家族
「おかえりにいちゃあ!!」
住み慣れたマンションの玄関を開けてまず最初に耳にするのは、一番下の弟の声だ。
エントランスのオートロックに番号を入力して解除すると、該当する部屋のディスプレイに告知音が鳴るしくみになっている。
弟はその音が鳴ると家族が帰って来る事を理解していて、健気にも玄関で出迎えてくれる。
「おう、ただいま太陽」
一高は最近五つになったばかりの弟の、手触りの良い髪をクシャクシャと撫でる。
「あのねあのね! きょうはハンバーグだよ! たいようもいっしょにね! つくるの!」
「ああ? お前も作るの? おいおい、ちゃんと出来んのかぁ?」
「できるよ!」
「本当ですかぁ?」
「ほんとうですよぉ?」
玄関に腰を下ろして通学に使っているブーツの紐を解きながら、背中に纏わりついて来る弟と戯れる。
毎日繰り返される日課である。
その次に現れる人物もまた、毎日ほぼ決まっていた。
「イチ兄!」
それはドタドタと足音を喧しく、部屋の奥から耳をつんざく様な声と共に現れる。
「イチ兄聞いてよ! 祈莉ちゃんヒドイんだよ! あとおかえり!」
二人居る妹の一人、下の妹である希未が半泣きで現艦へと駆け込んで来た。
「帰ってきて早々になんだってんだよ。あとただいま」
脱ぎ終わったブーツを玄関の靴箱の下、空いたスペースに無造作に突っ込み、風太の肩を背中から抱いて希未へと向き直る。
「あのね! 日曜日にファトマに行こうって学校のみんなと約束したの!」
「ファトマって、隣街の?」
「そう! 新しく出来たビル!」
「にいちゃにいちゃ。たいよう、ファトマいったことあるよ! おかーさんといったの!」
立ち上がる一高の背中にしがみついたまま、太陽は嬉しそうに報告した。
「太陽うっさい! 今は希未がイチ兄と喋ってるの!」
「たいようがさいしょにはなしてたもん!」
「今は希未の番だもん!」
玄関からキッチンへの道のりが、思う様に進まない。
姉弟の中でも一際やかましい二人に捕まってしまえば、一高はいつもこうやって聞き役に徹するしかないのだ。
「それでね! 祈莉ちゃんが持ってるジャケット貸してってお願いしたのに、貸してくれないんだよ!」
「祈莉がダメって言ってんなら、それで諦めれば良いじゃねーか」
「だって、もうお洋服決めちゃったんだもん! あのジャケットじゃなきゃダメなんだもん! また最初からお洋服を選ばなきゃいけなくなるもん!」
「選べば良いじゃん」
「ダメなんだってばぁ!!」
プリプリと顔を真っ赤にして、まだ幼さが残るからこそ許されるツインテールを揺らしながら、希未は一高の腕に絡みついて引っ張る。
「ねぇ。イチ兄からも祈莉ちゃんに言ってよぉ」
「ああ? アイツが俺の言う事を聞く訳ないだろ。そうでなくても、最近不機嫌だからめんどくせぇってんのに」
「祈莉ちゃんイチ兄大好きだからきっと聞いてくれるって」
「バカのぞっ! 誰が誰を大好きだって!?」
「わぁ、聞こえてたぁ!」
廊下から扉を開いてリビングに入るや否や、大きなクッションが飛んで来た。
一高は太陽に当たらない様、右手でそのクッションをしっかりと受け取り、投げて来たであろう相手を見る。
「何よ!」
「危ねぇから手当たり次第に物を投げんなっていつも言ってんだろアホ」
「クッションなんか当たっても痛くないでしょ!?」
キッとキツく一高を睨むのは、もう一人の妹である祈莉だ。
肩まで伸びる黒髪を揃えて、部屋着である水色のフワフワもこもこショートパンツとジャケット、そして室内用靴下を履いてソファに横たわっている。
長めの前髪を半分ほど横に分けて、小さな花の飾りの付いたピンで留めているのは、もうずっと幼い頃から変わらない。
「太陽に当たったらどうすんだよ」
「太陽に当たらない様に投げた!」
一体何が気に食わないのか、この一つ下の妹である祈莉は、ここ二年ほど一高とソリが合わない。
反抗期って奴だろうか。
海外で研究職に就く父親の代わりに口煩くして来たのが原因なのだと推測しているが、母親に対しては変わらず接しているし、自分よりもっと口煩い長女には従順だから対応に困る。
言い返せばまた喧嘩になると諦めて、一高は太陽と希未を纏わり付かせたままリビングを素通りして、廊下の突き当たりにある自室へと歩を進めた。
「ん? 母ちゃんと妃瑪は?」
自室の扉の前で立ち止まって、妹と弟にそう聞いた。
「ヒメ姉なら、お母さんと一緒に買い物行ってるよ」
「たいようもいくっていったのに、にゃっぴぃみてたらいなくなってたの」
何故か全く左腕を離そうとしない希未が答えると、背中の太陽も答える。
にゃっぴぃとは、夕方十六時頃に放送している幼児向けアニメだ。
今現在の時刻が十九時半。
少なくとも三時間は買い物から帰っていない事になる。
「そっか、こんだけ遅いって事は荷物が多そうだな。太陽、兄ちゃんは母ちゃんと姉ちゃんを迎えに行って来るけど、お前も来るか?」
「いく!」
「おっけ。じゃあさっさと着替えるから、兄ちゃんの背中から降りてくれ」
「はい!」
元気良く返事をした太陽が、スルスルと器用に一高の背中から降りる。
生まれて来てから幾度となく背負われて来たのだ。
末っ子にとって兄の背中ほど、慣れ親しんだ乗り物はあまり多く無い。
「希未も行こっかなぁ。今祈莉ちゃん、機嫌最悪だしぃ」
「付いて来ても良いけど何も買ってやらねぇし、一番重たい物持たせるからな」
「留守番してる!!」
「よろしい。ほれ、着替えるから」
まだ抱えられていた左腕を希未から引き剥がし、自室の扉のノブを捻る。
「俺のジャケットで良ければ貸してやるけど、要るか?」
身体を半分程部屋に入れたまま止まり、一高は背を向けてリビングへと向かう妹と弟に投げかけた。
「っ! 要る! あの黒のファー付きの奴!」
「了解」
勢いよく首を捻って振り向く希未にひらひらと右手を振って、一高高は自室に入って行った。
(なんだかんだで……妹に甘いんかなぁ俺……)
作業着のツナギのファスナーを降ろしながら、一高は呆れた様に笑う。
不快感と倦怠感と居心地の悪さしか味わえない学校と違って、家に帰れば色々な穏やかな感情を味わえる。
里見一高は自分の住むこの家と、そして家族の事が大好きだ。
日夜頑張って働いている母を尊敬している。
反抗期ながらも真面目に勉強や部活動を頑張っている祈莉も、好奇心が強くて多少わがままだが愛嬌のある希未も、幼い末の弟で庇護欲を猛烈にくすぐって来る太陽も。
そして、同い年の姉であり長女でもある──妃瑪の事も、一高は愛している。
愛して──いるのだ。