第40話 悪魔の口付け
帝都の北端、天を衝くようにそびえ立つ鉄柵の向こう側。そこに広がる難民保護区は、華やかな繁栄の光から見捨てられ、絶望が泥のように堆積した掃き溜めであった。
夕闇が石畳の亀裂に溜まった濁水をどす黒く染め、風が吹き抜けるたびに、饐えた生ゴミの死臭と病的な咳き込みの残響が混じり合って鼻腔を容赦なく突く。
リアムとジレッタは、軍の峻烈な監視の目を潜り抜け、怯える避難民から断片的な言葉を拾い集めながら、保護区の最奥に位置する崩れかけの石造り小屋へと辿り着いた。そこには、十年前の『レムスの村』の凄惨な記録をその身に刻んで生き延びた唯一の証人、ガラムという老人が病床に臥していた。
小屋の扉を押し開けると、そこには光という概念が欠落していた。夜の静寂を閉じ込めたような暗澹たる室内には、死期を待つ場に相応しい簡素な寝台と木机だけが置かれ、その上で老人が木いらのような細い身体を横たえていた。
「……何用だ。ここは、死を待つ者だけが許された場所。施しを望むなら、外の広場にでも置いていくがいい」
枯れ木が擦れ合うような掠れた声。深い皺に彫られた顔に宿る両目は白濁し、虚空を虚ろに見つめている。光を失ったその瞳は、皮肉にも彼が背負い続けてきた過去の重苦しさを、雄弁に物語っていた。
「施しではありません。あなたがガラムさんですね? ……十年前、貴方の故郷を襲った『特級悪魔』について、話を聞かせてほしいのです」
リアムが静かに、しかし抗い難い威圧を孕んだ声で切り出した。その問いを耳にした瞬間、老人の痩せこけた指先が、毛布の端を骨が浮き出るほど強く握りしめた。
「……あの日の悪夢は、とうに忘れたい。だが、あの時皮膚を撫でた死の冷気だけは、この老いた骨の髄まで染み付いて離れんのだ」
ガラムは喘ぐように薄い肺を動かして呼吸を整え、途切れ途切れに語り始めた。
「ありゃあ、悪魔なんて呼称で片付けられる代物じゃなかった。現れた瞬間、村の家畜も、道端の草花も、母の腕で逃げ惑う赤子さえも……まるで内側から魂ごとすべてを吸い尽くされたように、茶褐色に枯れ果てて崩れ落ちた。形を保った死体すら残らん。後に残るのは、尊厳を奪われた空っぽの抜け殻だけよ……」
ジレッタの背筋を、氷の剃刀がゆっくりと撫で上げた。
(……吸い尽くされたような死体。それは、貧民街でイフリート復活の贄にされた、あの少女たちと全く同じ特徴だわ)
「その悪魔の姿……貴方の目には、どう映りましたか?」
「ああ。光を奪われる直前、わしの網膜に焼き付いたのは……。巨大な、漆黒の布切れを幾重にも纏ったような異形。そして、不吉な月明かりを反射して不気味に煌く、巨大な『大鎌』を手にした死神の姿だった……」
ジレッタは戦慄に突き動かされ、無意識のうちに腰の魔剣の柄を握りしめた。
「……大鎌を持った、死神。……リアム、間違いないわ。私たちがミチルダちゃんを救い出した時、あの貧民街に顕現した悪魔と、完全に一致する」
「ええ。符号しましたね」
リアムの赤い瞳に、昏い洞察の光が宿り、老人へと向けられる。
「ガラムさん。その悪魔に襲われ、かろうじて息のあった者たちの肌に、何か奇妙な痕跡はありませんでしたか? 例えば……『痣』のようなものが」
老人は、肺を絞り出すような激しい咳き込みを挟み、深く頷いた。
「左様だ……。生き残ったわずかな者の身体のどこかに、どす黒い痣が浮かび上がっていた。まるで、飢えた悪魔にその肉を噛み取られたような……」
「それは……」
ジレッタは、ミチルダの治療時にその白皙の肌に刻まれていた忌まわしい紋章を想起し、重い言葉を紡いだ。
「不気味な口の形をしていて、その中には鋭い牙が並び、嘲笑うような……そんな『悪魔の口付け』と呼ばれる痣ではありませんでしたか?」
