ぐらぐらな感情
──夢を見た。
ある人と笑って、お茶を楽しんで、散歩して。
そんな些細だけど大切なかけがえのない時間を共有していた夢。
見た後、私は朝早くにパチリと目が覚めた。小鳥の囀りが聞こえてくるにはまだ早くて、バルコニーにある椅子に座って朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。
夢は忘れなければいけない。覚えていたら現実との乖離に辛くなってしまうから。
『──には……意……手…………よ』
耳にこびりついた一言が何度も私を傷つける。その声が脳内に響く度にあの日のことが蘇って、目の前が黒に染まる。
私はその度にぎゅっと目を瞑って耳を塞いで外界から入る情報を遮断する。
──ああ、早く解放してあげなければならない。
その為に秘密の約束をした。もし、言った通りの状況が訪れたならば、その時は守って欲しいことがあると。
本当にそれでいいのかと言われて言葉に詰まった。だけど、ぼやける視界の中でゆっくり頷いた。約束を取り付けた相手は悲しそうに私の頭を撫でた。
今でもまだあの選択が正しいかなんて分からない。
間違った方法かもしれない、もっと最適な解決方法があるかもしれない、迷惑をかけるだけかもしれない。だけどそこまで頭が回らないから。
私はずきずき痛む心臓を押さえながら、ずっとその日が訪れるのを待っているのだ。
我儘で、遠回りな、迎える結末の途中で周りを傷つける選択でも、間違ってないのだと言い聞かせて。
◆◆◆
「ジェラルド様!」
「アタナシア嬢、どうかしたの?」
「一緒に昼食を食べませんか」
本当はアレクシス殿下を誘おうと思ったのだが、殿下にはマーガレット王女がいる。彼女の前では昨夜の話をすることが出来ないので、まず先にジェラルド様から何か知ってないか教えてもらおうと思ったのだった。
「構わないけど……」
ジェラルド様は近くにいた友人らしき青年に、一言二言言付けて私の元に戻ってくる。
席を取って昼食を持って席に座る。そうして食べながら私は話を切り出した。
「『……嫌いなのは本当よ。とても嫌いで憎くて視界に入れたくない』と仰っていたのですが、そう言われる原因に何か心当たりは?」
そのまま本人に伝えるか悩んだが、ぼかしてしまうのも答えにたどり着かなそうで結局そのまま伝えてしまった。
「…………ない」
ジェラルド様の顔が曇る。
「本当にありませんか」
「昨日も言ったが、マーガレットや周りに対して、彼女を貶める発言をした記憶は無いよ。私が忘れてしまっているのかもしれないが」
「…………そうですか」
嫌いだと言いながら、声は弱々しく泣きそうで。ぎゅっと心臓を握られたかのようだった。
スープを飲む手を止めて私は考える。
(とりあえずマーガレット王女が居ない隙を狙ってアレクシス殿下にも聞かなければ)
「隣いいかな」
伸びやかな声はアレクシス殿下だった。ジェラルド様の横に彼は座る。
「マーレ様は?」
辺りに彼女の姿はない。
「マーガレットは本を返すと図書館に行ったよ。なんの話をしていたんだい?」
「昨日、マーレ様にどうしてジェラルド様を嫌うのか尋ねた時の返答についてです」
「それは私も興味あるな」
私はアレクシス殿下にも話した。
「──どうですか? 何か新しいことは分かりますか?」
「ごめん。ジェラルドと同じで何も」
アレクシス殿下は首を横に振る。
「うーん。……マーレ様はジェラルド様のことをもったいないくらいの人で、馬鹿なひとって言っていましたのに何故、〝嫌い〟ばかりを前に押し出すのでしょう」
「え」
ジェラルド様は目を見開く。
「もったいないくらいの人って、マーガレットが言ったの?」
(あれ、言わなかったっけ?)
「はい、最後にそれだけ言い残して何処かに消えてしまいました」
ジェラルド様は考え込む。何か心当たりがあったのかもしれない。
「いや、違うか。アタナシア嬢、今後もマーガレットが私に対してこぼしたと思われる発言は逐一教えて欲しい」
「もちろんです」
それから細々とした意見を交換していると予鈴のベルが鳴り、一学年丸々入れる講堂に移動する。
今日は昨日と同じで、学年全員が集合する特別編成の授業。
到着すると、先に座っていたクラスメイト達やそれ以外の人達もそわそわとしていて落ち着きがない。
(……何か特別な行事とかあるのかな)
午前と同様に、一旦ヴェロニカ様の隣に座った私は彼女に聞いてみようとしたが、ちょうどヴィアリナ先生が来てしまった。
「新学期二日目と言えば────って皆さんソワソワしすぎですよ」
ヴィアリナ先生は笑いながら前に立った。
「はい、今日の午後はまた特別授業です。夏に開催されるダンスパーティーについて概要を話しますね」
ヴィアリナ先生がパンッと軽く手を叩くと、生徒たちの前に紙の束が現れる。薄い辞書並みの厚さだ。
「年々分厚くなっていくのですよ。余興で羽目を外した者達が禁止事項を増やしていくので」
コソッとヴェロニカ様が理由を教えてくれる。
(それにしても……枚数)
左上でバラけないように止められた束をパラパラめくる。
「毎年ここに載っている、罰則者の行動やその経緯を読むのが一番楽しみ! という変人がいるらしいですが、大半の生徒はパーティーに期待してますよね」
その言葉に女子生徒の目がいっそう輝く。
「ダンスパーティーは例年通りの予定です。爵位や学年にこだわらず、好きな人と踊って楽しんでね」
その言葉に一段と空気が盛り上がる。
ヴィアリナ先生が説明を続ける中、私はヴェロニカ様に質問する。
「…………何故こんなに期待が?」
「アタナシア様がご存知ないのは仕方ないですね。アルメリア魔法学校のダンスパーティーでは、恋人が出来ることが多いのです。一番有名な恋人は今の国王夫妻ですね」
「まあ!」
「それ以来、ダンスの中でもファーストダンスを踊った男女は恋仲になるジンクスが囁かれています」
(何て素敵なお話!)
