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葬霊の鞘と銀の月 ―百年戦争の残滓― 〜神を喰らう魔剣と、奇跡を紡ぐ少女〜  作者: ウィースキィ


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第29話 もう動いて大丈夫なのですか!?


 浴室を包んでいた安らぎは、あのおぞましい文様の発見によって一瞬で霧散した。


 三人は沈黙のなか、手早くミチルダの体を拭き、テトラが用意した新しい絹の着替えを纏わせ、意識のない少女を柔らかな寝台に横たえた後、テトラは震える肩を抱きながら、リアムとバビロが待つ書斎へと向かった。


 重厚な扉を開くと、暖炉の火に照らされた二人の影が壁に長く伸びていた。


「リアム、バビロさん……大変なことがわかったわ」


 ジレッタが絞り出すような声で切り出した。そのただならぬ気配に、リアムは手にしていた資料を置き、鋭い眼差しを向けた。


「ミチルダちゃんの背中に、痣があったの。……まるで抉られたようにどす黒く変色した、唇を押し付けたような歪な形をした文様よ」


 その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、テトラが声を震わせて後を継いだ。


「『悪魔の口付け』です……。父が殺害されたとき、遺体に残されていたものと全く同じ文様が、あの子の背中に刻まれていました」


 書斎の空気が一気に凍りついた。リアムの眉間には深い皺が刻まれ、バビロは僅かに眼鏡の奥の瞳を細めた。


「左様でございますか……。アドラス様を襲った凶手が、今回の貧民街の怪異にも関与している。もはや疑いようのない事実のようですね」


 バビロは痛ましげに目を伏せ、深々と溜息をついた。


 テトラは力なく頷きながら、机の上に丸めて置かれた、泥と血に汚れた、先ほどまでミチルダが着ていた衣服と下着一式を指差し、力なく命じた。


「バビロ……その服は処分してください。あの子に、二度とあんな地獄を思い出させたくないの」


「かしこまりました。汚れを払い、丁重に焼却処分いたしましょう。テトラ様、どうかお心強くお持ちください」


 バビロは慇懃(いんぎん)に一礼し、手際よく汚れた衣服一式を回収した。その動作はどこまでも日常的で、一分の隙もなかった。


「まったく……随分と物々しい空気だね。僕がいない間に、また新しい謎が増えたのかな?」


 扉の傍らから、穏やかだが疲労の滲む声が響いた。一同が振り返ると、そこには包帯を巻き、肩を貸す私兵に支えられたルクルットが立っていた。


「ルクルットさん! もう動いて大丈夫なのですか!?」


 ルナが慌てて駆け寄るが、ルクルットは弱々しくも紳士的な微笑を崩さなかった。


「うん、ガゼットが僕の身代わりになって傷を引き受けてくれていたからね。……それより、あの子の体に例の文様があったというのは本当かい?」


 ルクルットは椅子に腰を下ろすと、真剣な面持ちでリアムたちを見渡した。


「僕が交戦したあの死神のような悪魔……あれはただの野良悪魔ではなかったよ。あいつは、魂を刈り取るだけでなく、特定の者に『印』を刻む役割を担っていたのかもしれないね」


「印……。それがミチルダさんに刻まれたあの痣か」


 リアムの問いに、ルクルットは重く頷いた。


 その時、屋敷の玄関先から慌ただしい馬蹄の音が響き、夜の静寂を切り裂くようにして一人の女性の悲鳴に近い叫びが届いた。アーベルット家の私兵に護衛され、極限の不安に顔を蒼白にしたミランダが、ようやく屋敷に到着したのだ。


「ミチルダ! あの子は……ミチルダは無事なのですか!?」


 テトラが急いで階下へ向かい、もつれる足取りで玄関ホールへ駆け込んできたミランダを真っ先に受け止めた。テトラの案内で二階の寝室へと急ぎ、柔らかな天蓋付きのベッドで静かに寝息を立てる妹の姿を確認した瞬間、ミランダは糸が切れた人形のようにその場に泣き崩れた。


「よかった……ああ、本当によかった……っ」


 妹の小さな手を握りしめ、嗚咽を漏らす彼女の背中を、テトラは慈しむように優しく撫で続けた。


「ミランダさん、今夜はもう一歩も外へ出てはいけません。帝都の街は先ほどの悪魔の出現でひどく混乱していますし、何より貴女の体力が限界だわ。……今夜はこのまま、妹さんの側で休んでください」


 ミランダは涙に濡れた顔を上げ、何度も深く頷いた。


 テトラはそのまま一階の広間へ戻ると、待機していたリアムたち一人ひとりの顔を見渡した。


「皆様、勝手なお願いとは存じますが、今夜はどうかこのままこの屋敷にお泊まりください。客室の準備はすでにバビロに命じてあります。……あのような恐ろしい怪異が解き放たれた今、皆様のような信頼できる実力者が側にいてくださることが、私にとってどれほどの救いになるか……」


 テトラの瞳に宿る切実な光と、帝都の空を焦がしたあの異様な魔神の残像。それらを前にして、断る者は誰もいなかった。傷ついたルクルットの治療も必要であり、リアムたちはテトラの厚意を謹んで受けることにした。


 広い屋敷の各部屋に、リアム、ルナ、ジレッタ、そして負傷したルクルットがそれぞれ割り振られた。


 深夜。リアムは自室の窓辺に立ち、冷たい硝子越しに遠くの貧民街を見つめていた。赤い残光はすでに消え去っていたが、闇の深さはそれまで以上に増しているように思えた。


(『悪魔の口付け』……あの痣が、テトラさんのお父さんの死と繋がっているのなら、これは単なる不運な誘拐事件などではない。帝都を揺るがす巨大な陰謀の、まだ表層に過ぎないのかもしれないな)


 リアムは懐に収めたアイテリエルの存在を確かめ、重い沈黙に身を委ねた。


 一方で、深夜の廊下を、バビロが一点の乱れもない足取りで歩いていた。彼は主人の命に従い、ミチルダが身に纏っていた泥と血にまみれた衣服と下着の一式を抱え、地下の焼却炉へと向かっていた。


 人気のない地下室。炉の中に汚れた衣服を放り込むと、橙色の炎が猛烈な勢いでそれを飲み込んでいく。バビロはその火影を、銀縁眼鏡の奥でただじっと見つめていた。


「絶望の淵に立たされた者たちが、微かな希望を求めて寄り添い、眠る……。誠に人間らしい、尊い光景でございます。……私もまた、希望を求める一人ですが」


 彼は独りごとのようにそう呟くと、ふっとその場に立ち尽くした。炎に照らされた彼の横顔は、深い思慮に沈んでいるようにも、あるいは何か抗いがたい『巨大な運命』の到来を静かに予見しているようにも見えた。その真意は、揺らめく煙の中に溶け込んで誰にも届かない。


 バビロは炉の扉を静かに閉めると、疲れを見せぬ老執事の背中で、再び主人の眠る上階へと戻っていった。


 嵐の前の静けさ。アーベルット家の広大な屋敷は、今夜、解き明かされるのを待つ数多の『秘密』を抱えたまま、重い眠りにつこうとしていた。


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