第14話 ルナの、ルナの全部をあげますっ!
三人が歩みを進めるごとに、森はその様相を醜悪に変えていった。
頭上を覆う巨大な樹木は、もはや光を遮る盾ではなく、ねじくれた指で空を掴もうとする巨人の腕のように見える。足元の腐葉土からは、鼻を突くような鼻腔を焼く濃厚な瘴気が立ち昇り、肺の奥をじわりと侵食していく。
「……酷いものね」
ジレッタが眉を潜め、白い制服の襟を口元まで引き上げた。
彼女の視線の先には、無残に食い散らかされた巨大な野良悪魔の死骸が転がっていた。
それはかつてこの界隈で最強を誇ったであろう個体だったが、今は見る影もなく、何かに腹部を一思いに喰い千切られている。周囲には、逃げ惑う暇さえなかったであろう森の動物たちの骨が散乱し、辺りはどろりとした赤黒い液状の魔力で汚染されていた。
「これ、全部同じ悪魔がやったんですか……?」
ルナがリアムの腕をぎゅっと掴み、怯えたように周囲を見回す。かつては好奇心で輝いていた彼女の瞳も、今は恐怖に揺れていた。 すると、森の奥から異様な光景が飛び出してきた。
「ギャッ、ギギィッ!」
知性のかけらもなく、ただ本能のままに人を襲うはずの雑魚悪魔たちが、三人を無視して全速力で横切っていく。彼らは言葉すら理解せぬ下等な存在だが、その表情には、絶望という名の原始的な感情が張り付いていた。
それは『天敵』から逃れるための、必死の逃走だった。
「アヌビス、状況は?」
「……極めて不自然です、我が主。この瘴気の濃さは、もはや悪魔のそれではありません。まるで深淵の門が、この森の奥で開いているかのようです」
アヌビスの冷静な声に緊張が走った瞬間、足元から凄まじい地鳴りが響いた。
ズゥゥゥゥン、と大気を震わせる衝撃。
それは不定期に、しかし着実にこちらへと近づいてくる。
「何かが……来ます! リアムさま、ジレッタさん、凄く大きいです!」
ルナが叫ぶのと同時に、森の奥から巨大な樹木がバキバキとなぎ倒される音が轟いた。
現れたのは、ジレッタの経験則を根底から覆すほど『巨大な悪魔』であった。
その体躯は、周囲の巨樹さえも膝丈に見えるほど高く、全身を硬質の黒い外殻で覆っている。幾百もの赤い瞳が全身で蠢き、そこから漏れ出る瘴気が触れるものすべてを瞬時に枯らせていく。
「嘘でしょ……調査報告にあった個体とは、桁が違いすぎるわ……!」
ジレッタが魔剣を構えるが、その手が微かに震えた。目の前のそれは、もはやハンターが数人で対処できる範疇を超えている。
だが、そんな絶望的な威圧感の中でも、リアムは相変わらず腰の鎖を撫でながら、ぼんやりとその巨体を見上げていた。
「へぇ、これはまた……。お弁当を食べるどころか、お昼寝もさせてくれそうにないですね」
呑気な言葉とは裏腹に、リアムの赤い瞳の奥から、ほんの一瞬だけ――ジレッタさえも気づかぬほど鋭い『狩人の光』が放たれた。
巨体の悪魔が吐き出す濃密な瘴気が、触れる草木を瞬時に腐らせ、黒い煙へと変えていく。その圧倒的な質量を前に、知的なアヌビスの表情から余裕が消え失せた。
「主、いけません。即刻の撤退を具申します。あれは……数人の人でどうにかできる悪魔ではありません。上級を超越する特級に分類される存在です」
アヌビスの声は、震えていた。上級悪魔である彼が、魂の底から拒絶反応を示しているのだ。
「何を言っているの! ここで私たちが引いたら、麓の村はどうなるのよ! あそこには子供だって、老人だっているのよ!」
ジレッタは叫び、恐怖を打ち消すように魔剣の柄を強く握りしめた。彼女の誇りと使命感が、本能の警告を上回る。
「アヌビス、援護を! 死ぬ気でやりなさいっ!」
赤茶色の髪を逆立て、ジレッタは白い制服を翻して地を蹴った。
アヌビスもまた、絶望を押し殺して漆黒の翼を広げる。重力魔法を幾重にも展開し、巨体の足を止めようと試みるが、巨悪はそれを嘲笑うかのように、ただ腕を振るった。
「くっ……あぁぁぁッ!!」
ジレッタの神速の刺突が巨体の外殻を叩くが、火花を散らすだけで傷一つ付けられない。逆に、巨木をなぎ倒すほどの巨大な腕が、逃げ場のない速度で彼女を襲った。
アヌビスが間一髪で盾となるも、衝撃の余波だけでジレッタは地面を転がり、背後の大樹に叩きつけられる。口元から鮮血がこぼれ、その魔剣が力なく地面に落ちた。
「主ッ!!」
巨悪の幾百もの赤い瞳が、弱り切った獲物――ジレッタへと向けられる。逃げ場のない死の重圧が、彼女の意識を刈り取ろうとしていた。
「リアムさま……! ジレッタさんが……っ!」
背後で震えていたルナが、涙を浮かべながらも立ち上がった。その小さな体は恐怖でガチガチと鳴っていたが、彼女はリアムの背中にその小さな両手を添えた。
「リアムさま、お願い……ジレッタさんを助けて! ルナの、ルナの全部をあげますっ!」
それは、低級悪魔が放つものとは到底思えない、神々しいまでの魔力の奔流だった。ルナの魂を削り出すかのような渾身の身体強化。リアムの全身が、青白い静電気のような魔力の火花に包まれる。
「……了解だ。よく頑張ったね、ルナ」
リアムの足元の石畳が、ただの踏み込みだけで粉々に砕けた。
爆音。
次の瞬間、リアムの姿はジレッタの目の前にあった。
彼は相変わらず腰の鎖を解こうともせず、鞘に収まったままの剣を、悠然と構える。
「……せっかくカツレツ・サンドを奢ってもらったんだ。死なれちゃ、とっても寝覚めが悪いですよ!」
巨悪の剛腕が、リアムを握り潰そうと振り下ろされる。
だが、リアムはそれを避けない。
鎖でぐるぐる巻きにされた『鞘』が、下から上へと、軽やかに跳ね上がった。
ズドォォォォォォンッ!!
森全体を震わせる衝撃波。
あろうことか、山のような巨体を持つ悪魔の腕が、鞘の一撃だけで天高く跳ね上げられた。リアムの周囲の空間だけが、まるで時間が停止したかのように静謐に澄み渡っている。
「……さて。鎖を巻いたまま、どこまで通じるか試してみようか」
絶望に染まったジレッタの瞳に、その背中が焼き付く。
鞘のまま戦うという狂気の光景。だが、その背中はどんな高位のハンターよりも大きく、そして頼もしく見えた。
少しでも『面白い!』『続きが気になる!』と思っていただけたら、ブックマークで応援いただけると嬉しいです。下にある【☆☆☆☆☆】から評価をいただけると、さらにさらに、次回の更新も頑張れます!




