財務省解体論が流行っているらしい
世間では財務省解体論が流行っているらしい。
そんなことが必要なわけがないと思うのだが、主張を聞いてみると、簡単に論破できるものではなかったので、気になっている。
彼らの主張は、自国通貨建てであれば、赤字国債をどれだけ発行しても財政破綻はしないというものだ。
財政赤字がふくらんでも、インフレはしていないとWEBの論者は主張した。その通りであるので、私は困った。
それで、きっかけとなった本かもしれない森永卓郎「ザイム真理教」を読んでみた。「MMT」の方はまだ読んでいない。
「ザイム真理教」は、そうたいした本ではなかった。アベノミクスで国債を日銀が引き受けても財政悪化しなかったので、もっと国債を発行しようという本だ。
我が国では、かつて90兆円規模だった政府予算は、いまは120兆円規模にふくらんでいる。
政府予算を楽に増やして、そのおこぼれにあずかりたい人たちが画策しているのだろう。
気を付けてもらいたいのは、貨幣とは労働交換の仲介物であり、貨幣を発行することは、その分だけ誰かを働かせるという意味を持つのである。国債も同じである。
貨幣を発行した場合、銀行取引を中心に、労働が増える。国債を発行した場合は、政府予算との取引を中心に、労働が増える。
それだけ、買うのだから、売って働く人がいるのだ。
国債をたくさん発行したいといっている人たちに聞きたいのは、そんなに働きたいのですかということだ。
財政破綻がしなくても、国債発行が増えれば、それを国内で消費する限り、国内で誰かが働かなければならないのである。
無能な労働者に働かせても利益は少ない。だから、優秀な人たちが結局は、働くことになる。
国債を発行すれば、その分、優秀な人たちが余分に働くことになるのである。自国通貨建てで国債を発行するとはそういうことなのだ。
その国債を発行した分、政府が新しく買うので、そのために政府はその分を新しく売らせるだろう。売らされた分、働くことになるのだ。
財政規律を踏み外せば、それにより国が倒れる可能性は充分にありえる。
国債発行のインフレは、政府取引から遠ざかるにつれてだんだん減っていく。例えば、イノベーションに投資しようとなった場合、まず、イノベーションの審査をする人たちのお金が増えるだろう。その次に、イノベーションの企画を考えている人たちが採用された場合の報酬が増える。その次に、報酬を受け取った人たちが消費したい商品の売上が増える。結局は、商品を生産している人たちの仕事が増える。
売上が増えるならいいじゃないかというかもしれないが、商品を生産するために働くには限界があるし、適性な人材を採用するにも限界があるのである。政府が際限なく国債を発行すると、生産現場は破綻する。そうなると、政府予算に近い人たちのために国民全体が働かされるのである。
そうさせないために、財務省があるのである。
追記。
常に買う立場だなどという経済政策は許さないのである。
売る立場のものは、売上が増えていいと思うなら、財政規律なき買い注文の発生を本当に受け入れるのか考えてみるべきだ。
財政規律なき買い注文は、物々交換や労働交換の原則を踏み外している。
つまり、貨幣の定義を書き変えようとする経済的挑戦なのだ。
貨幣には、わかりやすい計算の目印が必要である。
根拠のない経済計算の中で、貨幣がものの価値を計るものとして機能するためには、必要である。
財政規律は、貨幣のわかりやすい計算の目印である。
財政規律なき買い注文は、貨幣の価値を計るものとしての機能も破壊してしまいかねない。
財政規律なき買い注文は、人類の怠惰な性質に押されて、すぐに膨大な量にふくれあがるだろう。
そうなってはもう遅い。
なぜなら、そこで行われているのは、すでに貨幣取引ではないからである。
貨幣取引ではなかった政府取引を後でどう修正するのか、頭が痛い。
売る立場のものも、売上が増えるからよいじゃないかなどといってはいけない。
それは、物々交換だった経済ではありえないことだ。
相手が必要な対価を持っていないのだから。
それは、資本主義経済における錯覚なのである。経済の基本は、商品にあり、労働にある。
貨幣は、仲介物にすぎない。
貨幣原理が崩壊した国家で、幸せな経済活動ができるかはわからない。
何が起こるかわかったものではない。
政府は、取引相手を生かさず殺さずの生殺しにしてくるだろう。
貨幣のことはみんな褒めていた。
しかし、貨幣でないものは褒めてはいないのだ。
労働奉仕券を政府が発行し始めて、公務員が民間人すべてを支配することを、あなたは望むだろうか。
断固として、そんなことは阻止しなければならない。
追追記。
財政規律なき買い注文は、人類の怠惰な性質に押されて、すぐにふくれあがるだろう。なぜなら、貨幣ではないからだ。
貨幣には、それをふくれあがらせない目印があった。だから、貨幣だったのだ。




