不可視の毒
動きを止めた後、一番最初に口を開いたのはマーガレット王女だった。
「立ち止まりすぎたようね。……お兄様取り敢えず離れましょう。ここは……目に毒です。私も、お兄様も、それに──アタナシア様にも」
微かに憂いを帯びた瞳は閉じられる。
────燻る悪意という名の一種の毒。
それは遅効性でもあり、即効性でもある。
己が視認するまでは透明で目に捕えることは出来ず、無害であるのに、視認してしまうと一瞬にして〝毒〟に豹変して襲いかかってくる。こちらのことなんてお構い無しだ。そして気が付いたら周りを囲まれ逃れられない。人によっては致死となりうる。
暴力とはまた別で、内部を徐々に削り取り、気がついた頃には身も心もだめにしてしまう。
恐ろしくて、醜くて、誰でも持っていて、どの時代にも消えることは無い。場合によっては自分自身が誰かの毒になる。
怒りの焔を燃やす気も、もしくは無駄だと思っているのか、再び開かれた瞳は全てを諦めたかのように冷ややかだった。それはまるで憎悪も嫌悪も自我を持たないはずの感情なのに意志を持って出てこないかのような。
表情が抜け落ちていくマーガレット王女の変化を目のあたりにすると先程感じた負の感情がよりいっそう私に刺さった。
「いつものところでいいかな」
彼らの視線を遮るようにマーガレット王女の前に立ったアレクシス殿下はマーガレット王女に尋ねる。
「ええ、あそこなら静かで耳触りな雑音が聞こえてこないわ」
「分かった。転移魔法を使うからアタナシア嬢とルーナさんももう少し私達に寄ってくれると嬉しい」
一歩アレクシス殿下に近寄る。
「私はお部屋を整えにいきますので、大丈夫です」
いつの間にか近くに控えていたルーナはそう言って断りを入れた。
「では3人でいいかな? アタナシア嬢」
「構いませんわアレクシス殿下」
言いながら差し出されたマーガレット王女の左手に手を添えると視界がぐにゃりと歪み、私は慣れない気持ち悪さに目を閉じる。
「目を開けて」
体感的には1分かそこら。耳元で囁かれ目を開ければ、目の前には大きな池があった。
「ここ……は?」
「校内の植物園の一角よ。ここは植物園の中でも端にあって来るのが大変だから人が来ないの」
悪いように言えば整備されてない。良いように言えば自然のままな場所。人が通れるような道はなく、ここに来るには草を掻き分ける必要がありそうだ。
「ごめんなさい。さっきは不愉快だったでしょう」
「え?」
唐突にぽつりとマーガレット王女は呟いた。アレクシス殿下は隣に立って、ただマーガレット王女を見守っている。
「他の人の視線……何をしててもあのようになるの。いつもよりは穏やかなのよ。だけどターシャは慣れてないだろうから」
引き攣るような笑みに強ばる顔。無理に笑おうとしているのが手に取るようにわかる。
「そんな……ことは」
声を、かけたいのに乾く唇は上手く言葉を紡げない。励ましの言葉は、安易でかえって彼女を傷つけてしまいそうで、何も、言えない。
「私何も考えてなかった。ターシャがいれば少しは学校での生活が楽しくなるかなって浮かれてて」
ビュウッと風が強く吹く。
「ターシャが私といたら……貴女にも向くことをちっとも考えてなかった。今回はなかったけれど、今後私と一緒にいると対象になってしまう。傷つけてしまう。だから……他の人がいる場では私を────」
──避けて
その言葉は風によって遮られ、口の動きのみ伝わる。
先程までは見えなかった怯えと不安。翳りがさした紅い瞳は小刻みに揺れた。
「あっ不安なことがあったらお兄様に言ってね」
「マーレ」
「それにアレグレッテ侯爵令嬢には気をつ────」
「っマーガレット・アルメリア王女殿下!」
