第15話 はいっ! ルナ、頑張りますっ!
巨悪の剛腕が、天を仰ぐほどの高さで止まった。その信じがたい光景を、ジレッタは呼吸も忘れ見つめていた。一撃で大樹を粉砕するほどの膂力が、ただの鞘によって受け止められたのだ。
「ぐぅぅう……ガァァアアアッ!!」
激昂した巨悪が、全身の赤い瞳を禍々しく輝かせ、残りの腕全てをリアムへと振り下ろした。それは、もはや逃れることなど不可能な無数の死の奔流。
だが、リアムは避けない。
「おっと、っと」
どこか余裕を保ったまま、リアムの全身が残像を伴う速度で動き出す。鎖で巻かれた鞘が、まるで意志を持った鞭のようにしなり、巨悪の外殻を軽やかに叩いた。
カキン!という鋼がぶつかるような乾いた音。
その一撃一撃が、悪魔の幾百ある赤い瞳の僅かな隙間を正確に捉えている。
ジレッタの目には、リアムが巨悪の全身を踊るように駆け巡り、まるで的を射る遊戯でもしているかのように、悪魔の急所――核となる赤い瞳をピンポイントで叩き潰していく光景が映し出されていた。
鞘が振るわれるたび、悪魔の分厚い外殻が内部から爆ぜるような音を立て、真っ黒な体液を噴き出す。その全てが、鎖を巻かれた鞘のみでの攻撃である。刃すら抜いていない。
「……あれは、人間ではありません」
倒れたジレッタの元へと駆け寄ったアヌビスが、主の体を抱き起こしながら、茫然自失の表情で呟いた。
その金色の瞳は、リアムの戦いを捉えて離さない。
(あの男の動きは、もはや自然の理を逸脱している。上級悪魔である私ですら、あの速度、あの精度は再現し得ない。そして、あの武器……鎖で封じられた『殻』だけで、上級を超える悪魔を翻弄しているだと?)
アヌビスの脳裏に、かつて百年戦争で語られた『超越者の影』が過ぎった。
魔力による強化や、武器の性能を最大限に引き出した攻撃ではない。純粋な体術と、その異形の鞘から放たれる何らかの力。リアムの存在は、アヌビスが培ってきた悪魔としての常識、そして世界の真理そのものを揺るがしていた。
「ジレッタさん! しっかりしてください!」
ルナが震える声で叫び、薄緑色の魔力を傷だらけのジレッタの体へと流し込む。回復魔法の光が包み込み、ジレッタの体に刻まれた傷がゆっくりと塞がっていく。
「ルナ……ありがとう……っ」
薄れゆく意識の中で、ジレッタはリアムの背中を見ていた。その背中は、依然として飄々とした空気を纏っているが、放たれる一撃一撃は、まさしく破壊の具現。
「くっ、まさかここまでとはね……」
回復魔法によって意識がはっきりと覚醒したジレッタは、自らの頬を叩き、再び魔剣を手に取った。
今、この場で彼に全てを任せるのは、トップランカーとしての誇りが許さない。それに、この得体の知れない強さを目の当たりにして、ただ傍観しているなど、彼女の血が許さなかった。
「アヌビス、援護を頼むわ! ……リアム! 私も加勢するわよ!」
返り血一つ浴びずに巨悪の懐で踊るリアムの耳に、ジレッタの力強い声が届いた。
リアムは振り返りもせず、鞘を振るいながら、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「おお、もう回復したんですか? 流石ですね。助かりますよ、ジレッタさん」
ジレッタはアヌビスと共に、再び戦場へと舞い戻った。『鋼の鞘』と『魔剣』。二つの異質な力が、巨大な悪魔を挟み撃ちにする。
しかし、リアムの動きは依然として『本気』ではなかった。ジレッタは、彼がどれほどの力を隠し持っているのか、その深淵を垣間見たいという衝動に駆られていた。
