うさぎ、覚悟を決める
「やれやれ、この階級になって鼠人と狼相手に本気を出す時が来ようとは……人生何が起こるか分かりませんわね」
科白こそ草臥れたような言い方だったが、ロゼッタは一切の油断なく鞭を構えている。
「どんなヤツが相手だろうと、本気を出す時はそりゃ来るさ。ま、確かにちょいとこの状況は情けねえがな」
ジェフリーもまた殺気を研ぎ澄ませながら剣を構える。
びりびりと肌を刺すような空気。ジャスティンとシェリーもまた行動のために構えてはいたが、自分に向けられてはいないとはいえ強烈な殺気に身体の震えを抑えきれずにいた。
それを向けられている鼠人たちはというと、警戒しつつも一定の距離を保ち隙を伺っている。極めて脆弱な種族ながら、この殺気にあからさまに怯むような真似はしていない。妖狼の支配が行き届いている証だった。
「ちっ、よく躾けられてやがる。普通、鼠人程度ならビビって逃げ出す程度には脅してやってるんだが」
言っている間にもギロリと正面の鼠人を睨みつけるが、睨み返されるだけだった。
「ほぼ確定と言っていいでしょう。こいつらの裏にいるのは妖狼ですわね」
「だろうな……ああクソッ、なんだってノノのやつはそんな面倒なやつに狙われてるんだよ!」
頭でも掻きたそうに吐き捨てるジェフリー。だが隙を見せた途端、取り囲んでいる連中が一斉に動き出すだろう。その切欠をまだ与えるわけにはいかなかった。
妖狼は複数人数で、それも熟練の前衛と後衛が揃って初めて戦える存在だ。このメンバーでは心許ないものの最低でも全員揃わなければならない。作戦通り遂行してもノノが生きているかどうかは五分五分だし、新人どもが追いついた後生きていられるかどうかも五分五分だった。
「心当たりは無いとは言っていましたけれど……ここまでの歓迎を受けているということは相当なことをやらかしているはずですわね」
「となると逃げるのも難しいか……妖狼が本気を出したらそもそも森から出られないかもしれないな」
頭巡らすたびに状況の悪さが分かっていく。頭を抱えたい気分だった。
「……話には聞いたことがありましたが、そこまでの相手ですか?」
ジャスティンがやや青ざめて問う。これからその獣と対峙しているだろうノノを助けに行くのだ。それを思えばできれば否定して欲しい内容だ。
「ぶっちゃけ俺とロゼだけじゃきつい。火力のある魔法使いが一人欲しいところだが……シェリーの嬢ちゃんはそういうの持ってるかい?」
「い、いえ、すみません。《火球》が精一杯で……」
駆け出し冒険者に無茶な要求だった。
「いや、それが使えれば十分だ。何発いける?」
だが、妖狼は魔力感知することができるとはいえ、魔力に耐性を持っているわけではない。駆け出しレベルでも、火を扱う魔法で十分にダメージを与えることができる。
「えっと、今日使った分から考えると……あと五発ほどです」
「上出来だ。ジャスティンはノノとシェリーを守れ。五分……いや三分でいい。俺らが追いつくまで持ちこたえろ」
「……はい!」
静かに、しかし力強く返事をするジャスティン。
「あとはノノがどれだけやれるかだが……どう思うよ?」
「……正直、何とも言えませんわね。駆け出し冒険者なのは間違いないですわ。あの子の立ち回りには経験だとか知恵だとか、そういったものの積み重ねがありませんもの。ただ……」
「ただ、普通の魔法使いのようにも思えねえ」
複数の魔術系統を習得していること。更に未知の技能を身に付けていること。それ以外にもどうにも底が知れない所がある。
「……ですわね。あの子にはどことなく……自信というには曖昧ですが、何かを確かに信じているような……そんな感じがしますの」
「盲信でなきゃいいんだがなあ」
「そう信じたいですわね」
皮肉なのかそのままの意味なのか。その言葉からはロゼッタが何を考えているのか読み取れはしなかった。
「……ノノさんは大丈夫でしょうか」