声を荒あげればビクリと彼女の肩が震えた。
「……驚かせてすみません。マーレ、マーレは私を突き放すのですか」
「ええそうよ。だってこんな思いは私だけで十分だもの。お願い私の言った通りにしてくれる?」
懇願するように仰るマーガレット王女は形を変えた毒に犯されていた。
はい、わかりました。と了承するのは簡単だ。そうすれば全てかりそめだが収束する。でも私は──
「いいえ。致しません」
キッパリと否定した。
「どっどうして」
こうなるとは思ってなかったのだろう。顔には動揺が浮かんで消える。
「慣れるのは嫌ですけど……似てるようで似ていない状況下には過去にいたので……あのくらいなら慣れてますから」
陰気な顔はせず、少し軽く見えるように苦笑いを浮べながら答える。
ウソとホント。慣れるはずがない。あれは、途中から慣れたかのように自分自身が擬似錯覚させるのだ。心が壊れてしまわないよう、これ以上傷つきたく無い本当の心情をくみ取る自己防衛本能。
私はあの時、誰でもいいから味方が欲しかった。罵倒ではなくて、私の話を最後まで聞いてくれて、話を信じてくれる人が。
だけど本当に味方になってくれる人がいたらこの地獄に巻き込むことを躊躇し、突き放す選択肢を彼女みたいに取ると思う。誰であっても大切な人が、友人が、傷つくことを許せるわけが無いのだから。
マーガレット王女は私と違ってアレクシス殿下達がいらっしゃるが、こういうのは数の問題ではない。味方はいればいるほどいい。
「状況……って」
「秘密です。だから教えられませんが、私はマーレ様から離れたり致しませんよ? 仮に避けられたら地の底まで追いかける所存ですからお覚悟してくださいませ」
「地の底……まで?」
「はい」
藻掻いても、足掻いても、何をしても、気がついた時には地獄への道を歩み始めていて、抜け出せなかった過去の私。
エントランスにいた時に考えていたように、何度も何度も思い返しては気分を沈めて、恐怖に駆られる。
嫉妬、焦燥、そして──絶望。
ここに来たのは未来を変えたくて、同じ道は踏みたくなくて、小さくてもいいから希望を、チャンスを、笑って穏やかに過ごせる日々を────欲したから。
突き放されて生活したとしてそれは笑って過ごせる日々に繋がるのだろうか。答えは否だ。
悪意を向ける人は言わずもがな毒だが、傍観している者も時として同等の者になる。つまり毒。
形を変えて獲物の身体を蠢き、いちばん弱い所を襲う。
外傷ならば治る傷も、自我に関わる傷は治らない。抉って、膿んで、最悪の場合壊死して、なのに与えた者は何事も無かったのように生活する。
つらさを分かるのにもかかわらず、逆の立場になるなんて彼女が了承したとしても出来るはずがない。そんなの友人とは言えない。
「私は、アタナシア・ラスターは、僭越ながらマーガレット・アルメリアという1人の令嬢の友人ですから」
言葉も相手の取り方によって意味が変わってくる。私の言いたいことは伝わっただろうか。少し不安に思いながら、マーガレット王女の左手に向けていた視線を上にあげる。
「マーガレット」
「おにい……さま」
ここまで口を閉ざしていたアレクシス殿下が、マーガレット王女の耳元に何かを囁いた。すると翳っていた紅が透き通り、はっと開かれる瞳に、陶磁器のような肌にこぼれ落ちていく涙。
「あっ……ぅ……ふっ……」
震えた唇から出た声は毒に犯された声ではなくて、純粋な、いま彼女が感じている感情を吐露する声。吐息のようだが、その声色で間違った選択肢ではないと確信する。
「なので避けて、なんてもう言わないでくださいね?」
こくりと頭が縦に動くと同時にやわらかい風が舞い降りて、嫌なものも祓ってくれたような気がした。