婚約破棄の悪夢
お前との婚約を破棄するなんて、本当は言うべきじゃなかったんだ。
◆
つまらない女を捨てて、私に相応しい女性と結ばれた。
その際に多少の不興はかったが、王子としての権力で黙らせた。
捨てた女は下手な気を起こしても問題がないように、適当な罪を着せて放逐処分とした。
全て上手くいった。
私の将来は美しく輝いている。
はずだったのに……
「どうかしたの?」
「……いや、多分気のせいだ」
ステファニーが、その美しい顔をわずかにかしげる。
ごく普通の仕草だが、それだけでも芸術的だ。どんなに素晴らしい美術家でも、彼女の姿を正確に写す事はできないだろう。
愛する人が隣にいる暮らしは、これ以上になく幸せだった。
彼女のためには何でもしたくなるし、何をしても許されるに違いないと思える。
だから、なんでもして彼女と結ばれた。彼女を未来の国母とするために、全ての努力をしてきた。
今、私の人生は完ぺきである。
だというのに、ずっと違和感があるのだ。
――声が、聞こえる。
私の名前を執拗に呼ぶ声が。
しかし、気のせいだ。
ステファニーに自分で言ったように、気のせいに違いないのだ。
どこに行っても、声が聞こえる。
耳を塞いでも、自分一人だけでも、眠っていても聞こえる。
深く地の底で響くような、悍ましい声だ。男か女かもわからない。
ただ一つ、どうやら私に好印象を持っているわけではないらしかった。
恨み、憎み、蔑んでいる。そう思えてならない迫力が、確かにある。
「そういえば、あの女はどうなったのかしら?」
「は? え? 誰?」
「誰って……あの女はあの女よ。私からあなたを奪おうとした女狐。浅ましい売女。見窄らしい醜女の事に決まっているじゃない」
ベッドの中で、ステファニーが笑う。コロコロと上品な笑みは、私が最も愛する彼女の一部のうちの一つだ。
しかし、いつも見惚れるその顔も、今日ばかりは心が踊らなかった。
いや、踊らないどころではない。私の心は、まるでどこかに行ってしまったかのように彼女への興味を示さない。
「あの女……あの女は、確か……? どうなったんだったか」
「聞いていないの? まあ、あんなのがどうなっても私たちに関係ないもんね」
「ああ……そうだな。多分、どこかでのたれ死んでいるはずだ。あんな要領の悪い女が、市井の暮らしなどできようはずもない」
「いえてる」
また、聞こえる。
まだ、聞こえる。
いまだ、聞こえる。
それに、気のせいだろうか? 少しずつ、大きくなっているような気がしてしまう。
「……ねえ、何か聞こえない?」
「何も聞こえ……は? なんだ?」
「だから、何か聞こえるわ。響いてる。小さい声だけれど、聞こえるでしょう? なにかしら、これ」
「…………」
何という事だ。もし私にしか聞こえないのなら気のせいで済んだものが、なんとステファニーにも聞こえ始めた。
疑う余地はない。
聞こえているのだ。なにかが。私と同じような言葉が。
今はまだ、何なのかわかっていないらしい。しかし、きっと私と同じように声だとわかる時が来るだろう。
そしてその時、私はどうなっているのだろうか。
私にはもう、この声が誰のものなのかわかるほどによく聞こえる。
◆
朝起きたら、彼がいなかった。
「殿下……?」
執事に聞くが、どうやら夜遅くに出かけてから帰っていないのだという。
その際、手紙を一つ置いていったらしい。
