第19話 純白
「……あは、生きてたんだ。お兄ちゃん、しぶといねぇ」
ベルフェオンが三つの瞳を歪に蠢かせ、声の主――リアムを凝視した。
瓦礫の中から歩み出たリアムは、衣服こそ泥に汚れているものの、その体には擦り傷一つない。あまりの異様さに、跪かされたアヌビスや、折れた魔剣を抱えて絶望に沈むジレッタの時間が止まった。
リアムの纏う空気は、もはや人間のものではない。温度という概念が消失したかのように冷たく、それでいて深淵の底から響くような絶対的な重圧が、ベルフェオンの権能さえも上書きし始めていた。
「お兄ちゃん、キミ……何者? ボク、キミみたいな美味しそうな『匂い』のする人間、知らないよぉ?」
ベルフェオンがだらしなく涎を垂らし、腹の巨大な口をギチギチと鳴らす。
リアムはそんな問いかけなど耳に入っていないかのように、ただ静かに、腰の鎖が解けた鞘に手をかけた。
「……ベルフェオンだったか。俺はただの、お腹を空かせた一人のハンターだよ」
リアムの低い声が、静寂の支配する森に染み渡る。
「ただね、少しだけ不器用でね。この剣が目覚めると、俺にはもう、加減というものができなくなる」
リアムが、ゆっくりと、祈るように目を閉じた。
彼の手が鞘の柄を握る。その瞬間、森中の魔素が逆流を始め、大気が真空になったかのような錯覚が一同を襲った。
「ごめんな。また、力を貸してくれ……アイテリエル」
その名は、かつて失われた言語で『虚空を統べる純光』を意味する、不可侵の聖域を意味する名。
リアムが、ゆっくりと抜刀した。
――キィィィィィィィンッ!!
鼓膜を突き抜けるような、高潔な金属音が響き渡る。
鞘から引き抜かれた刀身は、黒い瘴気に満ちたこの森において、あまりに異質で、あまりに美しい『純白』であった。それは太陽の光を反射しているのではない。刀身そのものが、この世の穢れを一切拒絶するような、根源的な白き輝きを放っているのだ。
その瞬間だった。
絶望に伏していたジレッタの網膜に、不可視の幻影が焼き付いた。リアムの背後に一瞬だけ、『六枚の純白の翼』が大きく羽ばたく姿が。
肌も、髪も、瞳も、その身に纏う薄衣さえも。すべてが、雪よりも白く、神々しいまでに澄み渡ったまるで『天使』のような残像。アイテリエルと呼ばれたその概念は、慈愛に満ちた表情でリアムの肩に手を添え、次の瞬間、その全てが純白の刀身へと吸い込まれていった。
「……あ、あぁ……あぁぁッ!?」
ベルフェオンが初めて、恐怖に叫び声を上げた。絶対的な捕食者であったはずの暴食の主が、赤ん坊のように手足を震わせ、後ずさる。
「なに……それ……なに!? 怖い、怖いよぉ! ボク、それ、食べたくない! ボクが食べられちゃうッ!!」
ベルフェオンが狂乱し、腹の口からこれまでとは比較にならない濃度の、黒い暴食の奔流を放出した。森の全てを呑み込み、腐食させ、無に帰す滅びの波。
だが、リアムはただ、一歩前へ踏み出した。
白き刀身を無造作に、水平に薙ぐ。ただそれだけの動作で、世界を呑み込もうとした黒き濁流は、まるでモーセの海割りのように真っ二つに裂かれた。切断されたのではない。リアムの剣が通った場所から、悪魔の魔力そのものが、概念ごと『浄化』され、光の粒となって消え失せていく。
「な……んだって……のよ、あれ……」
ジレッタは呼吸を忘れ、その光景を見上げていた。自分が全霊をかけて届かなかった深淵の王が、リアムの『ただの振撃』一つに、怯え、逃げ惑っている。
「逃がさないよ、ベルフェオン。君の罪は、この森の静寂を乱したことじゃない」
リアムの姿が、一瞬でかき消えた。次の瞬間、彼はベルフェオンの巨大な肉塊の真上にいた。アイテリエルの刀身が、天からの裁きのように垂直に振り下ろされる。
「……俺の仲間に、手を出したことだ」
――断罪。
一閃。
白銀を越えた『純白』の閃光が、森の夜を白昼へと変えた。ベルフェオンの巨体は、叫び声を上げる暇さえ与えられず、その腹の口、その核、そして醜悪な魂の深淵までを、一直線に貫かれた。
爆発は起きなかった。ただ、ベルフェオンを構成していた数千、数万の怨念と瘴気が、純白の刃に触れた瞬間から、雪解けのように透き通った光へと還元されていく。
「……あう、あ……ボク……おなかいっぱい……だ……」
最後には少年の、どこか満足げな、そしてあまりに静かな独り言だけが残った。
山のような巨体は、一枚の羽毛が舞い散るように、美しい光の粒子となって辺境の空へと昇っていく。
