知らなくても、ずっと前から(2)
(どうしてたかが婚約者の私に)
私がギルバート殿下だったらここまでのことを施さない。たとえ相手を好きだとしても、こんな大掛かりな魔法をかけるには返ってくる利益が見合わない。
けれども彼は、穏やかな笑みを携えながらこつんと額を合わせてきて。至近距離で優しく告げるのだ。
「シアが大切だからに決まっているだろう? 婚約者を守らない男が何処にいる」
さも当たり前のように言い切るから。私は嬉しくなってしまい、次に泣きたくなるほど苦しくなり胸が詰まる。
(そんなこと、言わないで……)
時が来たら諦めなければいけない恋なのに。彼は私を裏切るのに。心を揺さぶられ、とても苦しい。
「舞踏会か何かだったのかな? 綺麗だね」
複雑な気持ちになっている私を置いてギルバート殿下の目はドレスに向く。
「……今日、ダンスパーティーだったの」
「ああ、以前手紙に書いてあったね。アレクシス殿下をパートナーにしていいかと」
「そう。了承を得たから殿下にパートナーになってもらったわ。やっぱり嫌?」
「いいや、まったく。私よりもシアが楽しめる方がいいからね」
嫉妬は抱かないらしい。それとも表に出さぬよう隠しているのか。どちらなのか判断がつかないが、今はこのことを考えている場合ではない。
「何が起こったのか話してくれるかい」
言われておずおず話し始める。
「…………私の頭上にあったシャンデリアの鎖が切れて落下したの。切り傷とかはガラスの装飾が砕けて……」
「事件?」
「ううん、違うと思うわ。だけど」
立ちすくみ、硬直してしまったあの時間を思い出す。
「──死ぬかと思った」
今になって恐怖から震えが止まらない。ぽろぽろ涙が溢れ、ドレスに水玉を作っていく。
「ギルの魔法が……指輪がなかったら、私は事切れていたかもしれないわ」
シャンデリアは見た目に反して重量がある。あんな上から加速して真っ逆さまに落ちてきたら脳天は潰れ、身体も押し潰されていただろう。
「とっても怖かったの」
化粧が崩れるのも構わず、ぐりぐり顔を彼のシャツに押し付ける。懐かしいギルバート殿下の匂いに、私は安心感を求めていた。
胸いっぱいに吸い込むと幾らか心落ち着く。
「──アタナシア」
久しぶりに愛称ではない呼び名で呼ばれる。ぽんぽん背中を優しく叩かれ、包むように抱きしめられ、あやされる。
「もう大丈夫だから。これからも、遠くても──何処にいても、守るから」
ああ、ギルバート殿下の口癖だ。幼いときからいつもそうやって慰めてくれる。私はこの言葉を聞くと安心できる。
──だから縋りつきたくなってしまうのだ。
「ほんとう?」
「君が望んでいてくれる間は」
(嘘つき)
「なら、ずっとずっと年老いるまで。結婚してからも守ってください」
──私だけを見て。捨てないで。
そう、続けられたらどれほどいいだろうか。
(ローズなんて現れなければいいのに)
そんな微かな望みも乗せて。ぎゅっと彼のシャツを握る。
彼女が現れなかったら。現れるまでは。私はとても幸せで。幸福で。ギルバート殿下をただただ好きで、愛していられたのに。
(……どうしてなの?)
