第30話 リアムさま! 早く来てください!
翌朝、冬の足音を孕んだ鋭い冷気が、帝都を白く煙らせていた。
戦士としての習いか、ジレッタは朝日が地平線を叩くよりも早く目を覚ました。寝衣を脱ぎ捨て、動きやすい訓練着に身を包んだ彼女は、借り物の短剣を手に屋敷の中庭へと向かった。
静謐な空気を切り裂く、鋭い風の音が聞こえたのは、彼女が中庭の入り口に差しかかった時だった。
そこには、昨夜の惨劇を感じさせないほど背筋を正したバビロがいた。執事服の袖を捲り上げ、その手には細身の銀のレイピアが握られている。
彼の動きは、舞踏のように優雅でありながら、放たれる刺突は肉眼で追えぬほど速い。踏み込み、突き、引く。その一連の動作には一切の無駄がなく、伝説の『銀鱗の処刑人』と呼ばれた頃の牙が、今なお研ぎ澄まされていることを証明していた。
「……素晴らしい。引退して契約悪魔を解した今でも、これほどの剣技を維持されているなんて」
ジレッタが思わず声を漏らすと、バビロはピタリと動きを止め、レイピアを垂直に立てて一礼した。
「お早いお目覚めですね、ジレッタ様。……老い先短い身ゆえ、こうして体を動かしておかねば、すぐに錆びついてしまいますので」
「ご謙遜を。……バビロさん、もしよろしければ、少しだけ稽古をつけていただけないかしら。貴方の剣筋を、この肌で感じておきたいの」
「光栄です。……では、お手柔らかに」
二人は適度な距離を保ち、構えを解いた。
ジレッタが踏み込み、鋭い一撃を放つ。しかし、バビロは最小限の動きでそれを逸らし、ジレッタの喉元へレイピアの切っ先を突きつける。幾度繰り返しても、彼女の刃が彼の執事服を掠めることすらなかった。
しばしの打ち合いの後、二人は汗を拭いながら剣を収めた。ジレッタはバビロの手元で美しく光るレイピアを見つめ、以前から気になっていた疑問を口にした。
「……そのレイピア、ただの業物ではありませんね。魔力を通した際の反応が、あまりに純粋すぎる。……それは、魔剣なのかしら?」
バビロは愛剣の刀身を優しくなぞり、遠い空を見つめた。
「ええ……。これは私の魂の一部でもあります。……若き頃、私がまだ十三歳だった折、私には同い年の婚約者がおりました」
バビロの語る過去は、今の冷徹な彼からは想像もつかないほど切ないものだった。
「名は『セレスティーナ』。彼女は人間には珍しく、膨大な魔力を宿した特異体質の持ち主でした。ですが、その強すぎる力が彼女の幼い体を蝕み……彼女は十四を待たずして早世することとなったのです」
バビロの指先が、柄に埋め込まれた青い魔石に触れる。
「彼女は死の間際、私に遺言を残しました。『貴方の剣になりたい。ずっと、貴方の側で守り続けたい』と。……私はその願いを聞き入れ、彼女の魂と魔力をこの剣に宿し、魔剣『セレスティアル』を打ち上げました。以来、私は他の女性を娶ることなく、彼女と共に歩んできたのです」
ジレッタは絶句した。自分もまた、戦場に散った父親の意志を継ぐために剣を振るっている。愛する者の魂を武器に宿し、共に戦い続けるその生き様は、あまりに重く、そして高潔に感じられた。
「……自分に少し似た境遇に、心が揺さぶられるわ。バビロさん、貴方の忠義の根源は、その剣にあるのね」
「左様でございます。彼女が誇れる私であるために、私はこの身をアーベルット家に捧げているのです」
バビロは穏やかに微笑んだ。その瞳には、一抹の偽りもない純粋な愛と忠誠が宿っているように見えた。
◆◇◆◇◆◇
日が昇り、屋敷が朝の活気を取り戻し始めた頃、ようやくミチルダが目を覚ました。
「リアムさま! 早く来てください!」
ルナからの知らせを聞いたリアムたちは、彼女の寝室へと集まった。
「ミチルダ……! ああ、神様……」
ミランダが妹を強く抱きしめる。ミチルダはまだ少し顔色が悪いものの、はっきりと意識を取り戻していた。
リアムは彼女の目線に合わせて腰を下ろし、優しく問いかけた。
「ミチルダちゃん、辛いかもしれないけれど、何があったか覚えているかな?」
ミチルダは小さく震えながら、記憶の断片を絞り出した。
「……夜、お部屋で本を読んでいたら……急に窓から、冷たい風が入ってきて。……真っ黒なフードを被った、死神みたいな誰かが現れたの」
「それから?」
「……『印は刻んだ』って、低い声で言われて……。そのまま連れ去られた後は、ずっと暗い夢を見ていたみたいで、何も覚えていないの」
彼女の証言は、死神の出現までで途絶えていた。犯人の正体や、儀式の詳細については、彼女自身も知らないようだった。
その後、状況を整理した結果、当面の措置が決まった。
ミチルダの安全を第一に考え、ミランダと共に自宅へと戻ることになったが、そこにはルクルットが同行することになった。
「テトラさん。……不甲斐ない話ですが、僕は一度、今回の依頼から外させていただきます。怪我の療養を兼ねて、彼女たちの身辺警護に専念したい。……ミチルダを、二度とあのような目に合わせたくないんだ」
ルクルットの言葉には、婚約者の家族を守り抜こうとする強い覚悟が滲んでいた。テトラは深く頷き、彼の決断を尊重した。
「わかりました。ルクルットさん、二人のことをお願いします。……リアムさん、ジレッタさん。私たちは、引き続き『悪魔の口付け』の謎と、あの魔神の行方を追いましょう」
ミランダとミチルダを乗せた馬車が、ルクルットに守られて屋敷を発っていく。
リアムたちはその背中を見送りながら、昨夜の惨劇の余韻が、まだ終わっていないことを痛感していた。
バビロは主人の後ろに控え、静かにレイピアの柄に手を置いていた。その銀の刀身に宿る『婚約者』が、次にどのような地獄を見つめることになるのか。彼はただ、深淵のような瞳で、去りゆく馬車を見つめ続けていた。
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