やがて光が収まり、森に再び静寂が訪れた。
そこには、再び白き刀身をゆっくりと鞘に収めるリアムの背中だけがあった。
カチリ。
鎖のない鞘に剣が完全に収まった瞬間、リアムの周囲に漂っていたあの神々しい重圧は、嘘のように霧散した。
「……ふぅ。……お腹、空きましたね」
振り返ったリアムは、いつもの、どこにでもいる少し頼りないハンターの顔に戻っていた。
しかし、その足元には、彼が放った一撃によって、森の奥まで続く純白に浄化された一本の道が、月明かりの下で美しく輝いていた。
アヌビスも、ルナも、そしてジレッタも。折れた剣を抱えたまま、ただただ、その光景を魂に刻み込むことしかできなかった。
◆◇◆◇◆◇
ベルフェオンが放った光の粒子が、辺境の空へと溶けて消えたその時。人界から遠く離れた深淵の最奥――悪魔たちの本拠地である『虚無の玉座』では、一斉に不吉な鐘の音が鳴り響いていた。
それは、七つの大罪という世界の歪みが一つ、欠けたことを報せる葬送の響きである。
天を突くような黒水晶の柱が並ぶ広間に、一つの巨大な影が揺らめいた。
玉座に深く腰掛けているのは、一切の光を呑み込む漆黒の霧を纏った存在――悪魔皇帝。その御前で、先ほどリアムたちの前にいた執事悪魔が、冷や汗を流しながら額を地面に擦り付けていた。
「……報告せよ」
皇帝の地響きのような声が、広間の空間を震わせる。
「はっ……。ベルフェオン様、正確には『二世』であらせられた若君が……辺境の地にて、人間に討ち取られました」
その言葉が発せられた瞬間、広間の左右に控えていた数多の『影』たちがざわめき立った。
七つの大罪の一角を担っていた、まだ幼い暴食の主。食欲のままに振る舞うわがままな子供であったが、その実力は紛れもなく特級を超越していたはずだ。
「フン、所詮は出来損ないの子供よ。私の胃袋の半分も継げぬまま、人間の餌食になるとはな」
広間の隅から、地鳴りのような低い笑い声が上がった。現れたのは、討たれた二世とは比較にならないほどの威圧感を放つ、巨大な巨漢の悪魔。全身が鈍色の鎧のように硬質化した肉体で覆われ、その目は数千年の飢餓を耐え抜いた老練な捕食者の輝きを湛えている。
先代ベルフェオン。かつての『暴食』を司り、二世に座を譲って隠居していた伝説の悪魔である。
「陛下」
先代ベルフェオンは皇帝に向かって一礼もせず、その獰猛な瞳をぎらつかせた。
「二世の死は、もはや端切れを失った程度の問題ではございませぬ。人間どもは、我ら七つの大罪の『序列』に手をかけた。これは明確な宣戦布告と受け取るべきかと」
先代ベルフェオンは、己の巨大な拳を握りしめ、周囲の空気を歪ませるほどの殺気を放った。
「百年戦争の折、我らは奴らの『契約悪魔』という小賢しい策に苦渋を舐めさせられた。だが、今の人間どもに、二世を、そしてあの純白の光を操る者がいるとなれば……最早、放置は破滅を招きます」
「ふむ。あの輝き……よもや、あれが生きているなど考えられぬことだが、捨て置けぬか」
彼は皇帝の足元まで歩み寄り、どすの利いた声で進言した。
「陛下。我ら大罪の全てを呼び戻し、即刻、人間との全面戦争を再開することをご許可いただきたい。奴らの肉を、魂を、この私が根こそぎ食い尽くし、真の絶望を教えてやりましょう」
その言葉に呼応するように、広間の影たちが次々と姿を現す。
妖艶に笑う『色欲』、静かに目を閉じる『強欲』、憤怒を抑えきれず地面を砕く『憤怒』。七つの大罪の全貌が、再びこの世界を塗り潰そうと動き出していた。
皇帝はゆっくりと、赤い瞳を開いた。
「……よい。ベルフェオン、全権を貴様に託す。人間どもを、その根絶やしにするまで喰らい尽くすがよい」
「御意に……!」
深淵の奥底で、かつてないほどの歓喜と飢餓の咆哮が沸き起こる。
辺境の森でリアムが放った純白の光は、一時的な勝利をもたらしたが、同時に眠れる獅子たちの逆鱗に触れてしまったのだ。
再開される戦争。次なる『大罪』の襲来。そして、その中心にいるであろう、純白の剣を持つ男——リアム。
世界が再び、紅蓮の炎に包まれようとしていた。
【登場人物】
■悪魔皇帝
少しでも『面白い!』『続きが気になる!』と思っていただけたら、ブックマークで応援いただけると嬉しいです。下にある【☆☆☆☆☆】から評価をいただけると、さらにさらに、次回の更新も頑張れます!