何度考えても何故私が見捨てられてしまうのか。見当もつかない。あっさり捨ててしまえるほど、私に対して一度目のギルバート殿下は強い感情を持ち合わせていなかったのだろうか。
止まりかけていた涙がまなじりから伝い落ちていく。それを、彼は早く答えないことから来たものだと思ったのだろうか。
指の腹で優しく私の涙を拭いながら、言い聞かせるように言うのだ。
「──君が死ぬまで守るよ。ずっとずっといつまでも。アタナシア」
普通なら嬉しい約束なのに。私はこれ以上涙が溢れぬよう、一旦瞳を閉じる。
(この世界で一番の嘘つきだわ)
私の狭い世界の中では、口当たりの良い言葉で巧妙に騙してくる悪徳商人よりも、彼は大嘘つきだった。
彼への感情に蓋をして瞳を開ける。
「ギル、アルメリアに戻る方法は馬車しかない?」
戻らなければいけない。転移魔法でいなくなったことで、行方不明として騒がれているかもしれないし。マーガレット王女の状態も気になる。
ガラスの破片でいたるところを切ってはいるが、幸いにして出血は少量で動く分には問題ない。
「いいや、もっと早く着く方法がある」
ギルバート殿下は私から少し離れて指を鳴らした。途端、部屋の中央の床に青い魔法陣が浮かび上がる。
「……転移魔法ですか」
「ああ、アルメリア魔法学校に繋がってる」
「えっ」
主に貴族が通う学校なので、セキュリティが高いはずなのだけれど。
「流石に理事長から許可は取ってあるよ」
「……交流があるから?」
「どこまでシアに話したのかは知らないけど、年に何度か会ってるからね。馬車移動はめんどくさいし、目立つから直接飛ばさせてもらってるんだ」
「私が使ってもいいの? 怒られないかしら」
「平気さ」
なら、さっさとお暇しよう。本来、私は婚約者とはいえ王族であるギルバート殿下の寝室に居ていい人間では無いのだ。それに、アルメリアに滞在しているはずの私がここに居るのはおかしい。
寝台から降りようと体を動かしたところ、邪魔される。
頭にクエッションマークが何個も浮かび上がっている間に、ぐいっと引き寄せられ、そのまま視界が高くなる。
「……ギルっ!?」
あっという間に抱き上げられてしまった。ロマンス小説でしか登場しないようなお姫様抱っこだ。
(なっなんで!?)
「シアは一人で帰るつもりだよね」
「それ以外になにか……ある?」
「一人では帰らせない」
ということはつまり、誰か伴をつけるということだろうか。
「護衛の騎士はあちらにいますよ?」
今回ばかりは役に立たなかったが、普段は陰ながらきちんと身の回りの安全を確保してくれている優秀な騎士だ。
「違う」
ギルバート殿下は私を抱き抱えたまま陣の上に立つ。
「──今日はもうシアから離れないよ。アルメリアに戻りたいなら送ってあげるけど、私も一緒に行く」
「えっっっ」
(ギルバート殿下、頭打ったのかしら)
そうとしか思えない。いや、だって、彼の服装からしてそこそこ大事な公務があったはずなのに、それを放り出し、あまつさえついて行くなどと発言するものだから。
頭を打っておかしくなったと考えた方がしっくりくる。
「シア、今変なこと考えているね」
「いいえ!」
私の反応は正常だ。ギルバート殿下が変なのだ。
「ギルの周りの人は、あなたが急に消えたら困るわよ?」
「父上には話してきたからほかの者の指図など聞く必要は無いね」
バッサリ切られてしまった。意思は固く、残るよう説得するのは徒労に終わりそうである。
(私の残存魔力量だと転移魔法を使うのは心許ないし)
残っているのは最大量の四分の一程度。切羽詰まっていない限り、温存しておきたい。
となると、やはりギルバート殿下の手は必要で。
「…………ギル、私だけを送るのは」
「──しない」
「…………」
私は頭を抱えたくなるのをこらえて、考えることを放棄した。
(もう知らない。責任は負わないんだから!!!)
過保護だなと思っていたけれど、まさかここまでとは思っていなかった。下手したら私が死ぬところだったから、今だけ極端に過敏になっているのだろう。そうに違いない。
婚約者に秘密で守護魔法やら転移魔法やら施してしまうくらいだし。
「……せめて下ろしてくれない?」
この状態で転移先に人がいたら恥ずか死ぬ。
「怪我だらけなのに? 下ろすわけないよ。グダグダしていても無駄だから行くよ」
反論するより前に、ギルバート殿下は問答無用で転移魔法を発動したのだった。