ジレッタの瞳に、かつてないほどの鋭利な闘志が宿った。先ほどまでの不覚は、相手のあまりの巨体と瘴気に一瞬気圧された、戦士としての揺らぎに過ぎない。本来の彼女は、並み居る強豪を退けてきたトップランカー。その実力は、決して伊達ではなかった。
「アヌビス、影の拘束を最大出力で! 一瞬でいい、核を晒させなさい!」
「御意、我が主!」
アヌビスの漆黒の翼が大きく羽ばたき、地面から噴き出した影の鎖が巨悪の四肢を絡め取る。その隙を、ジレッタは見逃さない。彼女の持つ魔剣が、主の魔力に呼応して白銀の輝きを放ち、周囲の瘴気を切り裂いた。
「はぁぁぁあッ!!」
ジレッタの姿が、一条の雷光と化した。
神速の連突。一本の剣から放たれているとは信じがたい無数の閃光が、巨悪の分厚い外殻を同じ一点へ、正確無比に穿っていく。先ほどは傷一つ付けられなかった防御を、彼女は純粋な技量と魔力集中だけで突破してみせたのだ。
一方で、リアムの動きはさらに洗練されたものへと変わっていた。彼は決してジレッタの邪魔をせず、むしろ彼女が最も輝く瞬間を演出するかのように立ち回る。
巨悪がジレッタの連撃を嫌い、その巨躯を翻そうとするたびに、リアムの鞘がズドンと重低音を響かせて悪魔の関節を叩く。重心を崩され、反撃に転じられない悪魔。ジレッタが回避に専念すべき瞬間には、リアムがわざと視界に入り、鞘の打撃で悪魔の意識を強制的に引きつける。
「……やりやすいわね、この男!」
ジレッタは内心で舌を巻いた。リアムの援護は、まるで自分の次の動きをすべて予見しているかのように完璧だった。彼が鞘で隙を作るたび、彼女の魔剣がさらに深く、鋭く悪魔の肉を削いでいく。
「ルナ、もう一度だ! ジレッタさんに特大の出力を!」
「はいっ! ルナ、頑張りますっ!」
後方で頬を膨らませ、一生懸命に祈るルナから放たれた魔力が、ジレッタを包み込む。もはや彼女の剣速は、音を置き去りにしていた。
「これで……沈みなさいッ!!」
ジレッタの渾身の刺突が、ついに巨悪の胸元に隠されていた『巨大な核』を剥き出しにした。
核から溢れ出す絶望的なまでの瘴気が吹き荒れるが、リアムが瞬時にその前に立ち塞がり、鎖に巻かれた鞘を盾のように構えて衝撃を全て受け流す。
「さあ、ジレッタさん! トドメを!」
リアムの呼びかけに応じ、ジレッタは空中を蹴って高く舞い上がった。アヌビスの翼から放たれる漆黒の魔力と、ジレッタの白銀の魔剣。二つの相反する力が螺旋を描き、無防備となった悪魔の核へと吸い込まれていく。
「断罪の一閃!!」
爆音と共に、巨悪の咆哮が森を震わせた。核を貫かれた巨大な体躯が、内側から崩壊するように光の粒子へと変わっていく。あんなに濃厚だった瘴気が、ジレッタの剣閃によって浄化され、霧散していった。
膝をつき、肩で息をするジレッタ。その魔剣は、勝利を祝福するように静かに輝きを収めた。
対照的に、リアムは何事もなかったかのように立ち尽くし、腰の鞘に付いた埃を払っている。
「いやぁ、流石はジレッタさん。あんなのを一人で削り切っちゃうんだから、やっぱり凄いや」
「……あんた、よくもまあそんな呑気なことが言えるわね」
ジレッタは立ち上がり、複雑な心境でリアムを見つめた。
彼女は確かに自分の力で倒したという自負があった。だが同時に、リアムが自分を『勝たせてくれた』という、得体の知れない感覚が拭えない。
巨大な悪魔は霧散し、森には再び不気味なほどの静寂が戻った。
しかし、その静寂は、さらなる深淵へと続く物語の幕開けに過ぎなかった。
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