「手紙一枚で出かけるなんて、随分と不親切なのね……」
手紙は走り書きで、大した内容は書かれていなかった。
すぐに帰るとか、心配しないでとか、要領を得ない話ばかりだ。どこへ行くかも、何をするのかも書かれていない。
一番気になるのは、神経質な彼の字にしては、少し歪んでいるように思えた事だ。
急いでいたのだろうか。
そういえば最近、落ち着きがないとは思っていた。
しかし、まさかこんなにも思い詰めていたとは。
この時までは、あまり深くは考えていなかった。
帰ったら優しくしてあげようとか、彼のいない間に羽を伸ばしちゃおうとか、そんな事を思っていたのだ。
自分がどれほど愚かだったか、私が気づくのはもっと後の話だ。
彼がいなくなってから、だいたい一週間おきに電報が届くようになった。
毎回短い情報だけで、結局何をしているのかはわからない。どこにいるのか、次にどこに行くのか。その程度だ。
だが、その電報の様子すらおかしくなった。
私の記憶が正しければ二ヶ月ほど経った頃の一報。
普段通り報告は、今どこにいるのかと次にどこへ行くのか。しかし、その言い回しが異なっていた。
『次はアルマード山へ逃げる』
はっきり、逃げると書かれている。
彼は何をしているのだろう。一体、何から逃げるというのだろう。
次期国王であり、魔術の達人であり、類稀な策略家である彼に、何を恐れるものがあろう。
少なくとも、国内に彼が恐れるものはない。権力上は上位に当たる国王ですら、彼の話術に踊らされているのだから。
あるいは、書き間違えだろうか。
どれほど叡智に溢れていようと、些細な失敗を完全に無くす事はできない。『向かう』を『逃げる』と書き間違えるのは考えにくいが、だからといって全くあり得ないのかと言われればそうとは言い切れないだろう。
……まさか、逆である可能性などないのだから。
今まで何かから逃げていたところをあえて『向かう』と書いていたのに、ついうっかり正直に『逃げる』と書いてしまったなど、あるはずがない。
彼に恐れるものなどない。
そして、それは彼の妻である私も同じだ。
彼からの電報の内容は、少しずつ歪になっている。
どんどん言葉足らずとなって、とうとう現在地と次の目的地を記すだけになってしまった。
『タタゴ村 ランナス平原西』
今までのやりとりがあったから読み取れるが、これだけでは何の事かわからない。
こうなっては、もう疑う余地はないだろう。彼は何かのっぴきならない事態の只中にあり、おそらく正常な精神とは言えない。
私は、兵士に彼を連れ戻すように命じた。幸い電報によって場所は定かであり、追う行為自体は可能である。
彼の移動は、そこまで速くはないように思えた。兵士からの報告と彼の移動を照らし合わせれば、少しずつその距離を縮めているのがわかった。
そして、ものの半年ほどで追いつく。昨晩届いた電報と、今朝届いた報告は同じ町からのものだった。
ようやく、安心した。
これで、彼は戻ってくるのだと。
しかし、それから兵士の報告が途絶える。
自覚するほどに、大変慌てた。何があったのか調べる術がないのだ。本当ならば連絡があるはずの日から三日、四日、五日も経って、彼からの電報が届く。
『兵士 やられる 人手 求まず』
「なにこれ……?」
何が起こったのかが、全くわからない。
やられる、何に? 求まず、何故に?
