彼女が望み、掴んだもの
「そう、他の人を選んだのね」
ポタリと万年筆からインクが滴り落ち、紙に黒いシミをつくる。
「ようやく諦めてくれたみたいでよかった」
マーガレット王女はぐしゃりと書き損じた紙を丸めて机の端に置いた。
(うぅどうしてこんなことに)
『シモンズ侯爵子息が婚約者ではない他の令嬢からの誘いを承諾した』
そんな噂は週明けのホームルーム前には広まっていたのだ。もちろん、マーガレット王女の耳にも入っていて。
その感想が、冒頭の彼女の発言だ。
宣言通りジェラルド様は好きなように行動するつもりらしい。この件はその第一歩だろう。
しかも御相手の令嬢はシェリル様。
── シェリル様はあの人と同じクラスで、よく話しているのを見かけるし、周りの人達もお似合いねって。
マーガレット王女がひどく悲しそうな顔をして、話題にあげた令嬢だ。
ジェラルド様の幼なじみらしいし、傷心中の彼の心が彼女に移るのも時間の問題…………かもしれない。
けれど、マーガレット王女は気にしてる素振りを少しも見せないし、かえって清々しているみたいだ。張り詰めていた緊張の糸が緩んだかのように、表情がほんの少しやわらかくなっていた。
私の方がもやもやしている。
「そんな深刻な顔しないでよ。あの人が他の人を選ぶのは当たり前でしょう?」
多分、浮かない表情だったんだと思う。マーガレット王女はそっと私の頬に手を置いた。
「ターシャ、彼は人気があるのよ。女の子なんて選り取りみどり。好きな子を選べばいいわ。あの人にはその権利がある」
「本当の一番はマーレ様でしたのに」
未練がましく呟けば、彼女は一瞬泣くのをこらえたかのような表情を浮かべ、直ぐに切り替える。
「そんなわけないじゃない。最初の授業は外での活動よ。さ、早く行きましょう」
「……はい」
二人で教室から出るために腰をあげようとした瞬間だった。
いつもはあまり話しかけてこない他クラスの生徒がこちらに駆け寄ってきたのだ。
「マーガレット王女!」
「なにか?」
「あのっジェラルド様との婚約を、破棄するというのは本当ですか!?」
ざわりと教室内が騒がしくなり、一斉にクラスメイト達が聞き耳を立てる。
(えっ)
薄々そうなるだろうと思っていたが、やはり誰かの口から飛び出ると驚くもので。私も内心仰天しながらマーガレット王女の表情を窺う。これは今日一、いや年一の大事件かもしれない。
ガラリと室内の雰囲気が変わった中、彼女は顔色ひとつ変えずに淡々と告げた。
「──事実よ。シモンズ侯爵子息は国王陛下に謁見し、私との婚約破棄を申し出たわ」
「しょ、承諾なさったのですか?」
若干期待が混じった問いにマーガレット王女の眉が吊り上がる。
「ええしたわ。まだ処理中だけど……大っ嫌いだったあの人との婚約が破棄出来て清々するわ」
そしてパンッと両手を叩いてにこりと笑う。
「良かったわね。思い通りになって。貴方達だってあの人に私は釣り合わないとか散々陰で言っていたじゃない? これで満足してくれるのかしら。それとも、また私のことを叩くのかしら」
はっと乾いた笑いを伴いながら話しかけてきた令嬢を睨みつける。
「人でなし、醜い忌み子、シモンズ侯爵子息の唯一のお荷物、挙句の果てにはアレクシス殿下にいつも守られて何もしない王女でしたっけ? よく、こんな陰口叩けること。私だったら思いつかないわ」
指をゆっくりひとつずつ折りながら。ゆったり微笑む。
(凄い私よりとても悪女になってる)
場違いだが感心してしまう。
まさか言い返されるとは思ってなかったらしい。令嬢は顔を真っ赤にさせながらわなわなと震えた。
「何故そんな事実無根を言えるのですか!」
「…………とぼけるならそれでもいいわ。別に言われ慣れてるし、今に始まったことではない」
乱暴に椅子から立ち上がり、マーガレット王女はドアの方にスタスタ歩いていく。
その背に、令嬢の負け惜しみが投げかけられる。
「貴方のような人の心を理解しない王女と、どうにか仲を保とうとしていたジェラルド様が可哀想ですよ!」
その発言にマーガレット王女はピタリと止まった。
「それが?」
(ひえっ)
彼女の後ろに見えるはずのない怒りの炎が見え、瞳は氷河のように凍りついていて感情を失っている。
「私は彼に望んでいないわ。あの人が勝手にしてきたことよ」
もう頭に血が上って後先考えてないのだろう。真っ赤な顔した令嬢は、本来なら控えるべき言葉を吐いてしまう。
「最っっ低! 人の心がないのですね。あんなにお優しいジェラルド様への態度、普通は良心が傷んで無理でしょうに。嫌われるという意味でも──忌み子は正解ね」
深紅の瞳が僅かに揺れた。
「うるさいわ。そもそも、貴女に関係ないでしょう? 部外者がでしゃばらないで」
ピシャリと言い放ち、マーガレット王女はドアを閉めて出ていってしまう。
「何よ。あんな王女と婚約破棄してジェラルド様は正解だわ」
ふんっと鼻息を荒くして、騒動の発端者も教室から出ていく。
(行っちゃった)
残された私は、事態を把握しきれていない他のクラスメイトと共に呆然とドアを眺める。
「アタナシア様」
「ヴェロニカ様?」
ちょんちょん肩をつついたのは、少し遠くから騒動を見守っていたヴェロニカ様。
「私達も外に行きましょう。授業が始まってしまいます」
「そっそうですね」
時計は開始三分前を指していた。慌ててヴェロニカ様と外に向かう。
その道中、彼女は重くなっていた口を開いた。
「アタナシア様に聞くのもあれですが、本当にマーガレット王女は婚約を破棄されますかね」
「すると思います。ほぼ確実に」
でなければ、今までの行動が水の泡だ。それに聞き耳を立てているクラスメイトの前で堂々と宣言していた。嘘とは信じ難い。
「そうですか。ジェラルド様がダンスパーティーでシェリル様を選ばれたというのも信憑性を増しますね。彼はマーガレット様のことを好いていたと思っていましたが……」
「…………」
無言を貫くと困ったような表情をヴェロニカ様は浮かべられた。
「こればかりは部外者がずかずかと入り込む物ではありませんし。もう一度、おふたりで笑っている姿を見たいものですが」
「私も見てみたいです」
強く同意する。
きっと素敵な光景に違いない。二人は美男美女なのだ。笑い合う姿は目の保養である。
ただ、これほどまで亀裂が入った仲は修復不可能だとも思う。
マーガレット王女はもう少しで終わると仰っていた。ここまで来れば確定である。終わる事柄とは〝ジェラルド様との婚約〟だろう。
自分も相手も傷付けて。切り捨てて。突き放して。彼女は婚約破棄を選んだ。
その理由を知るのはもう少し先、とはいえ遠くはない未来の事だった。