シェリーが震えながら言う。自分よりも小さな兎人の少女が、そんな恐ろしい相手を前に無事でいられるのか心配なのだ。
「大丈夫じゃなかったらもう逃げるしかないわな。どうも連中の狙いはノノだけみたいだし、逃げる俺らを深追いはしないと思うぜ?」
生き残るための最善の手は、このまま逃げることだ。周りを取り囲む連中はあくまでノノの元へ行かせないための時間稼ぎ。そもそも逃げてしまえば追ってくることは無いだろう。
そして、それはノノを見殺しにするということである。
「……ッ! そんなこと、絶対できませんッ!」
「だったら震えてんじゃねえぞ。シャンとしろ! お前らがどれだけ働けるかでノノが生き残れるかどうか関わってくるんだ!」
「は、はいっ!」
檄を飛ばすジェフリー。彼とてまだ若き後輩を助けたいのだ。そのための一手として、彼らの失敗は許されない。それなのに不安に陥っていたシェリーに、わざと見殺しにするようなことを言い、喝をいれたのだ。
それを察し、心を決めたシェリー。それを横目に見て、ジェフリーは満足そうに頷いた。
「……さあて、そろそろ準備すっか」
そして、剣に魔力を通し始める。ある程度熟練した戦闘者ならば、魔法を発動させるまでには至らなくても身に宿る魔力を操ることはできる。そしてそれは主に魔器を起動させるために習得しているのだ。
「──《起動》」
ばちばちと紫電が走り、ジェフリーの剣に雷の力が宿った。
雷電。高位の精霊術師によって雷の精霊が付与された、強力な魔器である。斬れ味はもちろん、斬りつけた時に相手に与える強烈な電撃は、下手な獣など消し炭にしてしまうだろう。
昔のフル装備ほどではないものの、ジェフリーが今用意できる最高の戦力だ。念の為に持ってきておいて本当に良かったと内心安堵する。
それに対してロゼッタは、鞭を構え悠然とただ立っているように見える。
──いや、目を閉じている。
五感の一つを閉じ、残りの感覚を研ぎ澄まさせているのだ。野伏としての極意。もはやこの場にロゼッタが把握していない存在はいない。まるでレーダーが備わっているかの如く、すべての存在の息遣い、筋肉の軋み、骨の音に至るまで察知し、次に備える。
「ジャスティン、シェリー」
ジェフリーが静かに伝える。
「次だ。備えろ」
二人は何も言わず構えた。
しばらくの間、静寂が支配する。鼠人たちにとっては都合のいい展開だ。このままこいつらが警戒して動かなければ自分たちの仕事も完遂される。
所詮鼠人。そんな都合のいいことを考えている。
この冒険者たちが。仲間を救うために意志を一つにした、複数でありながら一つの存在と化した、この戦士たちが。そのような都合のいいことを許すと思っているのだろうか?
『────ガアアアアァッ!』
殺す。ただそれだけを伝える咆哮だった。強烈な殺意が森を支配し、この場にいる者たちへ叩きつけられる。
主のものだったが、予期していなかった強烈な殺意に鼠人や狼たちは一瞬怯んだ。主によって完璧に支配されていた獣たちは、その主の殺意によってその支配は緩む。
そして、その一瞬だけで十分だ。
「ぴぎ」
「が」
鼠人たちの間から、奇妙な鳴き声が聞こえた。殺意に引きつり漏れた声だろうか?
──いや、断末魔だ。
粗末な武器や鎧ごと喉を切り裂かれ、最期に漏れ出た声なのだ。その声もごぼ、と血に溺れる雑音に変わり、ぐらりと体を揺らめかせる。
それを齎した死神は、ロゼッタだった。
まるで腕が消失したかのように見える。だがそれは事実とは異なり、超高速にかつ正確に、敵の急所を狙って鞭を振るっているのだ。銀級の冒険者。その本気の力の一端がこの神業だった。
「ぎいいいいいいい!」
「ころせえええ!」
今頃それに気がついた鼠人たちが、ロゼッタに殺到する。当然近くにいるものから切り裂かれていくが、数はこちらが圧倒している。仲間の死体すら盾に強引にロゼッタまで突撃し──
す、とロゼッタが下がる。