これは婚約者がいない者は夢を見てしまうだろう。私もギルバート殿下がいなかったら期待に胸を弾ませていたはずだ。
「盛り上がるのはいいですが、開催の二週間前にはパートナーを決めて私のところに報告してください」
「は〜い」
女子生徒はキャッキャッと、既に誰に誘って欲しいだとか、勇気を振り絞って誘いに行くだとか話し合っている。
「ヴェロニカ様のパートナーは婚約者様ですか?」
「ええ。アタナシア様はどうするのです?」
「そうですね……これってパートナー無しの参加は不可ですか?」
ギルバート殿下の婚約者という立場から、他の殿方とパートナーになるのは控えた方がいいだろう。だけどパーティー自体には興味があるので参加したかった。
「可能ですよ」
曰く、ファーストダンス以降はパートナー以外とも踊れるので、ジンクスを試すつもりがないなら気にしなくていいとのこと。
(マーガレット王女はジェラルド様をパートナーに選ぶのかしら)
嫌いだと言いつつも二人は婚約者同士だ。違う人をパートナーに選んだら問題になる。
それか兄妹であるアレクシス殿下を選ぶのだろうか。そうなったらジェラルド様は可哀想であり、精神的に参ってしまいそうだが。
私はヴェロニカ様に断りを入れてから、マーガレット王女のところに向かった。
「マーレ様」
「ターシャ?」
まさか移動してくるとは思わなかったらしい。マーガレット王女は目をぱちくりさせる。隣にいるはずのアレクシス殿下は席を外しているのか不在だった。
「午前中はヴェロニカ様と座りましたから、午後はこちらにお邪魔しましょうかなと」
「…………私のところにいても楽しくないわよ?」
「そんなもの求めてませんよ。純粋に隣に居たいのです」
「そう」
マーガレット王女はほっと安堵したかのような息を吐いた。
「ターシャはお兄様を選ぶといいわ」
「へ?」
唐突な発言に頭が追いつかない。
「お兄様なら問題にならないでしょう。元々ペアなのだし、ターシャも他の子息は選べないだろうし」
「では、マーレ様はジェラルド様を?」
ジェラルド様の名前を出すと一瞬彼女の顔が強ばった。束に伸びていた手も止まる。
「…………そうかもしれないし、違うかもしれない。どうなるかはまだ分からないわ」
憂いを帯びた瞳が伏せられる。比較的穏やかな回答だった。
「でも、彼は私よりシェリル様を選ぶのではないかしら」
「シェリル? ジェラルド様はマーレ様の婚約者ですよね。何故他の令嬢の名前を」
「例え話よ。もし、私ではなくて他にパートナーを選ぶとして一番良い相手は、公爵家のご息女シェリル様なの」
マーガレット王女は前に垂れてきた髪を耳にかける。
「シェリル様はあの人と同じクラスで、よく話しているのを見かけるし、周りの人達もお似合いねって」
すんっと鼻をすする。そうして口を小さく動かす。
「こんな──……は、……──なの」
聞き取れなかったけれど、きっといい内容では無い。キョトンとしたままの私にマーガレット王女は付け足す。
「ほら、婚約者とはいえこんなに彼のことを嫌っている相手と踊りたくないでしょう。私も……遠慮したいもの」
最初に言ったであろう内容を誤魔化して、マーガレット王女は曖昧に微笑む。
(これって)
マーガレット王女は気が付かないのだろうか。自身の発言は、ジェラルド様が嫌いだという宣言と正反対に捉えられることに。
指摘したらまた顔を強ばらせ、頑なに否定するのだろうが。
無意識なのか、マーガレット王女は左手薬指にはまった指輪をいじる。宝石の部分に指を滑らせてそのまま覆った。
薬指ということはジェラルド様との婚約指輪だ。
(…………嫌いなら指輪も外すわよね)
ますます拒絶の理由が理解できない。
けれどもマーガレット王女がジェラルド様を拒む理由や解決策は見つからず、二人の関係性は硬直状態の平行線。
だが表面上は比較的穏やかな、充実した学校生活が送られる。
マーガレット王女と外出したり、夜更かしして話し込んだり、他の令嬢方と交流したり。
気付けばあっという間に月日は経って、夏が始まろうとしていた。