行列のできる経済学
行列のできる店にどのくらい行くことができるように我が国は設計されているのだろうか。
行列のできる飲食店が一日に五十人の客を相手にするとすると、毎日、行列のできる店で食事をするには、行列のできる店が240万軒必要なことになる。一週間に一回、行列のできる店で食事をするには、行列のできる店が40万軒必要なことになる。一年間に一回、行列のできる店で食事をするには、行列のできる店が8000軒必要なことになる。
今、我が国には、行列のできる店が全国に5000軒くらいあるので、我が国は二年に一回くらい行列のできる店で食事をするくらいで設計されている。
これを書いている私は、ヒキコモリで、外食にもライヴにも服屋にもあまり行かないのだが、経済の概観として数を数えている。
行列のできる音楽家が一回のライヴで一万人を相手にすると、一年間で音楽家全体で一万回のライヴを必要とするのである。ひとつの音楽家が一年間に五十回ライヴをするとすると、一億人がみんな一年間に一回ライヴに行くには、行列のできる音楽家が200グループ必要なことになる。だいたい、我が国の音楽家はそれくらいではないだろうか。
行列のできる服屋さんは、一日に二百人の客を相手にするとすると、一年間に二回服を買うとして、全国で4000軒あればいいことになる。ひとつの市に四軒くらいである。だいたい、我が国の現状に合っているのではないだろうか。
スーパーでは毎日、行列ができている。行列のできるスーパーが一日、千人の客を相手にするなら、すべての国民が二日に一回スーパーで買い物をするとして、行列のできるスーパーは6万軒必要なことになる。ひとつの市に60軒だ。スーパーの数はそれくらいあるかもしれない。
私は、我が国の商店が死んでいるという想いにとらわれていた。買いたい商品がひとつも置いていない店ばかりが町に並び、町が死んでしまうのだ。経済が死ぬとはそういうことなのだろう。客を喜ばせる商品がひとつも出まわらない状態が経済の死なのだ。死んだ経済では、いくら高級商品が大量に作られて、そのために大量に労働をして、それが大量に購入されても、経済は死んでいる。消費者の満足は存在しない。労働者が企業を設計できなくなると、そうなる可能性がある。労働者が自分の作っている商品を味見できなくなると、そうなる可能性が高い。商品の存在価値は、ひとつでも購入され、その購入された商品が消費者を満足させて初めて発生する。労働者が機動性を失うと、経済が死ぬ可能性がある。
何の価値もない商品のために働きつづける経済は、ひとつのディストピアである。企業の立ち上げが難しくなる。分業の失敗によって、それは起こりうる。
満足感を得る商品を消費することのできない消費者は不孝である。それもひとつのディストピアである。商品知識の不案内によってそれは起こりえる。人は、数年間の長期にわたって、商品に満足感をまったく感じることができないことが人生で起こりうる。それは鬱病を引き起こし、倦怠感を引き起こす。満足感を得る商品を消費者が自分で探すべきだという自主性も、経済の健全性である。しかし、満足いく商品に長いこと触れることのできなかった消費者を探して、良い商品を案内することは、経済の慈悲といえるだろう。
商品の値段は、売り値と買い値の駆け引きによって決まる。売り値と買い値の駆け引きが充分に存在しないと、商品の値段は適性値を離れる。売り値と買い値の駆け引きをするためには、企業がたまに安売りや高売りを行うことによって、どの値段で売ると働き甲斐があるかを確かめなければならない。
行列のできる店の数が適正であることがわかったため、店舗数は売り値と買い値が駆け引きされ、充分に調整されていることがわかった。売れない店はつぶれているのだ。
あとは、店舗の内部の商品が充分に売り値と買い値を駆け引きすることである。安売りと高売りは、必ず、ある程度の数を行わなければならない。安売りと高売りをしたたびに企業は需要供給曲線を書き、商品の適正価格を探らなければならない。それでなければ、商品の価値は適性値になることができない。
そして、良い商品を作っているのに、客に消費してもらえない店は、それも経済の不幸である。実際に買ってみたらスゴく良い商品を売っていたということは、よくあることなのだ。これは、経済評論家というものを作って、すべての商品をデータベース的に網羅して消費して確かめるしか発見することはできない。そのような経済評論家は、経済の不幸を減らすために必要である。経済評論家は、先入観をなくし、素直な気持ちで商品を評価できなければならない。そのようなことができる人材は限られている。経済評論家が充分に存在しない経済も死ぬのだ。
しかし、希少価値の高い商品、隠れた名作というものは、人類が大事にしている文化であり、隠れた名作が経済評論家にすべて発掘されてしまう経済も、よくない経済だということになる。我が国の経済は、隠れた名作の文化を守る方向で運営されている。私は、現在の我が国には経済評論家が不足していると感じているが、隠れた名作の文化をどのように守るのかは私にはわからない。
値段を一度の取引で決めたいような商品は、適性価格を無視してもかまわないという嗜好品だといえ、嗜好品商売だといえる。このような例外も経済にはまだ存在することは、ひとこと述べておきたい。




