2.白銀
「ねえ、君、名前なんていうの?僕の名前はジャンだよ!お父さんの名前がジャックだから、そこからとったんだよ!ねえ、君の名前は?どうしてこんなところにいるの?君、すっごく可愛いね」
ぽんぽんぽんぽん、よく言葉が尽きない口だ。なんで、私はこんなうるさい奴を助けてしまったのか。数分前の自分をぶん殴りたい。
問いには答えず鉄格子と少年に背を向けて、私は自分の寝床に戻った。足首まで来ていた潮も引いている。ベッドで横たわっていても、鉄格子の向こう側の少年は、なんだかんだと私に声をかけている。そもそも、なんだ。簡単に可愛いなどと、よく恥ずかしげもなく言えるもんだ。
「疲れた、だまれ」
本当に疲れてはいた。初めて神能が覚醒したのだ、無理もない。連日の断食で体力も失っていた。あと、人生でこれほど誰かに話しかけられたことがない。こんなおしゃべりにも会ったことはない。
「こ、声も。歌ってない時の普通の声もすっごくいいね!僕、大好きだよ!」
なんだこいつ、頭沸いてんのか。
「ねーえ!どうして寝てるの?体調悪いの?これ壊してそっち行ってもいーい?」
「はっ!できるものならやってみるがいい」
馬鹿馬鹿しい。ただの子供がその鉄格子を壊してここに入るだと?笑わせてくれる。海水でも腐食することのない貴重な鉱石で作られたこの鉄格子は、ただの鉄ではない。陸上に現存するどの金属よりも固く、魚人族の叡智をかけて作られたものだ。それをたかが子供が、しかも素手で壊すなどと、たわけたことをいっ......
ガッシャーン。
それは耳をつんざくような激しい音だった。えっ?少年が1発だけ蹴りを入れると鉄格子が音を立てて破壊されていた。
え?え?何やってんのこいつ。どうなってんの?魚人族の叡智が......。
「ねえ?本当に壊してよかった?あとで大人の人に怒られたりしない?」
あくまでも猛々しさが一切ない、柔和な顔面の少年が近づいてくる。鉄格子からこちら側に誰かが来るなんて、ここに幽閉されてから5年間で初めてだ。
「やっぱり、体調悪そう。今の僕より元気ないじゃん。さっきのやつ、自分に向けてやれないの?」
ベッドに横たわり呆然としている私の頬に当たり前のように彼は触れる。
「驚いた顔も可愛い」
なんなんだ、こいつ。本当になんなんだ。
「きききききき、気安くふ......触れるな!」
「え?照れてるの?すごい可愛い」
私が照れる?馬鹿な。何を言っている。そもそも情報過多で頭が爆発しそうだ。何者なんだ、こいつ。
その時、パラパラと小石が混じった砂つぶが、私の頭に降り注いだ。心なしかベッドが揺れている気がする。ん?ベッドじゃなくて、地面が揺れているのか。
「ねえ?この洞窟ってあんまり丈夫じゃなかったりする?」
少年は両の手のひらを洞窟の天井に向けて、呑気な口調で話している。
丈夫かどうかと訊かれるとここは海食洞だ。波の侵食でできた海岸の絶壁にある洞窟。地学に詳しい訳ではないが、すごく丈夫、というわけでは無いかもしれない。
「僕さ、さっきのやつ壊す時に、周りの壁?も一緒にやっちゃったんだよね。ここ崩れちゃうかなあ?ここって君の家なの?どうしよう......君のお家を壊すつもりは無かったんだけど」
「こ、ここは家じゃない!私の牢獄だ」
明らかに囚人が入るような鉄格子の中にいたのに、ここが家かと心配するこいつの脳内がお花畑すぎる。というか、見ればわかるだろう。いや、そもそも、怪しめよ私を。
「じゃあさ、ここから君を出したら助けたことになる?」
少年はベッドに横になっていた私をヒョイっとお姫様抱っこをした。
「な、ななな何をしている!?」
「ん?君を助けるって言ったじゃん」
私がきいたのは、お姫様抱っこの方のことなんだが。
「ここから出して欲しい?お外いきたい?君が望む所に僕も行くよ」
「ははは!なんだお前!私がもし、この崩落していく洞窟の中にとどまりたいと言ったらどうする気だ。共に生き埋めになるのか!?私はここで死んでもいいんだ!ずっと、ずっと。そう思っていた!生きる意味などない!」
私は初対面の人の子に何を言ってるんだろう。こんな気持ちを吐露して何になる。
「それがいいならいいよ、僕も一緒にここにいるよ」
