青年Fの記載にて
空から小説が降ってきた。
二十一年間、人より本と親しい関係であったが、破れた小説の紙たちが、頭の上に落ちてくるのは、初めての経験だった。
偶然目に入った、破れた裏表紙の直筆サインの名前を見た時、頭が真っ白になった。これは、私の、大切な本だ。
キッと上を見上げると、私の本が殺されているのは三階だった。場所は多分、講義室Aの305。今日の二コマで使った教室だ。そのあと友達と学食に、ご飯に行ってしまったので、忘れたことに気づかなかったのだ。
教室に向かいながらカバンの中の小説や手帳をしまっているクリアケースを手で探ってみるが、そこに小説の存在はなかった。怒りが倍増する。
「すみません!」
ドアを開ける。教室には一人の男の人しかいなかった。明るい髪をしていて、乱れ気味の服装。窓に腰をかけていても背が高いのがわかる。普段なら、絶対に視界に入れないタイプの人間だった。
「それ、私の、小説」
息が切れている。こんなに走ったのは久しぶりだ。
「あぁ、ごめん。でももう、軸しか残ってないや」
「いやぁ!」
無残な姿になったお気に入りの本を抱きしめる。こんなことになるなら、久しぶりに読み返そうなんて思って、学校に持ってくるんじゃなかった。我慢できずに、授業中こっそりと小説を読むんじゃなかった。
「どうして、どうしてこんなこと」
涙が出てくる。一番好きな作家の一番お気に入りの本の、それもサイン入りだ。この先、なにを楽しみに生きていけば良いのかわからない。
「そいつのサイン本なら、いつでもくれてやるよ」
そう言って、本の残虐殺害者、青年Aはどこかへ行ってしまった。追いかけてビンタをする余裕もなく、その場で虚しく泣くしかなかった。
「はい」
数日経って、授業終わりに突然現れた青年Aは、真新しい私のお気に入りの本を持っていた。
「本があったって、意味がないの。もう、サイン本なんてとっくに非売品になっているん……」
彼の開いた裏表紙を見て、言葉を失う。そこには確かにサインが入っていたのだ。
「この前は、悪かったな」
ぶっきらぼうにそう言って、帰ろうとする彼を引き止める。彼には聞きたいことがたくさんあった。
大学の近くにある、彼の行きつけと言っていたおしゃれな喫茶店に二人で入る。勢いで引き止めてしまったものの、慣れない雰囲気と異性と二人きりという状況におずおずと身を縮めた。彼と一緒に頼んだカフェラテが思いのほか苦く、しかし砂糖に手をつける勇気も出ないで、無理に飲み込んだ。
「どうやってサインを貰ったんですか」
「普通に、サインくれって貰ったんだよ」
「まさか、お知り合いなんですか?」
彼がため息を吐く。こんな地味な女の子に割く時間はないと言いたいのだろうか。
「俺の兄貴」
「えっ」
思いの外大きな声が出て、店内に響く。顔が赤くなるのがわかった。
「村田健吾、本名。二十一歳の大学時代に賞を受賞し、そこから執筆活動を始める。今の歳は二十七歳。現在もIT系の仕事と兼業で作家活動を続けている。俺の八歳上の兄貴。はい、これが俺の学生証。まぁ信じなくてもいいけれど」
学生証には、まだ髪の暗い青年Aが映っていた。村田文也。健吾さんと同じ名字だ。そして私の一つ下。健吾さんのいつかのコラムに歳の離れた弟がいると書いてあった気もする。
「本当は、あんたの名前も一緒に書いてもらおうと思ったけど、あんたの名前、知らなかったから。あと本を送ってもらうのに時間がかかった」
確か健吾さんは神奈川在住だ。同じ県出身なのは知っていたが。
「私、西条葵、です。 くさかんむりに、はつがしらを書いて、天井の天」
「はつがしら?」
見せたほうが早いと思い、学生証を取り出し、見せる。
「へぇ、あんた、俺の一個上なんだ」
青年Aは、どうにも年上にしか見えなかった。
「もう、いいでしょ」
学生証を取り返す。
「文学部なんだ。好きな作家は?」
言うまでもない。とんとんと、村田健吾さんの本を指差す。
「そうじゃなくて。他には?」
次に好きな作家を上げた時、私たちは今日初めて目を合わせた。なぜならそれが彼のお気に入りの作家だったからだ。
それから二人で小説の話を小一時間近く話した。普段よほどのことがない限り休まない授業も、気づけば始まっている時間だった。
そして、彼があの日、小説を破り捨てた話に変わっていった。
「なにがあったのかわからないけど、本を傷つけられる意味が本当わからない。本には何の罪もないのに。あのことはサイン本貰ったからチャラにしてあげるけど、そうじゃなかったら残虐罪だよ」
彼は気まずく笑った。突いてほしくないところだったのかもしれない。
「俺、よく百円の古本買ってお風呂場とかで読んだりするよ」
そんなことしてしまったら、本がふやけてしまう。
「栞の代わりに本の端を折り曲げる人とは平和協定を結べる気がしない」
ことごとく、本の趣味は合った私たちであったが、本の保存方法はまるで正反対だった。そのことで言い合いをしたり、本の話をしたりしながら、私たちは本屋に向かった。人と本屋に行くのは苦痛でしかない私であったが、彼とはどうも悪い気がしなかった。
それから暇さえあれば私たちは喫茶店で話したり、古本屋や図書館に行くことが多くなった
健吾さんの話はあまりしてくれなかったが、「俺の兄貴」についてはよく話をしてくれた。彼の中で複雑な葛藤があるのだろう。それでも、彼にとって「お兄さん」は尊敬できる存在なのだと話の端々からわかった。