呆然とそれを見る鼠人たち。そしてその正面に躍り出たのはジェフリーだった。その手に握られているのは、迸る電気を限界まで巡らせた雷光の剣。その圧倒的力を、愚かにも目の前に集まった獣どもへ振り下ろす。
「──《紫電一閃》」
地上に、雷が走った。
殺到していた鼠人どもは一瞬で焼き尽くされ、消し炭と化す。直撃しなかった獣たちも電撃に体を焼かれた挙句に麻痺した。冷静さを失った獣など脆いものだった。簡単に誘き寄せられ、まとめて片付けられてしまったのだ。
そして、道ができた。
雷によって切り開かれた森の中へ続く道。そこをジャスティンとシェリーが駆け抜ける。まるで突風のように高速で進む。シェリーによって風の精霊の補助を受けているのだ。
そこへ立ち塞がる鼠人が二体。全てがやられたわけではない。まだ無傷の鼠人たちが多く残っている。
だが、それで何ができたというのか。ジャスティンが剣を一閃し、シェリーが風の力と共にダガーを投げつけ、それで二体とも絶命した。シェリーもまた冒険者なのだ。鼠人程度、殺せる程の技能は当然持っている。
そうして、新人二人は鼠人と狼の包囲網を突破した。
何匹かはそれを追い、残りは留まりロゼッタとジェフリーを止めようとする。手強い方を数で抑えることにしたようだ。だが、それはあまりにも無謀な行為だった。
それを見て、ロゼッタは嗤う。
「……で、本当に三分かけますの?」
ジェフリーも嗤って答える。
「冗談。一分でいくぜ」
本気の銀級にとって、鼠人とはそういうものだった。
◆ ◆ ◆
──痛い。
妖狼が咆哮し、戦闘が始まった瞬間からの記憶が飛んでいた。
地面に寝っ転がっている。頬がひどく痛む。殴られたらしい。よく首の骨が折れなかったものだ。寧ろそのまま首が飛んでもおかしくないだろう。レベル99の肉体に救われた。この体格差で痛いだけで済んでよかった。
──痛い。
さて、いつまでも寝ている訳にはいかない。ゲームでの妖狼はレベル30相当のクリーチャーだ。この世界でも同じ強さかどうかは分からないが、特徴は引き継いでいるはず。面倒なことになる前にさっさと追い払わないと──
──痛い。
立てない。足に力が入らない。腕が震える。視界が揺れる。視界が滲む。泣いているのか? この年になって? 無理もないか。顔を殴られるなんて十年以上も経験していない。それ以前にしたって精々子供時代の喧嘩ぐらいだ。
──痛い。
落ち着け。これは夢なんだ。本当に殴られたわけじゃない。痛いのも気のせいだ。昔の殴られた記憶から想像しているだけなんだ。だからダメだ。止まれ。止まってくれ。
「い、痛い……」
ぽた、と頬を伝って液体が零れ落ちた。
「痛いよ……痛い……うう……!」
ダメだ。止まれ。口を閉ざせ。
「うあぁぁ……! 痛いよぉ……!」
ぽろぽろと涙が溢れる。こんなもの耐えられっこない。本気で暴力を振るわれるなんて人生に数える程しかない。こんな痛み、経験したこともない。夢だからって、どうしようもない。
いや、本当に夢なのか?
夢を身始めてから、夢の中で一週間経過している。最初は時間経過したような気分になっているだけだと思っていた。でも腹は減るし、トイレにも行った。感覚だって本物のようだ。太陽の暖かさ。風の心地よさ。草木の匂い。街の匂い。血の匂い。何もかも現実のようで、まるで本当にこの世界が──
──ざ。
我に返る。妖狼が追撃のためにこちらに近付いてきている。
いや、こいつは分かっているのだ。先ほどの一撃で、こちらが痛みに参ってしまっていることに。だからわざと足音を立て、恐怖を煽っている。また痛みを与えてやるぞと脅している。
「──うぁ」
けれど、体が動かない。怖くて怖くて仕方がなくて、今すぐここから逃げ出したいのに、足が動こうとしない。
また殴られる。
それを思うだけで、体が固まってしまって動けない。
『グルルルル…………!』
それを嘲笑うかのようにゆっくりと、歩を進めている。
やられるものか。
動け。動け。動け動け動け動け──!
