捕まえ、すり抜け、砕けてしまう
数日後、授業が終わり放課後の時間。
ちょっと先を歩いていたマーガレット王女が、突如開いたドアの中に吸い込まれる。そんな所を目撃してしまい、心配になった私は慌ててドアの隙間から中を覗き込んだ。
(まさか誰もいない場所に連れ込んでの嫌がらせ!? 犯人が誰なのか確認してから先生を……)
──とそこで私はドアの外側から動くことが出来なくなった。
「──リタ」
びくんっとマーガレット王女の肩が揺れる。おそるおそる視線を上げたその先にはジェラルド様がいて。彼女の瞳は動揺を隠せない。
「な、んでジェリー」
はっと息を呑んだマーガレット王女は慌てて口を押える。ジェラルド様が呼んだことで、自然と口をついて出てしまったらしい。
リタとジェリー。どちらも聞いたことがない愛称だった。アレクシス殿下はマーガレット王女をそのままマーガレットと呼ぶし、ジェラルド様も私の前では同じ呼び名で呼んでいた。
だからきっと二人だけの特別な呼び名なのだろう。
「こうでもしないとリタは私と二人っきりで会ってくれない」
図星なのだろう。マーガレット王女はバツが悪そうに視線を逸らした。そんな彼女に、ジェラルド様は切なげに切り出す。
「愛称、もう呼んでくれないと思った」
「…………口が滑っただけよ。勘違いしないで。貴方と話をする気もないわ。さようなら」
そう言ってマーガレット王女は彼との会話を一方的に終わらせ、私がいるドアの方へ踵を返した。が、その手をジェラルド様が掴んだ。
「離してっ!」
キッとマーガレット王女はジェラルド様を睨みつけ、掴まれた腕を大きく振る。
「嫌だ。今回ばかりは聞かない」
ジェラルド様は抵抗する彼女をグイッと引き寄せ、肩に手を乗せて向き合った。
「ダンスパーティー、私のパートナーになって踊ってくれますか?」
きっとそれは最後の希望をかけた一言だった。彼の声はいつもより緊張をはらんでいて、強ばっている。
「リタが避けようとも、私は君と踊りたいんだ」
双眸が真っ直ぐにマーガレット王女を射抜いている。私もごくりと唾を飲み込んだ。
(お願い。ジェラルド様の誘いを受け入れて)
そう願いながら、心の奥底で流石にこれは断らないだろう。承諾するに決まっていると思っていた。
だが、その考えは甘かった。
マーガレット王女の意志はもっとずっと強固だったのだ。
「踊ら、ない。貴方のことはきらいだから」
泣きそうな顔。震えた声で、マーガレット王女はいつもより弱く拒絶した。
「婚約者の誘いを断るの? たかが嫌いだからという理由で」
「そうよ。嫌いだから踊らない、気分が悪くなってしまうから」
そこが、彼らの分かれ道だった。
ジェラルド様はこれまで聞いたことがないほど大きな溜息をつき、前髪をかきあげる。
「……そう、ならもういい。そんなに嫌いなら好きにすればいい。私も好きにさせてもらう」
落胆が滲み、マーガレット王女に向けられる眼差しは冷ややかだ。
そうして彼は口を開く。
「何故なのか、あなたに尋ねても教えてくれない。どうしてなのかたった一言も!」
ジェラルド様は声を荒らげる。その瞳は海の底より深い悲しみに囚われ、怒りをあらわにしていた。
今まで胸の中に溜め込んでいた彼女への不満が、悲しみが、嘆きが、火山が噴火するように湧き上がったのだ。
これまで抑えつけていた感情を、真正面から直接ぶつける。
「理由を教えてくだされば、まだ納得ができた。改善することもできる。だが、貴女はそれさえも、挽回する機会さえも、与えては下さらない」
マーガレット王女は顔を背け、俯いたままだ。
ジェラルド様はそんな彼女の様子に苛立ちを隠そうともせず、低い声で告げるのだ。
「私が────他の者のように、家門の利権のためにわざわざ近づいているとでも思っているのか? だから目を合わせたくないほど毛嫌いしていると?」
「ちがっわたしはっ」
ようやくマーガレット王女はジェラルド様と視線を交えた。
「散々拒絶しておいて、今更何を。言い訳など一言たりとも聞きたくない」
バッサリと切り捨て、靴音を立てながら一歩、近寄った。
「その目で視ればいい。あなたとアレクシスだけが持つ魔法で」
マーガレット王女のおとがいをくいっと上にあげ、無理やり視線を合わせる。彼女は口をはくはくと動かし、ぎゅっと引き結んだ。
ジェラルド様は悲しそうに瞳を揺らし、口から愛を紡ぐ。
「──幼少期からずっと愛している。私が婚約者に、妻にしたいのはリタだけだ。君が結婚してくれるのならば、何だってする」
「っ!」
途端、マーガレット王女の瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。彼女はそれを止めようと瞳を閉じて、また瞬く。
しかし溢れ出した涙は量を増していき、頬に置かれていたジェラルド様の手をあっという間に濡らしていく。
そんな彼女の様子に、二人の溝は深まってしまう。
「涙を流すほど……婚約者に慕われるのはお嫌ですか。──私の方が泣きたいのに」
声に悲しみが増し、おとがいを掴んでいた彼の手が離れていく。マーガレット王女は心臓の部分をぎゅっと掴んで顔を隠してしまう。
「それに」
すっとジェラルド様がマーガレット王女の左手を取って、綺麗に整えられた指先をなぞる。それはとても優しい手つきなのに、二人の間に流れる空気はピンッと張り詰めていて。
ほんの少しの衣擦れさえも拾ってしまいそうなほど静かな空間に、緊張感が漂う。
「嫌いな相手から送られた指輪はずっと着けている」
抗わない、震える指先から呆気なく指輪は抜き取られた。
「私があげた指輪なんて必要ないですよね? 捨てられないようであれば、捨てておきますよ」
それは今後の行方を示唆するもの。
パッと離され、支えを失った華奢な左手は簡単に落ちる。
「言動の矛盾を統一してください。生半可な対応は不要だ」
これまでどんなに冷たく接されていても受け流していたジェラルド様が、反撃の狼煙をあげるかのように冷ややかに告げた。
目を逸らすマーガレット王女と、見下ろすジェラルド様。
二人の立場が逆転した瞬間だった。