貨幣の価値はいつ決まるか
貨幣の価値がいつ決まるか。それは、労働者が作った商品を消費者が貨幣で購入した時点である。この貨幣取引のたびに労働者と消費者は貨幣の価値を合意しつづけている。
しかし、この合意の仕組みは非常に複雑で、解明するのは難しい。労働者と消費者の合意は、中世の物売りの商業活動とは異なる。中世の物売りは、自分で作った商品を消費者と直接値段交渉することにより商品の価値を合意した。このように商品を一人あるいは家族で作っている場合は労働者と消費者の価格の合意の仕組みは単純だ。
しかし、近代の賃金労働者は、商品の価格決定に関わっても、それは直接に消費者と価格の合意をするのではない。近代の賃金労働者は、経営者との賃金交渉において自分の労働力の価値を合意している。つまり、近代の賃金労働者は消費者と自分の作った商品の価値を直接合意してはいない。
多数の労働者の分業によって作られる商品は、その価格決定をするのは企業の価格決定者である。価格決定者の決めた価格で商品が売れた場合には、価格決定者と消費者の間で商品と貨幣の価値が等しいと合意されたことになる。商品が売れなかった場合、合意はされなかったということになる。
企業の中で、労働者と経営者(賃金決定者)と価格決定者は必ずしも一致しない。
売上を最大にするには、商品の価格を上げればよいというものではなく、下げればよいというものでもない。需要供給曲線などによって最適値を目指して調整すべきである。その作業を価格決定者は行っているはずである。
消費者は、商品を買う時にその商品の価値と自分の支払う貨幣が等しいことについて合意する。商品を買わなかった場合は、商品の価値に合意しなかったのだ。
貨幣の価値は、このように、取引の合意がされた時点で決まる。
貨幣の価値は、労働者と消費者が商品と貨幣の価値が等しいと合意した時に決まる。膨大な数の商品が厖大な数の貨幣と価値が等しいと合意される。この合意の足し算の合計として貨幣の価値は決まる。
ここにおいて、労働者と賃金決定者の間における労働の価値と貨幣の価値の合意と、商品の価格決定者と消費者の間における労働の価値と貨幣の価値の合意は、必ずしも一致しない。しかし、これらは、企業の損益が破綻しないように、企業内の活動として一致しようとする方向性で調整される。
労働の裏付けのない貨幣は価値を持たない。
貨幣が価値を失わないのは、昨日も今日も、商品と貨幣の価値の合意がなされたからである。人は生きていくために毎日食事をするので、たいてい、毎日、新しい商品を求める。その途切れることのない消費が商品と合意されることによって貨幣の価値は維持されつづけているのである。その膨大な数の合意が行われつづけて、合意の蓄積によって貨幣経済は成立している。
商品と貨幣の価値の合意がされなくなった場合、貨幣は貨幣でなくなるのである。
賃金決定者の決める賃金に労働者が納得しているのかどうかは疑わしい。
価格決定者の決める商品の価格に消費者が納得しているのかもはっきりしない。どうしても買わなければならない商品を、消費者は不本意な合意で価格に合意して消費することはありえる。
労働者の賃金決定者に対する抵抗力、また、消費者の価格決定者に対する抵抗力はどの程度、存在するのだろうか。
賃金も商品価格も、高ければよいというものではなく、低ければよいというものでもない。最適値を求めて調整されつづけるものである。その調整は、別の代替商品との競争という形で実現されると考えられている。
代替商品との競争によって調整がうまくいくかどうか。これは、代替商品に乗りかえる費用が、個人が健全な生活を営むのに足るほど充分に低い場合に限る。代替商品に乗りかえる費用が人生を犠牲にするほどである場合、調整はうまくいかないと私は考える。
企業の保護と個人の保護、どちらも重要である。だから、代替商品に乗りかえる費用をただ低くすればよいわけでもない。企業に個人を留めおくことを促すくらいの調整具合で経済を設計する方がうまくいくかもしれない。
企業の保護と個人の保護、その二つをどちらを重視するかで行ったり来たりする調整がなされる必要がある。
価格を高くするか低くするかを行ったり来たりする。この行ったり来たりのくり返しが調整のために必要なことが、経済が穏やかならず、人類社会で争いが絶えない理由であるのかもしれない。
追記。
貨幣で商品を買わなかった場合、消費者は貨幣と商品の価値が等しいことに不合意だったということである。




