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葬霊の鞘と銀の月 ―百年戦争の残滓― 〜神を喰らう魔剣と、奇跡を紡ぐ少女〜  作者: ウィースキィ


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第48話 ルナ……だけ……?


 死神の巨大な鎌が、無防備なリアムの頸骨(けいこつ)を断たんと空を裂いて振り下ろされた。


 死の冷気が彼の肌を撫で、絶望がその場を完全に支配した刹那――夜の帳を切り裂く『銀の一閃』が奔った。


 激越な金属音が鼓膜を震わせ、闇の中に鮮烈な火花が散る。


 リアムの首筋まで数センチというところで、死神の大鎌は強引なまでの膂力(りょりょく)によって弾き飛ばされていた。


「――おや。危ないところでした。少々、寄り道が過ぎましたかな」


 月光を背に受け、屋敷の屋根から音もなく舞い降りたのは、燕尾服を隙なく纏った老執事――バビロであった。彼は至極平然とした面持ちで、守護壁の如くリアムたちの前に立ちはだかる。


「……バビロ! 貴様、なぜここにいる!」


 ネイスの顔が、屈辱と焦燥に歪んだ。彼がこの計画において最も警戒し、搦め手を用いて遠ざけたはずの男。その介入は、ネイスにとって計算外の毒に他ならない。


「ネイス様。貴方のような野心家は、常に背後に注意を払うべきでした……亡きあるじの教えを、お忘れか」


 バビロが最愛の婚約者の形見である細剣――魔剣『セレスティアル』を抜き放ち、横なぎに一閃する。その瞬間、周囲に展開していた中級悪魔数体が、不可視の衝撃波によって塵へと消し飛ばされた。


 伝説的な手練れの参戦により、絶望的な悪魔の包囲網に僅かな『空白』が生まれる。


「ジレッタ様、この場は私と貴方で支えましょう。……ルナ様、こちらへ」


 バビロの低く、しかし凛と通る声に、リアムの袖を握りしめていたルナが弾かれたように顔を上げた。


「今のリアム様は、精神の深淵――底なしの闇に囚われておいでです。彼を現世へと呼び戻せるのは、契約という名の絆で魂を分かち合った、貴女だけです」


「ルナ……だけ……?」


「ええ。我ら武人が稼げるのは、あくまで肉体的な時間。魂の牢獄を壊せるのは、愛と絆の力のみ」


 ジレッタもまた、傷ついた肩を強引に魔力で止血し、血振るいと共に魔剣を構え直した。


「……ルナ、お願い! リアムを、あのお馬鹿な相棒を取り戻して! ここは私たちが死んでも死守するから!」


「……はい! リアムさまを取り戻してきます! ルナ、頑張ります!」


 ルナは震える小さな手を伸ばし、硬直したリアムの胸元に触れた。彼女はそっと瞳を閉じ、自身の魔力を、祈りを、そして全霊の想いを込めて、リアムの深層意識へと流し込んでいく。




◆◇◆◇◆◇




 リアムの精神世界は、今や完全なる無に支配されていた。


 アイテリエルとの幸福な記憶は、死神の毒によって汚濁に満ちた泥濘でいねいへと変えられ、彼が立ち尽くしているのは、音も光も、時間の概念さえも喪失した奈落の底だった。


(……寒いな。……何も、もう、見えないんだ)


 リアムは力なく膝を突き、漆黒の虚無の中でうずくまった。


 極限まで磨り減った精神は崩壊の淵にあり、自らの名さえも闇の粒子に溶けていく。このまま意識を手放せば、どれほど楽になれるだろうか。アイテリエルのいない世界で、これ以上、誰かを守れずに失う恐怖に怯える必要などないのだから。