「うああああああああああっっ!!」
《火球》。めちゃくちゃに魔力を練ったその魔法は何とか無詠唱で発動した。けれど、何とか挙げた腕から放たれたそれはあっさりと避けられ、急に目の前に現れた妖狼に再び殴られた。
「ぐげ──」
今度は腹だ。内蔵を持ち上げられ、吐き気がこみ上げてくる。だが歯を食いしばりなんとか耐える。それだけじゃない。殴られる瞬間、全身に魔力を巡らせダメージを僅かながら抑えることができたのだ。その事実が、自分に少し落ち着きを取り戻させた。
避けられたのは当たり前だ。妖狼には魔力の動きが丸わかりなのだから、あんな破れかぶれの魔法が当たるはずもなかった。
本来ならば前衛が足止めをして、後衛が魔法を叩き込むのがセオリーだ。しかし、今ここには自分しかいない。きっとパーティの皆が駆けつけて来てくれるはずだが、今はいない。
そして、むざむざやられるつもりはない。
立ち上がる。
足は砕け、頭が揺らぎ、視界は滲み、腕は震えている。
しかし、立つ。
心の臓はどくどくと鼓動し、肺が酸素を求めて息が乱れる。
それを抑え、呼吸を落ち着かせる。吸って、吐き、吸って、吐く。空気と魔力を吸い、吐きながら体に力を巡らせていく。
『グルァッ!』
そうはさせまいと、落ち着きを取り戻させまいと、妖狼が腕を振るう。それに弾かれ、体が転がる。
『────!?』
しかし、軽い。手応えがない。
すぐさま立ち上がり、再び呼吸を整える。攻撃を受け流し、自ら転がったのだ。まだ体が上手く動かないとはいえ、それだけは何とかすることができた。
ゆっくりと魔力を巡らせ、魔力を練り上げる。だが、それで魔法を発動させるわけではない。体を癒し、強化しているのだ。もはや痛みはほとんどない。
『グルルル……』
獲物の様子が変わったことに気がついたのか、近付いて来ずにこちらを観察している。
まだ、怖い。
けれど、もう立ち上がることはできる。敵を見据えることができる。魔法が避けられるのなら、感知されしまうのならば、自らが魔力を振るい叩き込むしかない。
それを可能とするのが武僧の技能。
魔法使い系の技能程ではないが、戦士系の技能も育てていた。ただ、レベルは20ほど。後は他の技能で補うしかない。
それでも足りなければ、ありったけの勇気を込めるまで。
「行くぞ────」
震えはなかっただろうか。
覚悟を胸に、戦いを決意した。
◆ ◆ ◆
「く──まだ着かないのか!?」
「大きな狼だったし、かなりの距離を移動されたのかも……?」
走る。
包囲網を抜けたジャスティンとシェリーが、ノノの元へとひた走る。だが遠くまで移動されてしまったのか、なかなかたどり着けず焦り始めていた。
背後からは鼠人が追ってきていて、時々投げナイフで仕留めていたが思うように減っていない。
「ああ、もう、こんなことしてる場合じゃないのにい!」
風の補助を受けて、鼠人の頭にダガーを命中させながらシェリーが叫ぶ。
「落ち着くんだシェリー! ここで焦ったらダメだ!」
「わ、分かってるけど、このままじゃノノさんが……!」
妖狼の咆哮が聞こえた方に来ている筈なのだが、その咆哮は奇妙に響き渡り、位置を特定させないでいた。
「僕だって同じ気持ちだ。けれど焦っていたら重要なことを見落としてしまうかもしれない。せめて足跡があれば……」
道が間違っているのか、何らかの技術によって足跡を残さずに進んだのか。自分たちが正しい道を進んでいるという確信が必要だった。
「おい! おまえら!」
「くっ、しつこい!」
鼠人の声が聞こえ、慌てて振り返るシェリー。
「そっちじゃない! こっちだ!」
だが、森の方から誘う声が聞こえる。そちらへ顔を向けると、体が一回り大きい鼠人が茂みから呼んでいた。
洞窟で捕獲した大鼠人だった。
「なっ、いつの間に!?」
「そういえば、ノノさんが攫われてから姿を見てなかったかも……?」
いつの間にかあの場を抜け出し、ノノを追いかけていたらしい。
「ノノのところへいくんだろ! こっちだ! ついてこい!」
そう言うとがさがさと茂みに下がり、森の奥へ走って行く。
「……どう思う?」
そもそも味方ではないのだ。既に向こうの陣営につき、罠をしかけてきていてもおかしくはない。
「……私は、信じられると思う」
「信じたいと思う、だろ?」
「……そうかもね」
二人は頷くと、大鼠人を追いかけた。
確信はない。けれど、直感はある。この先にノノがいるという感覚が。
「ねえ! どうして道がわかるのさ!」
シェリーが走りながら尋ねる。
「おやぶんのところにノノはいる! だからおやぶんのにおいをおう!」
「そうか……子分だったのだから親分の匂いを知っているのか」
「それにむかうとちゅうでノノのにおいもする! おやぶんのところにきっといる!」
獣人は五感が優れており、特に嗅覚は、種族によっては長距離の追跡を可能とするほどのポテンシャルを発揮するのだ。
「ノノさん、どうか無事でいて……!」
やがて、彼らはたどり着いた。
「ここだ! ここにノノがいる!」
森の奥深く。木の生えていない広場。その中心に佇む巨大な黒き獣。駆け出し冒険者たちは見たことのない怪物に一瞬硬直する。
だが、その獣の前にいる存在を見て青ざめた。
「──そんな」
「ノノ……さん?」
一行が見つけたのは──
──血溜まりに沈む、ノノの姿だった。




