の頃から見目は整っていたし誰に対しても明るく振る舞える樒の方が、友達が多かった。頭の回転も速く、子供らしくない子供だと半分蔑み混じりで言われていた。今はもう、見る影もないけれど。
「ありがとねぇ、さきちゃん」
「おぅ」
村から自転車でも一時間はかかる高校の駐輪場で、樒はぴょんと自転車から飛び降りると軽い足取りで校舎に入っていく。この辺りの子供は皆通うことになる高校なので、田舎町であるが生徒数はそこそこいる。そんな朝の人込みの中を、樒はするすると通り抜けていく。誰にも気づかれない幽霊のように。
やがて樒の教室に辿り着き、彼女は自分で扉に手をかけ、がらりと開く。中の生徒達の視線が動き――怯えたように逸らされる。樒ではなく、その後ろにいる榊を見て、だ。大柄で色黒、いつも睨むような目つきのせいで、同級生からは割と遠巻きにされている。樒は気にした風もなく、寧ろおかしそうにくふふ、と子猫のように笑った。
「さきちゃん、笑わないとだめだよぉ」
「うるせぇ」
そうやって言葉を交わした時、近くの席に座っていた女子生徒達が今気づいたように声を上げた。
「あ、樒ちゃん! おはよう」
「おはよー!」
「宿題やってきた?」
「ぜーんぜん!」
堂々と答える樒の声に、クラスメイト達は笑う。彼女はそのまま歩いていって、教室の真ん中あたりにある自分の席へ向かうと、其処に座っていた男子が慌てて避けた。今までその席の持ち主など無いように振る舞っていた筈なのに。
毎日繰り返されるこんな情景に眉を顰めたまま、榊は踵を返す。自分のクラスは隣だからだ。
「さきちゃん」
教室の中から声が聞こえて、振り向く。古びた机に上半身を預けながら、やはりこちらの気も知らないで樒は笑っていた。
「終わったら、迎えに来てねぇ」
「……おう」
彼女の言葉は、やはり苛立ちしか齎さなかった。
×××
古びた高校の更に旧校舎、その隅に、もやもやとした黒い「何か」がいた。
テストの点数が芳しくなかった、部活中顧問に怒られた、友達付き合いがぎくしゃくしている――そんな、どこにでもある鬱屈が、人から零れ落ちて、少しずつ隅に溜まっていく。それは小さな虫や鼠などを芯にして寄り集まり、どろどろと渦巻く何かとなる――前に、ぐしゃりと潰された。榊が手に持っている、竹刀袋に包まれたままの木刀の先で。
こういうものが、いずれ年経ると妖と呼ばれるものになるらしい。大多数の人間は知らないことであるし、榊自身も、五年前までは知らなかった。知らざるを得なかったのだ、妖の障りが自分達に襲い掛かってきたのだから。
小粒なものは放っておいても消えるが、この手の妖を自らの手で排することは、榊にとって人助けではない。己の目的の為に、必要なことだった。
放課後の大分静かな旧校舎を見回りながらゆっくりと歩いていると、階段の踊り場で、同学年の女子生徒達が噂雀になっていた。あまり教師の見回りもこない此処は、良いたまり場なのだろう。
「篠目さんって、入学した時から雰囲気変わったよね」
「どっちの篠目?」
「決まってるでしょ、妹の方」
聞こえた名前に、眉根を寄せる。どうやら彼女達は、樒のことを未だ認識出来ているらしい。それが例え悪意であっても、誰かを思うということは、それを縛り付ける楔になり得るのだ、と榊にこの木刀を与えた相手が言っていた。
「前はもっとはきはきしてたっていうか、頭良かったよね」
「今はしょっちゅう授業サボってるし」
「あと知ってる? 確かに傍に居た筈なのに、急に幽霊みたいにすっと消えちゃうんだって」
「何それ~」
悪意まではいかない、愚痴交じりの会話。成程いつも此処で駄弁っているから、妖の種が溜まりやすくなっていたのかと納得する。
「知らないの? あの辺の村の子なら、誰でも知っているよ。あの子はむくろじ様の花嫁になったから――」
「くだらねぇこと抜かしてんじゃねぇぞ」
我慢できず、彼女達の会話に割って入り、ぎろりと睨めつけると、蒼褪めた女子生徒達は小さく悲鳴を上げて走っていった。
嫌な名前を聞いた。五年前、「むくろじ様」のせいで、樒はその存在が酷く曖昧になってしまった。これもまた他者の言葉を借りるなら、中身が半分取られてしまった、らしい。だから気配そのものが薄くなり、普通の人間に見え辛くなっていると。まさに幽霊、と言えるかもしれない。――まだ彼女は、生きている筈、なのに。
『ごめん――ごめん、榊。お願いだから』
泣きそうな彼女の顔を思い出して、唇を噛んだ。
足取り荒く旧校舎を出て樒の教室に戻ると、樒は自分の席に座ったままだった。帰り支度もせずに、ただぼんやりと窓の外を見ていたようだが、間違いなく其処にいた。榊の目にはちゃんと、見えている。
「おい、」
「――さきちゃん」
低い声で呼ぶと、ふっと夢から覚めたような顔の後、ふにゃりと笑う樒に手を差し出そうとして――出来なかった。彼女も気にした風もなく、自分で立ち上がる。駐輪場へ向かう間、彼女は何事も無かったかのように告げた。
「さきちゃん、明日はお山に行くの?」
「決まってんだろ」
「いっしょに行っていい?」
「駄目だ」
問答無用で切り捨てると、振り向いた樒がぷうと子供っぽく頬を膨らませるが、そこは譲ることが出来ない。村を囲む山は、あれの縄張りでもある。これ以上、彼女を奪われるわけにはいかないのだ。