一緒にいると、彼について一つ、不思議な点があった。彼は、おそろしく本を持っていないのだ。彼の読書量からするとそれは異様なことのように思えた。お気に入りの本でさえ、手元に残さないのだ。その理由は何だか聞いてはいけないような気がして、いつも聞くことはできなかった。
今日はいつもの喫茶店で待ち合わせだった。私のほうが早く着く。おしゃれな雰囲気にはもう慣れてきたし、カフェラテには角砂糖をたっぷり三つ入れた。ちょうどずっと読んでいた最新刊を読み終わった時、彼がやってくる。
「ごめん、お待たせ」
「うん、大丈夫。そうだ、これ、この前買ったやつ。読みたかったんでしょう? まだ図書館にはないと思うし、はい」
彼が目を輝かせた。相当読みたかったようだ。それなら買ってしまえばいいのに。
「俺さ、手元に本を持てないんだよね。小さい頃から本は好きだったんだけど、中学くらいからかな、人前で本も読めなくなって」
なんとなく、知っていた。黙って彼の話に耳を傾ける。
「兄貴が作家デビューしたくらいからさ、そういうことを言われるようになって、俺も小説書いたりしないの? とか、兄ちゃんに合わせて本読んでんだろ、とかさ。うちの地元で結構取り上げられてたから、兄貴、有名人で。もう、兄貴が作家って自分で言わなきゃ知られないってわかってるはずなのにさ、なんだか、恥ずかしいんだ。なんでかな、あんたには、このこと話してもいいやっておもったんだよ」
そういって笑う彼がなんだか寂しそうだった。なんだか月並みな言葉しか言えない気がした。
「いいよ、好きなもの、買いなよ。私が全部預かっててあげるよ。そんで、あなたがいつか克服できる日が来たらちゃんと返してあげるから」
「ありがとう。そして、あの時もごめん。親からもさ、兄貴といつも比べられて。俺、ほら、兄貴と違って出来が悪いから。電話で散々怒られて。そんな時にあんたの本見つけちゃって。それだけならいいのに、サインまであったから。ついカッとなって」
うろたえる彼に笑って見せた。後日、また健吾さんのサイン本、追加で「葵ちゃんへ」とまで書かれていた本を貰ったのに、まだとやかく言う必要はない。
「もう、いいよ、その話は。破り捨てられた小説が、時期外れの桜みたいで綺麗だったし」
もう一度彼は笑った。今度は寂しそうな笑い方ではなかった。
「そうだ。あんたにとっておきを教えてあげるよ。この前ネットで見つけたんだけど、気に入らなかったらごめんな」
いつも強気に進める彼がこんな控えめに言うのが珍しかった。気になって送られてきたURLを開く。
彼は慌てて画面を隠した。
「家に帰って読んだほうがいい」
彼の顔が赤くなっているのが少し気になったが、わざわざここで見る必要もないので、おとなしく家に帰って読むことにした。
その夜に、今日教えてもらったネット小説を開く。よく聞く携帯小説サイトに投稿されたものだった。彼のチョイスには珍しく、恋愛小説だ。私自身、読むのはあまり避けていたものであったが、冒頭の文章から目が吸い込まれてしまった。
ものの十五分で読み終わったその短編小説に再び目を通した。私の好みそのものだ。二度目の読了感もなんとも言えない気持ちよさ、久しぶりに大当たりを引いてしまった気分だった。他の作品はないのかと作者を辿ると、名前は「F」。それ以外のプロフィールの記載はなかった。他にも何編か短編があり、そのほとんどが恋愛小説であった。苦手としている分野だが、この人の書く話は嫌いじゃなかった。丁寧かつ上品な文体から、おそらく女性だろう。男性だとしても、紳士な男性な気がする。そしてどことなく、健吾さんのクセに似ている部分がある気がした。読んだ人は少なく、評価もされていなかった。
すぐにでも誰かとこの作者について語り合いたいと思ったが、思いつくのは彼しかいなく、電話をかけてみた。二十一時を回っている。バイトが終わった頃だろう。うまくいけば、今日少しでも話せるかもしれない。彼のバイト先は私の家から近いところにあったはずだ。
緊急事態と呼び出し、なにも言わずに来てくれる彼の優しさに感謝する。近くのファミリーレストランは時間帯もあってか空いていた。夜ということを気にせずポテトフライを注文する。今更痩せたところで誰が見るわけでもない。細身の彼も、気にせず頬張っていた。
「さっき教えてもらったネット小説、とっても気に入って、それの感想を今すぐ言いたくて。ごめんね、呼び出して。ねぇ、あの作家さんの作品全部読んだ? 私、恋愛小説があまり好きじゃないんだけど、どれも引き込まれちゃったよ」
延々と続く私の話を彼は黙って聞いていた。いつもと様子が違う。疲れているのに呼び出してしまったからだろうか。
「あの、ごめんね。急に呼び出して、こんな話」
彼が慌てる。
「そんなことない。もっと聞かせてほしい」
その言葉が嬉しくなって、話を続けた。ここのシーンがよかったとか、この言葉の選び方が素敵だとか、散々話を続けた。
「この人、もっと書き込んでいったら、絶対大物の作家になるよね。うん、絶対」
そういった途端、一つの気持ちが浮かんできた。
「どうしよう、私、健吾さんよりもこの作者さんのこと好きになっちゃうかもしれない」
言葉にすると、その気持ちはあまりに違和感なく、私の中に溶け込んだ。
「もし、その作者……Fが目の前にいたとしたら?」
「恋しちゃうかもね。男でも、女でも」
そう言って笑った。彼と目があった。彼は真っ赤な顔をしてこちらを見ている。彼の名前は、村田、文也だった。