「……それだ。あんた、なぜそれを……。ああ、恐ろしい。あの痣が浮かび上がった者は、その後すぐに、まるで魂が芯から腐り落ちるようにして死んでいった……」
二人は重苦しい沈黙の中で視線を交錯させた。ミチルダの身体を蝕んでいたのは、イフリートの呪縛だけではなかったのだ。あの大鎌を振るう悪魔――上級、あるいは特級に位置するであろう強大な存在が、十年前からネイスの影に張り付き、暗躍していた。
(テトラさんの屋敷を襲った脅威。イフリートの再臨。少女たちの拉致。そして、ネイスの不自然な成功……。断片的な点と点が、一つの巨大な悪意の線となって繋がっていく)
「最後に一つ、教えてください。ネイスという男についてです」
リアムが僅かに身を乗り出し、圧を強めた。
「村が炎に包まれる直前、彼に何が起きたのですか?」
ガラムの顔が、恐怖の記憶によって醜く歪んだ。
「ネイス……。あいつは、最初は勇敢に剣を振るっていた。だが、あの悪魔が耳元で何かを囁いた瞬間……奴の顔から一切の感情が蒸発したのだ。まるで、魂を別の何かに詰め替えられたような、空虚な人形のように……。そして次の瞬間だった。奴の全身から、この世の理を無視した業火が噴き出し、村は大爆発を起こした。わしはその爆風で両目を焼かれたが、死ぬ間際にあいつが独り言ちた言葉だけは……この耳に呪いのように残っている」
老人が、最後の生命力を振り絞るようにして、リアムの腕を細い指で掴み取った。
「あいつは、空虚な声で言ったのだ……。『これですべてが……』……が、……っ!」
突如として、老人の身体が弓なりに反り返った。喉の奥から、肺の空気が漏れるようなヒュウヒュウという異音が室内に響き渡る。
「ガラムさん!? しっかりして!」
ジレッタが咄嗟に駆け寄ったが、それは既に手遅れであった。老人の顔面は瞬く間に土気色へと変色し、白濁していた瞳からは一筋の血の涙が溢れ出した。激しい痙攣と共に、彼の生命の灯火は、目に見えぬ何者かによって『吸い尽くされた』かのように一瞬で霧散した。
絶命した老人の首が、がくりと力なく側面に垂れる。その剥き出しになった首筋に、リアムとジレッタは息を呑んだ。
そこには、今まで皮膚の下に潜んでいたかのように、鮮明な、そして邪悪に歪んだ『悪魔の口付け』が浮かび上がっていた。それは、今まさに彼を刈り取った証であるかのように、どす黒く禍々しい光沢を放っている。
「……口封じ、か」
リアムの声は、絶対零度の氷点下まで凍りついていた。
「ネイス、いや、背後のあの悪魔か。十年前の目撃者を、今の今まで生かしておきながら、真実に指先が触れた瞬間に魂ごと刈り取ったというわけだ」
ジレッタは、膝をついたまま震える手で老人の瞼を閉じた。熱い怒りと、底知れぬ未知の恐怖が混ざり合い、胃の奥が焼けるように熱くなる。
「リアム……許せないわ。こんなの、あまりに身勝手で残酷すぎる。……行きましょう。ネイスの元へ。この老人の魂を、そしてミチルダちゃんたちの運命を弄んでいるあの男を、叩き潰さなきゃ気が済まない」
「ええ。もう秤を出すまでもありませんね」
リアムは、絶命した老人の傍らに音もなく落ちていた一枚の羽――死神の法衣から零れ落ちたかのような、光を吸い込む漆黒の羽を拾い上げた。
「大商人の黄金の仮面、その内側にある腐濁しきった真実を……白日の下に曝し出してやりましょう」
難民保護区を支配する重苦しい闇を突き抜け、二人は夜の帝都へと舞い戻る。その背後で、保護区の鉄柵が冷たく、そして不吉に軋んだ。まるで見えない死神が、次の獲物を告げる合図を鳴らしているかのように。
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