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ティシポネの回顧録  作者: 葉月 悠人
2/9

#1 My name is Caroline

 私は今、幸せだ。


 だがこの幸せを得るまでにどれだけの過酷な道を歩み、どれだけの血と罪で体を汚しただろう?


 静かに瞳を閉じて、思い返す。


 『彼』と出会う前の全てを、そしてあの夜の直前の出来事を。


 この幸せを忘れないために、私の過去をただの過去で終わらせないために。


 『私』には名前がない。


 何故なら私には家族と呼べる家族がいないからだ。


 私の住む家に居るのは酒瓶を一時たりとも手放さない、『父親』を自称する酒乱の男と、むせ返る程に香水の匂いをまとった『母親』を自称する娼婦しょうふだけ。


 そんな奴等にとって都合の良い人形が私だった。


 男からは暴力を受けた、酷い時は食べるパンさえも泥にまみれたパンに変えられた事もあった。


 一方の母親からは頻繁に連れ出され、『オマケ』として客の男への『夜の相手』をさせられた。

 

 子供にはこの上なく残酷な仕打ちだ。



 そんな2人に対し、私は一度だけ抵抗したことがあった。



 父親には酒瓶の中身を水と入れ替え、母親に対しては化粧瓶の中に虫の死骸を浮かばせた。


 私のせめてもの抵抗だったが、その代償だいしょうは何倍にも膨らんで帰ってきた。


 父親からはそのままの意味で煮え湯、と言うよりぬるま湯を飲まされた。


 普段、家事を一切してなかったのが幸いして助かったのだが、大量の水を延々と飲まされたのは苦痛そのものだ。

 

 母親は余程頭に来たのか、父親に私の体を押さえつけさせ、小瓶一杯の煮えたぎった油を背中にかけられた。

 

 小瓶一杯だったとは言え子供の私にとっては死んだ方がマシと思えた。


 その時の私の悲鳴は、今でも耳の奥深くに残っている。



 『親に逆らうなら生かす価値はない、次は無いと思え』



 2人の言い捨てた言葉で、泣きじゃくる私は幼くも全てを理解した。


 この2人は私を実の子供こどもである以前に、そもそも人としてすら見ていなかったのだ。


 その時、私という『個人』は死んだ。

 ここから先は、生きながらに死する屍の記憶する所だ。


 ~~~~~~~~~~

 ~~~~~~~~~~


 生きる事が苦痛でたまらなく、でも死ぬ事すらも出来ないまま季節は過ぎ、このまま一生を終える運命なのかと考えだした頃、私は売られた。



 突然やって来た男に私は引き取られ、私と入れ替わりで貨幣のぎっしり詰まった袋が2人の手に渡ったのを見た。


 どうやら私は2人が築いた莫大ばくだいな借金のカタとして売り飛ばされたらしい。


 東洋では『人の命は金にも勝る』らしいが・・・生憎あいにくここは東洋ではない。


 仮にその考えがあったとしても『商品』である私にはどうしようもない事だ。

 


 だが実際そんな事はどうでも良く、その時の私は無上の喜びに体を震えさせていた。 


 理由は明白だ、あの肥溜こえだめから離れられるのが何より嬉しいからだ。


 これから向かう先がどんな掃き溜めでも、あの家よりはマシであろうとさえ思えた。


 車の荷台に乗せられた私は、あの家が遠ざかっていく程に心が高揚こうようした。



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 私は、金網に囲まれた施設に連れてこられ、その一角にある建物へと連れて来られた。


 そこには恐らく私同様に他所から売られてきたと思わしき子たちが居た。


 大半が私と同い年、もしくは年下ばかりだった。


 どうやら私が最後らしく、すぐに『監督』を名乗る男がやってきて、私の新しい生活が始まった。


 

 新たな生活が始まった記念として、私達にはそれぞれ名前が与えられた。

 名付け親は『監督』で、私には『キャロライン』という名前がつけられた。



 『キャロライン・ソーン・エルマベルケ』 それが『私』の名前だ。



 所詮名前など、個人を識別しきべつするものに過ぎない。


 だから名前の有無に大差は無い。


 しかし暴力以外に『与えられたもの』としてはこれが初めてだった事だけは、内心とても嬉しかった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 翌日から始まった『キャロライン』としての生活は、あの掃き溜めとは違う意味で苛酷なものだった。


 朝早くに叩き起こされ、日が昇る前の薄暗い外をボロクソに罵倒ばとうされながら走る所からはじまった。

 

 長い長いランニングが終わると見た事も無い立派な朝食と、それを食べるにはとても短い時間を与えられ、折角の朝食を味わう暇もなく喉に流し込んだ。



 だがこんなものは序の口だ。



 日が昇ると椅子に座り、読み書きと『監督』の授業を受け。


 昼からは『銃』と呼ばれる道具の分解と組み立てを繰り返す。


 夕方はとにかく体を酷使こくしして、『監督』の出す無理難題な課目をこなした。


 そして日が落ちれば食事を摂り、それぞれに配られた服の洗濯と靴磨きを黙々とこなす。 


 そして時間が来れば布団に潜って朝を待つ。



 そんな日々が延々と続いた。



 その日常の中で『監督』に対する不満の声が漏れる事もあったが、私にはそれが理解出来ない。


 私から見た『監督』は口達者くちたっしゃでこそあれ、慈悲深じひぶかい人だ。


 過剰な暴言で追い込んでくる事こそあれ、暴力に訴えたり、食事に泥を混ぜたりはしない。


  

 直接的な被害が無いのなら何を不満に思う?しかし彼らはそれさえ不満らしい。


 私はそんな恵まれていたであろう環境に居た彼らを、少しだけ羨ましく思い。


 そんな小さな事でさえ不満に思う彼らを、心底憎らしく感じた。



 温かい食事と寝床、なにより自身をおびやかす存在が居ない。


 今の生活は十分恵まれている。それらのに不満を漏らす彼等はこれ以上、何を望むのか?


 

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