価格直線の貨幣と評価資料の計量
貨幣とは何か。価値を計量するものである。経済学の究極目的は、万物の価値を正確に計量することだといえる。
ここで問題なのは、「貨幣がすべての価値を正確に計量しているか」という問題である。貨幣で物事の価値がすべて計量できるか。
宇野弘蔵「経済原理」によれば、価格とは、人類が人工的に構築した価値体系である。価格は、本来、多様性に富む多角的な存在の価値を、強制的に一直線の価値の目盛りにあてはめて、価値を計量しようとした人類の作戦である。
存在は、本来、多角的な価値を持ち、その価値を一直線では表現できない。
例えば、人の価値は、金額で計量するのではなく、評価資料によって多角的に計量されるものである。
価格および評価資料は、価値を知ろうとする人類の努力によって構築されるものであり、存在の本来の価値を正確に表したものではなく、評価者による勘ちがいを含む。貨幣による価格直線においての評価も、勘ちがいを含む。
つまり、貨幣とは、価格直線により価値を計量しようとする人類の努力なのであるが、物事の価値は多角的であるため、貨幣は評価資料に比べて、価値の計量がまちがっていることになる。経済学は、多角的な評価資料で万物の価値を計量すべきである。
ここにおいて、「貨幣は、究極的において、一直線の価格直線であるべきか、多角的な評価資料であるべきか」という問題が発生する。
価値が一直線の価格直線で表現されることの利便性を忘れてはいけない。価格が一直線の価格直線で表現されるために、個人個人の先入観や特殊事情にとらわれることなく、民衆すべてが分業を交換できるのである。価値体系を理解するのに、評価資料の理解は困難であるが、価格直線の理解は簡単である。
貨幣の目的は、分業の交換の利便性の向上にある。構築するにも、理解するにも、困難な評価資料は、価値を正確に計量しているとはいえ、利便性は低いということになる。
「貨幣とは、価格直線により評価されるものだ」とした方が、「貨幣とは、評価資料により評価されるものだ」とするより、二十一世紀の前半の経済において、実現性の高い貨幣だといえる。しかし、価値が究極的に多角的であり、それを計量するには多角的な評価資料を必要とすることは、貨幣で価格直線によって価値を計量する時に、頭の隅に置いておいて、参考にすべきだろう。
私は評価資料にも興味があるが、価値を一直線の価格直線で評価することの利便性にも興味がある。それは私には未解明な貨幣の謎だ。価格直線の構築が人類にどれだけの恩恵をもたらしたか。わかりやすい価格直線が、一杯のご飯と一切れのパンの交換を実現して、交易の利便性を高め、仲間を増やし、平和に貢献したのだ。
人類は、算数を高精度に構築している。価格直線で価値を計量することは、算数の利便性の高さの恩恵を受けることができる。
私は、この二種類の貨幣論について、人類はそのどちらについても、より良く向上させる必要があると感じるのである。