状況を把握するための手筈だったというのに、結局は混乱ばかりが増えていく。
彼は、何をしているのだろうか。
声が聞こえる。何かの声が。不安で不安でたまらない。
早く彼に相談したい。
もし私に彼ほどの頭があれば、彼の行動の意味がわかるのだろうか。この泥沼でもがいているような感覚も、解消できるのだろうか。
私は縋るように、彼の書斎へと足を運んだ。
もうずっと軽い掃除だけしか人の入りのない書斎は、どうにも寂しく思えた。本特有の紙の臭いは、正直少し苦手だ。
これまでの一生のうちで一番、そしてこれからの一生のうちでももうないほどに文字を読んだ。
全ての棚と全ての台に置いてある物に目を通す。本のみならず、文字という文字、紙という紙に。
特に手紙だとかメモ帳だとかは一つの場所にまとめられているわけではなく、机の裏に落ちていたり本に挟まっていたりするので苦労した。さらには、走り書き的な整っていない文字はそもそも読む事が困難であったりする。
朝から晩まで齧り付くように読んでなお、全体の十分の一も読み終わらなかった。
しかし、諦めるわけにはいかない。
私自身こんな事をするだなんて思いもしなかったが、何かに取り憑かれたように文字を漁った。文字を漁っていなければ気がどうにかなりそうだったからだ。
声は、ずっと聞こえている。小さく儚く、低く響くような声が。
数ヶ月かけて、書斎の物を全て洗った。
その間も彼からの電報は止まらなかったが、近頃では文面は支離滅裂なものとなって何を言っているのかわからない。
書斎のほとんどは彼の状態に関係がなさそうだったが、鍵の付いた棚にしまわれた手紙に書かれている情報が、見たところ重要そうである。
鍵の場所はわからなかったので探すのは後回しにしていたが、最終的に面倒に思って扉を壊してしまった。
その手紙は、このように始められている。
『あの女の行方について。』
「これは……」
あの女。誰かわからないほど、私は愚かではない。
私たちが謀り、貶め、追いやった女だ。
私が彼の妻となる上で邪魔だったため、無実の罪を着せて放逐処分とした。
貴族の子女が、まさか市井で生きられるはずがない。どこかでのたれ死んだか、あるいは拐かされて血の底を味わったか。どちらにせよ、二度と私たちの前に姿を現さないはずの存在である。
それが、なぜ今更。
もう、一年以上も前の話だ。それほどの時間が経って、もう生きているかも怪しい相手のはずだ。全くの無関係のまま一生を終えなくては説明がつかないはずだろう。
——しかし、私はほんの少しだけ理解してしまった。
手紙は、おそらく報告書のようなものだ。
あの女が私たちの前から消えて以降、どこへ行って何をしていたのか。どうでもいい話のように思えたが、今の私には重要だった。
その報告書の中に出てくる地名が、彼からの電報のそれとピタリと一致していたからだ。
彼は、あの女を追っている。
これを浮気と思うほど、鈍いつもりはない。
手紙を読み進めると、やはりただ事ではないらしかった。
あの女は、やはり死亡していた。亡骸を確認したと、はっきり書いてある。山道で崖下に転げ落ちていたと。
そして、それきり報告はない。
訪れた町ごとにあの女がどのように過ごしたか、誰と接触したか、その全てがつぶさに記録されていたはずの報告書が、亡骸についてだけは姿を確認しただけで報告を終えている。
そればかりか……
『間も無く日がくれるので、詳しい調査は翌日に改める』
「…………」
翌日にも、調査が予定されていた。
だが、その調査報告はここにない。
何があったのだ。少なくとも、報告を上げられないような何かが。そして、どうやらこれを見て彼は姿を消した。
それが何を意味するのか、私にはまだわからない。もしかしたら大したものではないのかもしれないし、あるいは一大事なのかもしれない。
ただ一つ、決して愉快な事にはならないだろう。たったそれだけが、私にわかる精々である。
声が聞こえる。
彼からの電報は、もうしばらく来ていない。
あれほどこまめに連絡をよこしていたというのに。
人間は、結構簡単に顔を忘れてしまうと聞いた。
死んだあの人がどんな顔だったか、どんどん朧げになっていくのだとか。
だから、私はあの女の顔を覚えていない。そもそも接触が少なかったし、記憶に残るほど美人でも不細工でもなかった。
だが、声ははっきり覚えている。
声が聞こえる。私の名前を呼ぶ声が。
もうわかるのだ。この声の主が誰なのかすらはっきりと。
声が聞こえる。聞こえている。
そうか、この声は、大きくなってなどいないのだ。
てっきり大きく、よく響くようになっているのかと思っていた。
しかし違う。この声の大きさは変わらず、響きも変わらず、ただ近付いているのだ。
もう、耳元に聞こえる。
声が聞こえる。声が聞こえる。
聞きたくないのに。
私は、慌てて屋敷を飛び出した。
あの女はいないはずだからだ。あの女がもうこの世にいない事を、ハッキリさせなくてはならないからだ。
だから、私も急がなくてはならない。
報告書と、電報を頼りに。