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葬霊の鞘と銀の月 ―百年戦争の残滓― 〜神を喰らう魔剣と、奇跡を紡ぐ少女〜  作者: ウィースキィ


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第36話 貧民街の闇


 資料室の重い扉を閉めた後も、ジレッタの指先には古びた羊皮紙の感触と、そこに刻まれていた残酷な真実の重みが残っていた。


 帝都の午後の陽光は、石畳を中途半端に照らし、建物の影を長く、鋭く伸ばしている。


 ジレッタは腰に修復されたばかりの魔剣を感じながら、雑踏の中をあてもなく歩いていた。


 頭の中では、先ほど目にした『イフリートの呪い』と、バビロが愛おしげに語った婚約者セレスティーナの面影が、一本の不吉な糸で結びつこうとしていた。


(十四歳の誕生日に死を迎える呪い。魂は永遠に魔神の元へ囚われる……。バビロさんは、それを承知で彼女を看取り、そして今もその魂を剣に宿して戦っているというの?)


 胸を締め付けるような同情が、彼女の心を支配していた。その時、ふと顔を上げた彼女の視界に、人混みの中でも一際凛とした、しかし周囲に溶け込むような穏やかな背中が映った。


「……バビロさん?」


 声をかけると、完璧な仕立ての執事服を纏った老紳士が、静かに振り返った。その手には、主への献身を象徴するかのような、選び抜かれた食材の入った籠が携えられている。


「おや、ジレッタ様。奇遇でございますね。このような場所でお会いするとは」


 バビロは銀縁眼鏡の奥で、慈愛に満ちた微笑を浮かべた。そのあまりに平穏な佇まいに、ジレッタは思わず胸の奥を突かれたような気分になり、気づけば口を開いていた。


「バビロさん、私……さっき、ハンター協会の資料室にいたの。そこで、イフリートについて調べたわ」


 バビロの眉が、ほんの僅かに動く。彼は否定も肯定もせず、ただ静かに彼女の言葉を待った。


「イフリートの憑依による呪い……『魔力持ち』の末裔が辿る運命。……セレスティーナさんも、その呪いを受けた方だったのね」


 ジレッタの声は微かに震えていた。バビロは一瞬、遠くの空を見つめるような仕草を見せ、それから小さく頷いた。


「左様でございますか。……やはり、隠し通せることではありませんでしたな。ええ、彼女もまた、その過酷な血の運命に翻弄された一人でした」


「ごめんなさい、蒸し返すようなことを言って。でも、私……貴方の抱えている悲しみを知って、放っておけなくて」


「お心遣い、感謝いたします。ですが、私は後悔しておりません。彼女は今も、この剣と共に私の中に生きておりますから」


 バビロは腰のレイピアを愛おしげに一撫ですると、ふっと表情を険しくした。それは演技か、あるいは真実の義憤か。彼は周囲を警戒するように声を低めた。


「ですがジレッタ様。貴女がそこまで調べられたのであれば、一つお伝えしておかねばならない懸念がございます。……実は近頃、貧民街の『人身売買組織』が、異様な動きを見せているのです」


「人身売買組織? それが今回の事件と関係があるっていうの?」


 ジレッタの問いに、バビロは深い溜息を吐いた。


「確証はございません。しかし、ミチルダ様のような幼い少女を攫い、その動機が身代金ではないとなれば……。奴らが狙っているのは、彼女たちが抱える『血』そのものではないかと疑っております」


「血……。まさか、バビロさん、あの資料にあった……『魔力持ち』の骨を狙っているっていうこと?」


 ジレッタの脳裏に、闇市場で高値で取引されるという忌まわしい記述が蘇る。バビロは重々しく頷いた。


「左様。魔力持ちの遺骨から作られた魔剣は、主を選ばず、誰にでも強大な力を与える。……奴らは生きたままの少女を拉致し、その価値を計っているのではないか。……私一人では、主家を守りながらそこまで手を広げることは叶いません。ですが、リアム様と貴女であれば、あるいは……」


 バビロの言葉は、ジレッタの戦士としての正義感に静かに火をつけた。彼女は自分の魔剣を握りしめ、身を乗り出した。


「その組織について、何か手がかりはあるの?」


「表向きは、帝都でも名の知れた大商人……『ネイス』という男が、その組織の元締めであるという噂がございます。彼はあの『業火』の血の繋がらない兄としても知られ、貧民街に深い根を張っております。……もし、奴がイフリートの再臨に関与しているのだとすれば、ミチルダ様も、そして他の少女たちも、未だ危険に晒されていることでしょう」


「ネイス……大商人の皮を被った怪物が、そんなことを。……わかったわ、バビロさん。リアムにも話して、すぐに調査を始めるわ」


「ありがとうございます。……貴女のような高潔な戦士に、光が見えぬ闇を歩かせるのは心苦しいのですが。……どうか、宜しくお願い申し上げます」


 バビロは深く、深々と頭を下げた。その姿は、主と亡き婚約者のために心を砕く、忠義の執事そのものであった。


「いいのよ。これは私たちの依頼でもあるんだから。……バビロさんも、無理をしないで」


 ジレッタは彼への深い同情と信頼を胸に、足早に事務所へと戻っていった。


 その背中を見送りながら、バビロはゆっくりと頭を上げた。銀縁眼鏡の奥、彼の瞳には冷徹なまでの計算と、何事かを待望するような底知れぬ影が揺らめいている。


(……さあ、ジレッタ様。貴女のその純粋な正義感が、どこまでこの舞台を掻き回してくれるか。……ネイスという『贄』を喰らい、リアム様がどのような牙を見せるのか。期待しておりますよ)


 バビロは一分の隙もない所作で、再び市場の喧騒の中へと消えていった。


 夕闇が忍び寄る帝都の街角で、巨大な蜘蛛の巣が、何も知らぬ勇者たちを捕らえるべく、静かに広がり始めていた。


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