 孤独という名の怪物が、その巨大な口を開けて彼を飲み込もうとした、その時であった。


 腰に差したままの、重厚な鎖でがんじがらめに封印された『鞘』が、微かな、しかし命の鼓動にも似た脈動を刻んだ。


 凍てついた闇の向こうから、凛として、それでいて春風のように柔らかな、懐かしい声が響く。


『――今のリアムには、待っている人がいる。貴方の名を呼び、貴方の帰りを信じて止まない人がいる』


「……アイテリエル……? もう、いいんだ。君のいない世界で、俺は何を支えに生きていけばいい……?」


 リアムは虚空に向かって、掠れた声を漏らした。だが、鞘の放つ光は強まり、かつて彼が愛した少女の幻影が、闇の中に淡く清らかな輪郭を描き出す。アイテリエルは慈愛に満ちた瞳で彼を見つめ、透き通るような手で、彼の震える背中をそっと押した。


『いいえ、リアム。私はずっと、貴方の傍にいるわ。貴方が流す涙の熱の中に、貴方が守ろうとする笑顔の輝きの中に、私は息づいている。……だから、負けないで。貴方はもう、あの日の独りぼっちな少年ではないのだから』


 かつての光――アイテリエルの掌の温もりが、リアムの心臓に小さな火を灯す。


 リアムが僅かに顔を上げたその瞬間、闇の天蓋に鋭いひび割れが走り、そこから一筋の、眩いほどに温かな光が溢れ出した。


「……また、こんなところで居眠りですか? リアムさま」


 その声は、あまりに日常的で、あまりに穏やかだった。


 光の中から現れたのは、ルナだ。いつものように少し眠たげな、それでいて春の陽だまりをそのまま形にしたような、飛び切りの笑顔を浮かべて。


「ほら、起きてください。今日の夕飯はリアムさまの好きな……もやし料理ですよ。ルナが丹精込めてお料理したんですから、冷めないうちに帰らないと」


 凄惨な戦場も、死神の呪詛も、ここにはない。あるのは、守りたいと切に願った平凡で愛おしい日常の欠片。


「まったく……リアムさまは、本当にルナがいないと何にもできないんですから。本当にお世話が焼けるご主人様です」


 ルナは当然のことのように歩み寄り、闇の中で凍えていたリアムの身体を、その小さな腕で力一杯に抱きしめた。


「もう、ひとりじゃないですよ、リアムさま。……ルナが、ずっと、ずっと。世界中の誰がリアムさまの手を離しても、ルナだけは絶対に離しませんから。……だから、一緒に帰りましょう? ルナたちの、おうちに」


 抱きしめられた体温は、死神の凍気を一瞬で霧散させるほどに熱く、生気に満ちていた。


 リアムの頬を、(せき)を切ったように熱い涙が伝い落ちる。


「……ああ。そうだね……帰らなきゃ、俺たちの場所に」


 今の光――ルナという確かな絆が、リアムを繋ぎ止めていた最期の絶望を打ち砕いた。


 精神世界の暗闇が、極彩色の硝子細工のように音を立てて崩れ去る。奔流となって押し寄せる光が、支配されていた虚無を白銀の輝きで塗り替え、世界を再構築していった。




◆◇◆◇◆◇




 現実の世界では、リアムに抱きついたまま動かなくなっていたルナの身体が、淡い薄緑色の魔力に包み込まれていた。


 同時に、リアムの腰にある『鞘』に巻かれた鎖が、不可視の熱によってドロドロと溶け落ちていく。


 カラン、カランと、封印の重しであった鎖が石畳に虚しく転がる。


 鎖のなくなった鞘から、ひとりでに抜き放たれたのは、刀身そのものが光で形成されたかのような、神々しい純白の刀であった。


 刀は意志を持つかのように空中に浮遊し、リアムとルナを守護するように旋回する。


「なっ……精神支配から抜け出したというのか!? あの深淵から!」


 ネイスの驚愕を嘲笑うかのように、純白の光が爆発した。


 その中心で、リアムがゆっくりと瞳を開く。


 その紅い瞳には、もはや迷いも絶望もなかった。宿っているのは、大切な者を守り抜くという、静謐で苛烈なまでの決意。


 リアムは浮遊する刀の柄を、迷いなく掴み取った。


「ルナ。……ありがとう。もう、大丈夫だ」


 リアムの背中から、純白の光の翼が陽炎のように立ち上る。


 特級悪魔をも凌駕する、絶対的な『浄化』の力が、帝都の夜を白銀の世界へと塗り替えていった。


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