第47話 リアムさま……リアムさま、起きて!
顕現せし死神が放つ凍気は、物理的な温度を奪うに留まらなかった。それは魂の深淵へと音もなく侵食し、思考の歯車を冷徹に凍てつかせる。死神の虚ろな眼窩がリアムを射抜いた刹那、漆黒の大鎌から放たれた昏い精神の波動が、視えざる呪縛となって彼の五体を絡めとった。
「――嘆け。貴様の記憶こそが、貴様を切り刻む刃となる」
死神の歪んだ囁きが鼓膜を震わせると同時に、リアムの意識は泥濘に沈むように混濁し、現実のアーベルット邸は硝子が砕けるが如き音を立てて崩壊していった。
◆◇◆◇◆◇
精神の迷宮。そこは純白の光に満たされた、果てなき静寂が支配する領域であった。
視界が明瞭になるにつれ、リアムは逆流する記憶の奔流の最中に立ち尽くしていた。
眼前に広がるのは、かつて人も悪魔も、神ですら立ち入ることを拒絶された禁忌の地、『封印の禁域』。一歩足を踏み入れれば、肺腑を抉るような即死級の魔力が乱舞し、触れるものすべてを虚無へと帰す――『世界一孤独な悪魔』が幽閉されし最果て。
若き日のリアムは、魔力を無力化する特異な体質のみを頼りに、その伝説を確かめるべく史上初めて禁域の最奥へと辿り着いた。
幾重にも張り巡らされた魔法の鎖に繋がれ、絶望すら忘却した瞳で彼を見上げたのは、この世の理を超越した美しさを纏う一人の少女でだった。
雪のように透き通る白い肌、月光を糸にして紡いだような白い髪、そして万象を見透かす純白の瞳。その背に、誇り高き六枚の翼を休める彼女は、まさしく『天使』に最も近い『悪魔』であった。
「……何故、あなたは死なないの? ここは、生者も死者も立ち入ることの叶わぬ虚無の園。私の魔力は、触れるものすべての命を吸い尽くすはずなのに」
声の出し方さえ忘れかけたような、震える少女の問いかけ。リアムは静かに歩み寄り、彼女の冷え切った頬に温かな掌を添えた。
「俺は、君の孤独を消しに来たんだ。魔力なんて関係ない。ただ、君に会いたかった。それだけの理由でここまで来た」
「……あたたかい。……こんなに、誰かの掌はあたたかいものなのね」
アイテリエルの頬を、生涯で初めての涙が真珠のように伝い落ちる。それが、二人の運命が重なり合った瞬間であった。
——場面は光の粒子へと弾け、鮮やかな色彩を伴って移り変わる。
アイテリエルと契約を交わしたリアムは、彼女の手を引き、広大な世界を歩んだ。
色鮮やかな市場の喧騒に包まれ、彼女は見たこともない果実を不思議そうに指で突き、帝都の夜景を山頂から眺めた折には、宝石を散りばめたような街の灯火に、幼子のような純粋な輝きを瞳に宿した。
「ねえ、リアム。人間は、どうしてこんなに美しいものを作れるの?」
「それはきっと、誰かと一緒にこの美しさを見たいと願ったからじゃないかな」
「……そう。なら、私もあの日、あなたに見つけてもらえて良かった。一人で仰ぐ冷たい月の光よりも、今のあなたと見る闇の方が、ずっと綺麗に見えるから」
——絆を深め、共に歩んで数年の月日が流れた、満月の夜。
銀の月光が慈雨のように降り注ぐ静寂の草原で、彼女は祈るように胸元で手を組み、リアムを見上げて微笑んだ。その表情は、もはや悪魔でも天使でもなく、恋という名の熱を知った一人の少女そのものであった。
「リアム……私、気付いてしまったの。世界はこれほどまでに美しいけれど、あなたが隣にいてくれるからこそ、私は世界を愛せるのだと。……あのね。その、リアム……愛しています。あなたのことを、心から」
アイテリエルの唇が、ためらいがちに吸い寄せられていく。指先が触れ合い、二人が永遠の誓いを交わそうとした刹那――。
視界は、鮮血と泥濘に塗れ、絶望が荒れ狂う戦場へと暗転した。
眼前に立ち塞がるのは、万物を無に還す闇で構築された絶望の化身『悪魔皇帝』。その圧倒的な力の前に、リアムは地に伏し、死の淵へと引きずり込まれていた。
「逃げろ、アイテリエル……! 君だけは、生きなきゃだめだ……!」
「……いいえ、リアム。私に世界を見せてくれたあなたがいなければ、私の世界は再び光を失うの。……だから、今度は私があなたを守る番」
アイテリエルは六枚の白翼を力強く広げ、無慈悲に振り下ろされた死の闇槍を、その身を挺して受け止めた。
「行かせない……! リアムに触れることは、決して許さない!」
凄まじい衝撃が走り、彼女の白翼が千切れ飛ぶ。純白の羽根は、無慈悲な鮮血に染まり、吹雪のように戦場に舞い散った。
意識が遠のく中でリアムが視たのは、闇の深淵へと吸い込まれていく彼女の、最期の――慈愛に満ちた微笑みであった。
(行かないでくれ……アイテリエル……! 俺を置いていかないでくれ!)