こいつ、何を言ってるんだ?馬鹿なのか?いや、絶対馬鹿だ。こんなやり取りをしている内にも、洞窟は音を立てて揺れ、降り落ちる砂や小石の量は増え続けている。
「じゃあ、降ろせ!私はここで死ぬ」
「それは、嫌だなあ」
「お前!さっきは、私が望むならそれでいいって!」
言ってることが無茶苦茶すぎる。まるで子供の喧嘩だ。いや、私もこいつも子供なんだけど。
「だって、君が死んだら僕嫌だもん。君がそう思ってなくても、僕がそう思っているんだ。いきうめってなんか苦しそうだし、やめといたら?」
〝サリー死なないで、生きて。外の世界で幸せになって。あなたが望んでいなくても、私が心からそう思っているの〟
どうして、こんな時に。母の言葉を思い出すんだろう。こんな意味わかんないうるさい奴の言葉なんか、どうでもいいのに。こんな馬鹿で呑気な人の子なんて、母とは全然違うのに。ああ、でもどうして、こいつの笑顔は母と重なるんだろう。
「.......外の世界、いき.....たい」
行きたいのか、生きたいのか。どちらにせよ、いきたかった。
「わかった!僕が君をどこにでも連れて行ってあげる」
私をお姫さま抱っこした少年は爽やかに笑って答えた。というか、ノリ軽っ。私の一大決心を簡単に扱いやがって。やっぱり馬鹿は嫌い。
「そもそもここから、どうやって脱出するんだ」
「え?崖を登ればいいんでしょ?僕ここで泳ぐの苦手みたいだし」
もうここから5年出ていないので、あまりここが外からどんな風景だったか覚えていないのだが。魚人の王族達が幽閉場所に決めた洞窟だ。そんな簡単に登れるようなところだったか?5年で地形が変わった?まさかな。
「お前、何言ってるんだ?登るって......」
「もう、僕、走るから。しゃべっちゃだめだよー」
ん?なんで、お前が走ると話しちゃいけないのか。そんな事をきこうとする前に、景色が急に流れ出した。潮風が全身に急激に当たり、瞬きを忘れた眼球に風が染みる。崩れかけている洞窟の砂埃が顔に当たり、伸ばしっぱなしの自身の髪がなびいている。開きかけていた口が振動で、勝手に閉じて歯がカチカチと鳴った、そして同時に軽く舌を噛んでしまった。
え?今何が起きてる?高速に移動している?舌の痛みよりも思考の混乱が脳内を占めた。
え、やっぱりそうだよね?私を抱っこした少年が異常な速度で走っている。彼はあっという間に洞窟の外へ駆け抜けた。そんな、こんな簡単に。嘘でしょ?私の5年間をこの少年はこんな短時間で変えてしまうの?
嵐が過ぎ去った海原には、雲一つなく満月が光り輝いている。洞窟の中には月明かりは届くけど、月の満ち欠けは見えていなかった。
「今夜が満月で良かった」
そう呟いた人の子は、急に立ち止まり私を抱っこしたまま目を閉じた。なんの前触れもない一瞬の出来事。彼の頭部からニョキっと動物の耳が生えた。本当に文字通り生えてきた。彼の黒髪と正反対なふわふわの白銀の耳は満月の光と潮風が相まって、キラキラとなびいた。な、何が起きてるの?よく見たら、耳と同じ色の尻尾もついている。この動物はなんだろう?犬?陸のものには詳しくないからよく分からない。
ああ、でも不覚にもその白銀は美しいと思ってしまった。
獣耳と尻尾を生やした彼は、両手でお姫様抱っこしていた手を片手に持ち直し、空いたもう一つの手を使って絶壁の壁を登り始めた。というか、ほとんど脚力でジャンプしてて、手は添えているだけに近い。なんだこの身体能力。でも、これではっきりした。彼は普通の人の子ではない。
本当にあっという間の出来事だった。少年は息を切らすこともなく、落ちたら即死する高さの崖を難なく登りきって、私を安全なところまで運んだ。背後からドゴオオオオオっと洞窟が崩落した音が聞こえる。あそこにいたら死ねただろうな、ほんとうに。
「とりあえず僕のお家連れて行くね」
なんか、私を背負っている少年があれこれ言ってるけれど、遠くの方で聞こえている気がする。彼が歩くたびに一定のリズムで揺れがきて、温かい体温が伝わってくると、どっと疲れが押し寄せた。
「......ねむたい」
私が思わず呟くと、
「おやすみー」
と返す少年の声がした。おやすみか、そうか。ひとの体温もおやすみも、母がいなくなってから、焦がれて焦がれて諦めたものだった。