光
雪の日は嫌いじゃない。新雪を踏みしめながら、私は思う。晴れた日の燦々とした太陽はどうにも苦手だったし、強い雨は私ごと何もかもを洗い流してしまいそうで好きになれなかった。その点、雪はいい。薄汚れた街を美しい純白で覆い隠し、点々と残った足跡は私がここにいる事を証明してくれているように感じる。木々に飾られたイルミネーションと雪の組み合わせが代り映えのしない街を特別にしていた。
そういえば、もうじきクリスマスだ。私はいつの間にか20代最後の年を終えようとしている。光陰矢の如し。早いものだ。街行くカップルはみな幸せそうに手をつないでいる。今年は数年ぶりのホワイトクリスマスで浮かれてしまうのも無理はない。一方私はクリスマスを共にする恋人どころか友人もいなかった。少し前までは僅かながら友人がいたはずなのだが、だんだん疎遠になって遂にはほとんどひとりぼっちになってしまった。
夜の仕事を始めたのは大学1年生の夏ごろだ。振興宗教に嵌ったヒステリックな母親と不倫癖の酷いアルコール中毒の父親。典型的な毒親2人に育てられた私は、いつしか親元を離れて自由になりたいと願うようになった。当然両親、特に母親からは猛烈に反対されたが、友人の力も借りて半ば無理やり遠く離れたこの町の大学に入学した。入学してからは1度も両親と連絡を取っていない。私がどこの大学に進学したかも知らないはずだ。私は進学に際して、暴力と怒号が飛び交う実家に戻ることが無いよう細心の注意を払った。
学費や生活費は自分で稼がねばならなかった。当初はファミレスのホールスタッフやコンビニのアルバイトを掛け持ちして何とか食いつないでいた。しかし、当時猛威を振るっていた流行り病の影響からだんだん思い通りに働けなくなって来て、いつしか貯金も底をつきかけていた。心優しい友人らは私の相談に乗ってくれたり、手料理をふるまってくれたりしたが、やはり生活は苦しかった。
そんな時、街中で声を掛けられた。そういう仕事のスカウトだった。夜の仕事に就く事に抵抗があったが、圧倒的な高時給に惹かれてしまった。だから、きっぱりと断れなかったのだ。スカウトマンの手練は見事と言うほかなく、幼い私はいつの間にか風俗嬢になっていた。初めての夜の事は忘れもしない。いつか愛する人と、と思い描いてた夜は見ず知らずの中年に散らされた。快楽も光悦も無い、痛くて恐ろしいだけの初夜だった。
とはいえ、それらも今となってはただの事務作業に過ぎない。お金にも困らなくなった。
街角ではチャリティーイベントなどと称してサンタクロースを真似た大人たちが純真無垢な子供たちへお菓子を配っていた。その中に見知った顔がある。確か名前は尾形。うちの店の常連だったか。ああいう人でも風俗を利用するんだな、と思うと少し悲しくなる。べつにいいんだけど。
駅の近くはあんなにキラキラと賑わっていたのに、1つ角を曲がるだけで急に人気がなくなってしまう。そこから数分歩いた薄暗い路地に私の勤務先、"Coleus"がある。風俗店にしては洒落た名前だ。
「お疲れさまです。」
出勤した私に店長が声をかける。優しそうな老紳士といった風貌で、どうしてこんな店での店長をしているのか、わたしは知らなかった。思い返せば、長らくお世話になった。面倒な…じゃない、個性的なお客さんが来たときは率先して助けに来てくれたし、何より私達嬢を娘の様に可愛がってくれていた。私は、生まれて来なければよかったのに、などと言う父親より、よっぽど店長の方を慕っていた。仕事内容こそ他人様に胸を張れる仕事ではないのかもしれないが、私はこの店が好きだった。
「店長、ちょっといいですか。」
だけど、いつまでもこの仕事を続けることはできない。例外一人を除けば、徐々に固定客が離れていっている。29歳の私では二十歳前後の新入りの勢いに抗えなかった。それに、近頃は昼職の方も安定して来て、昇進の話も決まった。ブラック企業ガチャで何度も外れを引いてきたが、長きにわたる転職活動が遂に身を結んだのだ。もう、この店に居座る理由はない。
「私、お仕事辞めます。」
店長は寂し気に微笑んでいた。
数時間後。最後の業務を終えて、店を出ると、1人の男が待ち構えていた。大学時代の知り合いだ。どこで噂を聞きつけたのか私を救いたい、などとほざいてColeusまで追いかけてきた、要するにバカである。まぁ、そういうお人好しなとこは嫌いじゃない。ただ、何度も来店しては大量のオプションを付けるくせに、時間のほとんどを話すだけで終えることが多かった。もし私が(半ば強制的に)サービスをしようとしたなら、彼は露骨に嫌がった。そういう行為は拒むくせに、本人はここに来るべきではないのではないか、なんて悩んでいる。私はこの男のどっちつかずな所だけは嫌いだった。
「ミカちゃん、あのさ…」
「本名で呼ばないでってば。」
「…もう、源氏名で呼ぶのも変じゃない?」
彼は背後に隠していた花束を取り出した。
「これ、造花だけど。退職祝いに。」
色とりどりの花が嬉しそうにこちらを覗く。ペチュニア。私が好きな花だ。思わず顔が綻ぶ。
「ペチュニアって。母の日のギフトみたい。しかも造花なのね。」
「…気に入らなかった?」
「ふふ、冗談だよ。」
ミカは少女の様に微笑んで見せた。
「ありがとう。」
「いいよ、そんなに高価なもんじゃないし。」
「違うよ。」
私のことを助けようとしてくれていたこと、今度はちゃんとそばにいてくれたこと。正直、死にたくなる夜もあった。手首に傷をつけてしまう朝もあった。だけど、私には、私を想ってくれる人がいた。大事にしてくれる人がいた。そうじゃなかったら、きっと今日まで生きてこれなかった。あなたのおかげでもあるんだよ。そう言いたかったが、なんだか照れ臭くて、言えなかった。
だから、代わりに口づけをした。
彼は始めは何が起こったのか理解できずにきょとんとしていたが、直に顔を紅潮させてあたふたし始めた。私はなんだか可笑しくて、ふふ、と笑った。雲の隙間から優しく差し込む日光が二人を包みこむ。
これくらいの太陽が、私にはちょうどいい。
真っ白な雪で飾られた町並みが、光を反射して輝いていた。