リアムは手を伸ばすが、指先は虚しく空を切り、彼女の姿は底なしの暗黒へと消えていく。
「……あ、あああああぁぁぁぁぁ!」
精神世界の中で、リアムの魂は慟哭した。
死神の精神支配は、最も触れられたくない傷口を無慈悲に抉り、広げ、そこに逃れ得ぬ絶望を注ぎ込む。
今のリアムにとって、現実はもはや霧の彼方へ消え去った幻に過ぎない。何重もの漆黒の鎖が彼の四肢を縛り上げ、心臓には『喪失』という名の冷徹な楔が、深々と打ち込まれていく。
意識は底なしの沼へと沈み込み、アイテリエルを失ったあの瞬間の業火のような苦痛が、永遠の輪廻となって彼の自我を削り取っていく。
死神の力は、抗う意志さえも糧にして膨れ上がる、真の暗黒。
リアムは自らの精神の牢獄に囚われ、二度と戻らぬ光を求めて、出口なき絶叫を上げ続けていた。
◆◇◆◇◆◇
一方、現実の世界では、時間は鉛のように重く、凍りついたまま流れていた。
「リアム!? どうしたの、返事をして!」
ジレッタの悲痛な叫びも、虚空を見つめたまま彫像のように硬化したリアムの鼓膜には届かない。
その最中、死神が広げた影の深淵から、蛆虫の如く次々と這い出してきたのは、数十体もの『中級悪魔』の群れであった。それらは不気味な涎を垂らし、鋼の如き爪を研ぎながら、守るべきテトラとルナへと殺到する。
「させないわ!」
ジレッタが魔剣を抜き放ち、白銀の旋風を巻き起こす。だが、中級悪魔の一体一体が、先ほどの傭兵たちとは比肩すら叶わぬ苛烈な魔圧を放っていた。
「テトラ様、こちらへ!」
屋敷から飛び出してきたテトラの私兵たちが、必死の面持ちで剣を振るい、壁となって悪魔の侵攻を食い止める。だが、悪魔の爪は無情にも私兵の鎧を薄紙のように引き裂き、一人、また一人と石畳に沈んでいった。
「リアムさま……リアムさま、起きて!」
ルナが泣きじゃくるような声で、硬直したリアムの袖を引くが、その反応は死人の如く皆無であった。
その光景を睥睨しながら、死神は悠然と大鎌を構え、勝利を確信したように薄汚い嘲笑を浮かべていた。
「無駄だ。あやつは今、終わりのない過去の迷宮に封じられた。二度と陽の光を浴びることはない」
中級悪魔の包囲網がじわじわと狭まり、三人の退路を断つ。
ジレッタの肩には悪魔の爪による深い裂傷が刻まれ、その足元の石畳には、点々と血の池が広がり始めていた。
「くっ……数が多すぎる……。リアム、いい加減に目を覚ましなさいよ!」
ジレッタの叫びが夜の貴族街に虚しく響く。
死神が、ゆっくりと無防備なリアムの頸骨へ向けて、魂を刈り取るための巨大な鎌を振り上げた。
【登場人物】
■アイテリエル
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